キーワード山王神道を含む動画:15件 ページ目を表示
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2018-11-05 22:28:02
【神道シリーズ】第37回・山王神道(山王一実神道)①(天台宗の作った神道)中世になると、真言宗や天台宗がそれぞれの仏教理論に基づいて独自の神道理論を生み出し、その神道理論に基づいて古事記や日本書紀に出てきた神々仏様の眷属(仲間)にあてがい(これを「比定」と言います)、例えば、アマテラスの本地(本当の姿)は大日如来だとか(真言宗)、比叡山の神様(山王)は大物主神(大貴己神=大国主神)として仮の姿を現してるが、実は正体はお釈迦様なのだとか、全国の地方信仰(単純に山神とか川神様とか呼ばれていたようなもの)にこの公式を次々とあてはめて行きます(比定)。
そしてやがて日本国中の神々(八百万神)はすべて古事記の神様で、しかもその正体(本地)は仏様の眷属(阿弥陀如来とか不動明王とか、、)であると比定することにより、今日に繋がる地方信仰は作られて行きます。(これは古事記のストーリーとはまったく無関係に新たな(仏と神の)関係ストーリーが作られ、それが地方伝承として定着していきます。
山王神道(山王一実神道)や両部神道は、それぞれ天台宗、真言宗が作った神道(仏家神道)で、その後に生成された神道はすべてこの原理をベースに形成されています。
そういった意味では、「日本の神道を作ったのは天台宗と真言宗である」と言ってもまったく過言にはなりません。
今回は、その天台宗による仏家神道を見て行きたいと思います。薬師は家康の漢方通と通じるのかな? 東照ってアマテラスとかぶるな。ちょっと挑戦的な名前に感じるよね。 台密と東密
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2015-05-26 10:35:17
【鎌倉仏教シリーズ】第18回・平安仏教②天台宗(その2)6-2最澄は、法華経を中心に主要な大乗仏教典を統合した大乗教(円教)を目指しましたが、その弟子の円仁、円珍の時代になると密教色が強くなり、安然の時代に至って天台密教は完成をみます。しかし、円仁と円珍の弟子たちの時代になると、それぞれ山門派(比叡山・延暦寺)と寺門派(園城寺<三井寺>)に分かれ、先鋭な対立を繰り返し、山門派から鎌倉仏教や山王神道を、寺門派からは熊野修験を生みだし、発展していくことになります。
資料を捻じ曲げて説明する気分はいかがですかw ケツミコガミが古事記に出てきますかw わらったーーーーーーーーーーーー 「由真の宗教」五来重著をよめばPの愚かさがわかるwww これを否定しているのはおまえだ 大谷大学 五来重
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2015-05-26 09:55:10
【鎌倉仏教シリーズ】第18回・平安仏教②天台宗(その2)6-1最澄は、法華経を中心に主要な大乗仏教典を統合した大乗教(円教)を目指しましたが、その弟子の円仁、円珍の時代になると密教色が強くなり、安然の時代に至って天台密教は完成をみます。しかし、円仁と円珍の弟子たちの時代になると、それぞれ山門派(比叡山・延暦寺)と寺門派(園城寺<三井寺>)に分かれ、先鋭な対立を繰り返し、山門派から鎌倉仏教や山王神道を、寺門派からは熊野修験を生みだし、発展していくことになります。
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2015-05-26 11:09:18
【鎌倉仏教シリーズ】第18回・平安仏教②天台宗(その2)6-3最澄は、法華経を中心に主要な大乗仏教典を統合した大乗教(円教)を目指しましたが、その弟子の円仁、円珍の時代になると密教色が強くなり、安然の時代に至って天台密教は完成をみます。しかし、円仁と円珍の弟子たちの時代になると、それぞれ山門派(比叡山・延暦寺)と寺門派(園城寺<三井寺>)に分かれ、先鋭な対立を繰り返し、山門派から鎌倉仏教や山王神道を、寺門派からは熊野修験を生みだし、発展していくことになります。
