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2024年6月22日 07時10分に生成された05時00分のデータです
2016-03-29 09:56:13
【鎌倉仏教シリーズ】第57回・曹洞宗②懐奘と三代相論2-1鎌倉時代に比叡山から能忍という天台僧が、達磨大師の化身に聖徳太子が会ったという伝説に基づいて摂津(大坂)の三宝寺から始めた日本達磨宗の二代懐奘は、京都深草の道元を訪ね、法論(論破合戦)の末、道元の弟子となりますが、その達磨宗の懐奘の弟子たちが懐奘の永平寺二代住職継承に続き、永平寺3代住職の座を巡って争うことになります。義介と義演の二人ですが、この背景には道元の出家至上主義を維持するか、あるいは在家を認めるかの路線闘争がありました。
天童如浄でしたっけ? 生活保護の姉への扶養要請を拒否の舛添 仏教の起源は鎌倉では御座いません、異常な動画の投稿止めてください
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2018-06-11 22:33:00
【神道シリーズ】第21回・天神信仰(真言密教僧(道賢)によって広まった御霊信仰)神道関係無し②903年に無念の死を迎えた道真の霊は、10世紀半ばには公家貴族から御霊・雷神として恐れられたのは有名ですが、天神信仰は10世紀から12世紀にかけて大きく形を変えていきます。
最初は朝廷内での御霊信仰であってのが、天台僧の道賢の「道賢上人冥途記」が地神経(金光明最勝王経>雑密経典)の話を伝える盲僧や盲女の琵琶法師たちによって広く伝わり、天神信仰は雑密仏教によって全国区となって行きます。
やがて鎌倉時代になると、天神は天台僧・是算によって本地が十一面観音とされ、幕府からも国家鎮護神の一つ(八幡神、春日明神などとともに)にされ、さらには雪冤(冤罪を救う)神とか学問の神、書道の神、詩文の神などとしても信仰されていくことになります。
天神信仰は、所謂「神道」にはまったく無関係な神信仰ではありますが(中身は雑密)、現在も全神社の1割を占めるのでお話をしておきます。- 232
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2016-03-29 10:45:02
【鎌倉仏教シリーズ】第57回・曹洞宗②懐奘と三代相論2-2鎌倉時代に比叡山から能忍という天台僧が、達磨大師の化身に聖徳太子が会ったという伝説に基づいて摂津(大坂)の三宝寺から始めた日本達磨宗の二代懐奘は、京都深草の道元を訪ね、法論(論破合戦)の末、道元の弟子となりますが、その達磨宗の懐奘の弟子たちが懐奘の永平寺二代住職継承に続き、永平寺3代住職の座を巡って争うことになります。義介と義演の二人ですが、この背景には道元の出家至上主義を維持するか、あるいは在家を認めるかの路線闘争がありました。
要は最新の流行てことか 生活保護の姉への扶養要請を拒否の舛添
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2020-02-03 22:21:02
【神道シリーズ】第81回・八百万の神㉙伯耆大山・智明大権現(今日も続く天台大山寺の大山修験と信仰)伯耆大山(ほうきだいせん)は2018年に開山1300年を迎え、盛大なイベントが行われていましたが、今でも信仰の中心は大山寺(だいせんじ)を中心とした地蔵菩薩信仰であり、天台系の山伏たちが法螺貝を吹き、柴燈護摩を焚くという儀式が行われています。
大山の開山伝承では、8世紀に猟師の従道が大山で金色の狼を射止めようとしていたところ、地蔵菩薩が現れ、一瞬で改心して仏道に入り、名を
金蓮(こんれん)と改めた、という話が伯耆大山の開山伝説となっています。
9世紀以降は天台宗(比叡)の進出により、慈覚大師(比叡山第二世座主・円仁)伝説などが加わり、天台修験の一大拠点となります。
戦国時代の戦乱で一時期衰退しますが、江戸時代になると伯耆国出身の豪円という天台僧が比叡山や伯耆の大山寺を復興し、再び信仰の復活を見ます。
