キーワード天台宗寺門派を含む動画:15件 ページ目を表示
2024年6月26日 07時11分に生成された05時00分のデータです
2018-12-17 22:14:02
【神道シリーズ】第43回・両部神道⑤富士山修験(理論は両部神道で管理は聖護院<天台宗寺門派>)日本の山岳信仰が具体的な神名を持って信仰されるようになったのは真言密教による両部神道が確立した鎌倉時代以降ですが、密教僧たちは山に登頂し、そこに仏の眷属を祀り、さらに古事記の神々の中から選んで比定し、仮の姿として古事記の神様の姿になるときがあるとしました。
これこそが日本における「八百万の神」信仰の始まりであり、古事記に出てくるコノハナサクヤビメも、火山という属性だけで大日如来の仮の姿であるとされ、それが富士山においては浅間(せんげん)大権現として祀られ、信仰されるようになりました。
つまり、もともと民衆の間に古事記の神々の信仰があって、それが八百万の神の信仰になったのではなく、密教僧らによって形成された山岳信仰の中心をなす本地垂迹説として古事記の神々が採用されていったのです。
富士山修験が始まったのは13世紀に仏僧の末代(まつだい)が富士山頂に登頂して大日寺を創建し、大日如来を祀ったことから始まります。
16世紀になって富士講を統合組織した長谷川角行は、役小角の夢告で富士山に登頂して以降、大日如来=コノハナサクヤビメを浅間大権現として信仰する一神教的意味合いの浅間権現信仰を確立し、以降、弟子たちによって村上修験(富士山修験をそう呼びます)の富士講は江戸時代には全国に広がって行きます。
明治に神仏分離で浅間神社の祭神はコノハナサクヤビメとされましたが、今日でも浅間大権現の信仰は続いており、村山修験の流れを汲む修験道の団体が伝統を引き継いでいます。- 226
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2015-05-26 10:35:17
【鎌倉仏教シリーズ】第18回・平安仏教②天台宗(その2)6-2最澄は、法華経を中心に主要な大乗仏教典を統合した大乗教(円教)を目指しましたが、その弟子の円仁、円珍の時代になると密教色が強くなり、安然の時代に至って天台密教は完成をみます。しかし、円仁と円珍の弟子たちの時代になると、それぞれ山門派(比叡山・延暦寺)と寺門派(園城寺<三井寺>)に分かれ、先鋭な対立を繰り返し、山門派から鎌倉仏教や山王神道を、寺門派からは熊野修験を生みだし、発展していくことになります。
資料を捻じ曲げて説明する気分はいかがですかw ケツミコガミが古事記に出てきますかw わらったーーーーーーーーーーーー 「由真の宗教」五来重著をよめばPの愚かさがわかるwww これを否定しているのはおまえだ 大谷大学 五来重
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2015-05-26 09:55:10
【鎌倉仏教シリーズ】第18回・平安仏教②天台宗(その2)6-1最澄は、法華経を中心に主要な大乗仏教典を統合した大乗教(円教)を目指しましたが、その弟子の円仁、円珍の時代になると密教色が強くなり、安然の時代に至って天台密教は完成をみます。しかし、円仁と円珍の弟子たちの時代になると、それぞれ山門派(比叡山・延暦寺)と寺門派(園城寺<三井寺>)に分かれ、先鋭な対立を繰り返し、山門派から鎌倉仏教や山王神道を、寺門派からは熊野修験を生みだし、発展していくことになります。
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2015-05-26 11:09:18
【鎌倉仏教シリーズ】第18回・平安仏教②天台宗(その2)6-3最澄は、法華経を中心に主要な大乗仏教典を統合した大乗教(円教)を目指しましたが、その弟子の円仁、円珍の時代になると密教色が強くなり、安然の時代に至って天台密教は完成をみます。しかし、円仁と円珍の弟子たちの時代になると、それぞれ山門派(比叡山・延暦寺)と寺門派(園城寺<三井寺>)に分かれ、先鋭な対立を繰り返し、山門派から鎌倉仏教や山王神道を、寺門派からは熊野修験を生みだし、発展していくことになります。
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2019-02-25 22:35:01
