キーワード厳島神社外宮を含む動画:17件 ページ目を表示
2024年7月20日 07時11分に生成された05時00分のデータです
2018-10-09 11:27:02
【宮島の道を行く】安芸の宮島 寺社参詣 島歩き 2018 再編集版宮島散歩たび 寺社参詣しながら自然の多い散策路を歩きます
9月末と10月8日撮影。
町家通り〜幸神社、光明院〜塔の岡〜干潟〜西の松原 〜滝小路〜大聖院
滝不動、白糸の滝、滝宮〜淡嶋神社〜自然散策路のもみじ道〜四宮神社〜旅館岩惣前〜御笠浜の黄昏
動画部分が揺れが目立ちますがどうもうまくいきません すいません。
人が多すぎて大聖院は仁王門、本堂屋根と摩尼殿だけ写真です。
10月8日宮島大茶会があり幟も立ってますね。午後から出たので飲み損ねました。
最近毎年やってますね
静かな散策派には、あせび道、もみじ歩道はオススメのルートです。
sm33506908 宮島一周の船旅
sm33544265 厳島神社外宮 地御前神社綺麗な所ですね
- 128
- 10.8
- 00.0
- 32.3 YouTubeで検索
2022-08-25 20:00:00
厳島神社境外摂社 外宮社 【地御前神社】 御陵衣祭(馬飛ばし) 広島県廿日市市地御前2022・6・3 廿日市市 厳島神社外宮社 地御前神社祭礼 編集がんばったぉ
厳島神社境外摂社 地御前神社は島の本宮と同時に創建された古社。
厳島本社=島の御前 地御前=地の御前
00:00 地御前〜町家、寺院、御堂、大歳神社
03:36 地御前神社境内色々
04:40 拝殿内〜神事〜厳島神社神官による舞楽
07: 38 境内模様〜流鏑馬(馬は走りません)
09:08 釈迦堂と丈六釈迦坐像
平安末期には十九の神殿や殿舎が並んだと言われます(wiki参照)
最盛期と比べ規模縮小している。
神事〜お祓いを受け後〜舞楽奉納〜流鏑馬(拝殿前〜釈迦堂前)
釈迦如来坐像 丈六佛で坐像だが立てば4.8mになるサイズで作成された大きなもの。
坐像の象高さ2.9m膝張2.3m
広島でも最大級の釈迦如来坐像。
定説=地御前神社の神宮寺のにあった仏像が廃仏毀釈を免れて祀られている。彫刻の様式から製作は室
町時代とも言われる。
地元で詳しい氏子さんに聞いた説=以前 京大の教授が調査。玉眼が用いられていないタイプの仏像でおそらく製作は平安末期ではないか?との説があるようです。
厳島明神社のどこかに(宮島)にあったものを廃仏毀釈から守るため伊予国へ預けた〜後に返され寺子屋だった建物に祀った。- 94
- 22.1
- 44.3
- 11.1 YouTubeで検索
2020-04-15 19:11:03
西国街道(旧山陽道)沿いの 旧村社 新宮神社 広島県廿日市市新宮旧村社 新宮神社 元々は傍の藤掛山にあった桜尾城の支城=藤掛城の鎮守として祀られた御社。しかし藤掛城は陶晴賢に攻め落とされた。後に永禄年間に地元で熊野新宮から祭神を勧請され下平良の鎮守としたと言われている。今でも本地仏の懸け仏が祀られている。
平良(へら)と廿日市南東部の地域は、延喜式内名神大社 速谷神社などがあるエリアで古代山陽道の「へら」駅家があったとされるあたりでもある。
今は住宅街になっており 藤掛山も開発され団地や道路が走る(西広島バイパス〜木材港下りる道路がある)麓の海側も旧国道2号線宮島街道が通る。昔はこの山のため山陽道は海のそばを通れずやや山側を宮内村へ抜けていたらしい。
廿日市天満宮hp記載の縁起によれば江戸時代廿日市天満神(旧天神坊)が廿日市の鎮守とされ新宮社の祭神も勧請し、ここを御旅所としたそうです。今も廿日市天満宮が祭祀を続けているようです。
いつお参りしても綺麗に箒の掃き跡があり 手入れがされ花が植えられ公園のようになっている。いこいの空間的な旧村社である。古木にはしめ縄がされ神木として鎮守の森も守られております。
近くへ行ったので花の頃でもあり参拝しました。初夏の匂いがもうしています。
