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2024年6月26日 07時11分に生成された05時00分のデータです
2018-11-19 22:25:02
【神道シリーズ】第39回・両部神道①(まずは真言密教とは何か?から)いよいよ日本の中世から近世にかけて圧倒的な宗教的ヘゲモニーを握った真言密教系神道である両部神道のお話に入りますが、その前にまずは真言宗(真言密教)とは何か?を理解していないと、両部神道のみならず、その後に展開された伊勢神道や吉田神道という中世から近世にかけて重要な役割をした中世神道を理解することが出来ません。
ちなみに、伊勢神道は両部神道(真言密教系)と道家(道教)の結合によって生まれ、さらに吉田神道は、その伊勢神道(両部神道+道教)に儒教思想が加わって出来ています。
奈良時代までは雑密と言う未完成な呪術中心の密教の下で朝鮮半島由来の古代信仰(神祇信仰)と習合が進み、神宮寺の形成により雑密仏教が神祇信仰を支配する仕組みが出来ていましたが、中世以降は純密と言われる真言宗系密教が神祇信仰をその傘下において発展していきます。- 797
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2021-01-18 23:04:02
【神道シリーズ・シーズン2】第16回・吉田神道(時代に乗ったフェイク神道)吉田神道は、南北朝の争いで南朝方に加担した伊勢神宮が伊勢神道の影響力が地に落ち、そして戦国時代の夜明けとも言える応仁の乱のあとに伊勢神道を受け継ぐようなかたちで京都の吉田神社で誕生した。
吉田神道の創始者の吉田かねともはアメノコヤネを始祖とする中臣氏の流れの卜部氏の系統のヨシダケ出身で、ある意味武家社会が本格的に朝廷を上回る政治的立場を確立した時代にマッチした神道理論を提案する絶好の機会であったとも言える。
当時も農民を中心とした一般庶民の信仰は100%仏教で、神道理論は庶民というよりも貴族や武家などその時代の支配者たちに提供された体制保障の論理であり、それがこれまで末法時代の克服論であったり救民救済であったりしたのが、武家社会が朝廷を圧倒する戦国時代になると封建支配体制正当化の儒教朱子学理論を軸とした神道理論が武家の間で重宝されるようになったのである。
吉田かねともはそうした時代の流れに狡猾にもうまく乗り、仏教儒教道教を総合しつつも儒教的君民統治論に重点をシフトした神道論を武家の支配層への時代ソルーションとして提供することに成功した。
しかし、その為にかねともは過去に存在してなかった自称古書を自らの著作で捏造し、あたかも太古の昔から吉田神道が存在したような主張をし、さらにかつて密教勢力や伊勢神道の渡会行忠がやったような偽書捏造を通じて京都の吉田神社境内に建てたサイジョウこそが絶対神の国常立のみことの聖地とし、この日本書紀書き換えには伊勢神宮からの強い反発を招き、両者は鋭く対立を続けることとなったのである。
吉田かねともは、吉田神道こそはアメノコヤネ以来日本で唯一こんにちまで伝えられた唯一の元本宗源神道であると主張し、仏教も儒教も道教も同一の理念である理由はこの吉田神道がそれらの起源であるからだとまで豪語したが、問題はその中味がその仏教儒教道教の理論書からの切り貼りであり、すべての宗教の根源とする神道なるものの姿がまったく見えてこないところにあった。
しかしながら、これまで豪族貴族の始祖か御霊のみに限り死者を神と祀って来た過去の歴史を刷新するように時の権力者や儒教的な忠君論的立場より死者を神として祀ることを提唱した吉田神道は、豊臣秀吉や徳川家康など時の権力者たちから受け入れらることとなり、吉田神道は政治的にその地位を確保することになったのであった。- 229
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2020-12-14 22:48:02
【神道シリーズ・シーズン2】第15回・慈円「愚管抄」(伊勢神道時代の背景にあった神概念とは?)前回紹介した「神皇正統記」の著者である北畠親房と、今回紹介する一時代前の「愚管抄」の著者である慈円は、平安末期から南北朝時代までの約150年間に渡り、当時の天皇・公家・貴族・武家らが実際にどのような神概念を抱いていたのかを物語る上で大変貴重な資料となっています。
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2020-08-31 23:19:02
