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2019-05-27 22:43:03
【神道シリーズ】第60回・恐山信仰【前編】仏教(曹洞)仏教(天台)仏教(浄土)で神道無関係の下北信仰恐山と言えば、イメージとしてはイタコとか独特のあの世の世界のような感じが強いですが、実は、曹洞宗・天台宗を中心に浄土宗や真言宗などの仏教各派の習合による仏教だけの信仰によって成り立っており、古事記の神は一切祀られてない、所謂、仏経による仏教の為の仏教信仰の地域だとも言えます。
恐山の開山は、9世紀に当地を訪れたと言われる(実際には天台僧<比叡山系>たちが訪れたのでしょうが)比叡山天台宗3代座主の慈覚太師(円仁)が開闢(かいびゃく)したと下北半島では伝わっています。
慈覚太師は恐山の近くの釜臥山に恐居山金剛念寺という寺を創建し、慈覚太師は「釜臥大明神」として祀られましたが、当寺は戦国時代の戦乱の中で焼き討ちされ廃寺になってしまったのですが、17世紀に恐山を訪れた曹洞宗の僧侶・宏智聚覚(わちじゅかく)が現在のむつ市のあたりに円通寺を創建し、地蔵菩薩信仰を中心に広めて行きますが、同時に廃寺になった恐居山金剛念寺を釜臥山菩提寺として再建し、天台の慈覚太師の恐山開闢伝説を復活させ、以降、今日に至るまで円通寺の地蔵尊信仰と天台の大覚院の釜臥大明神信仰の両立で成り立つようになりました。神道関係ないやんw
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2019-07-08 22:59:02
【神道シリーズ】第66回・八百万の神㉑秋葉大権現【前編】(勝軍地蔵と秋葉三尺坊権現信仰)明治以降さらに発展「秋葉山略縁起」によりますと、行基が秋葉山を開創し、聖観音・十一面観音・勝軍地蔵を掘り、本尊及び脇待として祀ったとありますが、秋葉山信仰の核心部分は、秋葉三尺坊(天狗)で、これは戸隠出身の実在人物だと言われ、信仰対象の中心になったのは14世紀頃(室町時代)と言われています。(「いつから」に関する正確な文書は存在しない)
秋葉信仰は、戸隠・飯縄・高尾山・愛宕とともに形成される「烏天狗修験ネットワーク」の一環として、同型の天狗・勝軍地蔵信仰・火伏せ信仰などの強い共通性があります。
秋葉寺の別当権を巡り曹洞宗の可睡斎と真言宗の当山派修験の確執がありましたたが、秋葉寺別当は可睡斎、秋葉修験は真言宗と棲み分けされたました。
秋葉山信仰の特徴は、明治の初めに秋葉山の秋葉寺が政府によって破壊され、無理やり秋葉神社を創設して、縁もゆかりも無いカグツチノミコトやイザナミを祀ったのですが、民衆による圧倒的な秋葉山大権現信仰の為、僅かその1年後に秋葉山秋葉寺は新設秋葉神社のすぐ隣に復活され、さらに明治以降、それ以前以上に勝軍地蔵と秋葉山三尺坊権現の信仰は高まり、人工的に作った本宮秋葉神社の影は薄くなり今日に至ってます。
徳川家康の時代に秋葉山の別当職を巡って曹洞宗の可睡斎と二諦坊の真言宗(当山派修験)の対立がありましたが、家康の裁定で別当職は可睡斎となり、当山派修験は秋葉の祭祀(火祭りなど)を協力して主催する立場となりました。
現在別当職は無くなりましたが、今でも秋葉山の大祭(火祭りなど)は、この可睡斎(曹洞宗)と当山派修験(真言系)が中心となって行われています。川連凡児でしょ
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2019-07-01 23:06:02
【神道シリーズ】第65回・八百万の神⑳愛宕信仰【後編】(柱松・松上げ・松明)信仰の中心は今も地蔵菩薩尊明治政府は、愛宕信仰の中心であった愛宕山別当の白雲寺を破壊し、そこに新たに愛宕神社を新設し、幕末頃より火伏せ繋がりで仏教の三宝荒神が愛宕大権現と習合したところから、国学者たちが三宝荒神を火繋がりでカグツチに比定していたことから、祭神をカグツチとその母(??)である伊弉冉、および、愛宕山にはまったく縁もゆかりも無い古事記の神を三神祀り、古くから地蔵信仰を中心とした愛宕大権現信仰を否定しようとしましたが、しかし、地域に深く根付いていた愛宕山信仰は地蔵信仰と火伏せ信仰を中心としており、明治以降も祭祀は破壊を免れた月輪寺(天台宗)や清凉寺(浄土宗)や神護寺(旧・神願寺>真言宗)、金蔵寺(真言宗)などによって引き継がれ、第二信仰圏ともいえる丹波・丹後・若狭・但馬にまで広がり、そうした地域では今でも寺院を中心とした修験行事である松上げ(松明投げ祭)や験競らべなどが行われている。
美しいね うぽつ
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2022-04-14 22:42:03
【神道シリーズ・シーズン3】第11回・奈良・京都における廃仏毀釈(伝統文化破壊と否定)明治を迎えてから1200年以上の伝統を抱えてきた奈良・京都も激しい廃仏毀釈の影響を受けることになり、興福寺の広大な寺領の中で神の使いとして大切に飼われてきた鹿が殺され、すき焼きの肉にされたり、京都でも盆踊り、送り火、地蔵祭を始め、門松、端午の節句、七夕までをも禁止されるという、およそ京都の歴史や文化そのものまでも全否定するような極端な廃仏政策が強行された。
