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2024年6月25日 07時11分に生成された05時00分のデータです
2020-12-29 05:32:02
第12回楠公研究会会「葛木神社と国見城跡~金剛山攻防戦の戦跡を辿る~」平成30年7月27日金曜日午後1時半より、奈良県御所市の葛木神社にて開催させて頂きました「第12回楠公研究会・葛木神社と国見城跡~金剛山攻防戦の戦跡を辿る~」の活動記録動画です。
【ameblo】
https://www.nankou-kenkyukai.com/%E6%B4%BB%E5%8B%95%E5%A0%B1%E5%91%8A%EF%BC%93/
当日は葛城宮司様のお心づくしのお心遣いと、多くの皆様のご参加のお陰をもちまして、盛況裡に終える事ができました事、心より厚く御礼申し上げます。
葛木神社での正式参拝に引き続き、楠公研究会会員の伊藤氏より、葛木神社の御祭神とゆかりの深き「イージス艦こんごう」の模型奉納と、葛城宮司様の温かいご厚意にて、模型奉納奉告祭も斎行いただきました。
その後、社殿にて宮司様から、神社のご由緒と大楠公の事跡についてのご講話を賜り、その後、金剛山頂の国見城跡へ移動し、今も遺る千早攻防戦当時の城跡の石垣や井戸、手水鉢等を見学させていただきつつ、国見城の構造を学びました。
また、国見城跡の傍の茶店では、千早城の戦い時から使われている井戸水を使ったコーヒーもご馳走になりました。
一般的には、「千早城をはじめ、金剛山には大楠公当時の遺構は全く残っていない」等と流布されていますが、実際には千早城跡にも石垣は一部残されておりますし、葛木神社には「福石」をはじめとした南北朝当時創建の矢刺神社の祠、国見城には石垣や手水鉢、井戸等多くの遺構が遺されているのです。
こういった事実は、現地に赴き、現地にゆかりの深き方々からお教えいただかなくては判らない事であり、だからこそ、私共楠公研究会が学び続ける意義があるのだと改めて痛感いたしました。
学会等にて定説とされている「大楠公に纏わる遺構はほとんど残っていない」の常識は、意識的に楠木一族の事蹟を幻のものとし、封印、風化させんが為の意図もあるのかもしれません。
しかし、私は、末裔として、先祖の真実が消されていくのを黙認はできない、その一念において、今後も微力ながら、顕彰活動を続けていきたいと思っています。
当日大変丁重なる御教授を賜りました葛城宮司様、そして、遠路も含め各地域からお運びくださいましたご参加者の皆様に、心から感謝でございます。- 153
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2021-10-14 00:39:02
楠木正成、その生涯 ~後醍醐天皇の第1次倒幕運動・正中の変とは〜【小学生にも分かりやすくダイジェスト解説】非常に難しいとされる南北朝時代を、小学生にも分かりやすく解説。
昨今では、教科書でも教えられない時代となったが、この時代を正しく知っておかねば、国家の形を理解する事ができない。
拠って、わずか数年の出来事であるが、我々の先人らの精神性とイデオロギーに大きな影響を与えた、非常に重要な時代である。
今回のお話は、前回の補足として、鎌倉時代が如何なる時代であったか、後鳥羽上皇と後醍醐天皇が何を目指して討幕を志されたのか、そして、後醍醐天皇による第一次鎌倉幕府討幕活動たる「正中の変」をダイジェスト解説している。
特に、無礼講の内容と、日野俊基・資朝のスパイ活動、更に、予期せぬ身内の情報漏洩による討幕計画の露見の経緯に注目。
ちなみに、日野俊基の息女(遺児)は、後に、楠木正成の長男・正行の婚約者となる弁内侍である。
#大楠公 #太平記 #日本史ゾガ氏仙台ひそかに暮らしています、波多野家もひそかに暮らしています。波多野家の石棺 東北大学片平キャンパス敷地内。
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2021-10-17 06:58:02
後醍醐天皇の第2次倒幕運動「元弘の変」【小学生にも分かりやすい南北朝時代のダイジェスト解説】正中の変が未遂のままに発覚し、討幕計画は頓挫したが、その7年後、再び、後醍醐天皇は鎌倉幕府に対して討幕の密議を秘密裡に進めた。
