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2022-09-12 09:10:03
【神道シリーズ・シーズン3】第29回・大本教(その④)出口王仁三郎と出口なおの出会い大正7年1918年、大本教の初代教主出口なおが83歳で生涯を閉じるまで、大本ではなおのお筆先という全文ひらがなで書かれたメッセージノートが大本神諭として信仰の中心になっていたが、なおの死後は出口王仁三郎に実権が移り、さらに入信加入してきた神霊イデオローグの浅野和三郎や谷口正治らによって大本神諭は恣意的に解釈されるようなり、そうした背景の下、「大正10年立替え論」つまり大正10年に日本も世界も滅んでしまうという大予言が行われ、これに釣られて膨大な数の信者が日本全国的に増え、大正10年1921年の第一次大本弾圧事件の間接的原因ともなって行った。
かつて出口なおは、日露戦争の時に、この戦争が世界大戦に発展して世界は一度滅びると予想し、それが外れたために大本は一時崩壊状態になったが、今回の「立替え説」を教団では「二度目の世の立替え」と宣言し、今回もまた大きく予言が外れる事により多くの信者たちが大本を去ることとなった。
同時に、それまでなおの神諭の解釈を巡って王仁三郎と対立していた浅野や谷口や友清歓真らも大本を去り、それぞれ、心霊科学研究会、生長の家、神道天行居と言った各自の神道系カルト教団を形成して行った。
大正10年頃の社会状況は、第一次大戦が終わって3年経って急速に欧州への輸出が激減した為に町に失業者が溢れる一方、大戦以降高まった国民の所得急増に伴う米不足により、労働争議と米騒動が全国各地に広がり、次第に深まる世界情勢の暗雲の中、大本が発表した終末論「二度目の立替え」予言は膨大な数の人々の気持ちを引き付け、教団は急激に規模が膨張し、政府や警察は大本の動向に注目し、きっかけを見つけて弾圧する機会を虎視眈々と窺っていた。
大正10年1921年2月12日の未明、検事総長平沼騏一郎の指示をうけた京都府警察部長藤沼庄平は、予審判事・検事らとともに、武装警官200人を動員して大本をおそった。すなわち綾部・亀岡・京都・八木における20数ヵ所が、不敬罪および新聞紙法違反の容疑で家宅捜査され、筆先の全部と神体の一部が押収され、大阪梅田の大正日日新聞社に出務中の出口王仁三郎、および綾部に在宅していた浅野和三郎・吉田祐定の三幹部が検挙され、だだちに京都監獄未決監に収容された。そして三幹部は、不敬罪および新聞紙法違反の罪名で起訴されたのである。
敬神尊皇愛国を標榜する宗教団体の幹部が、こともあろうに、不敬罪という罪名で逮捕されるという皮肉的で前代未聞の大事件であった。- 221
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2023-03-27 00:58:02
神道シリーズ・シーズン3(思想編)第52回・友清歓真と神道天行居友清歓真は、1888年(明治21年)10月9日、山口県佐波郡佐山で父祐蔵、母むめの次男に生れ、若いころから霊的な方面に興味を抱き、密教、神道などを修行し、度々山籠もりをする生活をしていた。1918年(大正7年)、大本に入信した浅野和三郎を訪ねて綾部に寄ったおり大本に入信し、当初は大本神諭で訴える世の立替え説に共鳴していたいが、次第に関心が霊術の方に移り、大本の機関紙「綾部新聞」の主筆となり、やがて大本の機関誌『神霊界』の編集にも携わるようになった。しかし、次第に友清の社会変革思想は過激化し、大本の中でも浮いた存在となって行き、1919年(大正8年)にはとうとう大本を脱会することとなり、その後、友清は静岡県に移住し、王仁三郎の師で本田親徳の直弟子である長沢雄楯から本田親徳の鎮魂帰神法を学び、これをもとに大本批判の書『乾坤一擲』『事実第一』を著した。
1920年(大正9年)には、静岡県で霊学の実践団体「格神会」を結成し、『鎮魂帰神の極意』および『神仙霊典』を自費出版した。
1921年(大正10年)には山口県防府町(現 防府市)に移住、格神会を「天行居」と改称し、同年、神道霊学の名著とされる『霊学筌蹄』(れいがくせんてい)を著した。
そして、1922年(大正11年)から宮地水位からの霊啓が始まり、地元の高知県図書館で水位の書を読み漁り、宮地水位の「異境忘備録」を自らの思想の中心に添えて行った。