奈良では、藤原鎌足の菩提として、和銅3年(710年)の平城京遷都とともにほぼ同時期に建立された氏神社・春日大社と氏寺・興福寺は、明治前まで一体となって繁栄してきたが、慶応3年(1868年)の神仏混交禁止令により、両者を完全分離し、春日大社内の仏像・仏具を興福寺に移したのみならず、奈良県庁は興福寺の廃寺化を目指し、日吉社での暴力的な廃仏毀釈の知らせに恐れおののいていた興福寺の僧侶たちを還俗させ、寺から追い出し、無住にした後、県庁は、無住を理由に興福寺を廃寺とした。
廃仏毀釈のほとぼりが冷めたら再び出家して興福寺に戻りたいと願っていた還俗僧侶たちの希望を打ち砕くように、興福寺の仏像・仏具・堂宇などは悉く破壊され、シンボルであった五重塔さえ売却破却の危機に晒された。
一方、700年以上の歴史を持つ名刹で巨大寺院の真言宗・内山永久寺は、完全に破壊され、境内にあった布留大権現を祀る布留社が石上神宮にされ、一瞬にして歴史ある巨大寺院は消滅し、境内の一部が神社にされるという運命を辿ることとなった。
しかし、興福寺や内山永久寺での廃仏毀釈は、多くの国宝級の宝物が失われることとなり、破壊棄却のみならず、かろうじて難を逃れた仏像や宝物も国内のみならず、英国のロンドン美術館やアメリカのニューヨーク美術館などにただ同然で明け渡され、国内に残った堂塔、堂宇、仏像なども一部の収集家の手に渡り、やがて各地の美術館に保存されることとなった。
また、摂津国阿威山で没した藤原鎌足の遺骨が、鎌足の息子で、不比等の兄であった僧侶の定慧によって移された大和国の多武峰に建てられた妙楽寺は、その後、天台宗の寺院となったが、この1100年以上の歴史がある名刹寺院も
明治期に廃され、僧侶は還俗させられ、そのまま神職とされ、寺は仏像・仏具は廃棄されたものの、その建築物の立派さから破壊は免れ、寺院の建物はそのまま新設神社・談山神社とされてしまった。
この、古事記・日本書紀の神々にまったく無関係の妙楽寺は、明治政府によって一瞬にして神社にされてしまったのだ。
明治期には、こうした名刹の寺院が次々と廃寺になり、それが神社にされてしまうというパターンが続いたのだが、特に奈良では名刹中の名刹と言われる巨大寺院が破却されて神社にされてしまうところが多かった。- 58
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2022-04-14 22:08:03
【神道シリーズ・シーズン3】第10回・伯耆大山・竹生島・金毘羅の廃仏毀釈鳥取県の伯耆大山では、奈良時代から一貫して続いていた地蔵菩薩信仰が鳥取藩の神社取締役の国学者役人である小谷古陰によって伯耆大山信仰の中心であった大山寺が廃寺にされ、そこに大山はもともと大山祇命の信仰の地であったが出羽の衆徒らが乗り込んできて地蔵信仰を大山祇命と習合させたのだ、という歴史的にありもしなかったストーリーを捏造し、大山寺は廃寺改装され、
新設の大神山神社の一部とされてしまった。
そしてやがて、そこに平田国学派の役人たちが祭神を大国主神に変更するよう建白書を出し、それが通ってしまい、地蔵菩薩信仰の中心地大山寺は大国主を祀る神社となってしまったのである。
琵琶湖に浮かぶ小島、竹生島は、聖武天皇の時代に行基を派遣して仏教の神・弁財天を祀るように命じたことに始まり、その時に創建された宝厳寺が竹生島弁財天大権現を祀り、竹生島弁天信仰の中心となってきた。
しかし、明治政府は、琵琶湖を管理する大津県庁を通じて、強引に宝厳寺を延喜式神名帳にある都久夫須麻神社であると主張し、宝厳寺を廃して神社へ改変してしまった。
宝厳寺側は抗弁したものの受け入れず、朝廷の命令であることを強調して、背けば朝敵になり成敗されると脅迫されて強行した。
金毘羅信仰は、16世紀頃から讃岐の地で真言宗の松尾寺がヒンズー教の水神クンビーラを十一面観音を本尊とする金毘羅権現として祀ったことに始まり、
明治前まで金毘羅信仰は盛んで、全国から金毘羅講の参詣客が訪れ、讃岐の地は「こんぴらさん」で親しまれるようになっていた。
しかし、新政府から派遣された平田派国学者の役人たちは、平田篤胤の著書「玉襷」の総論追加から引用した、琴平はかつて大国主神の別宮であった、という創作話を根拠に、松尾寺を廃し、そこを大国主を祀る神社にするように命令し、松尾寺最後の住職・宥常は、最初は抵抗したものの、結局松尾寺の神社化を受け入れ、松尾寺を改変して金刀比羅神社とし、自ら還俗してその神社の初代宮司となり、仏像仏具を廃棄し、神道化を進めた。
しかし、宥常は、松尾寺にあった本尊の十一面観音像だけはかたくなに死守し、後に旧松尾寺の院の一つだった普門院が新松尾寺となると、この十一面観音像を巡り所属訴訟まで起こることとなった。
かくして、伯耆大山、竹生島、讃岐と、すべてが明治前までお寺であったところが神社にされ、由緒社伝まで捏造されていったのである。- 29
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1970-01-01 09:00:00
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