キーワード大般若経を含む動画:16件 ページ目を表示
2024年6月24日 07時12分に生成された05時00分のデータです
2023-10-29 22:13:04
【古代中国】【ドラゴンボールの原点】ボイチェビ世界史 第16回 唐王朝の発展と三蔵法師の旅 ~本当の仏教を求めて~日テレ系「まんが日本史」をオマージュし、
学習漫画「世界の歴史」を教科書とした
ボイチェビ世界史 第16回は、
古代中国の、唐王朝 および周辺各国です。
「歴史学者・ことりさん」が、
no.7(voicevox)の声でご案内いたします。
※登場人物にも声を用意します。
注意点
・セリフは、その一部は教科書など参考文献から
引用させていただくことがあります。
・演出のために、舞台の時代にそぐわない画像や
音楽を使う場合がございます。
・セリフ発声はすべて合成音声
・BGMは、他者作成のBGMや音楽を借ります。
・若干の表記ゆれはご容赦ください。
・親作品は動画最後のスタッフロール画面に掲載します。
みどころ
1:50 貞観の治をもたらした、李世民が即位
https://www.nicovideo.jp/watch/sm42955614?from=110
7:43 玄奘、ナーランダー僧院に到着
https://www.nicovideo.jp/watch/sm42955614?from=463
12:04 則天武后、唐王朝の権力を握る
https://www.nicovideo.jp/watch/sm42955614?from=724
13:43 玄奘、大般若経を梵字から漢語へ翻訳完了
https://www.nicovideo.jp/watch/sm42955614?from=823現地住民でもこんなルート使わねえよアホ!というレベルの難路 wwwwwwwwww 絶対にことりさん関係だと思ったww ww 面白かったねー! 立派やなあ 粋スギィ! すごいな・・・ ドラゴンロード 一般市民六花ほんとすきw ↑元ネタの「まんが日本史」...
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2015-04-15 10:34:13
【鎌倉仏教シリーズ】第九回・中国仏教史と日本への影響について12世紀頃までにインドで確立した般若経群、浄土三部経、法華経は密教以外の大乗仏教の中核的経典となりましたが、中国では、1世紀(後漢)の仏教公伝以降、2世紀にペルシャのパルチア国から安世高が小乗経典を中国に伝えた後、5世紀初頭にウィグルの鳩摩羅什がこの三大大乗経典を伝え、さらに7世紀初頭には玄奘三蔵が唐の初頭に西域を経てインドに渡り、大般若経群や倶舎論(小乗戒律)経典などを中国に伝え、多くの経典を翻訳した後、本格的に大乗仏教が中国に浸透し始めます。それがどのような中国仏教を形成し、日本へ影響を与えたかを説明します。
期待
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2015-04-15 12:03:21
【鎌倉仏教シリーズ】第九回・中国仏教史と日本への影響について22世紀頃までにインドで確立した般若経群、浄土三部経、法華経は密教以外の大乗仏教の中核的経典となりましたが、中国では、1世紀(後漢)の仏教公伝以降、2世紀にペルシャのパルチア国から安世高が小乗経典を中国に伝えた後、5世紀初頭にウィグルの鳩摩羅什がこの三大大乗経典を伝え、さらに7世紀初頭には玄奘三蔵が唐の初頭に西域を経てインドに渡り、大般若経群や倶舎論(小乗戒律)経典などを中国に伝え、多くの経典を翻訳した後、本格的に大乗仏教が中国に浸透し始めます。それがどのような中国仏教を形成し、日本へ影響を与えたかを説明します。
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2011-11-15 21:11:24
領土に関する特命委員会(2011.11.15)11月15日、党本部で開かれた領土に関する特命委員会の模様をお届けします。【議事】(1)竹島でのコンサート開催について(2)肥前鳥島の取扱い及び中国人船長釈放の経緯について
888888888888 この方は初めて見る そこ大事ですね しばわんこー おいおい いい...