【学習用】伊勢神道の基本構造解説(両部神道⇒伊勢神道⇒吉田神道⇒儒家神道の流れの概略)伊勢神道の詳細説明をするにあたって、両部神道から伊勢神道、そしてその後の吉田神道や江戸時代以降の儒家神道の一貫した流れを理解しておかないと伊勢神道自害がよく分からなくなってしまうので、1時間17分ではありますが、この概略を初心者にも分かりやすく説明した動画を作りました。
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2021-03-02 23:47:02
【神道シリーズ】第22回・山崎闇斎と垂加神道(朱子学理気論と改竄された日本書紀神代巻)京都の針医の子息の山崎闇斎は、家の方針で最初比叡山に僧侶となる為の修行に出され、その後京都の妙心寺で僧籍を得た闇斎は19歳で土佐の吸号寺(ぎょうこうじ)に移り、そこで出会った儒学者の谷時中から朱子学を学ぶと一気に思想が朱子学に傾倒し、仏経を批判するようになり、結局臨済宗妙心寺派の吸号寺を追放されることとなった。
しかし、吸号寺でともに谷時中から朱子学を学んでいた盟友で、土佐藩の家老でもあった野中兼山に見込まれて経済面も門下生の紹介などの援助を受け、土佐にて朱子学の研究を続けていた。
その後京都に戻った闇斎は自らの朱子学塾・闇斎塾を開き、多くの門下生を抱えるようになり、さらに江戸と京都を行き来するようになると会津藩主の保科正之の目に留まり、賓師(ひんし)と呼ばれる不定期の朱子学の家庭教師を頼まれ、それに応じると、当時正之の指名で幕府神道方となっていた吉川惟足との
出会いもあり、惟足より神道理論を学ぶ事となる。
闇斎は惟足以外にも伊勢神道を引き継ぐ外宮宮司の渡会延佳からも神道理論を学ぶ事となった。
しかし、幕府や藩主など君主だけに賢者たる性即理の修養を訴え、民は聖人君主を持てば自然と治世は収まると言う論理は朱子学の理気論的に見ていろいろな矛盾を抱えることとなり、そこで持論の根拠として強引に神道論に結び付けると言う手法、言い換えれば、日本はクニトコタチという宇宙発生以前から存在してるメタなゼッタイシンの直系の子孫であるスサノオやアマテラスを持ち、その子孫が天子天皇である国だからそもそもその血を引く君主たちは聖人君主、つまり賢人になる素質は十分に持ってるのだと言う論理に逃げ込んだともとれないことはない。
しかしながら、この天孫系天子を頂く日本国の優越性を説く部分はその後、本来の意味を離れて幕末の尊皇攘夷論や明治以降の国粋主義思想に繋がっていくこととなったのである。- 154
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2020-08-24 23:15:03
【神道シリーズ・シーズン2】第1回・伊勢神道①(伊勢神道の基本構造)神道シリーズ・シーズン2では、両部神道から伊勢神道、吉田神道、儒家神道、復古神道と、中世から近世の終わりまでの神道各派の流れを解説していく予定です。
まず、最初に伊勢神道ですが、伊勢神道は、真言宗系の両部神道を土台として、そこから密教的要素を排除し、代わりに道家(道教・陰陽五行)思想で理論付けするという形で形成されますが、この流れは後の吉田神道や江戸時代以降の儒家神道(垂加神道・吉川神道など)に引き継がれていきます。
今回はこの伊勢神道形成までの過程の概略を説明し、第2回以降にはそれぞれの過程の詳細説明をして行こうと思っています。- 152
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2020-10-19 23:10:02
【神道シリーズ・シーズン2】御流神道と三輪流神道(両部神道主要二派)11世紀頃から発生してきた真言宗を中心とする(一部天台宗寺門派も含む)真言密教系神道理論は12世紀から15世紀にかけ両部神道を形成し、中世の日本の宗教界を支配していくことになりますが、その両部神道は主に室生山で発生した御流神道と三輪山で発生した三輪流神道が中心となって行きます。13世紀後半より形成された伊勢神道や15世紀に形成された吉田神道もこの両部神道(真言神道)を下敷きにしており、ある意味日本における「神道」という宗教を成立させた根本にもなってる存在だと言えます。
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2020-10-05 23:11:02