1927年(昭和2年)10月には、自称仙人、自称茶人の堀天龍斎から神道の秘事とされる「太古神法」を授かるが、その中身は本田霊学と水位の異境忘備録の焼き直しであった。
同年11月22日には山口県熊毛郡の石城山上の石城神社で神示「山上の天啓」を拝受して、神道天行居を創設した。
友清は、鎮魂帰神法を続けながら自らの陰謀論を膨らませ、第一次大戦以降、ユダヤのフリーメイソンは世界中の国々を率いて日本に攻めてくると予言し、その時の戦争に備えて日本は霊的に防衛されることが重要と訴え、日本および台湾、朝鮮の聖地に神璽を埋めたり沈めたりして例祭神事を行うべきと主張した。その聖地の中でも特に朝鮮半島の白頭山は最大の聖地とし、友清本人が死後にはこの白頭山に自分の魂を祀ってほしいと信者たちに伝えたほどであった。- 181
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2022-05-16 23:43:02
【神道シリーズ・シーズン3】第14回・平田系神道カルトの系譜(大きな流れ)平田篤胤の流れを汲む平田学派は、幕末から明治にかけて5つの大きな流れを形成して行ったが、それは、後に国家神道を形成する流れとなる祭政分離論の大国隆正のグループと、篤胤が晩年熱中した道教研究と死後の魂との交流というテーマに繋がる本田親徳の鎮魂帰神法と、道教神仙思想を篤胤の神道用語で解釈しなおした神仙神秘思想と、篤胤が存在すると強弁した神代文字を似非研究した竹内巨麿や、国学の日本語研究の流れを汲む平田門人の中村孝道の水茎文字や真澄の鏡から独自の言霊学を形成した大石凝真素美らから成るが、
神仙神秘思想系の川面凡児は、伊勢神宮を始めとする全国神社の滝打ち禊修行などの新祭祀を開発したが、神仙神秘系は次第に影響力を失い、残りの本田霊学と言霊学と神代文字学の三潮流が古神道と自称するようになり、
明治以降の平田系カルトの中心的勢力となって行った。
この三潮流は、本田霊学を中心として、神道カルト理論を形成し、やがて大本教の下に合流していくこととなった。
平田系神道カルトは、教団によって温度差はあるものの、共通していることは、元祖平田篤胤の、地球形成後に世界を作ったのは日本の神であり、日本人は世界を統一して天皇中心の地球にするべきだという超誇大妄想的な選民思想部分である。
しかし、この日本人選民思想部分は、国粋主義的な軍人や政治家たちを惹きつけ、首相閣僚クラスの政治家や陸軍大臣、海軍大臣、陸海軍大将までが信者になったりシンパになったりするほどの影響力を与えた。
この動きは放置すれば右側の立場よりの革命論や政府転覆論、軍掌握論なども生じかねないということで、政府や公安警察は厳重にこうした団体を監視するようになった。
政府公安警察は、彼らが政府見解と異なる神道解釈をしたことが天皇陛下を侮辱してるとし、不敬罪の名目で
逮捕、弾圧を続け、大正10年(1921年)と昭和10年(1935年)には大本教の宗教施設をすべて破壊する、というほどの弾圧をしたが、大本から派生した友清歓真の神道天行居は陸軍の皇道派に多くの信者を持ち、
その青年将校たちが226事件を起こし、日本はまさに狂気の時代へと突入したのである。それくらいの捏造、世界に目をむければいくらでもあるぞ~ うぽつ
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2022-10-02 22:04:02
【神道シリーズ・シーズン3】(思想編)第31回・大本教・第一次大本弾圧事件前夜大正7年1918年、大本教の初代教主出口なおが83歳で生涯を閉じるまで、大本ではなおのお筆先という全文ひらがなで書かれたメッセージノートが大本神諭として信仰の中心になっていたが、なおの死後は出口王仁三郎に実権が移り、さらに入信加入してきた神霊イデオローグの浅野和三郎や谷口正治らによって大本神諭は恣意的に解釈されるようなり、そうした背景の下、「大正10年立替え論」つまり大正10年に日本も世界も滅んでしまうという大予言が行われ、これに釣られて膨大な数の信者が日本全国的に増え、大正10年1921年の第一次大本弾圧事件の間接的原因ともなって行った。
かつて出口なおは、日露戦争の時に、この戦争が世界大戦に発展して世界は一度滅びると予想し、それが外れたために大本は一時崩壊状態になったが、今回の「立替え説」を教団では「二度目の世の立替え」と宣言し、今回もまた大きく予言が外れる事により多くの信者たちが大本を去ることとなった。