帰る前に近くの 厳島神社外宮のある地御前の海から宮島を眺め帰りました。- 71
- 00.0
- 00.0
- 00.0 YouTubeで検索
2020-12-16 01:09:03
旧村社 宮内天王社〜快晴の中 今年最後の黄落の大銀杏 (旧・厳島神社兼帯社)2 再訪 2020今年最後の参道大イチョウの紅葉が鮮やかな境内風景。次回参拝したらもう冬の姿でしょう。紅葉が始まって3回行きましたが一番綺麗に撮れた気がします^^
廿日市市宮内は県道30号線が走り県道と御手洗川がぶつかる所の旧道を少し川沿いに遡ると参道入り口がある。ちょうど交番のところを入れば良い(交差点のところには吉賀町の柿木村アンテナショップがある)
1周間くらい前に再度参拝。境内の落ち葉は氏子さんが頑張って掃き集めてきれいになっていた。
元来は広田神社の元鎮座地の麓にあったが、天正年間に海の近くなので津波災害で現在の宮内へ遷座した。元来は祇園社で牛頭天王を習合した神仏混交の社だった。
祭神=素戔鳴命、神武天皇など
明治後は八坂神社と改称したが戦後昭和44年頃 氏子の希望で宮内天王社へ社号を再度改称した。
名称は長い神仏習合時代の牛頭天王の語感を生かしたか神武天皇伝説の絡みからなどと言われる。
江戸時代〜厳島神社兼帯七社の一つだった(祭祀を厳島神社の祀官が行い社殿などの修築も厳島神社が賄った神社)境内にあります社殿修築の寄進者を記載した石碑を見ますと、厳島神社が多くの寄進をしていました。
境内は大木も多くあり村社として守られてきたようです。旧山陽道が近くを通っていた場所でもある。御手洗川沿いあたりは大体山陽道にあたるらしい。
令和二年は梅雨明け前に1回、黄落して都合3回・・計4回目の参拝。
2018年か2017年頃に行った時は、落ち葉がまだ片付けられていない時、行きましてもう境内全て黄金色だったですね。
近くに有機野菜の産直売場があるのでたまにこの辺へ遠征して行きますのでついでに。
厳島神社外宮 地御前神社 sm37384152
上平良にある延喜式内社名神大社 速谷神社 sm35298947- 69
- 00.0
- 11.4
- 00.0 YouTubeで検索
2020-12-25 10:43:02
【真冬の厳島】2 旧官幣中社 厳島神社参拝と冬の境内(大鳥居の扁額展示中) 2020冬リモートで参拝気分をどうぞ。R2年12月紅葉シーズンが終わった頃 参拝。参拝客はいるものの比較的 神社は閑散としている。雲が多い午後の空は変化はあるが光量にやや乏しい、しかも寒い。
大鳥居の修復中で、扁額2枚が展示されている2枚あり 厳島神社こ(れは本社側)伊都岐嶋神社(海側)サムネは 修復中の大鳥居の扁額。
客人神社の祓殿や拝殿、東廻廊の屋根など修理中。初詣準備などが行われていた。初詣に関しては人数制限を設ける予定で来客次第で長い待ち時間が予想される。1月2月中くらいまでの期間にゆっくり初詣に来て欲しいと神社側は希望しているらしい。
三ヶ日は大体は家でゆっくり過ごすのが本来の正月なので今は1日から大型店も空いていたりせわしないですね。1月中に初詣はすればいいのでは?と思います。
大きな神社の摂社(人が少ないしいいところもある)。や近くの感じのいい氏神や鎮守社みたいなところに参拝するのもいいですね。この日は商店街も休みも多く開店休業のような風景でした。
余談
保守系チャンネルで見たんですが原因を作ったC国から帰国した日本人の方、PCRなど検査は一切なしで、電話の自動音声を案内され自動音声で注意だけ聞かされ自宅へなんて適当な入国管理をされているらしい(一部かもしれないが)不審に思いキャスターさんが保守系政治家に言うとエビデンスがないから仕方ないとほざいたらしいです。事実なら危機感のなさ、経済的にやばいお店や失業個々人を保証や支える政策(改革・財政均衡論、緊縮大好き)もない政府だね。最近の引退した亀井静香さんの対談を見ますと爪の垢でも煎じて飲めと思います。
