キーワード今川了俊を含む動画:17件 ページ目を表示
2024年7月29日 07時09分に生成された05時00分のデータです
2021-12-10 18:00:00
細川頼之の終焉…そして復活「康暦の政変」<足利義満解説・前日譚 最終回>前回⇒sm39671295
次回⇒
いつもコメントありがとうございます!
Twitter→https://twitter.com/ootaushiichi
信長解説シリーズ⇒series/83634
番外編シリーズ⇒series/107537
義満解説、前日譚の最終回です
やはり政権の終焉である、康暦の政変で締めたいと思います
次回は小休止もかねて南北朝時代にまつわる短編です
本編は1月から開始する予定です
主要参考文献
生駒孝臣『楠木正行・正儀』ミネルヴァ書房
伊藤俊一『荘園』中公新書
小川信『細川頼之』吉川弘文館
小川剛生『二条良基』吉川弘文館
小川剛生『足利義満』中公新書
亀田俊和『観応の擾乱』中公新書
亀田俊和・杉山一弥編『南北朝武将列伝』戎光祥
川添昭二『今川了俊』吉川弘文館
佐伯智弘『皇位継承の中世史』吉川弘文館
桜井英治『日本の歴史12 室町人の精神』講談社学術文庫
荘園史研究会編『荘園史研究ハンドブック』東京堂出版
新田一郎『日本の歴史11 太平記の時代』講談社学術文庫
日本史史料研究会編『初期室町幕府研究の最前線』洋泉社
平野明夫編『室町幕府全将軍・管領列伝』
森茂暁『南北朝の動乱』吉川弘文館
山田徹『南北朝内乱と京都』吉川弘文館
山田邦明『室町の平和』吉川弘文館
論文
水野圭士『細川頼之政権と持明院統の分裂』
山田徹『土岐頼康と応安の政変』
山田徹『南北朝後期における室町幕府政治史の再検討(上)』
山田徹『南北朝後期における室町幕府政治史の再検討(中)』
山田徹『南北朝後期における室町幕府政治史の再検討(下)』
音源
https://soundcloud.com/baron1_3
https://dova-s.jp/
https://ucchii0artist.wixsite.com/ucchii0
http://peritune.com/
https://soundeffect-lab.info/
https://vsq.co.jp/special/se_ikusa/返り討ちとはガチで強い 頼之派の業秀と楠木が守護だと劣勢だったわけだし まあでも短期的には正解よね せいせいしたわ 父のような人かも 京はめんどくせ、かも 吟詠聞いたことある 海南行だ! 詳しくお願いします 戦国まではサラッと流されちゃうからな日本の...
- 25,093
- 8303.3
- 3641.5
- 400.2 YouTubeで検索
2021-11-26 18:00:00
名管領・細川頼之の苦悶 苦しみながら彼が残した功績<足利義満解説・前日譚 第9回>前回⇒sm39605926
次回⇒sm39728104
いつもコメントありがとうございます!
Twitter→https://twitter.com/ootaushiichi
信長解説シリーズ⇒series/83634
番外編シリーズ⇒series/107537
主要参考文献
生駒孝臣『楠木正行・正儀』ミネルヴァ書房
伊藤俊一『荘園』中公新書
小川信『細川頼之』吉川弘文館
小川剛生『二条良基』吉川弘文館
小川剛生『足利義満』中公新書
亀田俊和『観応の擾乱』中公新書
亀田俊和・杉山一弥編『南北朝武将列伝』戎光祥
川添昭二『今川了俊』吉川弘文館
佐伯智弘『皇位継承の中世史』吉川弘文館
桜井英治『日本の歴史12 室町人の精神』講談社学術文庫
荘園史研究会編『荘園史研究ハンドブック』東京堂出版
新田一郎『日本の歴史11 太平記の時代』講談社学術文庫
日本史史料研究会編『初期室町幕府研究の最前線』洋泉社
平野明夫編『室町幕府全将軍・管領列伝』
森茂暁『南北朝の動乱』吉川弘文館
山田徹『南北朝内乱と京都』吉川弘文館
山田邦明『室町の平和』吉川弘文館
論文
水野圭士『細川頼之政権と持明院統の分裂』
山田徹『土岐頼康と応安の政変』
音源
https://soundcloud.com/baron1_3
https://dova-s.jp/
https://ucchii0artist.wixsite.com/ucchii0
http://peritune.com/
https://soundeffect-lab.info/
https://vsq.co.jp/special/se_ikusa/焼けば良いのにな この後も六角は自分たちに明確な不利益が無い限り親幕府なんだが今回は不利益出ちゃったからな 土岐氏は味方側の主張だが土岐氏は元々反頼之急先鋒で幕府内にほぼ居ない 上層部は割と冷静な対応 いやそこは朝廷幕府じゃなくて各派の方に出せよw ...