同時に、それまでなおの神諭の解釈を巡って王仁三郎と対立していた浅野や谷口や友清歓真らも大本を去り、それぞれ、心霊科学研究会、生長の家、神道天行居と言った各自の神道系カルト教団を形成して行った。
大正10年頃の社会状況は、第一次大戦が終わって3年経って急速に欧州への輸出が激減した為に町に失業者が溢れる一方、大戦以降高まった国民の所得急増に伴う米不足により、労働争議と米騒動が全国各地に広がり、次第に深まる世界情勢の暗雲の中、大本が発表した終末論「二度目の立替え」予言は膨大な数の人々の気持ちを引き付け、教団は急激に規模が膨張し、政府や警察は大本の動向に注目し、きっかけを見つけて弾圧する機会を虎視眈々と窺っていた。
大正10年1921年2月12日の未明、検事総長平沼騏一郎の指示をうけた京都府警察部長藤沼庄平は、予審判事・検事らとともに、武装警官200人を動員して大本をおそった。すなわち綾部・亀岡・京都・八木における20数ヵ所が、不敬罪および新聞紙法違反の容疑で家宅捜査され、筆先の全部と神体の一部が押収され、大阪梅田の大正日日新聞社に出務中の出口王仁三郎、および綾部に在宅していた浅野和三郎・吉田祐定の三幹部が検挙され、だだちに京都監獄未決監に収容された。そして三幹部は、不敬罪および新聞紙法違反の罪名で起訴されたのである。
敬神尊皇愛国を標榜する宗教団体の幹部が、こともあろうに、不敬罪という罪名で逮捕されるという皮肉的で前代未聞の大事件であった。- 71
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2022-05-23 22:57:02
【神道シリーズ・シーズン3(思想編)】第15回・大国隆正と国家神道明治以降、平田篤胤の思想の影響を受けた者たちは、基本的に、人は死後、地球上の周りにある幽界という空間を霊魂となって彷徨い、体は風、火、土、金というエレメントになって循環し、やがてはそれに魂が宿り、人間は再生する、という道教的な死生観と、地球を創生したのは日本の神のイザナギとイザナミであるからして、日本の天皇が全世界の上に総主として君臨すべし、という超誇大妄想的天皇世界総主論だけは引き継ぐという傾向を共有していたが、本田親徳は、平田思想の中でも特に人と神霊とのコミュニケーションに興味を持ち、その研究と実践のほとんどは神霊の人間への憑依を目指すことに向けられた。
死者や動物や神仏の憑依は修験道や民間信仰の間にも古くからあったが、そうした憑依が可能なのは特定の能力を持った者か、あるいは神や仏や死者などから指名された特定の人物に限られていたが、本田は、誰でも一定の術式に従って行えば神霊の人への降臨・憑依は可能であるとした。
本田は、神憑りには36通りの在り方があると言ったが、それを大きく3つに分類して、霊がいきなり憑依する場合、一部の素質のある人が一人で神霊を呼び寄せる場合、そして本田が提唱した審神者と神主を通じて、たとえ能力者や偶然の邂逅でなくても意識的に神霊を呼び寄せ憑依させることが可能な鎮魂帰神法があり、本田は自ら開発したこの鎮魂帰神法を通じ、神の言葉を直接聞くという方法で古事記理解の正誤を確認するという作業を行い、「難古事記」という著作にまとめた。
それによると、人はみな神の子であり、直霊という正しい心の霊を持ち、勇気と調和と愛と探求の心を呼び出す荒魂、和魂、幸魂、奇魂という四つの魂を持っているとし、善を行えばこれらの魂の量は増え、悪を行えば減るとした。
儒教の魂観の擦り直しと見れないこともないが、とにかく、本田の神霊降臨術・鎮魂帰神法は、その後、弟子の
長澤雄盾を通じ、大本教の出口王仁三郎や大本教を経た神道天行居の友清歓真ら多数の平田系神道カルト教祖たちに伝えられ、明治以降、古神道を名乗る平田派神道系カルトの中核的思想となって行った。
本田の鎮魂帰神法を継いだ者たちは、鎮魂帰神法とともに平田篤胤の超誇大妄想とも言える
天皇世界総主論、つまり、地球上の世界を創ったのは日本の神だから天皇が世界を治めるべきだと言う部分を強く受け継いでおり、彼らが本田の鎮魂帰神法による神託を担保とし、彼らはますます狂信的に持論にのめり込み、それは世界恐慌後の社会不安が広がる中、その狂気は国民を戦争の時代へと引き込んでいくこととなったのである。- 70
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