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2010-08-23 17:21:44
【そうだ滋賀へ行こう35】中江藤樹記念館etcさんぽ氣比神宮(福井)、瓜割の滝(福井)、中江藤樹記念館(滋賀)、藤樹書院跡(滋賀)の順です。次sm11874340 mylist/17668989
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2021-03-08 22:57:02
【神道シリーズ】第23回・日本陽明学の祖・中江藤樹中江藤樹は、同時代の林羅山、吉川惟足、山崎闇斎らが朱子学の枠内でいかに情を抑え、性即理を実現させるべきかを模索していた時、彼らが論理の探求のみに熱中する中、藤樹は自ら儒教の道徳の原点に立ち、徹底した儒教徳目の実践を通じての性即理の実現を目指したが多くの面でその理想追求は挫折することとなった。
はたから見ると藤樹は「近江聖人」として理想的な儒者のイメージを放つのだが、本人としては理想と現実の矛盾のはざまで悩み苦しみ続けていたのだ。
一切の妥協を拒む藤樹には他の朱子学者たちの行動が偽善的であり、立身出世の為だけに朱子学者の立場を利用するものや、ひたすら読書だけに没頭して現実生活の中で徳目を実践しない朱子学者たちと映り、藤樹は彼らを俗儒と呼んで心底軽蔑した。
しかし、他を批判しようともみずからの自己研鑽実践の中での自己矛盾の問題は解決せず、また自分を取り囲む周囲の社会がまったく変わるわけでもなく、朱子学の理気論による「情を抑えて性即理を目指す」という自己抑制的理論そのものへの限界を感じ始めていた。
どうしたら心は他を敬う気持ち、つまり敬と一体になれるのか?
どうしたら心は性、つまり、自分そのものを敬の気持ちでいっぱいにできるのか?
この問に答えるために藤樹は心学、つまり心の学問というものを唱えだしたが、実際には論理で心の作用をコントロールできるものではなく、結局はタイイツシンという古代儒教の神様への信仰へと逃げ込むことになり、日本の伊勢神宮のアマテラスもタイイツシンの眷属のひとつだと主張するようになった。
しかし、この藤樹の陽明学への踏み込みはその後、朱子学を否定する国学の心の爆発、感情の爆発への道を開くこととなったのである。うわああああああああああ
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2021-08-23 22:55:02
【神道シリーズ・シーズン2】第40回・熊沢蕃山【後編】人物史編(あえて選んだ不器用な生き方)熊沢蕃山は、元和5年(1619年)京都稲荷(現・京都府京都市下京区)の浪人であった父・野尻藤兵衛一利と母・亀女の6人兄弟の長男として生まれたが、口減らしのため8歳の時、母方の祖父、熊沢守久の養子となり熊沢姓を名乗るようになった。
15歳の時、池田輝政の女婿であった丹後国宮津藩主京極高広の紹介で輝政の孫である備前国岡山藩主池田光政の児小姓役として出仕したが、寛永14年(1637年)島原の乱に参陣することを願い出たが受け入れられず一旦は池田家を離れ、近江国桐原(現・滋賀県近江八幡市)の祖父の家へ戻り、その時、同じ近江の小川村に帰郷していた中江藤樹の門下に入り陽明学を学ぶことなったが、ここで蕃山の思想の基礎が築かれることなった。
藤樹への入門が功を奏し、再び京極高広の紹介で岡山藩に出仕することとなったが、当時の藩主・池田光政は陽明学に傾倒しており、また中江藤樹の信奉者でもあったことから蕃山を大歓迎して迎えた。
その後、光政と蕃山は最強のタッグを組み、儒教的経世救民論による藩政改革を推し進めて行き、
大飢饉や大洪水の被害を最小限にとどめるよう農民の生活を中心に考えた徳政を進めて行った。
しかし、陽明学的立場より身分の上下無関係に藩内の役職者たちに手厳しい指導と批判を続けたため、藩内の保守派から猛烈な反発を受け、39歳にして隠居することを余儀なくされた。
岡山藩を去った蕃山は、その後、京都、明石と居住地を変えて行くが、50歳で明石に移転して以降は厳しく藩主光政や、かつての盟友だった津田重二郎たちを批判するようになり、池田光政と蕃山の関係は悪化の一途を辿って行った。
やがて明石も追われた蕃山は、大和国の郡山(現・奈良県大和郡山市)へ移り住み、自らの思想の仕上げ作業とも言える著作活動を続け、67歳にして、中国の呉の泰伯イコールアマテラス論を格子とする儒教的神道論の書かれた「三輪物語」や、69歳にして幕府の参勤交代制度の批判や武士の帰農主義などを書いた「大学或門」を著し、結局後者の「大学或門」が幕府批判と取られた為、
古河藩預かりの蟄居謹慎の処分を受け、古河の地で残りの4年間の人生を過ごす事となった。
陽明学の至良知にこだわったが故に、せっかくの幕府の将軍指南役の職のオファーも断り、さらには生涯蟄居という割に合わない処遇を受けてしまうという、ある意味、才能に溢れながらも不器用な人生を送ってしまった熊沢蕃山であった。- 101