- 21,918
- 6162.8
- 3331.5
- 320.1 YouTubeで検索
2018-08-22 22:32:03
【ゆっくり実況】 アジアの弓取り目指して 最終話 【EU4】解像度が1920×1080なので全画面モードの視聴をお勧めします
約半年になったこのシリーズも今日で最終回
最後まで見て行ってください
環境 1.24 プレイ国家 今川→日本
DLCは主要DLCを導入グラ関係は一部
yuuki 様 今川了俊 様 今川国氏 様 rogue state様 ういろう 様 広告有難うございます
前の動画 sm33689936
EU4シリーズ mylist/61031167
civシリーズ mylist/37222246
大戦シリーズ mylist/58304884なんかここだけ見てると北海道の下の部分に見えないこともない おつ いい感じに各国が拡大してるな 乙ゥ! 織姫もだな神道は元々道教の影響を結構受けてる w おつ うぽつ なんか南下してきた!! おつかれさま。完走できるのは誰でもできることじゃねーから自...
- 1,957
- 331.7
- 00.0
- 50.3 YouTubeで検索
2017-10-15 08:00:00
【信長の野望 天翔記HD】千葉家の野望25 「苦難の伊賀越え」最近中公新書の「応仁の乱」や「観応の擾乱」が妙にブームらしいですが、久々に室町初期の
大河ドラマやってくれないでしょうか。佐々木道誉や今川了俊なんて面白いと思うのですが。
え?島津や北条が先だって?そうですよね。。
なお、ちょっと遊び心でつくってみました。sm32100209
仕事の繁忙にもよりますが、週1くらいの頻度でアップできればと思っております。
《第26話》sm32135749
《第24話》sm32063022
《こんなに面白かった「信長の野望天翔記事典」》sm36741426
《戦才B以下縛りの信長の野望天翔記(若狭武田家)》mylist/66934722
《北条一門縛りの信長の野望天翔記(北条家)》mylist/62691180
《千葉家の野望シリーズ》mylist/58913233
《信長の野望「覇王序章」で直虎OP》sm32100209綱成にご執心かな? 誤算じゃなくて必然だよ えー、それは勿体ない 信繁も清康も勇猛0名将タイプだから積極さが足りないんでは? うぽつ。! まぁこいつら普通に戦わせれば勝てたけどな 斬ったー 待ってますた 酷い戦闘だったな 何がむむむだ、責任とって隠居...
