キーワード天台宗(比叡山)を含む動画:6件 ページ目を表示
2024年6月24日 07時12分に生成された05時00分のデータです
2019-05-07 22:55:03
【神道シリーズ】特別会(初詣・七五三・七夕<道教>おみくじ<仏教>と神道無関係w)初詣、七五三、七夕、おみくじと言えば、日本に長く根付いた「日本特有の伝統文化」であり「やはり日本は神道だなあ」と思いたいところですが、
ただ、実はこれらはまったく神道には無関係な、道教(陰陽五行>陰陽道)や仏教からの習慣で、さらには、意外と歴史が浅く、おみくじ(平安時代)以外では、庶民の間に初詣、七五三、七夕が普及したのは江戸時代以降、しかも、本格的に世間一般の行事になったのは明治末以降というのが現実です。
おみくじを始めたのは天台宗(比叡山)18世の元三(がんぞう)太師と言われた良源上人で、比叡山の延暦寺の根本中堂で発行したのが初めてと言われます。
初詣は、儒教や道教や仏教(大乗仏教)の伝統を持つ東アジア諸国では名称は異なれ、新年を祝う東洋的宗教行事として中国(道教や仏教寺院で)、韓国(仏教寺院で)、ベトナム(仏教寺院)などで日本と同様に行われています。
日本で初の「初詣」と言われるのが源頼朝の鶴岡八幡宮での新年の詣でだと言われますが、これは道教の陰陽五行思想を継ぐ陰陽道の方角説から生まれたもの(恵方詣で・大歳神<陰陽道神>)で、庶民の間で寺社への信念の詣でが広がるのは江戸時代末期になってから。
七五三は、道教の「天地三歳論」をルーツとして、江戸中期の呉服商人が広めたと言われます。
これを考えると、元々日本にあったものと思ってるものでも実は外国の宗教習慣や思想から来てたり、それで日本へ伝わってからの歴史が意外と浅い(江戸時代以降とか明治以降とか)ということがよくあります。今では秦氏は實はユダヤ人であると云はれてゐるがね(嗤)。 何で引用がウィキなんだ。一次史料では無いのか(嗤)
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2019-07-29 23:04:02
【神道シリーズ】第68回・八百万の神㉓石鎚山信仰【前編】法螺貝と大般若経と念仏は今でも健在!!石鎚山は、8世紀に役小角が開山し、その弟子・芳元が中国の天台山から勧請したと言われる熊野権現をこの地に祀り、それが「石鎚山蔵王大権現」となり、それが今も昔も一貫した信仰対象となりました。
石鎚山信仰は、その同じ8世紀に寂仙(石仙)という修行僧が信仰の基礎を築き、大峯山(吉野)で峰修行した天台宗(比叡山)の高僧・光定は、最澄から天台座主のオファーを断り、(9世紀に)寂仙を師と仰ぎ、石鎚山で山岳修行を行い、やがて石鎚信仰の両輪の一つとなる横峯寺を創建しました。
9世紀になると真言宗御室派(古義真言宗・京都仁和寺が本山)が同地に進出し、前神寺を創建し、さらに横峯寺にまで進出します。
石鎚信仰は、両寺を中心に、多くの先達を率いた石鎚講を形成し、その組織が強大過ぎたために、明治期の神仏分離令も政府の思うように行かず、石鎚神社を新設するまでに35年もかかり、それも石鎚山真言宗系の石鎚本教により運営され、そのまま今日に至ってる。
今日でも石鎚山の山開きでは法螺貝の音とともに大般若経や念仏が唱えられる石鎚神社の石鎚講で信仰が支えられている。車で土小屋まで登れますから 鎖場は迂回できるからな 土小屋から登る手もある 修験道だから仏教だからどう見てもw 雨や霧が多いんだよねえここ 石鎚登ったことあるけど相当大変だわ 霊山がご神体であり、中宮成就社が古来よりございます。 「伝統的神仏習合が強...