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2015-04-15 14:56:32
【鎌倉仏教シリーズ】第九回・中国仏教史と日本への影響について42世紀頃までにインドで確立した般若経群、浄土三部経、法華経は密教以外の大乗仏教の中核的経典となりましたが、中国では、1世紀(後漢)の仏教公伝以降、2世紀にペルシャのパルチア国から安世高が小乗経典を中国に伝えた後、5世紀初頭にウィグルの鳩摩羅什がこの三大大乗経典を伝え、さらに7世紀初頭には玄奘三蔵が唐の初頭に西域を経てインドに渡り、大般若経群や倶舎論(小乗戒律)経典などを中国に伝え、多くの経典を翻訳した後、本格的に大乗仏教が中国に浸透し始めます。それがどのような中国仏教を形成し、日本へ影響を与えたかを説明します。
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2015-04-15 14:02:17
【鎌倉仏教シリーズ】第九回・中国仏教史と日本への影響について32世紀頃までにインドで確立した般若経群、浄土三部経、法華経は密教以外の大乗仏教の中核的経典となりましたが、中国では、1世紀(後漢)の仏教公伝以降、2世紀にペルシャのパルチア国から安世高が小乗経典を中国に伝えた後、5世紀初頭にウィグルの鳩摩羅什がこの三大大乗経典を伝え、さらに7世紀初頭には玄奘三蔵が唐の初頭に西域を経てインドに渡り、大般若経群や倶舎論(小乗戒律)経典などを中国に伝え、多くの経典を翻訳した後、本格的に大乗仏教が中国に浸透し始めます。それがどのような中国仏教を形成し、日本へ影響を与えたかを説明します。
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2021-04-14 18:03:02
令和3年4月10日遍照寺副住職「金花山宝泉寺」へ花見にゆく広沢山遍照寺副住職が京都支所仲間のよしみで京北の「金花山宝泉寺」さんへ花見に参らせて頂きました。
動画内で法泉寺さんの案内をしておりますが「ぶんかくしょうにん」は間違いで「もんがくしょうにん」が正しいです。
この場にて訂正させて頂きます。
以下、法泉寺さんの案内全文を記載しておきます。
金花山宝泉寺の歴史は古く、平安末期の傑僧文覚上人(1139)に依る開創と伝承されています。当時、弘法大師が真言密教の根本道場とされた古刹神護寺(京都市高雄)は、荒廃の極みにあって「人法共に断絶堂屋ことごとく破滅」と云う状況となっていました。
文覚上人は直ちに神護寺の再興を発願され勧進僧として歩みますがその道、非常に厳しく、都度三度に亘る流罪に処せられます。しかし後白河上皇や源頼朝の助縁を得て神護寺の再興にその半生をかけ成し遂げられたのであります。
この当時、再建された山内に宝泉院と称する塔頭寺院がありましたが、この寺院こそ後日、文覚上人による当山創建の伝承の源となったお寺であります。
南北朝時代の延文元年(1356)心蓮上人はこの塔頭寺院であった宝泉院を下熊田村に移し、十一面観音を秘仏の本尊として寺号を宝泉寺と改め開山されました。以来、宝泉寺が病気平癒に格別の霊験のあるお寺として、人々の信仰を集めております。
永い歴史を有する当山は、平安時代~鎌倉時代の古写大般若経を始め、甚だ珍重すべき什物など優品が保管されています。
毎年7月の土用の日は宝物の虫干しと大般若経祈祷会が行われています。当山は、四季折々の風光に恵まれて信仰と癒しの場として親しまれており、特に4月の桜は見事で天を突く巨大な「京紅しだれ桜」は圧巻です。 宝泉寺は、真言宗総本山仁和寺の末寺として年中行事や教化活動を通じて地域に広く貢献しています。
金花山宝泉寺概略
宗旨:古義真言宗 御室派