明治には政府により信仰の中心の大山寺が破壊され、大神山神社が建てられますが、明治35年には地元の信者たちにより大山寺は復活し、今日まで伯耆大山信仰の中心となってきています。- 117
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2020-05-11 22:31:02
【神道シリーズ】第92回・八百万の神㊲その他の山岳信仰(5)榛名山・妙義山・迦葉山・安達太良山・八溝山など・・・今回は関東から東北南部にかけての山岳信仰を紹介したいと思います。
まずは、上毛(じょうもう)三山と言われた榛名山(はるなさん)、妙義山(みょうぎさん)、赤城山(あかぎやま)のうち、榛名山と妙義山を、そして、その上毛三山の北に位置する迦葉山(かしょうざん)、そして福島県、茨木県、栃木県の三県にまたがる八溝山(やみぞさん)の五山の信仰の歴史と現在について解説をします。
明治前まで、榛名山、妙義山、(赤城山)、八溝山は天台修験、そして迦葉山は曹洞宗が別当寺としてそれぞれの信仰の中心になってましたが、妙義山と八溝山は明治政府によって(それまで歴史上では無かった)「ヤマトタケル伝説」によって伝統信仰(妙義山権現・八溝山権現など)が置き換えられて行きました。
しかし、榛名山神社では今でもその社伝で真言僧の快良による榛名神社の初代座主就任の話から近世に天台僧天海による神社再建の歴史が今でも残されています。
迦葉山は日本三大天狗(高尾山薬王院、鞍馬寺・迦葉山 龍華院 弥勒護国禅寺)の一つとして今でも天狗信仰が残っています。- 88
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2021-02-08 22:45:02
【神道シリーズ・シーズン2】第20回・林羅山の理当心地神道(「日本書紀」神代記述の否定と「書紀」の儒教的書き換え林羅山は、朝鮮の朱子学者カンハンから学んだ藤原惺窩を師とし、封建領主を君主とする封建体制の支配体制を正当化する朝鮮朱子学の流れを汲み、支配者は除外し、たみだけに性即理の実現の道徳的努力を強要する朱子学思想を引き継いだ。
君主に賢人聖人たる努力を求めない朝鮮朱子学の思想は封建支配体制を正当化するものとして徳川幕府に重宝され、羅山も徳川将軍家のブレーンとして天台僧天海や臨済僧崇伝らとともに徳川指南役として活躍することとなった。
さらに羅山は、朝鮮朱子学のもう一つの特徴としての強い廃仏思想に裏打ちされ、仏教的解釈を一切排除した日本書紀の分析を行い、中国儒学独特の考証主義によって中国や朝鮮の歴史書と日本書紀の記述を突合し、日本書紀のみにみられる箇所はことごとく否定し、
特に突合ができない神代の部分は作り話として切り捨て、天地開闢や天孫降臨の部分も実は中国の呉の泰伯が九州の高千穂に漂流して神武天皇となった事実の粉飾であり、その後の8代の天皇やヤマトタケルは架空の存在で、太極であるクニタチノミコトの理の反映である歴代天皇が朱子学的道徳律に沿って日本の歴史は作られたと、日本書紀の記述をことごとく儒教的に書き換えていった。
これを林羅山の理当心地神道と言い、神道という名の儒教神道説で、のちの国学者たちからは厳しい批判の的となるものの、羅山に続く日本の朱子学者や陽明学者たちの間ではあるいみ共通した日本書紀解釈となっていったのである。- 81
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2020-12-07 23:10:03
【神道シリーズ・シーズン2】第14回・「神皇正統記」北畠親房(伊勢神道を継ぐ者たち①)渡会家行の後、後継者なく途絶えそうになっていた伊勢神道は、内宮の荒木田氏により救出され引き継がれることとなったものの、その法統も南北朝の戦乱の中、再び途絶えようとしていた時期に、南朝の重臣の北畠親房や天台僧の慈円らによってその流れが引き継がれることになりました。