【神道シリーズ】第49回・八百万の神⑥立山信仰(前編)立山権現・山岳浄土信仰立山信仰は、神道(国家神道)一切無関係の山岳浄土教信仰ですが、立山信仰の縁起では、奈良時代(701年)に、文武天皇の夢の中で阿弥陀如来が出てきて越中の国司に佐伯有若を任命すれば国家の安泰は保障されると言われ、文武天皇の命で越中に派遣された有若は鷹狩の愛好家で、自分が大切にしていた白鷹がある日飛び出していなくなってしまい、息子の有頼に白鷹を探して取り戻すように命じました。
(佐伯)有頼は道中で刀尾天神を名乗る老人に行先を教えられ、辿り着いた洞窟の中に白鷹を発見しますが、突然熊が襲い掛かって来た為、この熊に矢を射ました。
しかし、その熊の正体が阿弥陀如来と知り、悔悟し、阿弥陀様に言われたように、出家して慈興上人となった上で阿弥陀如来を立山権現として祀りました。
この縁起では立山開山が8世紀になってますが、実際には9世紀後半だと言われてます。
立山信仰の中心の芦峅寺(あしくらじ)、岩峅寺(いわくらじ)にはその後天台宗寺門派の座主・康済が入山し、不動明王も立山権現の本地の一つとなります。
明治期の廃仏毀釈で芦峅寺・岩峅寺は破壊され、立山権現信仰も明治政府によって禁止されて雄山神社とされ、さらに女人成仏祭祀の布橋灌頂法会も禁止されますが、
戦後、立山権現は復活し、1996年より布橋灌頂法会も復活を遂げています。
歴史上ありもしなかった「神道」を捏造した国家神道による弾圧にもかかわらず、平安時代よりずっと続いてきた伝統的精神文化は今力強く復活をしています。- 176
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2015-05-26 14:02:15
【鎌倉仏教シリーズ】第18回・平安仏教②天台宗(その2)6-5最澄は、法華経を中心に主要な大乗仏教典を統合した大乗教(円教)を目指しましたが、その弟子の円仁、円珍の時代になると密教色が強くなり、安然の時代に至って天台密教は完成をみます。しかし、円仁と円珍の弟子たちの時代になると、それぞれ山門派(比叡山・延暦寺)と寺門派(園城寺<三井寺>)に分かれ、先鋭な対立を繰り返し、山門派から鎌倉仏教や山王神道を、寺門派からは熊野修験を生みだし、発展していくことになります
山川草木悉皆成仏Pちゃんさすがだな
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2018-07-10 00:38:02
【神道シリーズ】第25回・熊野信仰(別当・検校と九十九王子)天台修験が支配する熊野②熊野信仰は、基本的には①雑密(新羅系の道教的密教)②天台修験(天台宗寺門派)③一遍の浄土信仰④観音信仰から成っています。
熊野三山の神々に古事記の神々を割り当てたのは後世(室町時代~江戸時代)であって、もともとは熊野川の神や(ゴトビキ)岩の神(速玉神)などで、これが仏の眷属と結びつけられ、本地垂迹説の下、極めて仏教色の強い独自の熊野信仰が完成します。
今回は、熊野古道と言われる和歌山県の海外線から本宮・新宮・那智へ至る道の途中に築かれた九十九王子と呼ばれる中継地点や、熊野検校や熊野別当(どちらも天台宗寺門派が独占)について説明します。自然神信仰がことごとく朝鮮半島由来だといいきれる根拠の説明が弱いかな。似てるものが半島にあるというだけでは漠然としすぎている。
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2019-10-07 22:54:02
【神道シリーズ】第70回・八百万の神㉕求菩提山修験(天台宗山門派(比叡山)と寺門派(聖護院門跡)の天台修験の地)求菩提山の歴史は近世に書かれた「求菩提山雑記」に6世紀以降の猛覚魔卜仙(もうかくまぼくせん)による開山(526年)や、その後704年の役小角の入山、そして、720年の行善による求菩提山護国寺の建立などが求菩提山の古代史として残っていますが、その真偽はともかく、山頂から5~6世紀のものとされる須恵器(朝鮮半島から)が見つかってることから、6世紀頃から渡来系の雑密僧による開山が推測されています。
その後、12世紀に宇佐出身の辛島氏の系統(新羅系)の頼厳が護国寺入りし(平安時代)、中興の祖となり14世紀(室町時代)には、皇室から送られた彦山の雲仙寺の座主・助有法親王(安仁親王)によって始まった「黒川院」が求菩提山の如法寺(ねほうじ)も配下に置き、法親王が所属する天台宗寺門派の聖護院門跡(本山派修験)の傘下に入り、求菩提山も彦山修験の傘下に入ります。
16世紀に黒川院が黒田長政の息子の忠之によって破壊された後は、歴代の領主が座主となっていた如法寺が求菩提山信仰の主導権を握りますが、その如法寺を支えた