総本山:御室 仁和寺(世界遺産)
本尊:十一面観世音菩薩
開基:延久元年(1069年)初代開基第1世 心蓮上人神仏の皆様ですな。 今の桜のアングル素晴らしいですね! 急に流罪ww なるべく無事故で 弘法様? 行きたいねぇ わかるw 足元注意! ゲリラ読経 丁 チーン 回向文 南無大師遍照金剛
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2019-07-29 23:04:02
【神道シリーズ】第68回・八百万の神㉓石鎚山信仰【前編】法螺貝と大般若経と念仏は今でも健在!!石鎚山は、8世紀に役小角が開山し、その弟子・芳元が中国の天台山から勧請したと言われる熊野権現をこの地に祀り、それが「石鎚山蔵王大権現」となり、それが今も昔も一貫した信仰対象となりました。
石鎚山信仰は、その同じ8世紀に寂仙(石仙)という修行僧が信仰の基礎を築き、大峯山(吉野)で峰修行した天台宗(比叡山)の高僧・光定は、最澄から天台座主のオファーを断り、(9世紀に)寂仙を師と仰ぎ、石鎚山で山岳修行を行い、やがて石鎚信仰の両輪の一つとなる横峯寺を創建しました。
9世紀になると真言宗御室派(古義真言宗・京都仁和寺が本山)が同地に進出し、前神寺を創建し、さらに横峯寺にまで進出します。
石鎚信仰は、両寺を中心に、多くの先達を率いた石鎚講を形成し、その組織が強大過ぎたために、明治期の神仏分離令も政府の思うように行かず、石鎚神社を新設するまでに35年もかかり、それも石鎚山真言宗系の石鎚本教により運営され、そのまま今日に至ってる。
今日でも石鎚山の山開きでは法螺貝の音とともに大般若経や念仏が唱えられる石鎚神社の石鎚講で信仰が支えられている。車で土小屋まで登れますから 鎖場は迂回できるからな 土小屋から登る手もある 修験道だから仏教だからどう見てもw 雨や霧が多いんだよねえここ 石鎚登ったことあるけど相当大変だわ 霊山がご神体であり、中宮成就社が古来よりございます。 「伝統的神仏習合が強...
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2023-04-16 14:42:02
令和5年4月16日遍照寺副住職、金花山宝泉寺開催の「癒やしの歌声コンサート」を見にゆく広沢山遍照寺副住職が京都支所仲間のよしみで京北の「金花山宝泉寺」さん開催の
「癒やしの歌声コンサート」に参らせて頂きました。
「花宝苑 癒やしの歌声コンサート」
歌:Misera 千代道子
http://sinoyemusic.com/blog
音響:森崇
〈曲目〉
・越天楽・春
・蘇州夜曲
・蓮音
・いつも何度でも
・花は咲く
・人生の扉
・歓びを広げよう
・光明真言~光のうた
・ふるさと
以下、宝泉寺概略
金花山宝泉寺の歴史は古く、平安末期の傑僧文覚上人(1139)に依る開創と伝承されています。当時、弘法大師が真言密教の根本道場とされた古刹神護寺(京都市高雄)は、荒廃の極みにあって「人法共に断絶堂屋ことごとく破滅」と云う状況となっていました。
文覚上人は直ちに神護寺の再興を発願され勧進僧として歩みますがその道、非常に厳しく、都度三度に亘る流罪に処せられます。しかし後白河上皇や源頼朝の助縁を得て神護寺の再興にその半生をかけ成し遂げられたのであります。
この当時、再建された山内に宝泉院と称する塔頭寺院がありましたが、この寺院こそ後日、文覚上人による当山創建の伝承の源となったお寺であります。
南北朝時代の延文元年(1356)心蓮上人はこの塔頭寺院であった宝泉院を下熊田村に移し、十一面観音を秘仏の本尊として寺号を宝泉寺と改め開山されました。以来、宝泉寺が病気平癒に格別の霊験のあるお寺として、人々の信仰を集めております。