- 1,723
- 311.8
- 00.0
- 20.1 YouTubeで検索
2019-10-02 15:55:02
西国街道行く 四郎峠〜鳴川石畳遺構〜鉾ノ峠〜玖波宿西国街道行く
広島市周辺の旧山陽道(西国街道)の一部を何回かに分けて歩いてみます。面影はわずかだと思いますが 歴史のある道ですから。
ルート=宮内から四郎峠〜中山の疣観音(今川了俊歌碑)〜JR大野浦(今川了俊歌碑)をいくつか紹介して鳴川手前まで車載。
廿日市市の西端 大野鳴川(なるかわ)〜石畳道〜鉾ノ峠〜唐船浜(からふねはま)〜玖波(くば)宿跡へ
大野向原あたりからさらに山へいくあたりから残念社(長州征伐の時、幕軍伝令で長州軍に撃たれた依田半蔵を祀る)経由の古道(四境の役の古戦場)ですがで山道でもありパスしてます。寂しい古戦場を一人では歩きたくないもんな。
山を超えた場合、鳴川手前の団地のあたりに出てきます
石畳道は昔の街道のもので西国街道の遺構です。峠越えはJRのトンネル上を通過しますので少しスリルがある。馬試しと言われる峠は旧道にトンネルができ、国道二号線が海側にできているので使われなくなっており通れない。
唐船浜(とうせん浜)=太閤秀吉がこの浜で外航船を作らせたとか言われます。
玖波(kuba)宿
安芸国最後の宿場(隣の小方(ogata)=休息などに使われた予備的な間の宿と補完しあっていた)
洪量館が本陣で文化人なども集い文化の華が咲いたと言い伝えられている。四境の役(長州征伐)で長州軍に焼かれ灰燼に帰す。その後再建された古民家や蔵などが残り風情ある町並みを一部まだ残している。高札場跡
- 160
- 10.6
- 00.0
- 00.0 YouTubeで検索
2019-11-04 11:19:02
尾道古寺巡り 国宝の寺 浄土寺 ( 寺院と庭園拝観 ) 広島県尾道市広島県尾道市 真言宗泉涌寺派 転法輪山 大乗院 浄土寺 多宝塔は国宝指定されている。聖徳太子開基と伝承される古寺。堂内(建物外観のみ撮影可)江戸期の庭園拝観、境内拝観
歴史は古く聖徳太子開基と言われる港町尾道を代表する古刹寺院です
平安〜鎌倉中期まで真言宗高野山直系寺院〜鎌倉時代末期から真言律宗〜江戸時代から真言宗泉涌寺派
本堂ほか諸堂は幾度か焼けており、再建され現存する堂宇は鎌倉時代末期〜室町時代の建築で多宝塔は 国宝指定。
尾道は古来海上交通の要衝で、盛んに船が行き交い商業が栄え、軍事的にも要の地でした。
尾道の大商人の経済を背景に諸堂が再建された。
鎌倉時代末期〜幕府を開いた足利尊氏などとも縁が深く崇敬されたと言われます。
足利義満の武将 九州探題今川了俊も尾道で軍備を整えたと言われるそうです。
二回目の参詣でした。
今回は本堂へお参りし内陣拝観をしました(堂内や方丈内は撮影禁止)宝物館も見学いたしました。本堂や阿弥陀堂の歴史ある諸仏像は素晴らしく迫力ありました。受付の人が詳しく説明してくれます。
珍しいのは阿弥陀堂裏に蓮如上人の揮毫した名号がかけてあったりしました。
御寺への参道風景、山門、本堂外観などと本堂裏の建物や唐門(方丈側から)方丈の庭〜江戸期に築庭の泉水庭園がメインです。庭園をうまく撮影するのは難しいです。
説明では御本尊から紐が伸び須弥壇前に垂れ下がっている、僧侶は様々儀式ではこれを持ち拝する また、ご開帳時はこれが伸ばされ本堂前で参詣する人々のところまで伸ばされるといいます。
境内伽藍=国宝多宝塔、唐門、阿弥陀堂、護摩堂、子安堂、宝篋印塔、納経塚など
鎮守社丹生高野明神は修復中でした。
*泉水庭園(江戸時代 徳島の隠士長谷川千柳 築庭)で江戸後期作庭とか言われます。