【神道シリーズ・シーズン2】第6回・伊勢神道⑥東大寺衆徒たちの伊勢神宮参宮(神宮が仏教の一大拠点となる)12世紀に入ると真言宗化した東大寺は、平家による焼き討ちの後の復興事業で活躍した東大寺衆徒の重源(ちょうげん)(浄土宗ながら真言宗の影響強く受ける)による伊勢神宮参宮をひきりにそれまで仏教禁忌であった伊勢神宮参詣(参宮)が急速に盛んになり、神宮側もその動きを歓迎し、既に敬虔な仏教徒なっていた神宮宮司の大中臣氏、外宮禰宜の渡会氏、内宮禰宜の荒木田氏はこぞって神宮のみならず自らの菩提寺にも僧侶たちを招いて大般若経をあげさせていました。
さらに元寇の時代になると朝廷と仏教勢力(主に真言宗)との繋がりは緊密化し、朝廷が元寇調伏のために200人以上の真言僧を伊勢神宮に派遣して調伏祈願までさせるようになります。- 115
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2020-10-12 22:38:02
【神道シリーズ・シーズン2】第7回・両部(真言)神道の理論書(真言付法纂要抄・中臣祓訓解・麗気記など)今回は、両部神道を形成した両部神道の理論書の主なものを紹介したいと思います。
まずは真言宗小野流(三宝院流の系統)の成尊(せいぞん)著作の「真言付法纂要抄(しんごんふほうさんようしょう)」、そして伊勢神宮の仙宮院で生まれた「中臣祓訓解(なかとみはらえのくんげ)」、それから室生山で生まれた御流神道(真言系)の「麗気記(れいきき)」の三つを中心に紹介します。
特に後者2著は後の伊勢神道や吉田神道の形成に絶大な影響を与えて行くことのなります。- 108
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2020-09-07 23:24:02
【神道シリーズ・シーズン2】第3回・伊勢神道③出家得度する禰宜・祭主(宮司)が後を絶たなかった伊勢神宮の時代平安時代になると宮中や貴族の間で密教(主に真言宗)の信仰が盛んになり、その影響は伊勢神宮にまで波及し、伊勢神宮では禰宜(内宮・外宮の祭祀の中心)や祭主(宮司)の大中臣氏ら神職たちがこぞって自ら氏族の菩提寺を創建し、仕事上では神宮で祭祀を行いながらもプライベートでは仏教信仰が中心で出家・得度する人たちが後を絶ちませんでした。
こうした背景の中、宮中および神宮では観音信仰が盛んになり、やがて天照大神=観音菩薩論が出現定着し、さらに神宮の仙宮院から大中臣氏による「中臣祓訓解」、つまり両部神道(真言神道)が誕生することとなります。- 104
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2020-11-16 22:51:02
【神道シリーズ・シーズン2】第12回・伊勢神道の完成(仏教・道教・儒教の思想注入へ)13世紀後半に渡会行忠によって創設された伊勢神道は、真言密教系の両部神道をベースにし、そこから仏教用語を取り去り、道教理論を導入する事により外宮を主とす両宮の存在流を説明しましたが、室町時代の14世紀から15世紀にかけて行忠を継いだ渡会家行は、行忠と違い、堂々と仏教・儒教・道教などの書からの引用を憚らず、それらを伊勢神道理論完成の為に導入して行きました。
中でも梵網経(ぼんみょうきょう)の中で説かれた弟子たちの釈迦に対する忠誠心や浄土真宗(一向宗)開祖の親鸞聖人の「教行信証」に書かれた門徒たちの極楽往生への迷いなき信心からの「正直」な心などに強く感銘を覚え、そこから自らの神道論の中心となる「内清浄」の観念を生み出して行きました。- 103
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2020-09-14 23:18:02
【神道シリーズ・シーズン2】第4回・伊勢神道④和光同塵と百王思想伊勢神道が形成される背景には前回にも説明しましたように、真言系の両部神道(真言神道)が形成される中で真言密教勢力や天台宗(山門派)の山王神道や天台宗(寺門派)の熊野三所権現などが内宮の天照大神との一体論を唱える中、外宮が疎外され、元寇後税制にひっ迫した朝廷の経済的支援が得られなくなった外宮の立て直しが背景にありました。
真言宗や天台宗によって唱えられた「神国思想」(大日如来が天照の姿で降臨した世界唯一の神の国日本)はその外宮の伊勢神道の形成を促していくことになります。- 91