*散策の続き3 清盛神社の入江〜多宝塔への道 sm38041737
ぶ漢発コロナ大流行禍の年(令和2年)梅雨時の地御前神社の様子 sm37384152
対岸の厳島神社外宮 地御前神社 sm33544265- 62
- 00.0
- 00.0
- 00.0 YouTubeで検索
2021-01-25 09:29:02
西国街道沿いの力箭山(Rikiya zan)に鎮座「 草津八幡宮 」と広島湾の島々 広島市西区草津(令和三年1月)令和三年初参拝記録。広島市西区草津 江戸時代は西国街道の間宿(あいのしゅく)で正規の宿場の間にあり休息などに利用された。海辺の街で海運、漁業牡蠣養殖などで栄えた今は沖が埋め立てられ住宅や商工施設が立つ 戦国時代 水軍城「草津城」もあった。
神社の在る山について、神功皇后の三韓征伐の伝説でこの地で軍船を整え 弓矢(箭)の訓練をさせたと伝承され力箭山(りきやさん)と呼ばれる。
草津八幡宮の今の社殿や境内域、自体はそう古いものではない。
昭和六年に山腹を切り開き境内が新造され現在地に遷座され新たに社殿建立されたもの。
古は海の近くにあり再建のたび内陸に移っていったと言う。
高台にあり草津の町〜広島湾や島々などの景観が優れています。時々眺めに行きたくなる場所。
社殿も大変姿が良いし189段の石段も風情がある。
御朱印もいただけます。
宮嶋口や旧市内からチンチン電車で行き 草津駅で降りて散策も楽しいですよ。
草津沖周辺は埋め立てられ近代化されているが、古い街並みや神社仏閣、うだつやコテ絵などのある古民家や蔵なども今だ点在している。歴史散策も楽しい。御幸川の河口あたりに飲食店スーパー専門店などが入るレクトがある。洒落ているので休息などに良い。
蝋梅やひと足ごとの祈りかな
西国街道を進んだ宮内にある 宮内天王社sm37969384
西にある厳島神社外宮 地御前神社 sm37384152
上平良にある延喜式内社名神大社 速谷神社 sm35298947- 58
- 00.0
- 11.7
- 00.0 YouTubeで検索
2020-08-19 20:40:02
<広島の神社巡り>厳島神社外宮社〜地御前神社(JIgozenJiinjya) 令和二年 梅雨時の様子厳島神社外宮社。御祭神、創建も本社と同じ頃という古社。令和二年 再訪。
本土側にあるもう一つの厳島神社です。地の御前=じごぜん。
一般的観光ルート外なので観光で訪れる方はまずいない。地御前神社ひっそりとしています。
南側に国道の車や社殿真後ろは電車の音がしますけどね。
時折散歩や車で立ち寄り参拝の方がいます。歴史はは古いんですよ。秋はイチョウや桜が紅葉します。
神社から線路を渡り小学校前を〜宮内串戸方面へ抜ける道が東へ走りますがこれが昔の参道で寺(浄土真宗西向寺、正行寺など)、墓地、お堂(釈迦堂 大きな金色の釈迦像がある)、町屋がいくらか残る。
近くの海のそばに(フジグランへ抜ける海沿いの小道、広電阿品東電停があるあたり)火立岩(ほたていわ)跡の標識が立つ。毛利水軍がこの辺りに集結して包が浦へ渡航した場所でもあり、管絃祭の御座船が地御前へ入港するまで潮待ちする海でもある。- 52
- 00.0
- 11.9
- 00.0 YouTubeで検索
2021-01-22 14:20:02
【広島県の神社】手作り公園風な境内の 旧村社 新宮神社 (廿日市市新宮)廿日市市新宮にある旧村社「新宮神社」。下平良地区の氏神。戦国時代文安三年(1446年)藤掛山にあった藤掛城の鎮守としてイザナギイザナミ二柱が祀られ、陶晴賢に攻められ城落城後は、紀州熊野新宮の神を勧請し地元下平良にて祭祀が行われてきた。藤掛城主の小方加賀守上野助=厳島神主家の一族で戦国末期に友田興藤と神主家の継承争いをした武将らしい。
境内は、山を背にしており氏子さんによりいつも整っている。手作りwの公園風になっていて古木(樹齢130〜160年)も大事にされています。楽しんで整備されてるのがわかる。
