キーワード両部神道を含む動画:32件 ページ目を表示
2024年6月23日 07時10分に生成された05時00分のデータです
2018-05-14 22:46:25
【神道シリーズ】第17回・稲荷信仰(新羅系秦氏の伊奈利神と真言密教の習合)①山背国風土記によると、新羅から渡来した秦氏の秦伊侶具が餅を的に矢を射てたら餅が白鳥になって飛んでいき、峯に留まって稲となり、711年にはその地に伏見稲荷大社が創建されたとありますが、もともと稲荷とは伊奈利という新羅系秦氏が持ってきた神で、この神はこの伝説以降「稲荷」と稲が当てられるようになったのですが、平安時代になり真言密教の作った両部神道の理論により、大日如来の化身である荼枳尼天(だきにてん)と習合することになり、荼枳尼天の乗るジャッカルという生き物が狐に似てることから稲荷神のイメージとして狐が生まれてきます。
真言密教と繋がることにより稲荷信仰は全国へ広がり、一方、朝廷の中でもこの荼枳尼天を天皇家の本尊として祀るようになり、荼枳尼天真言による即位灌頂が皇位継承の絶対条件となり、この習慣は明治前の孝明天皇の時代まで続きます。(始まりは11世紀の後三条天皇の時代からと言われる)テスト
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2015-05-15 09:34:15
【鎌倉仏教シリーズ】第16回・平安仏教①真言宗(その2)5-1空海が日本で開宗した真言宗は、ただ単に日本に密教をもたらしただけではなく、朝廷・貴族のみならず地方の信仰・祭祀にも多大な影響を与えました。中世(鎌倉時代以降)になると、真言宗は古事記の神話を密教的に解釈して書き換え(中世日本紀)、この密教的に書き換えた神話を弘法大師信仰とともに全国へ伝えました(高野聖)。そして、この真言宗的に解釈された日本神話を両部神道と呼び、今日の地方信仰にまで続く道を開きます。
マイリス作ってくれ
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2018-11-05 22:28:02
【神道シリーズ】第37回・山王神道(山王一実神道)①(天台宗の作った神道)中世になると、真言宗や天台宗がそれぞれの仏教理論に基づいて独自の神道理論を生み出し、その神道理論に基づいて古事記や日本書紀に出てきた神々仏様の眷属(仲間)にあてがい(これを「比定」と言います)、例えば、アマテラスの本地(本当の姿)は大日如来だとか(真言宗)、比叡山の神様(山王)は大物主神(大貴己神=大国主神)として仮の姿を現してるが、実は正体はお釈迦様なのだとか、全国の地方信仰(単純に山神とか川神様とか呼ばれていたようなもの)にこの公式を次々とあてはめて行きます(比定)。
そしてやがて日本国中の神々(八百万神)はすべて古事記の神様で、しかもその正体(本地)は仏様の眷属(阿弥陀如来とか不動明王とか、、)であると比定することにより、今日に繋がる地方信仰は作られて行きます。(これは古事記のストーリーとはまったく無関係に新たな(仏と神の)関係ストーリーが作られ、それが地方伝承として定着していきます。
山王神道(山王一実神道)や両部神道は、それぞれ天台宗、真言宗が作った神道(仏家神道)で、その後に生成された神道はすべてこの原理をベースに形成されています。
そういった意味では、「日本の神道を作ったのは天台宗と真言宗である」と言ってもまったく過言にはなりません。
今回は、その天台宗による仏家神道を見て行きたいと思います。薬師は家康の漢方通と通じるのかな? 東照ってアマテラスとかぶるな。ちょっと挑戦的な名前に感じるよね。 台密と東密
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2018-12-03 22:32:02
【神道シリーズ】第41回・両部神道③大日如来=天照大神説が中世日本を支配する日本の神道とはいつ形成されたのか?と言う問いに対して、縄文時代とか弥生時代からと信じてる人は多いように見受けますが、実際宗教としての神道が作られ始めたのは鎌倉時代(元寇以降)で、完成を見たのが室町時代(吉田神道)と言うのが学者たちの間で共通してる認識です。
もちろん仏教伝来(6世紀)以前に朝鮮半島からの移民による氏神信仰というのが渡来豪族たちの間で存在していたのですが、仏経が伝来するとすぐに豪族や朝廷の間で仏教信仰が始まり、8世紀になると神身脱落と言って、氏神たちがこぞって仏教徒になり、護法善神として仏教を守りながら(神たちが)仏教の修行に励むという時代になりました。
