キーワード宮内串戸を含む動画:11件 ページ目を表示
2024年7月6日 07時10分に生成された05時00分のデータです
2008-02-16 18:52:34
【鏡音リン】 車掌さん初投稿です。リンさんに車掌アナウンスを喋らせてみました。うーむ、喋らせるのは難しいものです・・・。音源・絵は、自分で録ったり描いたりしたものです。ダイヤ改正前に作ったので、宮内串戸には停まらない仕様になっております(^^;ちなみに、走行音は115系のものです。□マイリストはmylist/6036090です。
末期色は黄色5号じゃなかった? 昔のまんまwwwwwwwwwwwwwwwwww 車両40Nな件w かわいいいいいいいい...
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2018-07-18 01:12:25
厳島神社外宮 地御前神社(もうひとつの厳島神社) 広島県廿日市市地御前厳島神社の外宮 地御前神社
今はJRが社殿裏を走り 鳥居の前は広電や国道2号線が走る。
かつては島が人が住まない時代 神官や僧侶も地御前に住み 島へ通ったと言います。
祭神や創建は厳島神社と同じと言われています。
今は時に走る電車の喧騒の中佇んでいます。
社殿は朱塗りで美しいが拝殿の横からしか見えない。
御祭神は厳島神社本社と全く同じく。
地御前神社参道は 宮内別れ交差点から北へ入り旧山陽道をゆく。
宮内串戸JR駅へ入る少し先で左折 し小さい橋を渡ったところから始まる。
墓地や町家などの狭い間を抜け小学校や大歳神社、釈迦堂の前を通り 踏切を越えれば境内。
途中には真宗のお寺などもあります。 かつては境内は広かったんだろうと思われます。
行き方
JR宮内串戸から徒歩(少し遠い)宮島街道(国道2号線)沿いに西へ歩けば行けます。
または地御前参道を西へ西へ歩く(途中何箇所か分岐あり)
広島方面からならバイパスを走らず旧国道2号線(宮島街道)沿いに
漁港を過ぎたあたりに踏切がありそこを渡たっても境内に入れる。
広電地御前駅からが公共交通だと最短距離。踏切を渡り 左に入る道がある 小学校方面わずかです。
動画の道がそれ。
祭
旧暦6月17日の管弦祭 2018年は7月29日夜満潮の頃管弦船が神社前の海へきます
初夏の御陵衣祭 拝殿で間近で舞楽など拝見できます。
観光の中心からは外れており静かですが、観光でもしお時間があればお参りください。
武・漢発コロナ大流行禍の年(令和2年)梅雨時の様子 sm37384152
地御前漁港近くから宮島の眺め sm37993318管弦祭の絵馬かなぁ
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2012-09-30 21:34:10
山陽本線を旅してみた 岩国~広島③【宮島口→五日市】広島に近くなってきたのか混雑してきました。ここからは広電も車窓から見えます。
sm18879622→宮島口→阿品→宮内串戸→廿日市→五日市→sm19016577
収録:2011年7月22日 13:51 糸崎行き モハ115-1034ゕ 広島更新色ww 懐かしいw やっぱ広島にはこの音が似合うなぁ(偏見) そういえば、僕が小さい頃、窓を開けるためもつまみで遊んでたな~(当時窓が空くのを知らなかった) ってかそこ優先席じゃねえかw あのモケットが懐かしい。今は一人づつ区切られてない...