天台宗寺門派の聖護院門跡が求菩提山修験をリードしていく形になり、明治前まで続いて行きます。
明治の神仏分離で求菩提山護国寺も妙法寺も破壊され、明治に政府によって確立された神社神道の下、国玉神社が作られますが、今でも求菩提山祭祀は明治以前の火祭りやお田植祭などが行われています。- 145
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2015-05-26 13:50:11
【鎌倉仏教シリーズ】第18回・平安仏教②天台宗(その2)6-4最澄は、法華経を中心に主要な大乗仏教典を統合した大乗教(円教)を目指しましたが、その弟子の円仁、円珍の時代になると密教色が強くなり、安然の時代に至って天台密教は完成をみます。しかし、円仁と円珍の弟子たちの時代になると、それぞれ山門派(比叡山・延暦寺)と寺門派(園城寺<三井寺>)に分かれ、先鋭な対立を繰り返し、山門派から鎌倉仏教や山王神道を、寺門派からは熊野修験を生みだし、発展していくことになります。
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2020-10-19 23:10:02
【神道シリーズ・シーズン2】御流神道と三輪流神道(両部神道主要二派)11世紀頃から発生してきた真言宗を中心とする(一部天台宗寺門派も含む)真言密教系神道理論は12世紀から15世紀にかけ両部神道を形成し、中世の日本の宗教界を支配していくことになりますが、その両部神道は主に室生山で発生した御流神道と三輪山で発生した三輪流神道が中心となって行きます。13世紀後半より形成された伊勢神道や15世紀に形成された吉田神道もこの両部神道(真言神道)を下敷きにしており、ある意味日本における「神道」という宗教を成立させた根本にもなってる存在だと言えます。
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2019-11-11 23:01:13
【神道シリーズ】第73回・八百万の神㉓英彦山大権現(伝燈大先達とは?)英彦山(彦山)は中世より天台宗の霊仙寺(りゅうせんじ・天台宗系)が山岳信仰の中心になってきましたが、その霊仙寺の座主は同時に英彦山の峰入り修行を20年以上繰り返した「伝燈(でんとう)大先達」という先達(今で言うところの登山ガイド)でなければならないというシステムがありました。
しかしながら中世初期には、天台宗聖護院(天台宗寺門派)が皇室系の座主を霊仙寺に送り込んできて黒川院という皇室系で世襲制の座主の時代が12世紀から14世紀までの200年間続き、まともに峰入り修行もしていない人が霊仙寺の座主や伝燈大先達になってしまうという時期があったり、あるいは聖護院(京都)から派遣された修験僧が弟子から弟子へと法統で継承される時期が長く続きました。
16世紀の半ば(1540年)になると、聖護院系ではない、日光修験(天台系)の阿吸坊即伝(あきゅうぼうそくでん)が英彦山の座主(同時に伝燈大先達)に就くと、それ以降は、当初のシステム通り、20年以上に渡る峰入り修行を英彦山で行った英彦山出身の山伏だけが霊仙寺の座主および伝燈大先達になれるという制度が徹底されるようになります。
全国の修験道(山岳信仰)が法統中心の別当寺(その山岳信仰を支配する寺)の座主になっていたり、山岳信仰支配のシステム自体が緩んで行く中、英彦山は特に江戸時代以降この座主=伝燈大先達制度が強化され、同時に信仰の深まりと九州全土への広がりの中、結束を固めて行きます。
明治には神仏分離令で政府により霊仙寺やその200以上あった僧坊は完全に破壊され、代わりに政府が英彦山神社を作りましたが、英彦山信仰の内容はその後も変わらず、
戦後になると、なんと英彦山神社(神宮)が中心になって英彦山修験(本山派<天台系>修験)の復活運動を始め、既に英彦山の末山である宝満山では英彦山修験が復活してきています。
今でも英彦山信仰の信仰対象は英彦山三所権現たる英彦山大権現です- 113
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2019-09-10 20:21:12
【神道シリーズ】第68回・六郷満山信仰【中編】六郷満山の天台寺院(神道無関係w)今回と次回の二回に渡って六郷満山の天台寺院を出来る限り紹介して行きたいと思いますが、