9世紀に真言密教や天台密教が広まり、鎌倉時代の元寇を境に真言密教による神道(両部神道)が形成され、密教理論による神国日本論が展開され、天照大神が大日如来の化身であり、日本は第六天魔王の支配下にあるという思想が平家物語や太平記と言った大衆文学の間にも見られるようになり、まさに(真言密教による)両部神道は中世の精神支配(国民を含めて)を確立します。
今回は、その両部神道の理論書とも言われる麗気記や中臣祓訓解などを紹介していきたいと思います。
両部神道はその後、真言系の当山派修験として全国に広がり、古事記や日本書紀に出てきた神々に密教的解釈を加え、所謂「八百万の神」の伝承や信仰を作って行きます。直木孝次郎説ですかw 古い説ですね
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2018-11-26 22:31:03
【神道シリーズ】第40回・両部神道②(伊勢神宮と両部神道の歴史)密教によって伊勢神宮が再興する平安時代始めの真言宗開宗(806年)以降、朝廷の信仰は真言宗中心となり、中には真如法親王のように平城天皇の皇太子でありながら皇位継承を拒否し、出家して真言僧となり、インドへの求法の旅へと出て行方不明となった皇族も出るほど皇室はこぞって真言密教の信仰に熱中しましたが、鎌倉時代に入り13世紀の元寇の時代を迎えると、真言宗の主流派は伊勢神宮の内宮(禰宜・荒木田氏)への接近を図り、伊勢神宮を真言密教の理論に当てはめ、内宮を胎蔵界、外宮を金剛界とし、神宮全体を真言密教の大曼荼羅として描くようになります。
仏教信仰が盛んだった当時、伊勢神宮でも氏寺で出家得度する伊勢神宮の神職(宮司、禰宜ら)が後を絶たず、こうした背景の中、伊勢神宮の内宮は次第に真言密教の支配下に入って行きます。
天照大神を大日如来の化身と位置づけ、真言宗による「神国日本」論を展開し、皇室や伊勢神宮の持つ荘園全体に大きな影響力を広めて行きます。
やがて両部神道は伊勢神宮に留まらず、真言宗の学僧、勧進僧、高野聖などを通じて全国の修験道に絶大な影響を与え、古事記や日本書紀に出てくる神々を密教理論の上で解釈を加えた新説を持って地方の信仰対象に比定して行き、密教的な本地垂迹説により日本全国の修験道を塗り替えて行きます。
そして、やがて記紀の中では名前の羅列だけだった神々にも「八百万の神」の地方伝承を作って行きます。- 284
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2015-05-15 11:17:13
【鎌倉仏教シリーズ】第16回・平安仏教①真言宗(その2)5-4空海が日本で開宗した真言宗は、ただ単に日本に密教をもたらしただけではなく、朝廷・貴族のみならず地方の信仰・祭祀にも多大な影響を与えました。中世(鎌倉時代以降)になると、真言宗は古事記の神話を密教的に解釈して書き換え(中世日本紀)、この密教的に書き換えた神話を弘法大師信仰とともに全国へ伝えました(高野聖)。そして、この真言宗的に解釈された日本神話を両部神道と呼び、今日の地方信仰にまで続く道を開きます。
見てきたようなことを言うんじゃない 古事記を粗末にするのは、Pだけだ 改竄されないようにするため天武天皇は古事記を編集した。 様々な豪族たちが一族の間に伝えてきた「帝紀」(天皇の系譜)と「旧辞」(古い伝承)には、すでに多くの改ざんが加えられ、原型をと...
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2018-06-25 22:43:18
【神道シリーズ】第23回・春日信仰(藤原氏の正体(百済人)・真言密教系神道(両部神道)の影)②春日大社は藤原氏(不比等・永手ら)によって政治的な意図で作られた神社であることは①の方で説明しましたが、そもそもこの藤原氏とは何なのか?
今回はそれと三社託宣(春日・八幡・伊勢)に見られる両部神道(真言密教が作った神道)の影響に焦点を当て春日大社創建の背景を見て行きたいと思います。
藤原氏の出自に関してはさまざまな研究と見解がありますが、どれも共通していることは「日本人ではなく百済人である」という点です。
朝廷の祭祀を司る役職にいた中臣氏の家系の中に滅亡百済王族がどのように入り込んで来たのか?