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2020-06-03 21:47:02
<広島県の神社> 天照大神を祀る 廣田神社 廿日市市串戸広島県の西部にある廿日市串戸 藤掛山の山腹に鎮座する 廣田神社。西国街道沿いの宮内村下組の氏神だった古い神社。広島藩の通史芸藩通志に記載されている。
御祭神=天照大神 鉄筋コンクリート製で吹き抜けの拝殿が再建されていました。
境内には稲荷社 御免石(藤掛山遷座したとき社頭にあった岩で参拝者は昔から「御免なさいませ」などと挨拶して 通った故事による)などある。
桜が植えられている境内から広島湾、宮島などが眺められる。
元は御衣尾山の山麓にあり、宮内〜地御前へ流れる御手洗川の瀬替えでこの山の谷に移転(現在そこには御旅所跡の石碑が残る川のそばで山のようなものは現在はない)さらに宝暦年間社殿焼失したために宝暦十二年藤掛山の現在地へ遷座した。
参道入り口の由緒書きによれば、現在の社殿は藤掛山が開発された時、再建されたものだそうです。 戦国時代は桜尾城の支城=藤掛城があった藤掛山〜現在住宅開発や道路建設で団地に大きく姿を変えています。旧山陽道の街道は藤掛山が大きく迫り出していたので海側は通行できず街道は山側を抜けて宮内へ向かっていたそうです。
また麓の東側には下平良(へら)地区の氏神 新宮神社(藤掛城の元 鎮守社)がある。
JR宮内串戸駅、広電宮内駅近く。- 99
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2020-08-19 20:40:02
<広島の神社巡り>厳島神社外宮社〜地御前神社(JIgozenJiinjya) 令和二年 梅雨時の様子厳島神社外宮社。御祭神、創建も本社と同じ頃という古社。令和二年 再訪。
本土側にあるもう一つの厳島神社です。地の御前=じごぜん。
一般的観光ルート外なので観光で訪れる方はまずいない。地御前神社ひっそりとしています。
南側に国道の車や社殿真後ろは電車の音がしますけどね。
時折散歩や車で立ち寄り参拝の方がいます。歴史はは古いんですよ。秋はイチョウや桜が紅葉します。
神社から線路を渡り小学校前を〜宮内串戸方面へ抜ける道が東へ走りますがこれが昔の参道で寺(浄土真宗西向寺、正行寺など)、墓地、お堂(釈迦堂 大きな金色の釈迦像がある)、町屋がいくらか残る。
近くの海のそばに(フジグランへ抜ける海沿いの小道、広電阿品東電停があるあたり)火立岩(ほたていわ)跡の標識が立つ。毛利水軍がこの辺りに集結して包が浦へ渡航した場所でもあり、管絃祭の御座船が地御前へ入港するまで潮待ちする海でもある。- 52
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2021-01-22 14:20:02
【広島県の神社】手作り公園風な境内の 旧村社 新宮神社 (廿日市市新宮)廿日市市新宮にある旧村社「新宮神社」。下平良地区の氏神。戦国時代文安三年(1446年)藤掛山にあった藤掛城の鎮守としてイザナギイザナミ二柱が祀られ、陶晴賢に攻められ城落城後は、紀州熊野新宮の神を勧請し地元下平良にて祭祀が行われてきた。藤掛城主の小方加賀守上野助=厳島神主家の一族で戦国末期に友田興藤と神主家の継承争いをした武将らしい。
境内は、山を背にしており氏子さんによりいつも整っている。手作りwの公園風になっていて古木(樹齢130〜160年)も大事にされています。楽しんで整備されてるのがわかる。
近くへ寄った折に散歩がてらみて歩くのにちょうど良い。
江戸時代廿日市は商業でも栄え正式な宿場街であった場所。
社殿はH9年改築されているらしいです。凝った作りではないですがどっしりしています。境内の雰囲気はいいです。祭祀は西国街道沿いにある廿日市の総氏神とされた廿日市天満宮で行われいる。
現在も社殿に神仏習合時代の「本地仏の掛け仏」が祀られている(廿日市市重要文化財指定)
平良(へら)=廿日市の南東部にある地域。旧平良村。平良はに古代山陽道の駅家があったとされる。
最寄りは広電・廿日市市役所前電停かJR・宮内串戸駅(少し歩く)スーパーアルクなどが入るティナコート裏側で旧山陽道の付近。藤掛山はいまは削られ団地や道路が走る。
藤掛山にある広田神社 sm36972757
西国街道を少し進んだ宮内にある 宮内天王社sm37969384
少し西にある厳島神社外宮 地御前神社 sm37384152
上平良にある延喜式内社名神大社 速谷神社 sm35298947
廿日市総氏神 廿日市天満宮(新宮社も勧請されている)sm38258080- 48
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2021-09-16 00:03:03
厳島神社外宮「地御前神社」と「地御前本道(ほんみち) 」【前編】(〜西向寺門前まで)西国街道から宮内串戸あたりで西へ分岐した古い道で、宮内〜地御前へ抜ける。地御前=じのごぜんの意で、本宮厳島神社が御前、本土側が地の御前という意味。
地御前神社のところまで続く。昔の地御前神社へ至る参詣の道でもある、生活道として使われた(今も現役)。(サイト〜広島大百科を参照しています)
20年くらい前は古い街並みなど残っていたようだが近代化で多くが失われたがまだ幾らか町家やその風情が残っている。絵を残しておこう。古い道標なども残っていたり、御堂、お寺、神社、大木などいろいろある。