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2015-05-15 14:09:06
有名人が語る言葉~中江藤樹~(大久保宏明)有名人が語る言葉には力があります。そんな力のある言葉を集めました。(大久保宏明)
『悔は凶より吉に赴くの道なり』~中江藤樹
中江 藤樹は、近江国出身の江戸時代初期の陽明学者。近江聖人と称えられた。諱は原、字は惟命、通称は与右衛門、藤樹と号した。- 100
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2021-03-22 23:10:02
【神道シリーズ・シーズン2】第25回・荻生徂徠(古文辞学の立場より孔子・朱子批判)江戸時代に入り、林羅山、山崎闇斎、中江藤樹など朱子学や陽明学の研究は全盛となり、本来の古典的な儒教の教えが隅に押しやられてしまっていた中、古学派の伊藤仁斎は儒教本来の孔子が論語で訴えた徳目修身の原点に立ち返り朱子学・陽明学を批判していたところ、苦学独学で儒教を習得した荻生徂徠はその伊藤仁斎の朱子学批判では飽き足らず、孔子の論語ではなく、孔子以前に中国の先王聖人らが打ち立てた礼楽刑政の思想に立ち返り、先王たちの礼楽を
たんなる仁義礼智という、個人で習得すべし徳目として把握していた孔子を痛烈に批判し、さらにはその孔子の論語の立場にたつ伊藤仁斎も厳しく批判した。
荻生徂徠は、孔子とか朱子と言った先王聖人の時代からみて後世の学者たちによる六経の偏向的解釈を論破する為、古代の中国語を学び、五経も日本語の訓読みではなく、オリジナルの中国語の発音で読み理解するという方法論を採った。
そこから徂徠が得たものとは、本当に理解すべきは堯舜以前の時代から先王たちにより築かれて行った経世済民を目指す礼楽の制度そのものがあればこそ民は仁義礼智のような徳を身に着けた民なれ、天下も丸く治まるのだ、という政治制度の重要さで、それを孔子や朱子のように個人の努力で皆が徳目を習得する修身に心がけるとか、宇宙の理と個人の性を一致させる努力などに歪曲して解釈されてることが許せなかったのである。
尚、この徂徠の、古典をその時代の言葉で読み解くという古文辞学という方法論は、対象はまったく異なるものの、後の国学者本居宣長の古事記の万葉仮名読みによる分析にも引き継がれていくことなり、この宣長の古事記解釈はその後の復古神道を産むきっかけとなり、一方荻生徂徠はその復古神道派からは中国かぶれの批判的評価が下されるという皮肉な運命になるのであった。- 93
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2010-06-21 23:12:26
書籍〝教養の大陸シリーズ〟(2009年10月発刊) CM1/幸福の科学出版◆①エマソンの「偉人論」/R・W・エマソン著/ナポレオン、ゲーテ、シェークスピア、スウェーデンボルグ、プラトン――天才・英雄の生き方と思想/人類史を彩る代表的偉人の生涯と思想を独自の視点で鋭く読み解く◆②自助論 ―西国立志編―/サミュエル・スマイルズ著/「天は自ら助くる人を助く」この真実を多くの偉人の事例で証明した19世紀イギリスの古典。◆③「学問のすすめ」他一篇/人生を決めるのは生まれや身分ではない。それは「努力」である。福沢諭吉が封建的な価値観を破った革命的な一書。◆④代表的日本人/西郷隆盛、上杉鷹山、二宮尊徳、中江藤樹、日蓮――彼らが到達した日本精神の高みとは何か。内村鑑三が語る珠玉の偉人伝。世界に日本を紹介し、日本の品格を高めた歴史に残る一冊。
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2021-08-12 15:03:02
【神道シリーズ・シーズン2】第39回・熊沢蕃山【前編】理論・思想編(陽明学と万物同胞兄弟論)熊沢蕃山は、26歳の時に地元近江の国に住む近江聖人と言われた中江藤樹に入門を願った時、藤樹は36歳で、ちょうど藤樹は当時朱子学と陽明学のはざまに立ち、蕃山の入門を何度か拒んだのは藤樹自身が自身の思想的転換期の迷いの中にあったことも原因の一つだと言われる。
蕃山は武家の家に生まれ、それまでに四書五経の素養は十分にあったものの、本格的に朱子学や陽明学を学んだのは藤樹の門下生になってからであった。
中江藤樹の陽明学は結局最終的に中国の古代神・上帝・太乙神の信仰に向かい、直接的に社会変革運動を行う活動家たちへの影響は無かったが、弟子の蕃山はその後、積極的に藩主や時の政権に対して批判的な言論活動を行い、自らの扶持を失い、家族にも生活苦を強い、最後は蟄居生活を強いられることとなった。
しかし、そうした蕃山の、才能がありながら自ら苦汁を舐める生活を強いるという実に不器用な生き方は、その思想とともに幕末になると再び脚光を浴びるようになり、藤田東湖、山田方谷、吉田松陰らが彼の思想に傾倒するようになり、倒幕の原動力となっていくのだが、果たして熊沢蕃山の陽明学はどのように彼らに影響を与えたのであろうか?