百済王族は、藤原氏の計らいで百済王氏としてその後も朝廷の中で生き続け、桓武天皇の母親(高野新笠)などを輩出したりしてますが、百済村と呼ばれる地域に住み、百済人の濃厚な血筋を維持しながら朝廷内で生き続けて行きました。
一方、三社託宣では、春日・八幡・伊勢の三社が同時に儒教・道教的な道徳的訓示を託宣発表するという事になり、その中でアマテラスは真言密教理論に基づく両部神道で描かれた雨宝童子という16歳の少女として描かれています。
百済系の藤原氏の政治的思惑と興福寺のバックアップの中で生まれ、真言密教によって理論づけされ春日信仰は誕生します。- 279
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2015-05-15 10:08:16
【鎌倉仏教シリーズ】第16回・平安仏教①真言宗(その2)5-2空海が日本で開宗した真言宗は、ただ単に日本に密教をもたらしただけではなく、朝廷・貴族のみならず地方の信仰・祭祀にも多大な影響を与えました。中世(鎌倉時代以降)になると、真言宗は古事記の神話を密教的に解釈して書き換え(中世日本紀)、この密教的に書き換えた神話を弘法大師信仰とともに全国へ伝えました(高野聖)。そして、この真言宗的に解釈された日本神話を両部神道と呼び、今日の地方信仰にまで続く道を開きます。
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2018-08-20 22:32:02
【神道シリーズ】第29回・諏訪信仰(諏訪大明神>本地・普賢菩薩千手観音菩薩大日如来)今日に続く信仰諏訪信仰と言えば諏訪大明神と言うのが古今一貫しているものですが、この諏訪大明神という名前が出てきたのは平安時代で、弥生系(中国江南地方より陰陽五行思想や社稷思想<穀物信仰>を持って移民した人たち)の諏訪の地元民の信仰していた洩矢(もりや)神(蛇神・ミシャグジ神)の諏訪に出雲系(スサノオ族=新羅系移民)の建御名方神が同地に居ついてから、諏訪の信仰が二重構造(洩矢神信仰と建御名方信仰)になっていたところに、10世紀頃になると真言宗系の両部神道の影響が広がり、諏訪湖の本地は大日如来、諏訪大社上社は普賢菩薩、下社は千手観音菩薩が本地と、仏経の神様となり、これが諏訪大明神と呼ばれるようになり、その後、室町時代、南北朝時代、戦国時代と武士を中心とした厚い信仰が広まるようになります。
この諏訪大明神という考え方は、明治時代に破壊されようとしましたが、地元や全国の諏訪神社に伝わる伝承信仰の力は強く、またたくまに復活して、今日でも諏訪大社と言えば諏訪大明神が信仰の中心になってます。煩悩だらけはひどい。煩悩は肯定できないけど、否定することとそれと寄り添い続け、観察することは違う。否定したところで自分の煩悩に無自覚になるだけだ。 愛染明王(吽)は金胎一致、煩悩即菩提の象徴で扱われたことがあった『中世天照大神信仰の研究』 両部と上下...
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2020-01-27 22:41:02
【神道シリーズ】第80回・早池峰神楽(両部神道<真言宗>がもたらした古事記の真言密教的解釈の当山派(真言系)修験芸能)早池峰神楽は平成21年(2009年)にユネスコの無形文化遺産に登録されましたが、この世界的に有名な神楽は岩手県早池峰山の麓の3つの地域に
3つの早池峰神楽が現在存在しています。
もともと早池峰神楽が始まったのは室町時代後半の15世紀後半頃からですが、9世紀より天台宗の拠点であった早池峰山信仰の中心の4つの院を持つ
妙泉寺のうち、西登山口の大迫(おおはさま)に位置する池上院妙泉寺は
14世紀に真言宗の支配下になり、その真言宗の進出には真言系の修験道と、真言密教が作った両部神道の思想や歴史観も同時にもたらされました。
両部神道の教義書(理論書)である「中臣祓訓解」の中に登場する瀬織津姫(せおりつひめ)(←古事記・日本書紀には出てこない神)が早池峰の地にもたらされ、十一面観音を本地とする早池峰権現の垂迹の姿としての瀬織津姫とされました。
一方、両部神道(真言密教神道)に基づく古事記解釈による早池峰神楽は
当山派(真言系修験道)の山伏たちの芸能として大迫の大償地区で発生し(15世紀後半)、その後、(大迫の)岳地区に伝わり、やがて江戸時代になると遠野の大出にも伝わり、3つの早池峰神楽が形成されて今日まで至っています。- 231
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2018-12-10 22:32:01
【神道シリーズ】第42回・両部神道④吉野修験(八百万の神信仰の始まり)日本で最初の山岳信仰が始まったのは、671年に役小角が葛城山に登り、蔵王権現という神様を感得(インスピレーションで頭の中に現れること)し、桜の木で蔵王権現を掘って葛城山に祀ったところから始まると言われています。
山そのものに対する畏敬のような原始信仰は日本を含め世界中ありとあらゆるところにあった(むしろ無いところを探すほうが大変w)わけですが、単純な自然信仰としての山信仰の時代は人々が山に登るということはなかったのですが、日本で6世紀頃から朝鮮半島(新羅)から伝わった雑密(ぞうみつ)と呼ばれる初期の密教は不動明王や孔雀明王の呪術の法に基づきながら山に登り山岳修行の道を開いて行きます。
7世紀後半に役小角が葛城山に登るり、蔵王権現という祭神が成立すると、その蔵王権現山岳信仰は全国へ広がり、日本の山岳信仰は雑密の優婆塞(在家の僧侶)たちによって普及します。
9世紀になり真言密教が伝わり、真言僧の聖宝が醍醐寺(三宝院)を根本道場として吉野修験の建設に乗り出して行き、朝廷からの援助も後押しして、吉野は真言密教の修験の場となり、吉野は両部神道(真言密教系神道)で言うところの「金剛界」(熊野は「胎蔵界」)とされ、蔵王権現は「金剛蔵王権現」と称されるようになり、それは今日にまで至ることになります。そのうち仏教自体が神道だとか言い出すのかな っていうか吉野修験に詭弁って何だよ笑 詭弁っていうならより中立的な観点で吉野信仰の歴史を説明してほしい。あるいは、反論する証拠を挙げてほしい。 アニミズムからの信仰であったという勘違