六郷満山(国東半島全体)は天台宗(本山派・寺門派)および天台修験道の一大拠点であり、ほとんどの寺院が天台系に属しています。
中国の天台三山に倣って三山方式と言って、本山(もとやま)、中山(なかやま)、末山(すえやま)に分類され、それぞれに本寺・中寺・末寺があるという形で、主要な天台寺院は28寺で、それぞれに所属する坊が今でも数多く残っています。
六郷満山信仰の特徴としては、比叡山天台宗の山王神道の影響で、阿弥陀如来・薬師如来を本尊とする寺が多く、一方で熊野修験を支配していた天台宗寺門派(聖護院門跡)も進出しており、こちらの影響で不動明王や六所権現なども同時に本尊として祀られています。
あと、六郷満山の魅力と言えばやはり摩崖仏で、多くは平安末期から鎌倉時代以降のものですが、中でも熊野摩崖仏や元宮摩崖仏などは有名です。
六郷満山の摩崖仏は6世紀以降の朝鮮半島(新羅・慶州)の摩崖仏の影響が大きく、朝鮮半島とも繋がりが大きいのも六郷満山信仰の特徴です。- 89
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2019-12-23 22:57:02
【神道シリーズ】第77回・八百万の神㉗箱根山信仰(今日まで伝わる万巻上人の九頭龍大王調伏伝承)箱根山信仰と言えば、今も昔も変わらないのが芦ノ湖に住むと言われる9つの頭を持つ
九頭龍という毒龍を調伏して箱根山の守護神と変えた万巻上人の伝承です。
箱根信仰の歴史を伝える書物は主に3つの古書で、それは、
①筥根山縁起并序(ならびしょ)(建久二年(1191)
②箱根権現縁起絵巻(「天正十年」(1582))
③新編相模国風土記(天保12年(1841年)に昌平坂学問所にて書かれた)
の三書なのですが、
①は、紀元前5世紀に仙人によって箱根山が開山され、8世紀中期になって朝廷から派遣された南都六宗の僧侶・万巻により男躰(なんたい)・法躰(ほうたい)・女躰(にょたい)から成る箱根山三所権現という神を感得し、これを祀ることにより箱根山信仰は成立したとするものですが、ここに万巻上人よる芦ノ湖の九頭龍を調伏した説話が出てきます。
②は、戦国時代に書かれた完全なる仏教説話的な箱根三所権現の成立を語る小説風書物で、
③は、明治元年から16年前の幕末に国学者(昌平坂学問所)たちによって書かれた風土記で、それまでまったく縁も所縁もなかった古事記の神々(ニニギ・ホオリ・コノハナサクヤヒメ)を強引に箱根三所権現に当て嵌め比定したものです。
箱根三所権現の信仰の中心は萬福寺金剛院という新義真言宗(真言宗智山派)の寺院でしたが、三所権現思想や九頭龍伝承は、万巻の時代に白山の泰澄からの影響が考えられます。(三所権現形式自体は天台宗聖護院<天台宗寺門派>が自らの支配する熊野で開発し、白山を筆頭に全国に展開したものですが、箱根山では聖護院の勢力の足跡は見られませんから)
明治になると、政府により信仰の中心であった真言宗の萬福寺金剛院は破壊され、その地に「箱根山神社」という神社が建てたれ今日に至ってますが、ただ、その箱根神社の社伝にさえ今でも万巻上人による三所権現感得や九頭龍調伏の伝承は書かれており、信仰自体は今も昔も変わっていません。- 88
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2019-09-02 22:42:05
【神道シリーズ】第67回・六郷満山信仰【前編】日本随一の天台王国・秦王国(神道無関係w)六郷満山は以前の「宇佐八幡宮」の放送の際にも若干触れてはいましたが、これだけ素晴らしい仏教伝統の色濃く残る文化をあれだけで終わってしまうのはあまりにももったいなく思い、今回は六郷満山だけを取り上げ、【前編】で宇佐八幡との関係史を、【中編】【後編】で六郷満山の多くの天台寺院を取り上げて行きたいと思っております。
六郷満山の寺社は、ほとんどが天台系であり、寺院はいうまでもなく、数少なく存在する神社も中世から近世に比叡山天台宗の山王神道や天台宗寺門派(聖護院門跡)の熊野修験の影響を強く受けており、祀られてる神のほとんどは出雲系であり、現在でも祭祀などは天台寺院の傘下にあります。
六郷満山も、恐山や秋葉、愛宕、石鎚、鞍馬山などと同様にそれまでの地元の仏教や修験道の信仰が強すぎて明治の神仏分離策で神社神道化(神社神道は明治期に創設された)に完全に失敗した一つの例とも言えます。らんろうおう 丹後ちゃうやん 行ってみたいな うP乙
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