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2020-11-09 22:57:02
【神道シリーズ・シーズン2】第11回・伊勢神道と神道五部書(道教思想に基づく神道偽書)13世紀後半の元寇の後、それまで伊勢神宮両宮に対して最大のスポンサーであった朝廷が財政難になると、アマテラスを祀る内宮は真言や天台などの密教勢力は自らが称える密教系神道説(真言系⇒両部神道・天台系⇒山王神道・熊野権現)でアマテラスと大日如来や山王・熊野権現との一体論を唱えていたので資金面で苦労はなかったものの、そうした援助が得られなかった外宮は存続の危機に立ち、そこれで新たなる神道説の創設により外宮を盛り返そうという動きが出てきました。
そこで新たなる神道説を打ち出したのが外宮禰宜の渡会行忠で、彼は、真言神道である両部神道の理論書「中臣祓訓解」や「老子述懐」などの道教書をベースに伊勢神道の神道説構築に励んだのでした。- 88
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2020-09-28 22:57:02
【神道シリーズ・シーズン2】第5回・伊勢神道⑤伊勢神宮および宮中での観音信仰の広がり11世紀頃から伊勢神宮では宮司の大中臣永瀬の出家・得度をひ切りに歴代の宮司(大中臣氏)、外宮禰宜(渡会氏)、内宮禰宜(荒木田氏)が次々と出家得度するようになりました。
そして彼らの菩提寺のすべて真言宗で十一面観音を本尊とし、当時仏教禁忌だった伊勢神宮で、仏経信仰への願いを断てない神宮の神職たちが「観音菩薩=天照大神」一体論を打ち出すことにより、仏教信仰(真言密教)への接近を図って行きました。
その後12世紀になると宮中でも観音=天照論が出現し、天皇の寝室の隣の二間(ふたま)殿に祀られていた天照大神の形見と言われた神鏡が二間観音と同体であるという説が広がり、宮中でも観音信仰が盛んになりました。
この神宮や宮中の観音信仰はやがて真言密教による両部神道を誕生(12世紀中葉)させるきっかけとなって行きます。- 78
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2021-02-22 23:41:02
【神道シリーズ・シーズン2】第21回・吉川神道(吉田神道陰陽論と朱子学力説のフュージョン)吉田神道吉田家の萩原兼従より吉田神道第54代の道統を継いだ魚屋出身の吉川コレタリは、吉田家出身ではない惟足をよろしく思わない吉田家の反発をよそに神道理論の奥義を深める研鑽を続けたが、時のはやりの朱子学の理気学説に影響を受け、やがて両者を統合するような独自の神道理論を確立し、吉川神道として吉田家とは断絶した。
しかし、独自神道理論とは言え、ベースは伊勢神道や吉田神道のような道教理論に基づく混沌からの万物発生論であり、そこに朱子学理気論を接ぎ木して朱子学的な陰陽五行説で日本書紀の神代巻を解説しようとしたのが吉川神道である。
理気学神道を唱える一方で、伊勢神道、吉田神道の流れで一貫してる心の内清浄、つまり正直な心が神と一体化する道だと説く真言密教さながらの即身成仏論を彷彿させる論理は吉川神道の底辺を流れており、吉川惟足はこの正直な心なるものを陰陽五行説で強引に儒教徳目でもっとも重視される敬に結び付け、さらには真言密教の即身成仏を彷彿させるような神人合一、つまり神と人は敬を通じて一体化するという論理に至った。
吉川神道の目指したところは、最高絶対神である国常立と人は、自然と湧き上がる国常立への至上と言われる感謝と敬の気持ちがこの絶対神の末裔である天皇を敬う気持ちに繋がるのだと結論づけることで、実はこの論理の飛躍が彼の神道論全体に大きな矛盾を生むこととなる。
一方で人は自然と絶対神の末裔たる天皇に敬の気持ちを抱くとしつつ、一方では不徳の天皇は追放されても当然であるという所謂放伐論が共存し、絶対真理たる朱子学の理ともいえる国常立の子孫ながら不徳の者がいるのかはまったく説明されていない。
吉川神道では和歌を声を上げて読むことにより人と神は一体となることができるとしたが、実は後に国学者たちが和歌の研究に力を入れ、そこから純日本を発見しようとした動きはこの頃から端を発していると言われる。
一方吉川神道の天皇放伐論はその後の儒学や国学にも大きな影響を与えることになった。- 74
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2020-12-07 23:10:03