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2019-10-21 23:11:03
【神道シリーズ】第71回・八百万の神㉖英彦山信仰【前編】(英彦山神社になっても今でも英彦山大権現信仰w)英彦山(ひこさん)は、6世紀の北魏僧・善正による開山伝説や、二代忍辱(にんにく)の伝承、そして8世紀以降の法蓮による弥勒信仰に基づく新羅仏教による中興の祖としての活躍、そして、9世紀以降は天台二派(比叡山と聖護院門跡)による天台支配が以降続き、17世紀には霊仙寺(りょうぜんじ・英彦山信仰は伝説期の6世紀より明治前まではこの寺が中心になっていました)の座主・広延が真言系の三輪流神道に転向して真言宗(当座派修験)の影響が強くなりますが、基本的に天台宗の大拠点の一つとして中世・近世を送ってきました。
明治の神仏分離令で信仰の中心だった霊仙寺は破壊され、そこに政府によって英彦山神社が作られたものの、
信仰内容は不変で、今日でも「英彦山大権現」への信仰は変わらず、祭祀も天台や真言の修験者たちが中心で行われており、今、明治に政府によって廃止させられた英彦山修験は復活しつつあります。- 100
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2019-11-25 22:55:02
【神道シリーズ】第75回・八百万の神㉕日光山二荒山三社権現【前編】(勝道上人開山・天台の拠点化)日本の山岳信仰のほとんどには役小角による開山伝承があるのですが、なぜか東北地方には役小角伝承が無い地域があり、それは、その地域を奈良時代中期頃まで蝦夷が支配しており、そこが朝廷軍によって占領されてから朝廷の旧蝦夷支配地域の宗教政策(啓蒙化政策)として天台宗の僧侶たちを(朝廷が天皇の勅令などで)送り込んで開山した例がいくつかあります(例・箱根山、早池峰山、岩木山など)。
華厳宗の僧と言われた勝道は、下野国(栃木県)の薬師寺で、鑑真の弟子のイラン系ゾルド人僧の如意僧都から受戒を受け、正式な僧侶となった後、二荒山(ふたらさん>現在の日光山)の登頂を目指してその麓に四本龍寺(現・輪王寺>天台宗)を創建し、二度の登頂失敗の後、782年(延暦元年)3月、三度目の登頂を試みてついに成功し、その後、三山に神が宿るとし、三つの祠を作り、仏の加護に預かれるようにと祈願します。
その三つの祠が、天台宗(比叡山)が進出してから二荒山三社権現(現・二荒山神社)となり、輪王寺との本地垂迹関係を形成します。
勝道が日光山登頂を目指した時期は、ちょうど朝廷軍と蝦夷軍の戦いの最前線が日光山(二荒山)の麓のあたりで、朝廷や寺院による勝道登頂支援やその後の天台宗の進出も朝廷による宗教政策(縄文系の蝦夷の文化を破壊して朝廷の仏教信仰で啓蒙しようとする政策)の一環としても見られます。中田敦彦の見解は合っている?⇒https://youtu.be/4YiZsUAbs0w
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2019-12-16 22:53:02
【神道シリーズ】第76回・八百万の㉖日光山信仰【後編】(峰修行・現在の祭祀)前回は勝道上人による開山伝承やその後の日光山(二荒山)の天台化や比叡天台系の輪王寺を中心にして確立した日光三所大権現信仰の歴史などを紹介しましたが、今回は、その日光山で行われてきた四季峰修行や現在の日光山の祭祀などについてお話したいと思います。
日光山信仰は中世以降天台宗(比叡山)を中心とした日光三所大権現信仰を中心に発展して行き、近世(江戸時代)になると日光東照宮の創建や天台僧天海による山王一実神道の確立などで幕府からの強い後援を受けて発展しますが、明治になると神仏分離令で三社権現社が日光二荒山神社に改編され、輪王寺との関係が強制的に断絶させられましたが、それでも日光山の登拝祭祀や護摩祈祷などは輪王寺と日光二荒山神社の協力の下で行われており、さらに江戸時代以降に確立した東照宮の祭祀などが今日でも続いており、(かつての)日光山修験道の廃止以外は今も昔も祭祀は変わっていません。- 70
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