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2018-12-17 22:14:02
【神道シリーズ】第43回・両部神道⑤富士山修験(理論は両部神道で管理は聖護院<天台宗寺門派>)日本の山岳信仰が具体的な神名を持って信仰されるようになったのは真言密教による両部神道が確立した鎌倉時代以降ですが、密教僧たちは山に登頂し、そこに仏の眷属を祀り、さらに古事記の神々の中から選んで比定し、仮の姿として古事記の神様の姿になるときがあるとしました。
これこそが日本における「八百万の神」信仰の始まりであり、古事記に出てくるコノハナサクヤビメも、火山という属性だけで大日如来の仮の姿であるとされ、それが富士山においては浅間(せんげん)大権現として祀られ、信仰されるようになりました。
つまり、もともと民衆の間に古事記の神々の信仰があって、それが八百万の神の信仰になったのではなく、密教僧らによって形成された山岳信仰の中心をなす本地垂迹説として古事記の神々が採用されていったのです。
富士山修験が始まったのは13世紀に仏僧の末代(まつだい)が富士山頂に登頂して大日寺を創建し、大日如来を祀ったことから始まります。
16世紀になって富士講を統合組織した長谷川角行は、役小角の夢告で富士山に登頂して以降、大日如来=コノハナサクヤビメを浅間大権現として信仰する一神教的意味合いの浅間権現信仰を確立し、以降、弟子たちによって村上修験(富士山修験をそう呼びます)の富士講は江戸時代には全国に広がって行きます。
明治に神仏分離で浅間神社の祭神はコノハナサクヤビメとされましたが、今日でも浅間大権現の信仰は続いており、村山修験の流れを汲む修験道の団体が伝統を引き継いでいます。- 226
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2015-05-15 10:44:11
【鎌倉仏教シリーズ】第16回・平安仏教①真言宗(その2)5-3空海が日本で開宗した真言宗は、ただ単に日本に密教をもたらしただけではなく、朝廷・貴族のみならず地方の信仰・祭祀にも多大な影響を与えました。中世(鎌倉時代以降)になると、真言宗は古事記の神話を密教的に解釈して書き換え(中世日本紀)、この密教的に書き換えた神話を弘法大師信仰とともに全国へ伝えました(高野聖)。そして、この真言宗的に解釈された日本神話を両部神道と呼び、今日の地方信仰にまで続く道を開きます。
口密はこうみつではなくくみつ じゅうじゅうしんが正解です読み間違えごめんなさい(動画作者) ごめんなさいね、十住心は「じゅうおうしん」が正解です(訂正します) 住と往のちがいも分からんのか?小卒? じゅうしんて書いてるのになんでおうしんて言っちゃって...
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2019-01-22 09:08:01
【神道シリーズ】第45回八百万の神②(一目で分かる図解・修験道の構造)八百万の神と言うと、古事記に出てくる神々の信仰が古来からあってそれに対する国民の信仰があったような勘違いをしてる人が多いですが、実際に現在の地方信仰に繋がるような八百万の神信仰は8世紀の奈良時代の頃から雑密(呪術密教>主に朝鮮半島より伝わる)の私度僧たちにより、役小角信仰の全国拡散を通じ、そして、本格的には9世紀になってから本地垂迹説が進み、既に全国に広がっていた仏の眷属をそれぞれの山の本尊とする信仰と、既に護法善神(仏教守護者としての氏神)となっていたすべての公家・貴族の氏神の本地(本来の姿としての仏の眷属)を設定(比定)する動きと、されに元寇来襲を境に真言密教の両部神道理論の下、密教勢力による日本書紀解釈(真言密教的解釈)が進み、その解釈研究活動が伊勢神宮や宮中に及び、中央・地方の、既に存在していた〇〇権現(仏の眷属の仮の姿としての神)の、さらに仮の姿としての「古事記・日本書紀に出てくる神々」が当てられて(比定されて)行きます。これが今日に続く「八百万の神」の信仰となります。
純粋な仏教もないよな
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2015-05-15 11:57:10
【鎌倉仏教シリーズ】第16回・平安仏教①真言宗(その2)5-5空海が日本で開宗した真言宗は、ただ単に日本に密教をもたらしただけではなく、朝廷・貴族のみならず地方の信仰・祭祀にも多大な影響を与えました。中世(鎌倉時代以降)になると、真言宗は古事記の神話を密教的に解釈して書き換え(中世日本紀)、この密教的に書き換えた神話を弘法大師信仰とともに全国へ伝えました(高野聖)。そして、この真言宗的に解釈された日本神話を両部神道と呼び、今日の地方信仰にまで続く道を開きます。
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2018-11-12 22:41:03
【神道シリーズ】第38回・山王神道②(天台教学と山王神道について)天台宗の山王神道は中世日本(全体)に真言宗の両部神道とともに日本の信仰を二分割したと言っても過言ではないですが(真言系神道7.5対2.5天台系神道)、今回はその山王神道を裏付ける理論としてベースになっている天台密教教学を検証し、どのように天台宗の密教神道(山王神道)が形成されたかを探っていきたいと思います。
真言宗も天台宗も共通してる基本文献(経)は、①大日経②金剛頂経③理趣経ですが、天台密教はさらにこれに④蘇悉地(そちつじ)経(蘇悉地法)が加わります。
まずは、その蘇悉地法とは何か?というところから始め、さらには、天台宗が影響を与えた熊野修験や祇園信仰との関係、そして、天台宗の守護神(山門派は赤山明神、寺門派は新羅明神)がいずれも外国の神様たち(赤山明神>中国道教霊山の主神の泰山府君、新羅明神>新羅道教の神、さらに祇園信仰の牛頭天王(スサノオ)は新羅の神・・・)なのでしょうか?