最近参拝に行くと新しくなった家が増えていますね時代です。
余談〜昔、海側の宮島街道が開かれるまでは、西へ行く道は宮内村から四郎峠(今山陽自動車道がそばを走る)を越えて行く(今も迂回路として交通量が多い)旧山陽道(西国街道)しかなかった。
ただ、厳島に参詣し、その後 地御前から旧山陽道のおおの中山へ抜けた話が、室町初期の九州探題=今川了俊の道行ぶり(紀行文)にもあり迂回路も存在したようです。山越えですが。
行程
前編=藤掛橋(御手洗川)~宮内交差点~西国街道~地御前本道へ~御手洗川/御手洗橋~古い道標~地御前コミュニティセンターと道標~観音堂~
後編=西向寺と蓮華松~正行寺~古い町家など多いエリア~(洋画家)小林千古生誕地碑~地御前小学校/大銀杏~大歳神社と釈迦堂~地御前神社境内へ(国道開鑿碑、楠巨樹、地御前神社社殿、皇威輝八紘碑・寺内正毅書、絵馬、鳥居、狛犬など)→sm39369835- 35
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2021-09-22 19:04:02
厳島神社外宮「地御前神社」と「地御前本道(ほんみち) 」【まとめ記録編】サムネ=客人宮と大楠。いくつか画像を追加、整理 し直して記録として流れでまとめておく。
西国街道から宮内串戸あたりで西へ分岐した古い道で、宮内〜地御前へ抜ける。地御前=じのごぜんの意で、本宮厳島神社が御前、本土側が地の御前という意味。
行程=藤掛橋、宮内別れ〜宮内串戸・道の始まり〜御手洗川〜新広島四国八十八ヶ所5番智秀山 観音堂〜真宗 西向寺山門〜西向寺参拝(見事な蓮華松)〜正行寺〜釈迦堂、大歳神社や大銀杏〜地御前神社境内と国道開鑿碑。
明治維新後、旧西国街道に替わり交通の利便性の高い新しいみちが求められ開削され。小己斐峠(井口)〜地御前〜大竹へかけて今の海岸沿いの国道2号線が作られた。それまでは海岸沿いの道路はなく宮内から 峠、山越えのある険しいみちであった。
地御前神社のところまで続く。昔の地御前神社へ至る参詣の道でもあり、生活道として使われた(今も現役)
参考資料=地御前コミュニティセンター地御前の史跡、広島大百科、wikiを参照しています)
20年くらい前は古い街並みなど残っていたようです。現在もまだまだ幾らか町家やその風情が残っている。絵を残しておこう。古い道標なども残っていたり、御堂、お寺、神社、大木などいろいろある。
最近参拝に行くと新しくなった家が増えていますね時代です。
余談〜昔、海側の宮島街道が開かれるまでは、西へ行く道は宮内村から四郎峠を越えて行く(今も迂回路として交通量が多い)旧山陽道(西国街道)しかなかった。ただ、厳島に参詣し、その後 地御前から旧山陽道のおおの中山へ抜けた話が、室町初期の九州探題=今川了俊の道行ぶり(紀行文)にもあり迂回路も存在したようです。山越えですが。神社はいいねー
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2021-09-22 00:01:03
厳島神社外宮「地御前神社」と「地御前本道(ほんみち) 」【後編】(西向寺〜釈迦堂〜外宮 地御前神社まで)西国街道から宮内串戸あたりで西へ分岐した古い道で、宮内〜地御前へ抜ける。地御前=じのごぜんの意で、本宮厳島神社が御前、本土側が地の御前という意味。
行程=〜西向寺参拝(見事な蓮華松)〜正行寺〜釈迦堂、大歳神社や大銀杏〜地御前神社境内と国道開鑿碑。長くなってしまった・・。
明治維新後、旧西国街道に替わり交通の利便性の高い新しいみちが求められ開削され。小己斐峠(井口)〜地御前〜大竹へかけて今の海岸沿いの国道2号線が作られた。それまでは海岸沿いの道路はなく宮内から 峠、山越えのある険しいみちであった。
地御前神社のところまで続く。昔の地御前神社へ至る参詣の道でもあり、生活道として使われた(今も現役)
参考資料=地御前コミュニティセンター地御前の史跡、広島大百科、wikiを参照しています)
20年くらい前は古い街並みなど残っていたようです。現在もまだまだ幾らか町家やその風情が残っている。絵を残しておこう。古い道標なども残っていたり、御堂、お寺、神社、大木などいろいろある。
最近参拝に行くと新しくなった家が増えていますね時代です。
余談〜昔、海側の宮島街道が開かれるまでは、西へ行く道は宮内村から四郎峠を越えて行く(今も迂回路として交通量が多い)旧山陽道(西国街道)しかなかった。ただ、厳島に参詣し、その後 地御前から旧山陽道のおおの中山へ抜けた話が、室町初期の九州探題=今川了俊の道行ぶり(紀行文)にもあり迂回路も存在したようです。山越えですが。
前編行程=藤掛橋、宮内別れ〜宮内串戸・道の始まり〜御手洗川〜新広島四国八十八ヶ所5番智秀山 観音堂〜真宗 西向寺山門まで。長すぎるのでとりあえずここまでで。- 22
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2023-01-05 23:00:00
ST112-29補 山田の車窓から:JR山陽本線 宮内串戸駅→阿品駅【JR西日本ターミナル駅完全制覇の旅~関西・中国編~】JR山陽本線 宮内串戸駅→阿品駅
うp
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1970-01-01 09:00:00
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