近くへ寄った折に散歩がてらみて歩くのにちょうど良い。
江戸時代廿日市は商業でも栄え正式な宿場街であった場所。
社殿はH9年改築されているらしいです。凝った作りではないですがどっしりしています。境内の雰囲気はいいです。祭祀は西国街道沿いにある廿日市の総氏神とされた廿日市天満宮で行われいる。
現在も社殿に神仏習合時代の「本地仏の掛け仏」が祀られている(廿日市市重要文化財指定)
平良(へら)=廿日市の南東部にある地域。旧平良村。平良はに古代山陽道の駅家があったとされる。
最寄りは広電・廿日市市役所前電停かJR・宮内串戸駅(少し歩く)スーパーアルクなどが入るティナコート裏側で旧山陽道の付近。藤掛山はいまは削られ団地や道路が走る。
藤掛山にある広田神社 sm36972757
西国街道を少し進んだ宮内にある 宮内天王社sm37969384
少し西にある厳島神社外宮 地御前神社 sm37384152
上平良にある延喜式内社名神大社 速谷神社 sm35298947
廿日市総氏神 廿日市天満宮(新宮社も勧請されている)sm38258080- 48
- 00.0
- 12.1
- 00.0 YouTubeで検索
2021-02-17 21:07:02
【早春の雪】 厳島神社 摂社 「地御前神社」(外宮社)境内 雪模様。摂社 地御前神社(定点観測)=厳島神社外宮社 祭神創建も本宮と同じ。この辺では相当な古社。境内は今は小さくなっているが昔は十九余りの殿舎が建っていたそうですね。鳥居も海中にあったらしい。釈迦堂などもあったそうです(釈迦像は線路向こうお落とし神社向かい側に御堂が建てられ釈迦堂といい大きな仏像が残っている普段はしまっているが格子からわずか見える)
境内を電車が行き交う図が面白い気がします。本数が多いのでまあ騒がしいんだが。
用事を済ませ宮島街道を阿品〜地御前と東へと戻っていくと雪が降り出しちょうど地御前神社前を通過中に気になり立ち寄った。寒の戻り相当寒かった・・一時吹雪いたり陽光がさしたり・・変な天気。
境内西側の一つだけある境内社は社名と祭神が不明(確か二位尼とか書いてた気がする?)
前は看板がったはずだが・・むか〜しみたんですけどね 忘れてしまった。厳島神社サイトにも出ていません。一部のブログで客人社と書かれていましたが本殿の右側にある朱塗の三間社が客人宮ですからねぇ。
ついでにググって見たら、はつかいちぶらり(広島西部の細かい歴史に詳しい)というブログでは他に金毘羅社が近くの宅地内に残っている記載がありました。まあ場所柄 参拝できませんね
地味な存在ながら歴史は深いのです^^- 44
- 00.0
- 00.0
- 00.0 YouTubeで検索
2021-02-10 09:14:02
【西国街道 廿日市宿場跡】厳島神主家 桜尾城の鎮守「 廿日市 天満宮 」(旧廿日市の総氏神)(一)はつかいちの天神山 (篠尾山sasao yama)ちょいとだけ山登りです。創建は古く鎌倉時代承久2年(1220年)文官中原親能(大江広元の兄)の一族とも言われるている(毛利などと元は同族らしい)鎌倉幕府・御家人藤原親実が、厳島神主に任命され桜尾城に着任 。wiki参照。
天福三年(1233年)篠尾山に荏柄天神より守護神としてより勧請したものと伝わる。やがて室町期に安芸へ下向して国人領主化していく。 戦国末期郡山合戦ののち大内氏に反旗を翻した 厳島神主家が滅んだ後、次第に社運衰微して慶長五年に広島藩西の商業都市廿日市の氏子により再建されたといい「別当寺天神坊」と号した。その後、町の鎮守として続いてきた。神仏習合なんかわくわくします。
江戸期は、佐方八幡(佐方地区)、新宮社(下平良)をも勧請し広島藩の西の大きな宿場である廿日市の総氏神とされた。
明治以後、別当寺正覚院と天満宮が分離独立された。山上で並んでますけどね。
調べてみて元々桜尾城にあったものを遷座したか? 笹尾山(支城)に初めから社殿があったのか?いくつか微妙に違う説明を読みましたが一度郷土関係の本を探して調べてみないと。