日本で完成されたとする真言密教に比べ、天台密教は中国や朝鮮半島の影響が強く見られ、それが天台宗の神道、山王神道にも色濃く反映されてます。インド占星術とか関係ないのかな?
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2020-08-31 23:19:02
【学習用】伊勢神道の基本構造解説(両部神道⇒伊勢神道⇒吉田神道⇒儒家神道の流れの概略)伊勢神道の詳細説明をするにあたって、両部神道から伊勢神道、そしてその後の吉田神道や江戸時代以降の儒家神道の一貫した流れを理解しておかないと伊勢神道自害がよく分からなくなってしまうので、1時間17分ではありますが、この概略を初心者にも分かりやすく説明した動画を作りました。
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2020-08-24 23:15:03
【神道シリーズ・シーズン2】第1回・伊勢神道①(伊勢神道の基本構造)神道シリーズ・シーズン2では、両部神道から伊勢神道、吉田神道、儒家神道、復古神道と、中世から近世の終わりまでの神道各派の流れを解説していく予定です。
まず、最初に伊勢神道ですが、伊勢神道は、真言宗系の両部神道を土台として、そこから密教的要素を排除し、代わりに道家(道教・陰陽五行)思想で理論付けするという形で形成されますが、この流れは後の吉田神道や江戸時代以降の儒家神道(垂加神道・吉川神道など)に引き継がれていきます。
今回はこの伊勢神道形成までの過程の概略を説明し、第2回以降にはそれぞれの過程の詳細説明をして行こうと思っています。- 152
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2020-10-19 23:10:02
【神道シリーズ・シーズン2】御流神道と三輪流神道(両部神道主要二派)11世紀頃から発生してきた真言宗を中心とする(一部天台宗寺門派も含む)真言密教系神道理論は12世紀から15世紀にかけ両部神道を形成し、中世の日本の宗教界を支配していくことになりますが、その両部神道は主に室生山で発生した御流神道と三輪山で発生した三輪流神道が中心となって行きます。13世紀後半より形成された伊勢神道や15世紀に形成された吉田神道もこの両部神道(真言神道)を下敷きにしており、ある意味日本における「神道」という宗教を成立させた根本にもなってる存在だと言えます。
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2021-06-17 08:39:02
【神道シリーズ・シーズン2】第34回・山鹿素行の士道と日本中朝主義山鹿素行は、元和8年1622年、陸奥国会津(福島県会津若松市)にて浪人・山鹿貞以の子として生まれたが、父は当時の会津藩主・蒲生 忠郷の家老・町野長門守幸和に身を寄せていたところ、藩主の死による蒲生家の断絶のため、町野幸和は幕府に直接仕えることとなり、素行親子も一緒に江戸に移住することとなったが、江戸移住以降、済松寺の袒心禅尼に養われ、書を学び始めるようになると天才的な才を発揮し、周りの者たち驚異する中、素行はまたたくまに四書、五経、七書はいうに及ばず、詩文などまでをマスターしてしまった。
素行の尋常ならぬ天才ぶりは注目を集め、わずか9歳にして幕府の大学頭/林羅山の門下に入り、朱子学を学ぶ運びとなった。
そして翌年10歳になると林門下の生徒たちに師として教えるほどの立場となり、さらに11歳になると松江城主/堀尾山城守から、2百石で召し抱えるとの申し出があったが、父が「安い給料で束縛されたくない」と辞退したのだ。
素行と父は素行の幕府召し抱えか1万石以上での高給での藩仕えかのどちらかを望んだが、幕府召し抱えはあとわずかなところで希望していた三代将軍家光の死去により実現せず、また、31歳の時に、1年余りの間赤穂藩で1千石でのレンタル移籍を行うものの、その後の契約条件が折り合わず江戸に戻り、全国に6千人もの門下生を抱えながら著作活動を進めた。
その間、素行は、諸藩からの指南役などのオファーを断り続ける一方、北条氏長から北条兵学を、光宥から両部神道、広田担斎から忌部神道を学び、さらに40代に入ると儒教の古学に関心を寄せるようになり、次第に幕府の御用学問であった朱子学を古学の立場から批判するようになった。
その頂点が素行45歳の時に著した「聖教要録」で、この内容は、当時会津藩主であり、同時に4代将軍家綱の後見役でもあった保科正之の逆鱗に触れ、その後、正之の死後3年まで続く赤穂藩預かり謫居、つまり、指定された屋敷の敷地の中での禁固刑が9年間続くこととなる。