その一つが、醍醐寺座主・文観に施させた「鎌倉幕府調伏の秘儀」なる「立川流」の加持祈祷である。
討幕の為の加持祈祷は、後醍醐天皇皇子・大塔宮護良親王が天台座主を務める比叡山延暦寺でも行われた。
また、前回の討幕計画・正中の変で放免された日野俊基は、修験者に成りすまし、全国を行脚して、天皇の味方になり得る地方武家を勧誘、把握する活動を行った。
しかし、今回もまた、後醍醐天皇の側近である大納言・吉田定房の幕府への密告により、討幕計画が露見。
今回ばかりは見逃せぬとし、前回も首謀者であった天皇の側近・日野資朝、俊基はそれぞれ処刑されてしまう。
この報せを受けて危機を察した後醍醐天皇は、女房装束によって御所を取り巻く幕府方を撹乱し、まんまと御所を脱出し、一路、奈良・東大寺へ向かう。
しかし、東大寺内は朝廷方と幕府方とに分裂、拮抗しており、このまま東大寺で挙兵をすれば再び奈良の都を焦土にしてしまう事を恐れた後醍醐天皇は、東大寺を出て春日大社を経由し、奈良郊外の笠置寺へ入られる。
この笠置の地にて、後醍醐天皇は南の木の御霊夢をご覧になり、大楠公が初めて歴史の表舞台に躍り出る事となる。
世界を苦しみから救う弥勒信仰の聖地の笠置寺を後醍醐帝は皇居とされ、倒幕の綸旨が下された。
世に言う「元弘の変」である。
後醍醐天皇が挙兵の地として奈良の都を避けた事、弥勒信仰の地・笠置を皇居とされた事に、帝の民を思う御叡慮が顕れている。
尚、文観のもとで後醍醐天皇も修行をされたという「立川流」については、教義本全てが邪教として焼かれ現存していないのでその実態は不明であるが、元の経典が「理趣経」であり、尊像が「聖天」であったと推測されており、ここから紐解けば、一切衆生、人類全ての穢れや醜さの全てを救済し解脱するという修法であったと思われ、ここからも後醍醐天皇の建武中興にかけた、全ての人々を安寧に幸せに導くという真の理念が窺われる。
籠城する事、約1ヶ月の9月28日の台風の夜。
僅か50余りの幕府側の白装束を纏った決死隊が、朝廷側の籠城する笠置寺を急襲、寺に火を放ち寺は全焼し陥落。
火は三日三晩燃え続け、巨岩に掘られた弥勒菩薩もこの時の猛火によって消失し、後醍醐天皇は万里小路藤房と2名のみで笠置寺の御所を脱出し、楠木正成が立て籠る下赤坂城を目指して、有王山方面へと御潜幸遊ばされる事となる。
#楠木正成 #太平記 #立川流- 104
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2023-08-16 19:00:00
楠木正成の盟友・結城宗広の治めた白河へ!その壮絶な生涯福島県白河市の関川寺は白河結城家の菩提寺で、結城宗広が開基とされる。
白河結城氏は、下総結城氏の庶流にあたる。
鎌倉時代、結城氏の祖で鎌倉幕府御家人の小山朝光が得た白河荘を、孫にあたる結城裕広に与え、裕広が白河に下向して以来、結城家は白河城を本城としてこの地を治めた。
裕広の子・宗広は、幕府の御家人として、後醍醐天皇の起こした倒幕活動・元弘の変には幕府方で参陣。
朝廷側の楠木正成が籠る千早城攻めにも幕府方として、足利高氏、新田義貞らと共に参陣した。
しかし、千早城が全く落ちる気配が無く、幕府のていたらくを目の当たりにした矢先に、伯耆国の豪族・名和長年の尽力によって、配流先の隠岐島から脱出、名和館の裏手の船上山に行在所を設けた後醍醐天皇が発した幕府倒幕の綸旨を受け、宗広は幕府方から離脱し、朝廷側へ味方する事となる。
同時期に、新田義貞や足利高氏も幕府方から朝廷方へ寝返っており、「千早城未だ陥ちず」の報が鎌倉幕府滅亡の決定打となった。
建武の中興成立後は、楠木正成・名和長年・千種忠顕らと共に建武四天王「三木一草」の1人に数えられ、権勢を誇った(一説に次男の結城親光とも)。
後醍醐天皇から厚い信任を受けて北畠顕家が多賀城に入ると、諸郡奉行に任じられて共に奥州方面の統治を任された。
宗広の長男・親朝は、奥州府の式評定衆として、北畠親房とその子で陸奥守の北畠顕家に尽くした。
征夷大将軍の座を狙う足利尊氏によって後醍醐天皇皇子・大塔宮護良親王が暗殺され、尊氏討伐の綸旨がくだり、朝廷方と足利方との戦いとなる。