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2018-11-12 22:41:03
【神道シリーズ】第38回・山王神道②(天台教学と山王神道について)天台宗の山王神道は中世日本(全体)に真言宗の両部神道とともに日本の信仰を二分割したと言っても過言ではないですが(真言系神道7.5対2.5天台系神道)、今回はその山王神道を裏付ける理論としてベースになっている天台密教教学を検証し、どのように天台宗の密教神道(山王神道)が形成されたかを探っていきたいと思います。
真言宗も天台宗も共通してる基本文献(経)は、①大日経②金剛頂経③理趣経ですが、天台密教はさらにこれに④蘇悉地(そちつじ)経(蘇悉地法)が加わります。
まずは、その蘇悉地法とは何か?というところから始め、さらには、天台宗が影響を与えた熊野修験や祇園信仰との関係、そして、天台宗の守護神(山門派は赤山明神、寺門派は新羅明神)がいずれも外国の神様たち(赤山明神>中国道教霊山の主神の泰山府君、新羅明神>新羅道教の神、さらに祇園信仰の牛頭天王(スサノオ)は新羅の神・・・)なのでしょうか?
日本で完成されたとする真言密教に比べ、天台密教は中国や朝鮮半島の影響が強く見られ、それが天台宗の神道、山王神道にも色濃く反映されてます。インド占星術とか関係ないのかな?
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2015-05-26 14:02:15
【鎌倉仏教シリーズ】第18回・平安仏教②天台宗(その2)6-5最澄は、法華経を中心に主要な大乗仏教典を統合した大乗教(円教)を目指しましたが、その弟子の円仁、円珍の時代になると密教色が強くなり、安然の時代に至って天台密教は完成をみます。しかし、円仁と円珍の弟子たちの時代になると、それぞれ山門派(比叡山・延暦寺)と寺門派(園城寺<三井寺>)に分かれ、先鋭な対立を繰り返し、山門派から鎌倉仏教や山王神道を、寺門派からは熊野修験を生みだし、発展していくことになります
山川草木悉皆成仏Pちゃんさすがだな
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2019-10-07 22:54:02
【神道シリーズ】第70回・八百万の神㉕求菩提山修験(天台宗山門派(比叡山)と寺門派(聖護院門跡)の天台修験の地)求菩提山の歴史は近世に書かれた「求菩提山雑記」に6世紀以降の猛覚魔卜仙(もうかくまぼくせん)による開山(526年)や、その後704年の役小角の入山、そして、720年の行善による求菩提山護国寺の建立などが求菩提山の古代史として残っていますが、その真偽はともかく、山頂から5~6世紀のものとされる須恵器(朝鮮半島から)が見つかってることから、6世紀頃から渡来系の雑密僧による開山が推測されています。
その後、12世紀に宇佐出身の辛島氏の系統(新羅系)の頼厳が護国寺入りし(平安時代)、中興の祖となり14世紀(室町時代)には、皇室から送られた彦山の雲仙寺の座主・助有法親王(安仁親王)によって始まった「黒川院」が求菩提山の如法寺(ねほうじ)も配下に置き、法親王が所属する天台宗寺門派の聖護院門跡(本山派修験)の傘下に入り、求菩提山も彦山修験の傘下に入ります。
16世紀に黒川院が黒田長政の息子の忠之によって破壊された後は、歴代の領主が座主となっていた如法寺が求菩提山信仰の主導権を握りますが、その如法寺を支えた
天台宗寺門派の聖護院門跡が求菩提山修験をリードしていく形になり、明治前まで続いて行きます。
明治の神仏分離で求菩提山護国寺も妙法寺も破壊され、明治に政府によって確立された神社神道の下、国玉神社が作られますが、今でも求菩提山祭祀は明治以前の火祭りやお田植祭などが行われています。- 145
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2015-05-26 13:50:11