見えにくいですが築山の前側が泉というか池になっている。
サムネは浄土寺 境内庭園と茶室遠望- 135
- 00.0
- 00.0
- 00.0 YouTubeで検索
2019-11-21 12:59:02
<秋の電車旅>山陽本線 瀬戸内の車窓風景 前編 (玖波駅手前〜徳山駅まで行きます)改訂版2山陽本線電車車窓風景 前編 やや高画質化しました。
山陽本線の海などが綺麗なルート 景色の良さそうなところ動画にしてみました。
前編は 山陽本線 広島県西部宮島口の先大野浦駅を過ぎたあたり
玖波駅の少し手前、(宮島との海峡部分)宮島など海の景色が綺麗に見えるあたりから始まります。
〜玖波〜大竹〜和木〜岩国〜南岩国〜通津〜藤生〜由宇〜神代〜大畠まで
岩国駅を過ぎて大畠駅までは海が見えるところも結構あって景色がよろしい。
神代〜大畠駅間が大島大橋や島々が見えて釣り船が浮かび電車に乗ると一番見どころかな。
乗るたびに見入ってしまいます。
大島大橋の映像追加忘れていたので追加しました。旧大畠町(現柳井市)遠崎からみたものです。
駅で云うと柳井港駅から少し東側あたりになります。
注)今川了俊=室町初期の武将。足利義満に仕えた。九州探題(九州の南朝方征伐の総司令官)でした。
後編(大畠駅〜柳井港〜柳井〜田布施〜岩田〜島田〜光〜下松〜櫛ヶ浜〜徳山)=sm34213951
- 121
- 00.0
- 00.0
- 00.0 YouTubeで検索
2020-02-05 10:32:02
<山口県神社参拝>夕暮れの防府天満宮境内風景と三田尻の老松神社界隈 長尺版あと数日で年が変わろうとする師走の山口県防府市・三田尻にある老松神社、英雲荘や夕暮れ前の防府天満宮へ。青春18切符でおとづれた記録。山口県 旧周防国府の町です。最初は電車からの防府の一駅手前 富海(とのみ)へ至る海の風景から始まる。微修正。
老松神社界隈の風景と防府天満宮の参道など夕暮れの風景
老松神社
防府市の海側、三田尻御船倉跡(毛利水軍の拠点)の近くにある神社 付近には旧萩往還(藩主の参勤交代で使われた三田尻〜萩まで最短で結んだルート)が通る。
元々は娑婆(さば)氏が創建し須佐神社と呼ばれたそうですが、その後、社前に老松が茂っていたので、老松神社と号したと言う。幕末の英雲荘に滞在した公卿も祈願におとづれていたと言われます。
樹齢2000年の巨木の楠木があり見どころでしょう(山口県で川棚温泉のクスに次ぎ最大クラスです)
また参拝したい神社。
英雲荘 (二代藩主綱広公が建てた 藩の公式の御茶屋遺構、藩主や賓客の宿泊などに使われた 勤王の七公卿も滞在した)休館日でした^^; 外から庭や建物の様子を見学しました。
ここ三田尻の海岸は長州藩の特産品塩の生産地〜かつての塩田跡でもある。
この後、御船蔵跡と小烏神社、厳島神社(鞠生の松原跡・九州探題今川了俊歌碑がある)へ行こうとしたんですが迷って見つけられませんでした・・小烏神社は幕末、長州軍が鳥羽伏見の戦いへ船で向かう時に祈願したところ (^^;; もう寒くて気分悪くなりそうでした・・・。
萩往還沿の商店街脇に車塚古墳というのがありそこには車塚妙見神社が祀られていました時間がないので案内板しか見てませんけど。
天神商店街のカフェ「空間茶店」のコーヒーとケーキ映像
防府天満宮
日本三大天神の一つ。新年を迎える準備の進む天神さんへ。参道や境内風景いろいろ。黄昏時の陰影がいつもと違い新鮮で良かった。祭神は当然菅原道真。
令和元年(2019) 師走どこの県にも寺社仏閣があるから四国云々48景とか言うんだよね? 防人説かー 境内ってケイダイって読むんだよねえ? 天満宮ってなに?