伊勢神道自体の復興は江戸時代の 度会延佳の時代を待たねばならなかったものの、この南北朝時代に伊勢神道の流れを継いだ北畠親房の「神皇正統記(じんのうしょうとうき)」の中では、道教的な思想が中心であった伊勢神道に儒教(朱子学)的なイデオロギーを注入したのが特徴で、実はこの流れはこの先の吉田神道や江戸時代の儒家神道・水戸国学・復古神道にも強い影響を与えて行くことになります。- 73
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2019-12-16 22:53:02
【神道シリーズ】第76回・八百万の㉖日光山信仰【後編】(峰修行・現在の祭祀)前回は勝道上人による開山伝承やその後の日光山(二荒山)の天台化や比叡天台系の輪王寺を中心にして確立した日光三所大権現信仰の歴史などを紹介しましたが、今回は、その日光山で行われてきた四季峰修行や現在の日光山の祭祀などについてお話したいと思います。
日光山信仰は中世以降天台宗(比叡山)を中心とした日光三所大権現信仰を中心に発展して行き、近世(江戸時代)になると日光東照宮の創建や天台僧天海による山王一実神道の確立などで幕府からの強い後援を受けて発展しますが、明治になると神仏分離令で三社権現社が日光二荒山神社に改編され、輪王寺との関係が強制的に断絶させられましたが、それでも日光山の登拝祭祀や護摩祈祷などは輪王寺と日光二荒山神社の協力の下で行われており、さらに江戸時代以降に確立した東照宮の祭祀などが今日でも続いており、(かつての)日光山修験道の廃止以外は今も昔も祭祀は変わっていません。- 70
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2022-03-03 20:44:02
【神道シリーズ・シーズン3】第6回・リセットされた伊勢神宮(今の伊勢神宮は明治に創られた新伊勢神宮)日本書紀には、アマテラスの身代と言われる八咫鏡が宮中から常世の世界を求めて五十鈴川のほとりの宇治山田に移ったという話や、後の天武天皇たる大海人皇子が壬申の乱で戦争を祈って伊勢の方向に遥拝した話が出てくるが、実際に伊勢神宮の名称が登場するのは11世紀に天台僧・皇円によって書かれた扶桑略記で、古書の中で確認できる伊勢神宮では、神宮の成立は天武天皇の治世の8世紀頃とされ、もともと伊勢の宇治山田の地で伊勢大神たる由化ノ神を氏神としていた渡会氏の地に、出自不詳の荒木田氏がアマテラスを祀る内宮の禰宜として登場し、渡会氏は由化ノ神ならぬ豊受神を祀る外宮の禰宜とされた。
その8世紀以降明治までのおよそ1200年以上の間続いてきた内宮荒木田氏・外宮渡会氏の禰宜や中世以降明治前までずっと続いていた伊勢大麻を配り参詣者たちを募っていた伊勢御師や江戸時代以降盛んになった伊勢講までをも明治新政府は一瞬にして強制的に廃止してしまった。
一方、中世以降、密教との繋がりを通じて発展した内宮や、道教思想に基づいて伊勢神道を形成して神宮の独立性を確立した外宮の存在基盤も新政府による神宮周辺の寺院の全廃や内外宮禰宜の社家・荒木田氏、渡会氏を追放し、伊勢神道の道教的祭祀を全廃し、薩摩など外部から平田国学など国学神道論の影響を受けた部外者たちを権禰宜など神宮運営の中心に据え、新たな祭祀と地方官庁が伊勢大麻を生産して住民に強制的配布をする、など過去の伊勢神宮の歴史を完全否定する新伊勢神宮建設計画が進められた。
やがて伊勢神宮は神宮としての独自性よりも、明治期に新たに作られた宮中祭祀と歩調をとるように新たに作られた明治神道形式で統一され、さらに全国神社も独自祭祀を禁止し、宮中、伊勢神宮、全国神社と共通性する祭祀の構築が新政府によって進められた。
こうした強引で人工的な日本教の建設には、浄土真宗を中心とする仏教勢力や庶民の根強い反対や抵抗によりかなり緩和され、骨抜きにはなって行ったのだが、伊勢神宮や伊勢周辺寺院も含め、失ったり破壊された伝統文化はあまりのも大きかったのである。- 64
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1970-01-01 09:00:00
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