これは、素行が生涯求めていた幕府仕えへの道を完全に絶たれることを意味はしたが、ただ、この9年間の間に素行は自分が属していた北条兵学からの離脱と山鹿兵学の独立、そして彼独自の日本中朝主義、つまり、儒教とは実は中国ではなく日本のオリジナルであり、日本書紀に書かれてるのは儒教の歴史であり、日本自体が中国であり、日本人こそ中国人であると言う儒教日本起源説を展開し、やがては陰陽五行説に基づく易学理論の象数宇宙論に至り生涯を閉じることとなった。
山鹿素行の士道的武士道論は、彼より少し遅れて佐賀藩にて葉隠武士道を確立した山本常朝の武士道論とともに江戸時代の武士道観を形成して行ったのである。- 127
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2020-01-20 22:15:02
【神道シリーズ】第79回・八百万の神㉘早池峰大権現【前編】(妙泉寺の4つの院と両部神道<真言>の影➡瀬織津姫)早池峰山周辺には現在4つの早池峰神社がありますが、これらはいずれも
明治以前に妙泉寺と呼ばれる天台宗や真言宗の院を持つお寺で、明治の時に強制的に(妙泉)寺を廃して神社(早池峰神社)に改装したものですが、面白い事には、文書の資料が乏しい中、西登山口の大迫(おおはさま)の早池峰神社や南登山口の遠野の早池峰神社の社伝の中で、かつて真言や天台の寺であったことや、天台の慈覚太師(円仁)の訪問伝承や真言宗の進出の事なども記されていることです。
4つの登山口に建てられていた妙泉院のうち西登山口の池上院妙泉寺だけは14世紀から真言宗が進出して(他の3つは天台宗)、同時に真言密教が作り上げた両部神道の理論書(教義書)の「中臣祓訓解」(なかとみのはらえくんげ)に出てくる瀬織津姫という女神(古事記・日本書紀には出てこない)を十一面観音の化身(垂迹)として祀り、この瀬織津姫は早池峰大権現として中世以降信仰を集め、本地垂迹関係が明治政府によって切り離された後も今日まで信仰の対象となっています。- 123
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2020-10-05 23:11:02
【神道シリーズ・シーズン2】第6回・伊勢神道⑥東大寺衆徒たちの伊勢神宮参宮(神宮が仏教の一大拠点となる)12世紀に入ると真言宗化した東大寺は、平家による焼き討ちの後の復興事業で活躍した東大寺衆徒の重源(ちょうげん)(浄土宗ながら真言宗の影響強く受ける)による伊勢神宮参宮をひきりにそれまで仏教禁忌であった伊勢神宮参詣(参宮)が急速に盛んになり、神宮側もその動きを歓迎し、既に敬虔な仏教徒なっていた神宮宮司の大中臣氏、外宮禰宜の渡会氏、内宮禰宜の荒木田氏はこぞって神宮のみならず自らの菩提寺にも僧侶たちを招いて大般若経をあげさせていました。
さらに元寇の時代になると朝廷と仏教勢力(主に真言宗)との繋がりは緊密化し、朝廷が元寇調伏のために200人以上の真言僧を伊勢神宮に派遣して調伏祈願までさせるようになります。- 115
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2020-10-12 22:38:02
【神道シリーズ・シーズン2】第7回・両部(真言)神道の理論書(真言付法纂要抄・中臣祓訓解・麗気記など)今回は、両部神道を形成した両部神道の理論書の主なものを紹介したいと思います。
まずは真言宗小野流(三宝院流の系統)の成尊(せいぞん)著作の「真言付法纂要抄(しんごんふほうさんようしょう)」、そして伊勢神宮の仙宮院で生まれた「中臣祓訓解(なかとみはらえのくんげ)」、それから室生山で生まれた御流神道(真言系)の「麗気記(れいきき)」の三つを中心に紹介します。
特に後者2著は後の伊勢神道や吉田神道の形成に絶大な影響を与えて行くことのなります。- 108
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2020-09-07 23:24:02
【神道シリーズ・シーズン2】第3回・伊勢神道③出家得度する禰宜・祭主(宮司)が後を絶たなかった伊勢神宮の時代平安時代になると宮中や貴族の間で密教(主に真言宗)の信仰が盛んになり、その影響は伊勢神宮にまで波及し、伊勢神宮では禰宜(内宮・外宮の祭祀の中心)や祭主(宮司)の大中臣氏ら神職たちがこぞって自ら氏族の菩提寺を創建し、仕事上では神宮で祭祀を行いながらもプライベートでは仏教信仰が中心で出家・得度する人たちが後を絶ちませんでした。