【鎌倉仏教シリーズ】第18回・平安仏教②天台宗(その2)6-4最澄は、法華経を中心に主要な大乗仏教典を統合した大乗教(円教)を目指しましたが、その弟子の円仁、円珍の時代になると密教色が強くなり、安然の時代に至って天台密教は完成をみます。しかし、円仁と円珍の弟子たちの時代になると、それぞれ山門派(比叡山・延暦寺)と寺門派(園城寺<三井寺>)に分かれ、先鋭な対立を繰り返し、山門派から鎌倉仏教や山王神道を、寺門派からは熊野修験を生みだし、発展していくことになります。
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2020-09-14 23:18:02
【神道シリーズ・シーズン2】第4回・伊勢神道④和光同塵と百王思想伊勢神道が形成される背景には前回にも説明しましたように、真言系の両部神道(真言神道)が形成される中で真言密教勢力や天台宗(山門派)の山王神道や天台宗(寺門派)の熊野三所権現などが内宮の天照大神との一体論を唱える中、外宮が疎外され、元寇後税制にひっ迫した朝廷の経済的支援が得られなくなった外宮の立て直しが背景にありました。
真言宗や天台宗によって唱えられた「神国思想」(大日如来が天照の姿で降臨した世界唯一の神の国日本)はその外宮の伊勢神道の形成を促していくことになります。- 91
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2019-09-10 20:21:12
【神道シリーズ】第68回・六郷満山信仰【中編】六郷満山の天台寺院(神道無関係w)今回と次回の二回に渡って六郷満山の天台寺院を出来る限り紹介して行きたいと思いますが、
六郷満山(国東半島全体)は天台宗(本山派・寺門派)および天台修験道の一大拠点であり、ほとんどの寺院が天台系に属しています。
中国の天台三山に倣って三山方式と言って、本山(もとやま)、中山(なかやま)、末山(すえやま)に分類され、それぞれに本寺・中寺・末寺があるという形で、主要な天台寺院は28寺で、それぞれに所属する坊が今でも数多く残っています。
六郷満山信仰の特徴としては、比叡山天台宗の山王神道の影響で、阿弥陀如来・薬師如来を本尊とする寺が多く、一方で熊野修験を支配していた天台宗寺門派(聖護院門跡)も進出しており、こちらの影響で不動明王や六所権現なども同時に本尊として祀られています。
あと、六郷満山の魅力と言えばやはり摩崖仏で、多くは平安末期から鎌倉時代以降のものですが、中でも熊野摩崖仏や元宮摩崖仏などは有名です。
六郷満山の摩崖仏は6世紀以降の朝鮮半島(新羅・慶州)の摩崖仏の影響が大きく、朝鮮半島とも繋がりが大きいのも六郷満山信仰の特徴です。- 89
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2020-11-09 22:57:02
【神道シリーズ・シーズン2】第11回・伊勢神道と神道五部書(道教思想に基づく神道偽書)13世紀後半の元寇の後、それまで伊勢神宮両宮に対して最大のスポンサーであった朝廷が財政難になると、アマテラスを祀る内宮は真言や天台などの密教勢力は自らが称える密教系神道説(真言系⇒両部神道・天台系⇒山王神道・熊野権現)でアマテラスと大日如来や山王・熊野権現との一体論を唱えていたので資金面で苦労はなかったものの、そうした援助が得られなかった外宮は存続の危機に立ち、そこれで新たなる神道説の創設により外宮を盛り返そうという動きが出てきました。
そこで新たなる神道説を打ち出したのが外宮禰宜の渡会行忠で、彼は、真言神道である両部神道の理論書「中臣祓訓解」や「老子述懐」などの道教書をベースに伊勢神道の神道説構築に励んだのでした。- 88
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2019-09-02 22:42:05