廿日市宿本陣あとの石碑〜参道を上り、山上の社殿前〜展望の休息所南〜東方面の眺めまで。
狭い山頂に社寺のある山腹にあるコンクリートの補強と大楠が印象的な山。
2018年に西国街道筋をぽつぽつ歩いたり散策するようになってからたまに参拝します。なかなかいいです梅とか景色とか巨木とか歴史とかね。
長いのでその2 後半は西方面の展望〜正覚院・千年大楠。
天満宮関連神社
新宮神社(藤掛城主が建立した〜下平良の氏神)sm38156694
西国街道を少し進んだ宮内にある 宮内天王社(宮内上組の氏神)sm37969384
桜尾城支城があった藤掛山の広田神社 sm36972757
少し西にある厳島神社外宮 地御前神社 sm3738415
上平良にある二ノ宮 延喜式内社名神大社 速谷神社 sm35298947- 40
- 00.0
- 12.5
- 00.0 YouTubeで検索
2021-02-12 22:50:02
【西国街道 廿日市宿場跡】厳島神主家 桜尾城の鎮守「 廿日市 天満宮 」(二)旧別当寺正覚院と「巨樹 千年楠 」後半は旧別当寺正覚院と山頂の千年「大楠」など 少しパワスポ編です。*西側の眺め〜鐘楼〜正覚院〜千年楠巨樹〜参道を下る。参道大鳥居近くの今が盛りの蝋梅(2月12日に再度訪れた終わってました)
旧厳島神主家の守護神で、廿日市駅の南側にあり電車からも見える目立つ天神山(篠尾山)
明治後、天満宮と真言宗 正覚院(寺伝では行基開基とも言われ相当古いようです)に分離された。
天神の創建は古く鎌倉時代承久2年(1220年)文官の中原親能(大江広元の兄)の一族中とも言われるている鎌倉幕府・御家人藤原親実が、厳島神主に任命され、桜尾城に着任 天福三年(1233年)笹尾山に荏柄天満宮より守護神として神霊を勧請したものと伝わる。
のち藤原氏は鎌倉末期安芸国へ下向し国人領主化した。
篠尾山は厳島神主家の居城「桜尾城」(三方を海に囲まれていた)の支城の一つであったという。今山は小さくなっていますが・・・。
戦国末期 厳島神主家が滅んだ後も大内氏が祭祀を命じていたらしいですが、大内氏も滅び次第に衰微してしまう。江戸時代の慶安5年町の氏子の寄進がおこなわれ社殿が再興され傍らの神宮寺と共に神仏習合しており「別当寺天神坊」と呼ばれた。のちに新宮神社(下平良)、八幡宮(佐方)も勧請され〜 旧廿日市全域の鎮守・総氏神として続いてきたという。 神社庁、廿日市天神HP縁起参照。
廿日市総氏神 廿日市天満宮(1)(新宮社も勧請されている)sm38258080
新宮神社(藤掛城主が建立した〜下平良の氏神)sm38156694
西国街道を少し進んだ宮内にある 宮内天王社(宮内上組の氏神)sm37969384
桜尾城支城があった藤掛山の広田神社 sm36972757
少し西にある厳島神社外宮 地御前神社 sm3738415
上平良にある二ノ宮 延喜式内社名神大社 速谷神社 sm35298947- 39
- 00.0
- 12.6
- 00.0 YouTubeで検索
2021-09-16 00:03:03
厳島神社外宮「地御前神社」と「地御前本道(ほんみち) 」【前編】(〜西向寺門前まで)西国街道から宮内串戸あたりで西へ分岐した古い道で、宮内〜地御前へ抜ける。地御前=じのごぜんの意で、本宮厳島神社が御前、本土側が地の御前という意味。
地御前神社のところまで続く。昔の地御前神社へ至る参詣の道でもある、生活道として使われた(今も現役)。(サイト〜広島大百科を参照しています)
20年くらい前は古い街並みなど残っていたようだが近代化で多くが失われたがまだ幾らか町家やその風情が残っている。絵を残しておこう。古い道標なども残っていたり、御堂、お寺、神社、大木などいろいろある。
最近参拝に行くと新しくなった家が増えていますね時代です。