こうした背景の中、宮中および神宮では観音信仰が盛んになり、やがて天照大神=観音菩薩論が出現定着し、さらに神宮の仙宮院から大中臣氏による「中臣祓訓解」、つまり両部神道(真言神道)が誕生することとなります。- 104
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2019-08-19 23:03:02
【神道シリーズ】第65回・武州御嶽信仰(神社神道化で廃れた御嶽信仰)【前編】武州御嶽(ぶしゅうおんたけ)と言うとあまり馴染みが無いと感じる人が多いかもしれませんが、ここは、元々は他の山岳信仰と同様に8世紀頃からの役小角や行基菩薩による開山伝承はあるものの、実際に記録が残っているのは12世紀からの真言系の世尊寺が武州御嶽山の別当寺になっていたところからで、その世尊寺では住職が1世から3世までの間に100年以上の空位が出ており、その空位を埋めたのが、(真言系の)両部神道の理論形成に貢献してきた神主の大中臣氏の系統の大中臣国兼とその子孫が「社僧」(放送で説明)となり、その後、その氏族の後裔の浜名氏などによって受け継がれていきました。
一方、スポンサーともいえる檀那と言われる人たち(壬生氏・清原氏など)や配札で信仰を広めた御師(おし・おんし)も一緒に武州御嶽信仰を支えてきたのですが、江戸中期以降、金毘羅詣りや伊勢詣りなど有名観光地(参詣先)に人気を奪われる中、経営困難となり、江戸後期以降は吉田神道や復古神道(吉川神道)による再建策を受け入れ、神社神道化(国学神道化)していきます。- 104
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2020-11-16 22:51:02
【神道シリーズ・シーズン2】第12回・伊勢神道の完成(仏教・道教・儒教の思想注入へ)13世紀後半に渡会行忠によって創設された伊勢神道は、真言密教系の両部神道をベースにし、そこから仏教用語を取り去り、道教理論を導入する事により外宮を主とす両宮の存在流を説明しましたが、室町時代の14世紀から15世紀にかけて行忠を継いだ渡会家行は、行忠と違い、堂々と仏教・儒教・道教などの書からの引用を憚らず、それらを伊勢神道理論完成の為に導入して行きました。
中でも梵網経(ぼんみょうきょう)の中で説かれた弟子たちの釈迦に対する忠誠心や浄土真宗(一向宗)開祖の親鸞聖人の「教行信証」に書かれた門徒たちの極楽往生への迷いなき信心からの「正直」な心などに強く感銘を覚え、そこから自らの神道論の中心となる「内清浄」の観念を生み出して行きました。- 103
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2020-09-14 23:18:02
【神道シリーズ・シーズン2】第4回・伊勢神道④和光同塵と百王思想伊勢神道が形成される背景には前回にも説明しましたように、真言系の両部神道(真言神道)が形成される中で真言密教勢力や天台宗(山門派)の山王神道や天台宗(寺門派)の熊野三所権現などが内宮の天照大神との一体論を唱える中、外宮が疎外され、元寇後税制にひっ迫した朝廷の経済的支援が得られなくなった外宮の立て直しが背景にありました。
真言宗や天台宗によって唱えられた「神国思想」(大日如来が天照の姿で降臨した世界唯一の神の国日本)はその外宮の伊勢神道の形成を促していくことになります。- 91
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2020-11-09 22:57:02
【神道シリーズ・シーズン2】第11回・伊勢神道と神道五部書(道教思想に基づく神道偽書)13世紀後半の元寇の後、それまで伊勢神宮両宮に対して最大のスポンサーであった朝廷が財政難になると、アマテラスを祀る内宮は真言や天台などの密教勢力は自らが称える密教系神道説(真言系⇒両部神道・天台系⇒山王神道・熊野権現)でアマテラスと大日如来や山王・熊野権現との一体論を唱えていたので資金面で苦労はなかったものの、そうした援助が得られなかった外宮は存続の危機に立ち、そこれで新たなる神道説の創設により外宮を盛り返そうという動きが出てきました。
そこで新たなる神道説を打ち出したのが外宮禰宜の渡会行忠で、彼は、真言神道である両部神道の理論書「中臣祓訓解」や「老子述懐」などの道教書をベースに伊勢神道の神道説構築に励んだのでした。- 88
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2019-10-28 23:01:03
【神道シリーズ】第72回・八百万の神・英彦山大権現【中編】オホシサマ(如来宝珠)と顕密寺社今回は、英彦山信仰の中核となってる①三所権現の三元構造(俗躰・女躰・法躰)②オホシサマ(如意宝珠)とそれに纏わる祭祀(二季祭・延年など)についてお話をして行こうと思います。