一般的に熊沢蕃山は陽明学だとみられているが、果たして本当に彼は陽明学に触発されてああした彼の生き方をしたのだろうか?
実は、蕃山が傾倒したのは完全な陽明学ではなく、陽明学寄りの朱子学との折衷的な思想であった。
蕃山は、陽明学で言う、理が気に働きかけて易の64掛や朱子学の天動説に基づく形而上学的宇宙論を受ける一方、陽明学で言う致良知説も同時的に受け入れ、陽明学の心即理と言うよりも、朱子学的な性即理を陽明学的な致良知で達成しようと言うような発想で、儒教の根本的価値観である五常や五倫の窮理を追究するという姿勢は崩さなかった。
結局、中心的思想は、師の中江藤樹に倣い、朱子学の理気二元論と陽明学の理気一元論の中間を行く理気混淪論を採ったが、しかし、自分の心の良知に目覚め、行動を起こせばそれに連動して世の中はおろか自然万物までをも変えることができるという陽明学の万物一体の仁思想を支持し、そのエネルギーがその後幕末の勤王の志士たちに大きな影響を与えることになったのである。- 79
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2021-09-06 23:35:02
【神道シリーズ・シーズン2】第41回・大塩平八郎【前編】理論・思想編大塩平八郎は、大阪東町与力の家系に育ち、四書五経などの儒学の素養はもともと持っていたが、彼が陽明学に目覚めたのは与力職を引退した後の36歳の時に明代の陽明学者・呂新五の「呻吟語」という本に出合ってからで、もともと生真面目実直で愚直とも言える一徹な性格の大塩は自らの与力職体験と重ね合わせながら独自の陽明学論を形成して行った。
良知と呼ばれる生来の善の心を発揮すればそれそのものが宇宙の原理だという考え方で、朱子学のようにどうしたらその善の心を発動できるかという方法が陽明学ではまったく語られていないので多くの陽明学者たちを苦悶させることとなった。
確固たる方法が見つからず最終的には中国の古代神上帝の信仰に走った中江藤樹や、自説の政治改革論を藩士・藩主・幕閣に訴え続け、立場の上下無関係に彼らを批判し続けて最後は蟄居となった熊沢蕃山、そして大塩は精神的に四六時中自己の心の監視を続けるというやり方で自分を追い込み、最後は大塩平八郎の乱という大坂の約五分の一を焼き払ってしまう大火を招いた反乱を起こしたのちに自爆した。
日本の陽明学者が苦悶に陥ったのは、陽明学で良知なる宇宙真理である善、つまり良き心、つまり、学習や経験によって習得したものではなく、生まれつき持ってる良心をどう発動させるかというところであるが、大塩は、眠っている時間も含めて一瞬たりとも緊張を緩めることなく自分の良心に照らして自己監視し続けるという方法を採った。
その時を同じくして天保の大飢饉が訪れ、周りに餓死者たちが次々で出てくる現実に直面し、知行合一をモットーとする大塩にはクーデターを起こして幕藩体制そのものまで覆さなければならないという使命感に至り、天保8年2月19日(1837年3月25日)世に言う大塩平八郎の乱を起こすこととなった。
果たして大塩は自ら確立した大塩陽明学の理論の行きつく果てとして乱を起こしたのか?それとも彼の行きついた論理破綻の上、絶望的な判断として乱に至ったのか? 今、彼の本当の心の中を知るものは誰もいないが、これは陽明学の可能性や危険性を理解する上でも大塩の陽明学理論は貴重な研究材料となる。
大塩平八郎の乱自体はわずか1日で鎮圧され、大坂は火の海となり、多くの犠牲者が残されたが、もう一つ大塩が残した遺産として彼の14年間をかけた著書「洗心同さっき」は、その後、明治維新の立役者・西郷隆盛や西郷に心酔していた後の大アジア主義者の当山満らに大きな影響を与えることになったのである。二十人くらいで何が・・妄想だわ
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