【神道シリーズ・シーズン2】第14回・「神皇正統記」北畠親房(伊勢神道を継ぐ者たち①)渡会家行の後、後継者なく途絶えそうになっていた伊勢神道は、内宮の荒木田氏により救出され引き継がれることとなったものの、その法統も南北朝の戦乱の中、再び途絶えようとしていた時期に、南朝の重臣の北畠親房や天台僧の慈円らによってその流れが引き継がれることになりました。
伊勢神道自体の復興は江戸時代の 度会延佳の時代を待たねばならなかったものの、この南北朝時代に伊勢神道の流れを継いだ北畠親房の「神皇正統記(じんのうしょうとうき)」の中では、道教的な思想が中心であった伊勢神道に儒教(朱子学)的なイデオロギーを注入したのが特徴で、実はこの流れはこの先の吉田神道や江戸時代の儒家神道・水戸国学・復古神道にも強い影響を与えて行くことになります。- 73
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2022-03-03 20:44:02
【神道シリーズ・シーズン3】第6回・リセットされた伊勢神宮(今の伊勢神宮は明治に創られた新伊勢神宮)日本書紀には、アマテラスの身代と言われる八咫鏡が宮中から常世の世界を求めて五十鈴川のほとりの宇治山田に移ったという話や、後の天武天皇たる大海人皇子が壬申の乱で戦争を祈って伊勢の方向に遥拝した話が出てくるが、実際に伊勢神宮の名称が登場するのは11世紀に天台僧・皇円によって書かれた扶桑略記で、古書の中で確認できる伊勢神宮では、神宮の成立は天武天皇の治世の8世紀頃とされ、もともと伊勢の宇治山田の地で伊勢大神たる由化ノ神を氏神としていた渡会氏の地に、出自不詳の荒木田氏がアマテラスを祀る内宮の禰宜として登場し、渡会氏は由化ノ神ならぬ豊受神を祀る外宮の禰宜とされた。
その8世紀以降明治までのおよそ1200年以上の間続いてきた内宮荒木田氏・外宮渡会氏の禰宜や中世以降明治前までずっと続いていた伊勢大麻を配り参詣者たちを募っていた伊勢御師や江戸時代以降盛んになった伊勢講までをも明治新政府は一瞬にして強制的に廃止してしまった。
一方、中世以降、密教との繋がりを通じて発展した内宮や、道教思想に基づいて伊勢神道を形成して神宮の独立性を確立した外宮の存在基盤も新政府による神宮周辺の寺院の全廃や内外宮禰宜の社家・荒木田氏、渡会氏を追放し、伊勢神道の道教的祭祀を全廃し、薩摩など外部から平田国学など国学神道論の影響を受けた部外者たちを権禰宜など神宮運営の中心に据え、新たな祭祀と地方官庁が伊勢大麻を生産して住民に強制的配布をする、など過去の伊勢神宮の歴史を完全否定する新伊勢神宮建設計画が進められた。
やがて伊勢神宮は神宮としての独自性よりも、明治期に新たに作られた宮中祭祀と歩調をとるように新たに作られた明治神道形式で統一され、さらに全国神社も独自祭祀を禁止し、宮中、伊勢神宮、全国神社と共通性する祭祀の構築が新政府によって進められた。
こうした強引で人工的な日本教の建設には、浄土真宗を中心とする仏教勢力や庶民の根強い反対や抵抗によりかなり緩和され、骨抜きにはなって行ったのだが、伊勢神宮や伊勢周辺寺院も含め、失ったり破壊された伝統文化はあまりのも大きかったのである。- 64
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2020-11-30 23:02:02
【神道シリーズ・シーズン2】第13回・内宮により継承される伊勢神道(儒教(朱子学)色強める伊勢神道)伊勢神道の開祖・渡会行忠を継いだ渡会家行の後、外宮では伊勢神道を継ぐ者たちがなく伊勢神道は途絶えようとしていたが、そんな中、伊勢神道書を保管して写書を通じて引き継いでいったのが内宮の禰宜たちであった。
しかし、内宮禰宜の荒木田氏は、伊勢神道の中の外宮を内宮より上とする豊受大神=天御中主神論を省き写書活動を続け、やがて荒木田守晨(もりあさ)の時代になると「守晨引付」という総括書を出し、伊勢神道の中の道教的宇宙観と仏教的観念から引き出した「正直」(内清浄)部分を伊勢神道の核部分として描き出したが、ただ、同時期に伊勢神道の後継者を名乗った北畠親房による「正直」の朱子学的解釈が注入され、伊勢神道は儒教(朱子学)色の強い神道となって行きました。- 50
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