永い歴史を有する当山は、平安時代~鎌倉時代の古写大般若経を始め、甚だ珍重すべき什物など優品が保管されています。
毎年7月の土用の日は宝物の虫干しと大般若経祈祷会が行われています。当山は、四季折々の風光に恵まれて信仰と癒しの場として親しまれており、特に4月の桜は見事で天を突く巨大な「京紅しだれ桜」は圧巻です。 宝泉寺は、真言宗総本山仁和寺の末寺として年中行事や教化活動を通じて地域に広く貢献しています。
金花山宝泉寺概略
宗旨:古義真言宗 御室派
総本山:御室 仁和寺(世界遺産)
本尊:十一面観世音菩薩
開基:延久元年(1069年)初代開基第1世 心蓮上人おんまかきゃろにかそわか おんまかきゃろにかそわか おんまかきゃろにかそわか おんまかきゃろにかそわか おんまかきゃろにかそわか おんまかきゃろにかそわか うぽつです うぽつ
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2019-08-05 22:36:04
【神道シリーズ】第64回・八百万の神㉔石鎚山信仰【後編】神社から大般若経と護摩と法螺貝が前回も説明しましたように、石鎚山信仰は明治の廃仏毀釈や神仏分離および山岳信仰の神社神道(国家神道)化に失敗した典型的な例と言えます。
石鎚山信仰の中心であった前神寺や横峯寺を廃して、石鎚山に「石鎚神社」を作るのに明治維新以降35年もかかり、やっと両寺を廃して石鎚神社を作ったにもかかわらず、1年もしないうちに前神寺と横峯寺は復活し、根強い石鎚講の組織を背景に、両寺を支配していた真言宗御室派は、新たに石鎚山真言宗という真言宗派を結成し、「石鎚山本教」という教団を作り、それがそのまま新設の石鎚神社を支配することとなり、その結果、表向きは古事記の神の石鎚比古を祀るものの、実は信仰の対象は従来通り石鎚山権現であり、今でも神社内で護摩を焚き、大般若教や光明真言を唱え、信者たちは「ナンマイダーボ(南無阿弥陀仏)」と念仏を唱え、旧来の信仰形態を維持しています。全くそうだと思います 山地の最高峰中国地方より高いんですよね はい ふもふむ 後編お待ちしてました。 これは貴重な映像
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2020-10-05 23:11:02
【神道シリーズ・シーズン2】第6回・伊勢神道⑥東大寺衆徒たちの伊勢神宮参宮(神宮が仏教の一大拠点となる)12世紀に入ると真言宗化した東大寺は、平家による焼き討ちの後の復興事業で活躍した東大寺衆徒の重源(ちょうげん)(浄土宗ながら真言宗の影響強く受ける)による伊勢神宮参宮をひきりにそれまで仏教禁忌であった伊勢神宮参詣(参宮)が急速に盛んになり、神宮側もその動きを歓迎し、既に敬虔な仏教徒なっていた神宮宮司の大中臣氏、外宮禰宜の渡会氏、内宮禰宜の荒木田氏はこぞって神宮のみならず自らの菩提寺にも僧侶たちを招いて大般若経をあげさせていました。
さらに元寇の時代になると朝廷と仏教勢力(主に真言宗)との繋がりは緊密化し、朝廷が元寇調伏のために200人以上の真言僧を伊勢神宮に派遣して調伏祈願までさせるようになります。- 115
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2019-11-18 22:53:02
【神道シリーズ】第74回・八百万の神㉔岩木山三所権現(天台と真言の確執の中で発展した岩木山信仰)青森県津軽地方の「津軽富士」と呼ばれる岩木山(いわきさん)の特徴は、他の山岳信仰でほぼ例外なく伝わる「役小角による開山説」の伝承が無いことで、代わりに薬師如来の垂迹とされた大元尊(大己貴神)による開山が伝えられ、以後、岩木山と両隣の岩鬼山(がんきさん)と鳥海山(ちょうかいさん)が、それぞれ十一面観音の垂迹の多都比姫(宗像三女神)、阿弥陀如来の垂迹とされる国常立尊で構成される「岩木山三所大権現」が信仰の中心となってきました。