- 99
- 44.0
- 00.0
- 00.0 YouTubeで検索
2019-09-30 23:48:01
西国街道を行く 廿日市市大野 向原の石畳と九州探題今川了俊歌碑西国街道廿日市市 大野地区にある 向原の石畳(復元)を歩いてみた。
昔の西国街道の姿を少しだけイメージできます。
宮島に一番近い温泉 宮浜温泉の駐車場に停めて歩きました。
実物の石畳遺跡は保存のため埋め戻されています。
背後の高い山は経小屋山 古代の防人が一切経を守護神に祀ったからとと云われます。
また、街道の石畳の実物ですが、ここから少し先の鳴川の鉾ノ峠ヘ向う山の入り口のところにはそのまま残っています。
今川了俊(貞世)の歌碑
遠州今川氏の祖で、足利三代義満に仕えた。九州探題として九州の南朝方を駆逐する司令官となる。
優れた歌人でもあり、九州へ赴くときに西国街道通り、各地で歌や紀行文を残している。
『道ゆきぶり』がそれです。また自らの体験を記した「難太平記」なども表した。
廿日市には今川了俊の歌碑があと2箇所有ます。- 97
- 00.0
- 00.0
- 00.0 YouTubeで検索
2022-09-20 18:45:03
西国街道 大野中山 疣観音堂と今川了俊歌碑 広島県廿日市市西国街道(旧街道の山陽道)の廿日市の宮内〜四郎峠を西へ下ったところにあるお堂。弘法大師のイボ取り伝説のある御堂である。端正な石仏の観音像である。
川のの合流点にありここよりやや下った場所が一里塚の松があった場所らしい。
今川了俊は貞世と言い遠州今川氏であるらしい足利義満に仕え九州探題として赴任、大内氏や九州大名の力を糾合し南朝方と戦を繰り広げた。
文化人としても優れ 和歌、紀行文(道ゆきぶり)、歴史書(難太平記)などを残す
今川了俊公の歌碑(後2箇所)歌碑の歌は道ゆきぶりに書かれているようだね。
JR大野浦駅、宮浜温泉に近い向原石畳道の上の方にあり
防府市の鞠生にもあるらしいんだけど(老松神社参拝の後に探したが迷ってしまい)いまだ行けてない。
この旧山陽道(高速建設などもあり大体この辺りだが)四郎峠(この辺りを昔大野氏とかいう兄弟が入植開拓したとか言われ大野四郎が開拓したことからその名があるらしい)はさみしいところなので昔は追い剥ぎなんかも出ていたらしい。
今川了俊は地御前神社、厳島参拝後 地御前あたりから山に入りおおの中山へ抜けたと何かで読んだ(HPか本だか忘れたんだが)ありがとう
- 48
- 24.2
- 714.6
- 12.1 YouTubeで検索
2020-10-23 00:13:02
山陽自動車道の傍の側道から 晩秋の厳島の海峡の眺め 広島県廿日市市旧山陽道付近〜宮島の眺め。錦帯橋へ行くので、国道2号線から阿品台を抜け旧道に入り〜廿日市市の西にある宮浜温泉を過ぎ、大竹市玖波へ抜ける 迂回路からの眺め。抜け道は狭いのだが車の交通は結構多いです。真後ろの少し上には山陽自動車道が走ります。
この辺は大雑把に言いますと旧山陽道(西国街道)が走っていた場所の近くです。
「大野浦を これかととえばやまなしの かたえの紅葉色に出つつ」 今川了俊
<室町時代初期九州探題の今川了俊がこの辺りを九州へ向かう途中詠んだという歌らしいです
南朝方を殲滅し九州を鎮圧する室町幕府の最高司令官でした>
大野浦駅近くを通過した時よく見えそうな場所から大内氏の門山城跡の山をしたから眺めて写真を撮ったのでまたあげます。昔何回か登山で行きました。- 37
- 00.0
- 00.0
- 00.0 YouTubeで検索
2021-09-16 00:03:03
厳島神社外宮「地御前神社」と「地御前本道(ほんみち) 」【前編】(〜西向寺門前まで)西国街道から宮内串戸あたりで西へ分岐した古い道で、宮内〜地御前へ抜ける。地御前=じのごぜんの意で、本宮厳島神社が御前、本土側が地の御前という意味。