余談〜昔、海側の宮島街道が開かれるまでは、西へ行く道は宮内村から四郎峠(今山陽自動車道がそばを走る)を越えて行く(今も迂回路として交通量が多い)旧山陽道(西国街道)しかなかった。
ただ、厳島に参詣し、その後 地御前から旧山陽道のおおの中山へ抜けた話が、室町初期の九州探題=今川了俊の道行ぶり(紀行文)にもあり迂回路も存在したようです。山越えですが。
行程
前編=藤掛橋(御手洗川)~宮内交差点~西国街道~地御前本道へ~御手洗川/御手洗橋~古い道標~地御前コミュニティセンターと道標~観音堂~
後編=西向寺と蓮華松~正行寺~古い町家など多いエリア~(洋画家)小林千古生誕地碑~地御前小学校/大銀杏~大歳神社と釈迦堂~地御前神社境内へ(国道開鑿碑、楠巨樹、地御前神社社殿、皇威輝八紘碑・寺内正毅書、絵馬、鳥居、狛犬など)→sm39369835- 35
- 00.0
- 00.0
- 00.0 YouTubeで検索
2021-09-22 19:04:02
厳島神社外宮「地御前神社」と「地御前本道(ほんみち) 」【まとめ記録編】サムネ=客人宮と大楠。いくつか画像を追加、整理 し直して記録として流れでまとめておく。
西国街道から宮内串戸あたりで西へ分岐した古い道で、宮内〜地御前へ抜ける。地御前=じのごぜんの意で、本宮厳島神社が御前、本土側が地の御前という意味。
行程=藤掛橋、宮内別れ〜宮内串戸・道の始まり〜御手洗川〜新広島四国八十八ヶ所5番智秀山 観音堂〜真宗 西向寺山門〜西向寺参拝(見事な蓮華松)〜正行寺〜釈迦堂、大歳神社や大銀杏〜地御前神社境内と国道開鑿碑。
明治維新後、旧西国街道に替わり交通の利便性の高い新しいみちが求められ開削され。小己斐峠(井口)〜地御前〜大竹へかけて今の海岸沿いの国道2号線が作られた。それまでは海岸沿いの道路はなく宮内から 峠、山越えのある険しいみちであった。
地御前神社のところまで続く。昔の地御前神社へ至る参詣の道でもあり、生活道として使われた(今も現役)
参考資料=地御前コミュニティセンター地御前の史跡、広島大百科、wikiを参照しています)
20年くらい前は古い街並みなど残っていたようです。現在もまだまだ幾らか町家やその風情が残っている。絵を残しておこう。古い道標なども残っていたり、御堂、お寺、神社、大木などいろいろある。
最近参拝に行くと新しくなった家が増えていますね時代です。
余談〜昔、海側の宮島街道が開かれるまでは、西へ行く道は宮内村から四郎峠を越えて行く(今も迂回路として交通量が多い)旧山陽道(西国街道)しかなかった。ただ、厳島に参詣し、その後 地御前から旧山陽道のおおの中山へ抜けた話が、室町初期の九州探題=今川了俊の道行ぶり(紀行文)にもあり迂回路も存在したようです。山越えですが。神社はいいねー
- 29
- 13.4
- 13.4
- 00.0 YouTubeで検索
2022-11-13 20:47:02
桜の頃「 草津八幡宮 」と広島湾と市街地の展望 広島市西区草津(令和4年4月下旬)裏参道から賛否。
令和4年晩春記録。広島市西区草津 江戸時代は西国街道の間宿(あいのしゅく)で正規の宿場の間にあり休息などに利用された。海辺の街で海運、漁業牡蠣養殖などで栄えた今は沖が埋め立てられ住宅や商工施設が立つ 戦国時代 水軍城「草津城」もあった。
神社の在る山について、神功皇后の三韓征伐の伝説でこの地で軍船を整え 弓矢(箭)の訓練をさせたと伝承され力箭山(りきやさん)と呼ばれる。
草津八幡宮の今の社殿や境内域、自体はそう古いものではない。
昭和六年に山腹を切り開き境内が新造され現在地に遷座され新たに社殿建立されたもの。
古は海の近くにあり再建のたび内陸に移っていったと言う。
高台にあり草津の町〜広島湾や島々などの景観が優れています。時々眺めに行きたくなる場所。
社殿も大変姿が良いし189段の石段も風情がある。
御朱印もいただけます。
宮嶋口や旧市内からチンチン電車で行き 草津駅で降りて散策も楽しいですよ。