箱根・竹ノ下の戦いで新田義貞率いる朝廷軍を破って尊氏が入洛するが、宗広の次男・親光は尊氏を暗殺する目的のもと、偽って足利方に降伏した。
親光へ応対した大友貞載に、「降参人のくせになぜ鎧を脱がない」と詰め寄られ、尊氏暗殺の企てが見破られたと思った親光は、せめて敵将の1人でも討ち取ろうと貞載を斬殺、群がってきた足利兵を手当たり次第に斬り倒したが、足利兵により斬殺された。
親光の死後も宗広は怯む事無く、顕家や正成らと共に軍を率いて足利軍を攻め、京都奪還の大功を挙げた。
九州に逃れた尊氏が再起を果たして東上して来ると、顕家と共にこれと戦ったが、延元3年に顕家が高師直と戦って敗死し、朝廷軍は壊滅。
宗広は命からがら南朝皇居の置かれた吉野へ。
宗広は南朝方再起のために、義良親王(後の後村上天皇)を奉じて伊勢国安濃津(現在の三重県津市・結城神社辺りの港)より北畠親房・伊達行朝・中村経長等と共に海路から奥州へ向かおうとしたが、海上で遭難し、安濃津の港に漂着。
間も無く、老齢での無理が祟ったのか、体調を崩し、その地で病没した。ケバ カワイイ
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2023-10-11 19:20:04
金胎寺から笠置寺に行幸の後醍醐天皇が渡った「祝橋」・休まれた「養生の芝」・女官が産気づいた「産坂」〜京都府和束町〜今回は元弘の変で御所を脱出した後醍醐帝が東大寺・春日大社を経て金胎寺へ遷幸、その後笠置寺へ遷られる際に京都府和束町の知られざる秘境に伝わる逸話を、現地の方から現地取材。
楠公研究会賛助会員で、京都府和束町で「和所美土里屋」オーナーでもある和所氏にご案内頂いた。
金胎寺から笠置寺へ遷幸される際に、村人が祝橋という橋をかけた。
橋の用材として使われた木は和束町内に鎮座する八坂神社のご神木が用いられた。
今回は八坂神社調査の目的もあり、某神社のベテラン神職で、楠公研究会賛助会員でもある伊藤氏も同行。
なぜ、八坂神社の御神木を祝橋の用材としたのか、その知られざる意図を知る事ができた。
また、道中に腹痛を起こされた後醍醐天皇が暫し休息をとられた「養生の芝」へもご案内頂いた。
ここは金胎寺のある鷲峰山山麓の茶畑の真ん中にあり、地元の方の案内無しでは辿り着けない地である。
「養生の芝」は、新たに和束町長となられた馬場正実町長にお教え頂いた後醍醐天皇ゆかりの地である。
地元でしか知り得ぬ貴重な情報をご教示頂いた馬場町長に感謝です。
歴史書では語られぬ南北朝動乱前夜の真実の歴史がここにある。ケバ カワイイ
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2023-07-19 12:00:00
「鎌倉幕府の滅亡」第89回黒田裕樹の歴史講座 1/7この動画は第89回黒田裕樹の歴史講座「室町時代その1 ~南北朝の動乱と義満の野望~」のうち「鎌倉幕府の滅亡」の講演を、令和4(2022)年8月に新たに収録したものです。
動画のレジュメは「黒田裕樹の百万人の歴史講座」から入手できます。ぜひご加入ください。過去からの全てのレジュメを読むことができます。今なら20,000円で永久会員です!
http://1000000reki.jugem.jp/
ブログ「黒田裕樹の歴史講座」
http://rocky96.blog10.fc2.com/
「黒田裕樹の歴史講座」講演申し込みサイト
https://kokuboukai.com/category/history-study-session/kuroda-hiroki/
黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編
https://www.mag2.com/m/0001672748
#黒田裕樹
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#正中の変
#元弘の変
#黒田裕樹の歴史講座- 18
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1970-01-01 09:00:00
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