地御前神社のところまで続く。昔の地御前神社へ至る参詣の道でもある、生活道として使われた(今も現役)。(サイト〜広島大百科を参照しています)
20年くらい前は古い街並みなど残っていたようだが近代化で多くが失われたがまだ幾らか町家やその風情が残っている。絵を残しておこう。古い道標なども残っていたり、御堂、お寺、神社、大木などいろいろある。
最近参拝に行くと新しくなった家が増えていますね時代です。
余談〜昔、海側の宮島街道が開かれるまでは、西へ行く道は宮内村から四郎峠(今山陽自動車道がそばを走る)を越えて行く(今も迂回路として交通量が多い)旧山陽道(西国街道)しかなかった。
ただ、厳島に参詣し、その後 地御前から旧山陽道のおおの中山へ抜けた話が、室町初期の九州探題=今川了俊の道行ぶり(紀行文)にもあり迂回路も存在したようです。山越えですが。
行程
前編=藤掛橋(御手洗川)~宮内交差点~西国街道~地御前本道へ~御手洗川/御手洗橋~古い道標~地御前コミュニティセンターと道標~観音堂~
後編=西向寺と蓮華松~正行寺~古い町家など多いエリア~(洋画家)小林千古生誕地碑~地御前小学校/大銀杏~大歳神社と釈迦堂~地御前神社境内へ(国道開鑿碑、楠巨樹、地御前神社社殿、皇威輝八紘碑・寺内正毅書、絵馬、鳥居、狛犬など)→sm39369835- 35
- 00.0
- 00.0
- 00.0 YouTubeで検索
2020-12-21 13:45:03
真冬の厳島へ2 眺めの良い対岸の岡から「宮島(厳島)」厳島の海峡を眺める宮島へ向かう途中対岸からの風景2 宮島口の上にある対厳山 の小さな公園から宮島の全景と宮島と本土の間の海峡を眺めの映像。この後宮島へ渡りました。
この公園は例年夏の海上花火大会などでは見物客が多く集まる。だいぶ以前ここから初日の出を見たことがあります。普段はあまり人がいない静かな公園。滑り台の上から撮影しました^^;
バイパスから阿品台を抜け、宮島口あたりの国道2号線を避け西へ向かう抜け道になっているので結構走ることが多い。
ここを下ると更地地区に出て右へ行くと旧山陽道(山側に未舗装路がのこる)沿いの道で新幹線高架や山陽自動車道の下を並走し大竹方面へと続く。左にいくと国道2号線へ合流する。
今川了俊=足利義満から九州探題を拝命し南朝軍と戦った武将、歌人でもあり「難太平記」、紀行文「道行きぶり」などを現す。おおの浦・・・の和歌は〜西国街道を了俊が通過した折に残したもので。道行きぶりに記載されている歌。了俊は宮内から地御前神社へさらに山越えで中山に入り西へ進んだらしいです。- 34
- 00.0
- 00.0
- 00.0 YouTubeで検索
2021-09-22 19:04:02
厳島神社外宮「地御前神社」と「地御前本道(ほんみち) 」【まとめ記録編】サムネ=客人宮と大楠。いくつか画像を追加、整理 し直して記録として流れでまとめておく。
西国街道から宮内串戸あたりで西へ分岐した古い道で、宮内〜地御前へ抜ける。地御前=じのごぜんの意で、本宮厳島神社が御前、本土側が地の御前という意味。
行程=藤掛橋、宮内別れ〜宮内串戸・道の始まり〜御手洗川〜新広島四国八十八ヶ所5番智秀山 観音堂〜真宗 西向寺山門〜西向寺参拝(見事な蓮華松)〜正行寺〜釈迦堂、大歳神社や大銀杏〜地御前神社境内と国道開鑿碑。
明治維新後、旧西国街道に替わり交通の利便性の高い新しいみちが求められ開削され。小己斐峠(井口)〜地御前〜大竹へかけて今の海岸沿いの国道2号線が作られた。それまでは海岸沿いの道路はなく宮内から 峠、山越えのある険しいみちであった。
地御前神社のところまで続く。昔の地御前神社へ至る参詣の道でもあり、生活道として使われた(今も現役)
参考資料=地御前コミュニティセンター地御前の史跡、広島大百科、wikiを参照しています)
