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2021-03-08 22:57:02
【神道シリーズ】第23回・日本陽明学の祖・中江藤樹中江藤樹は、同時代の林羅山、吉川惟足、山崎闇斎らが朱子学の枠内でいかに情を抑え、性即理を実現させるべきかを模索していた時、彼らが論理の探求のみに熱中する中、藤樹は自ら儒教の道徳の原点に立ち、徹底した儒教徳目の実践を通じての性即理の実現を目指したが多くの面でその理想追求は挫折することとなった。
はたから見ると藤樹は「近江聖人」として理想的な儒者のイメージを放つのだが、本人としては理想と現実の矛盾のはざまで悩み苦しみ続けていたのだ。
一切の妥協を拒む藤樹には他の朱子学者たちの行動が偽善的であり、立身出世の為だけに朱子学者の立場を利用するものや、ひたすら読書だけに没頭して現実生活の中で徳目を実践しない朱子学者たちと映り、藤樹は彼らを俗儒と呼んで心底軽蔑した。
しかし、他を批判しようともみずからの自己研鑽実践の中での自己矛盾の問題は解決せず、また自分を取り囲む周囲の社会がまったく変わるわけでもなく、朱子学の理気論による「情を抑えて性即理を目指す」という自己抑制的理論そのものへの限界を感じ始めていた。
どうしたら心は他を敬う気持ち、つまり敬と一体になれるのか?
どうしたら心は性、つまり、自分そのものを敬の気持ちでいっぱいにできるのか?
この問に答えるために藤樹は心学、つまり心の学問というものを唱えだしたが、実際には論理で心の作用をコントロールできるものではなく、結局はタイイツシンという古代儒教の神様への信仰へと逃げ込むことになり、日本の伊勢神宮のアマテラスもタイイツシンの眷属のひとつだと主張するようになった。
しかし、この藤樹の陽明学への踏み込みはその後、朱子学を否定する国学の心の爆発、感情の爆発への道を開くこととなったのである。うわああああああああああ
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2021-02-22 23:41:02
【神道シリーズ・シーズン2】第21回・吉川神道(吉田神道陰陽論と朱子学力説のフュージョン)吉田神道吉田家の萩原兼従より吉田神道第54代の道統を継いだ魚屋出身の吉川コレタリは、吉田家出身ではない惟足をよろしく思わない吉田家の反発をよそに神道理論の奥義を深める研鑽を続けたが、時のはやりの朱子学の理気学説に影響を受け、やがて両者を統合するような独自の神道理論を確立し、吉川神道として吉田家とは断絶した。
しかし、独自神道理論とは言え、ベースは伊勢神道や吉田神道のような道教理論に基づく混沌からの万物発生論であり、そこに朱子学理気論を接ぎ木して朱子学的な陰陽五行説で日本書紀の神代巻を解説しようとしたのが吉川神道である。
理気学神道を唱える一方で、伊勢神道、吉田神道の流れで一貫してる心の内清浄、つまり正直な心が神と一体化する道だと説く真言密教さながらの即身成仏論を彷彿させる論理は吉川神道の底辺を流れており、吉川惟足はこの正直な心なるものを陰陽五行説で強引に儒教徳目でもっとも重視される敬に結び付け、さらには真言密教の即身成仏を彷彿させるような神人合一、つまり神と人は敬を通じて一体化するという論理に至った。
吉川神道の目指したところは、最高絶対神である国常立と人は、自然と湧き上がる国常立への至上と言われる感謝と敬の気持ちがこの絶対神の末裔である天皇を敬う気持ちに繋がるのだと結論づけることで、実はこの論理の飛躍が彼の神道論全体に大きな矛盾を生むこととなる。
一方で人は自然と絶対神の末裔たる天皇に敬の気持ちを抱くとしつつ、一方では不徳の天皇は追放されても当然であるという所謂放伐論が共存し、絶対真理たる朱子学の理ともいえる国常立の子孫ながら不徳の者がいるのかはまったく説明されていない。
吉川神道では和歌を声を上げて読むことにより人と神は一体となることができるとしたが、実は後に国学者たちが和歌の研究に力を入れ、そこから純日本を発見しようとした動きはこの頃から端を発していると言われる。
一方吉川神道の天皇放伐論はその後の儒学や国学にも大きな影響を与えることになった。- 74
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