この岩木山三所権現は、天台宗の聖護院が自ら形成した熊野三所権現や白山三所権現と同じパターンで、さらに天台宗比叡山の山王三聖の中心の大己貴神=釈迦如来の化身を本地仏を薬師如来に変えて持ち込み、これも白山三所権現や英彦山三所権現(いずれも天台系)と同じパターンで、「大己貴神(釈迦か薬師か阿弥陀の化身)が地元の竜女神と結婚した」パターンが採られています。
こうしても見ても、岩木山信仰のほとんどは天台両派(比叡山と聖護院)によって形成されたと言っても過言ではありません。
岩木山信仰は①岩木山三所権現を中心に、室町時代から江戸時代にかけて、②坂上田村麻呂=毘沙門天(多聞天=北斗七星=妙見)信仰③深沙(じんじゃ)大権現<大般若経守護神の一つ>の猿賀(岩木山の麓)④安寿姫と厨子王丸(仏教の説教話「さんせう太夫」の登場人物)から来る安寿姫=岩城大権現信仰の4つの柱からなっていますが、いずれも天台宗の影響が大きいのが窺われます。
明治の神仏分離令で、信仰の中心の百沢寺(ひゃくたいじ)は政府により強制的に神社に改編され(岩木山神社)、多くの僧房は破壊されましたが、今でも上記の四要素は昔と変わらず、山伏が中心となる祭祀が行われています。- 91
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2023-12-11 20:00:00
楠木正勝が最初に開いた寺院「耕雲寺」〜新潟県村上市〜耕雲寺は応永元(1394)年に傑堂能勝禅師が開かれた寺で、傑堂の師の梅山聞本禅師を開祖としています。
能勝は楠正成の孫にあたるといい、正平(1355)10年に楠正儀の次男に生まれ名は正能と伝えられている。
別伝では、傑堂能勝は、康暦元(1379)年には既に仏門に入っており、楠木正勝が能勝であるとも伝わっている。楠木正勝は南北朝時代の武将。正能とも。楠木正成の子楠木正儀の子。北朝、室町幕府に徹底抗戦したが、戦に出て流れ矢を膝にうけ、それがもとで歩行が困難となり、25歳のとき高瀬大雄寺に入って出家、のち越前滝沢寺の梅山聞本のもとで修行を積んだという。
傑堂能勝は応永34(1427)年8月7日に73歳で耕雲寺で亡くなりましたが、その間に寺を離れたことがなく、宗門の学問に打ちこまれ、立派な弟子を数多く育てた。
耕雲寺は越後の曹洞四ヶ道場の筆頭に挙げられ、末寺が80、孫寺以下を合わせると800にも及ぶという名刹です。江戸時代は10万石の大名と同じ格式をもち、代々村上藩主から150石の寺領が寄進されていました。
明治19年12月16日に火災のため全伽藍を焼失、僅かに残った鐘楼が今は山門として往時の名残を残しています。この建物は元禄15(1702)年の建立で、市内では羽黒神社の神明宮に次ぐ古い建物で、平成17(2005)年に村上市指定有形文化財に指定されている。
本尊は釈迦三尊仏で、寺宝として傑堂能勝所持の大般若経1巻などがある。耕雲寺の寺紋は「菊水」である。- 47
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2023-06-08 21:55:03
令和5年6月4日遍照寺副住職、金花山宝泉寺開催の花宝苑開園記念コンサート「おてらJAZZ」を見にゆく広沢山遍照寺副住職が京都支所仲間のよしみで京北の「金花山宝泉寺」さん開催の
花宝苑開園記念コンサート「おてらJAZZ」に参らせて頂きました。
「花宝苑 癒やしの歌声コンサート」
トランペット/ボーカル:五屋聡
ピアノ:内藤直樹
ベースギター:渡辺春雄
①Fly me to the moon
②But not for me
③Danny Boy