20年くらい前は古い街並みなど残っていたようです。現在もまだまだ幾らか町家やその風情が残っている。絵を残しておこう。古い道標なども残っていたり、御堂、お寺、神社、大木などいろいろある。
最近参拝に行くと新しくなった家が増えていますね時代です。
余談〜昔、海側の宮島街道が開かれるまでは、西へ行く道は宮内村から四郎峠を越えて行く(今も迂回路として交通量が多い)旧山陽道(西国街道)しかなかった。ただ、厳島に参詣し、その後 地御前から旧山陽道のおおの中山へ抜けた話が、室町初期の九州探題=今川了俊の道行ぶり(紀行文)にもあり迂回路も存在したようです。山越えですが。神社はいいねー
- 29
- 13.4
- 13.4
- 00.0 YouTubeで検索
2021-09-22 00:01:03
厳島神社外宮「地御前神社」と「地御前本道(ほんみち) 」【後編】(西向寺〜釈迦堂〜外宮 地御前神社まで)西国街道から宮内串戸あたりで西へ分岐した古い道で、宮内〜地御前へ抜ける。地御前=じのごぜんの意で、本宮厳島神社が御前、本土側が地の御前という意味。
行程=〜西向寺参拝(見事な蓮華松)〜正行寺〜釈迦堂、大歳神社や大銀杏〜地御前神社境内と国道開鑿碑。長くなってしまった・・。
明治維新後、旧西国街道に替わり交通の利便性の高い新しいみちが求められ開削され。小己斐峠(井口)〜地御前〜大竹へかけて今の海岸沿いの国道2号線が作られた。それまでは海岸沿いの道路はなく宮内から 峠、山越えのある険しいみちであった。
地御前神社のところまで続く。昔の地御前神社へ至る参詣の道でもあり、生活道として使われた(今も現役)
参考資料=地御前コミュニティセンター地御前の史跡、広島大百科、wikiを参照しています)
20年くらい前は古い街並みなど残っていたようです。現在もまだまだ幾らか町家やその風情が残っている。絵を残しておこう。古い道標なども残っていたり、御堂、お寺、神社、大木などいろいろある。
最近参拝に行くと新しくなった家が増えていますね時代です。
余談〜昔、海側の宮島街道が開かれるまでは、西へ行く道は宮内村から四郎峠を越えて行く(今も迂回路として交通量が多い)旧山陽道(西国街道)しかなかった。ただ、厳島に参詣し、その後 地御前から旧山陽道のおおの中山へ抜けた話が、室町初期の九州探題=今川了俊の道行ぶり(紀行文)にもあり迂回路も存在したようです。山越えですが。
前編行程=藤掛橋、宮内別れ〜宮内串戸・道の始まり〜御手洗川〜新広島四国八十八ヶ所5番智秀山 観音堂〜真宗 西向寺山門まで。長すぎるのでとりあえずここまでで。- 22
- 00.0
- 14.5
- 14.5 YouTubeで検索
2021-03-28 00:38:05
桜の咲いた大内氏の前進基地〜門山(かどやま)城跡の山を麓から眺めて。 広島県廿日市市岩国方面へ抜ける途中 串山交差点から旧道へ入ろうとしたら線路脇から眺めが良さそうなので撮影。駅前の一里塚石碑と城山も見てきた。
門山城は大内氏が厳島への船の出入りなども監視できる格好の場所で、安芸国支配の出城の一つだったらしい。山の東側に妹背の滝と言う大きな滝があり厳島神社兼帯七社の一つだったという
古社 大頭(おおかしら)神社が鎮座する。大正期に滝のそばへ遷座したらしい。滝の上部の砂防ダム湖のあたりに登山口の一つがある。
太田社=大頭神社摂社。桜が多く眺めも良い。山裾を走る山陽自動車道沿いの道があり桜も多く太田社の裏を通り西へ向かう。
厳島合戦前に毛利軍により落城し廃城となる。以前も動画で一里塚の石碑は撮影したことがあるがせっかくきたので再度掲載。- 17
- 00.0
- 00.0
- 00.0 YouTubeで検索
1970-01-01 09:00:00
- 0
- 0nan
- 0nan
- 0nan YouTubeで検索