草津沖周辺は埋め立てられ近代化されているが、古い街並みや神社仏閣、うだつやコテ絵などのある古民家や蔵なども今だ点在している。歴史散策も楽しい。御幸川の河口あたりに飲食店スーパー専門店などが入るレクトがある。洒落ているので休息などに良い。
西国街道を進んだ宮内にある 宮内天王社sm37969384
西にある厳島神社外宮 地御前神社 sm37384152
上平良にある延喜式内社名神大社 速谷神社 sm35298947いいですね~\(^o^)/
- 25
- 416.0
- 416.0
- 14.0 YouTubeで検索
2021-09-22 00:01:03
厳島神社外宮「地御前神社」と「地御前本道(ほんみち) 」【後編】(西向寺〜釈迦堂〜外宮 地御前神社まで)西国街道から宮内串戸あたりで西へ分岐した古い道で、宮内〜地御前へ抜ける。地御前=じのごぜんの意で、本宮厳島神社が御前、本土側が地の御前という意味。
行程=〜西向寺参拝(見事な蓮華松)〜正行寺〜釈迦堂、大歳神社や大銀杏〜地御前神社境内と国道開鑿碑。長くなってしまった・・。
明治維新後、旧西国街道に替わり交通の利便性の高い新しいみちが求められ開削され。小己斐峠(井口)〜地御前〜大竹へかけて今の海岸沿いの国道2号線が作られた。それまでは海岸沿いの道路はなく宮内から 峠、山越えのある険しいみちであった。
地御前神社のところまで続く。昔の地御前神社へ至る参詣の道でもあり、生活道として使われた(今も現役)
参考資料=地御前コミュニティセンター地御前の史跡、広島大百科、wikiを参照しています)
20年くらい前は古い街並みなど残っていたようです。現在もまだまだ幾らか町家やその風情が残っている。絵を残しておこう。古い道標なども残っていたり、御堂、お寺、神社、大木などいろいろある。
最近参拝に行くと新しくなった家が増えていますね時代です。
余談〜昔、海側の宮島街道が開かれるまでは、西へ行く道は宮内村から四郎峠を越えて行く(今も迂回路として交通量が多い)旧山陽道(西国街道)しかなかった。ただ、厳島に参詣し、その後 地御前から旧山陽道のおおの中山へ抜けた話が、室町初期の九州探題=今川了俊の道行ぶり(紀行文)にもあり迂回路も存在したようです。山越えですが。
前編行程=藤掛橋、宮内別れ〜宮内串戸・道の始まり〜御手洗川〜新広島四国八十八ヶ所5番智秀山 観音堂〜真宗 西向寺山門まで。長すぎるのでとりあえずここまでで。- 22
- 00.0
- 14.5
- 14.5 YouTubeで検索
2020-08-25 23:43:02
令和二年 厳島神社管弦祭(一)祭礼当日 外宮社「地御前神社」の様子厳島 管弦祭当日の地御前神社参拝。今年は自粛開催でした。
例年は御座船、広島市江波と呉市阿賀伝馬船がでて賑やかなのですがことは中止。多くの人が1日船で同乗して漕ぐわけですからやむなしということでしょう。
普段は訪れる人も少ないですが厳島神社関連記録として。
この後宮島にわたり管弦祭で例年は御座船が寄港する長浜、大元神社と厳島神社(神事あり)参拝がてら見学しました。
*厳島神社で当日の変更された神事の進行予定は知らなかったんですが、御朱印所で十六時から神事だということで他の参拝客と一緒にまちました。
本宮での神事が終わると神官さんの列が西回廊を出て大元公園前を通り網野浜港へ向かわれました。大鳥居で待ちますと遊漁船を借りて幕を貼り最少人数で(ほぼ神官だけで)御神幸の神事を行なったようです。
大鳥居沖で祝詞と管弦を奏した後は、船は三度周り東に向かいましたので火立岩、地御前〜長浜浜〜大元浦と廻られたと思います。
来年は御座船出るかなあ 伝馬船の木遣唄が聞きたい。
はつかいち 地御前 厳島神社外宮の映像。
令和コロナ禍 夏の記録として- 22
- 00.0
- 00.0
- 00.0 YouTubeで検索
1970-01-01 09:00:00
- 0
- 0nan
- 0nan
- 0nan YouTubeで検索