④Alone together
⑤Old folks
⑥I cant give you anything but love
⑦花は咲く
⑧On the sunny side of the street
以下、宝泉寺概略
金花山宝泉寺の歴史は古く、平安末期の傑僧文覚上人(1139)に依る開創と伝承されています。当時、弘法大師が真言密教の根本道場とされた古刹神護寺(京都市高雄)は、荒廃の極みにあって「人法共に断絶堂屋ことごとく破滅」と云う状況となっていました。
文覚上人は直ちに神護寺の再興を発願され勧進僧として歩みますがその道、非常に厳しく、都度三度に亘る流罪に処せられます。しかし後白河上皇や源頼朝の助縁を得て神護寺の再興にその半生をかけ成し遂げられたのであります。
この当時、再建された山内に宝泉院と称する塔頭寺院がありましたが、この寺院こそ後日、文覚上人による当山創建の伝承の源となったお寺であります。
南北朝時代の延文元年(1356)心蓮上人はこの塔頭寺院であった宝泉院を下熊田村に移し、十一面観音を秘仏の本尊として寺号を宝泉寺と改め開山されました。以来、宝泉寺が病気平癒に格別の霊験のあるお寺として、人々の信仰を集めております。
永い歴史を有する当山は、平安時代~鎌倉時代の古写大般若経を始め、甚だ珍重すべき什物など優品が保管されています。
毎年7月の土用の日は宝物の虫干しと大般若経祈祷会が行われています。当山は、四季折々の風光に恵まれて信仰と癒しの場として親しまれており、特に4月の桜は見事で天を突く巨大な「京紅しだれ桜」は圧巻です。 宝泉寺は、真言宗総本山仁和寺の末寺として年中行事や教化活動を通じて地域に広く貢献しています。
金花山宝泉寺概略
宗旨:古義真言宗 御室派
総本山:御室 仁和寺(世界遺産)
本尊:十一面観世音菩薩
開基:延久元年(1069年)初代開基第1世 心蓮上人おばあちゃんの会話はずみますなあ
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2023-05-01 10:00:00
海ノ民話のまちプロジェクトアニメーション 第25話~第27話 岡山県倉敷市「銀のつづらと金の浜」/徳島県小松島市「ゼンパはん」/愛媛県今治市「クジラのお礼まいり」藤十郎が漁をしていると、経櫃が網にかかった。お寺に持っていくと『大般若経』 という有り難いお経だとわかる。その後、お経を寺に届けたお礼だと稚児からつづらをもらう。「家に帰るまで開けてはならぬ」と言われたが、帰り道に開けてしまう。すると中には金や銀が入ってた。家に持ち帰り喜んで開けてみると、中から龍が飛び出し、藤十郎はつづらを浜に戻した。つづらを置いた浜は金色に輝き、『金浜』と呼ばれるようになった。/村人から「ゼンパはん」と呼ばれる、善八という若い漁師がいた。不漁続きのある年のこと、漁に出たゼンパはんは海坊主と遭遇。ゼンパはんが恐怖で目を覆うと、海坊主は「目を開けえ」と繰り返す。翌朝、舟の上で目を覚ますと、海坊主の代わりに大きな岩が立っていた。舟の中の魚を村人にわけると、取っても取ってもなくならない。ゼンパはんは海に手を合わせ、海坊主にお礼を伝えた。/母クジラが海でうたたねをしていると、潮が引いて動けなくなってしまった。子クジラの泣き声を聞いたお地蔵様は、母クジラを助けるため海に向かって呼びかけ、集まった海の生き物たちが母クジラを救出し、無事に海の中に帰ることができた。それから春になると鯛崎島には30頭ものクジラがお礼まいりにくるようになった。
出演:立川志の太郎、山本真由美、四宮豪、冨田泰代
監督:沼田心之介
©日本財団 ©一般社団法人日本昔ばなし協会
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