「三所権現」形式(三所権現・二所権現・四所権現・十二社権現などの変化形あり)を全国の天台修験に広めたのは聖護院門跡(天台宗・寺門派<三井寺派>)ですが、その三所権現は実は、俗躰(陽=男=金剛界)と女躰(陰=女=胎蔵界)で、俗と女が一体化することは、真言宗の両部神道の言うところの、金胎合致(金剛界と胎蔵界の一体化)による即身成仏(大日如来との一体化)を意味するのですが、聖護院門跡の解釈では一体化したのちに阿弥陀如来に集約されていく、という見方があります。英彦山もこの三元構造が信仰の基本にあります。
さらに、英彦山(霊仙寺)の中興の祖と言われた法蓮が般若窟で12年間の修行の末得たとされる如意宝珠も英彦山信仰の中核にあり、これがさまざまな祭祀(オホシサマ祭、二季祭、延年<直会(なおらい)>)などにも反映されて行きます。
こうした祭祀は今日でも北九州広域で続いています。お経を呪文のように唱えるものが仏教と言えるんですかwww 仏教のぶの字もないじゃないですかぁーーーー
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2020-09-28 22:57:02
【神道シリーズ・シーズン2】第5回・伊勢神道⑤伊勢神宮および宮中での観音信仰の広がり11世紀頃から伊勢神宮では宮司の大中臣永瀬の出家・得度をひ切りに歴代の宮司(大中臣氏)、外宮禰宜(渡会氏)、内宮禰宜(荒木田氏)が次々と出家得度するようになりました。
そして彼らの菩提寺のすべて真言宗で十一面観音を本尊とし、当時仏教禁忌だった伊勢神宮で、仏経信仰への願いを断てない神宮の神職たちが「観音菩薩=天照大神」一体論を打ち出すことにより、仏教信仰(真言密教)への接近を図って行きました。
その後12世紀になると宮中でも観音=天照論が出現し、天皇の寝室の隣の二間(ふたま)殿に祀られていた天照大神の形見と言われた神鏡が二間観音と同体であるという説が広がり、宮中でも観音信仰が盛んになりました。
この神宮や宮中の観音信仰はやがて真言密教による両部神道を誕生(12世紀中葉)させるきっかけとなって行きます。- 78
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2023-02-15 21:40:02
【神道シリーズ・シーズン3】(思想編)第47回・合気道と道教と山王神道病弱だった植芝盛平がやがて小さな体で大男を軽々と投げ飛ばしてしまう合気道を創立するまでにはどのような経過があり、また、その合気道とはどのような思想の流れの中で形成されて行ったのか?その謎を解くところに今回の特集は焦点を当てる。植芝盛平は7歳の頃、近所の地元和歌山県田辺市の古義真言宗の地蔵寺の住職の藤本密乗の開く私塾で四書五経や真言密教の鎮魂法や祈祷を学び、また、32歳の時には移住した先の北海道遠軽の地で出会った大東流合気柔術の師範武田惣角から5年間、大東流合気柔術を学び、さらには、36歳の時には父の病気直しの為に大本教の本部のある綾部に出口王仁三郎を訪ねた時、出会った出口王仁三郎に感銘し、そのまま8年間綾部に住み込み、王仁三郎の、戦い回避を目指す言向け和しの無抵抗主義を学び、次第に盛平独自の合気道の道を開いていくこととなった。合気道の技のほとんどは大東流合気柔術から来てるが、その大東流合気柔術を可能にしたのは、創始者とされる鎌倉時代の新羅三郎を称した源義光が影響を受けた天台密教の作った神道理論、山王神道であった。山王神道は、真言宗系の両部神道とともに道教の影響を受けた中国の真言密教、天台教の影響を受けており、道教思想がその密教理論の中に展開されている。太極拳、少林拳、八掛掌、形意拳、心意拳などの中国武術は一様に道教の思想が根源にあり、日本の合気道や大東流合気柔術は天台系の山王神道を通じてこうした武術に繋がる道教思想を継承したのである。山王神道では、古事記・日本書紀では新羅王子、地方風土記では新羅の神とされる天日矛が日本に残した十種の神宝の中に中国武術に繋がる道教的思想を見出し、その中から鎌倉時代に大東流合気柔術が生まれ、そうして大正時代から昭和時代にかけては大東流や大本から独立した植芝盛平によって合気道は誕生した。平田系神道カルトの大本の流れを汲みつつ、一方で大東流や山王神道の中国道教の流れも汲む中、植芝盛平は、和合の精神を説き、人と競い合う事を好まれず、「自己の練磨」のみを目的とする試合無き武術、合気道の道を開いたのである。
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