【神道シリーズ】第67回・六郷満山信仰【前編】日本随一の天台王国・秦王国(神道無関係w)六郷満山は以前の「宇佐八幡宮」の放送の際にも若干触れてはいましたが、これだけ素晴らしい仏教伝統の色濃く残る文化をあれだけで終わってしまうのはあまりにももったいなく思い、今回は六郷満山だけを取り上げ、【前編】で宇佐八幡との関係史を、【中編】【後編】で六郷満山の多くの天台寺院を取り上げて行きたいと思っております。
六郷満山の寺社は、ほとんどが天台系であり、寺院はいうまでもなく、数少なく存在する神社も中世から近世に比叡山天台宗の山王神道や天台宗寺門派(聖護院門跡)の熊野修験の影響を強く受けており、祀られてる神のほとんどは出雲系であり、現在でも祭祀などは天台寺院の傘下にあります。
六郷満山も、恐山や秋葉、愛宕、石鎚、鞍馬山などと同様にそれまでの地元の仏教や修験道の信仰が強すぎて明治の神仏分離策で神社神道化(神社神道は明治期に創設された)に完全に失敗した一つの例とも言えます。らんろうおう 丹後ちゃうやん 行ってみたいな うP乙
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2023-02-15 21:40:02
【神道シリーズ・シーズン3】(思想編)第47回・合気道と道教と山王神道病弱だった植芝盛平がやがて小さな体で大男を軽々と投げ飛ばしてしまう合気道を創立するまでにはどのような経過があり、また、その合気道とはどのような思想の流れの中で形成されて行ったのか?その謎を解くところに今回の特集は焦点を当てる。植芝盛平は7歳の頃、近所の地元和歌山県田辺市の古義真言宗の地蔵寺の住職の藤本密乗の開く私塾で四書五経や真言密教の鎮魂法や祈祷を学び、また、32歳の時には移住した先の北海道遠軽の地で出会った大東流合気柔術の師範武田惣角から5年間、大東流合気柔術を学び、さらには、36歳の時には父の病気直しの為に大本教の本部のある綾部に出口王仁三郎を訪ねた時、出会った出口王仁三郎に感銘し、そのまま8年間綾部に住み込み、王仁三郎の、戦い回避を目指す言向け和しの無抵抗主義を学び、次第に盛平独自の合気道の道を開いていくこととなった。合気道の技のほとんどは大東流合気柔術から来てるが、その大東流合気柔術を可能にしたのは、創始者とされる鎌倉時代の新羅三郎を称した源義光が影響を受けた天台密教の作った神道理論、山王神道であった。山王神道は、真言宗系の両部神道とともに道教の影響を受けた中国の真言密教、天台教の影響を受けており、道教思想がその密教理論の中に展開されている。太極拳、少林拳、八掛掌、形意拳、心意拳などの中国武術は一様に道教の思想が根源にあり、日本の合気道や大東流合気柔術は天台系の山王神道を通じてこうした武術に繋がる道教思想を継承したのである。山王神道では、古事記・日本書紀では新羅王子、地方風土記では新羅の神とされる天日矛が日本に残した十種の神宝の中に中国武術に繋がる道教的思想を見出し、その中から鎌倉時代に大東流合気柔術が生まれ、そうして大正時代から昭和時代にかけては大東流や大本から独立した植芝盛平によって合気道は誕生した。平田系神道カルトの大本の流れを汲みつつ、一方で大東流や山王神道の中国道教の流れも汲む中、植芝盛平は、和合の精神を説き、人と競い合う事を好まれず、「自己の練磨」のみを目的とする試合無き武術、合気道の道を開いたのである。
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2020-11-02 22:24:02
【神道シリーズ・シーズン2】第10回・山王神道(天台密教と星辰信仰による神道理論)山王神道については以前に神道シリーズ・シーズン1で数回に渡って説明しましたが、今回はもっと深く突っ込んで、天台神道とも言われた山王神道の形成された時代的背景や天台密教理論および天台星辰信仰も絡めてさらに深い解説をして行きたいと思います。
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1970-01-01 09:00:00
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