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2024年6月25日 07時11分に生成された05時00分のデータです
2019-02-04 23:37:01
【神道シリーズ】第47回・八百万の神④天狗信仰(道教と密教修験道の習合が生み出した妖怪(仏教)護法神)天狗と言えば、鼻が高くて山伏の格好をして手に大きな葉っぱを持ってるようなイメージですが、実はこうした天狗のイメージが創られたのは室町時代(「御伽草子」)ぐらいからで、もともとの天狗とは中国の道教神話の中で、流星の隕石が狐(ないしは犬)のような形をしてるのが天狗と呼ばれていたのですが、遣唐使の僧旻(そうみん)はその妖怪的なイメージだけを日本に伝えたところから、後にそのイメージが平安時代になって仏僧たちによって開かれた全国の山岳信仰の間で修験道の山伏たちにより僧形の天狗の神のイメージが生まれ、修行を多く積んで強力な験力を得たものが天狗になったとされました。
その天狗は、権現神(仏の眷属が仮の姿として山の神となったもの)と重なり、日本の山岳信仰(全国)の中に浸透して行きました。
八百万の神の中でもこの天狗信仰は全国の山岳信仰に隈なく普及しており、むしろ天狗信仰の無い山岳信仰を探すことが困難なぐらいになってます。
後に江戸時代に国学が盛んになると、天狗を古事記の神サルタヒコに比定する動きも出てきましたが、天狗自体は古事記や日本書紀にはまったく無関係の修験の神だと言えます。
やがて真言宗や天台宗が全国の山岳信仰を制覇するようになると(平安~鎌倉時代)、天狗信仰も両派(当山派=真言系/山門派=天台系)の傘下に入って行きます。
明治時代には国家神道形成の為に多くの天狗信仰の寺が廃寺に追い込まれたり、寺が無理矢理神社にされたり、祭神が無理矢理古事記の神に変えられたりしましたが、1000年以上に渡る歴史は変え難く、今では完全に元の天狗信仰が全国で復活してきています。- 240
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2020-01-27 22:41:02
【神道シリーズ】第80回・早池峰神楽(両部神道<真言宗>がもたらした古事記の真言密教的解釈の当山派(真言系)修験芸能)早池峰神楽は平成21年(2009年)にユネスコの無形文化遺産に登録されましたが、この世界的に有名な神楽は岩手県早池峰山の麓の3つの地域に
3つの早池峰神楽が現在存在しています。
もともと早池峰神楽が始まったのは室町時代後半の15世紀後半頃からですが、9世紀より天台宗の拠点であった早池峰山信仰の中心の4つの院を持つ
妙泉寺のうち、西登山口の大迫(おおはさま)に位置する池上院妙泉寺は
14世紀に真言宗の支配下になり、その真言宗の進出には真言系の修験道と、真言密教が作った両部神道の思想や歴史観も同時にもたらされました。
両部神道の教義書(理論書)である「中臣祓訓解」の中に登場する瀬織津姫(せおりつひめ)(←古事記・日本書紀には出てこない神)が早池峰の地にもたらされ、十一面観音を本地とする早池峰権現の垂迹の姿としての瀬織津姫とされました。
一方、両部神道(真言密教神道)に基づく古事記解釈による早池峰神楽は
当山派(真言系修験道)の山伏たちの芸能として大迫の大償地区で発生し(15世紀後半)、その後、(大迫の)岳地区に伝わり、やがて江戸時代になると遠野の大出にも伝わり、3つの早池峰神楽が形成されて今日まで至っています。- 231
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2019-07-08 22:59:02
【神道シリーズ】第66回・八百万の神㉑秋葉大権現【前編】(勝軍地蔵と秋葉三尺坊権現信仰)明治以降さらに発展「秋葉山略縁起」によりますと、行基が秋葉山を開創し、聖観音・十一面観音・勝軍地蔵を掘り、本尊及び脇待として祀ったとありますが、秋葉山信仰の核心部分は、秋葉三尺坊(天狗)で、これは戸隠出身の実在人物だと言われ、信仰対象の中心になったのは14世紀頃(室町時代)と言われています。(「いつから」に関する正確な文書は存在しない)
秋葉信仰は、戸隠・飯縄・高尾山・愛宕とともに形成される「烏天狗修験ネットワーク」の一環として、同型の天狗・勝軍地蔵信仰・火伏せ信仰などの強い共通性があります。
秋葉寺の別当権を巡り曹洞宗の可睡斎と真言宗の当山派修験の確執がありましたたが、秋葉寺別当は可睡斎、秋葉修験は真言宗と棲み分けされたました。
秋葉山信仰の特徴は、明治の初めに秋葉山の秋葉寺が政府によって破壊され、無理やり秋葉神社を創設して、縁もゆかりも無いカグツチノミコトやイザナミを祀ったのですが、民衆による圧倒的な秋葉山大権現信仰の為、僅かその1年後に秋葉山秋葉寺は新設秋葉神社のすぐ隣に復活され、さらに明治以降、それ以前以上に勝軍地蔵と秋葉山三尺坊権現の信仰は高まり、人工的に作った本宮秋葉神社の影は薄くなり今日に至ってます。
徳川家康の時代に秋葉山の別当職を巡って曹洞宗の可睡斎と二諦坊の真言宗(当山派修験)の対立がありましたが、家康の裁定で別当職は可睡斎となり、当山派修験は秋葉の祭祀(火祭りなど)を協力して主催する立場となりました。
現在別当職は無くなりましたが、今でも秋葉山の大祭(火祭りなど)は、この可睡斎(曹洞宗)と当山派修験(真言系)が中心となって行われています。川連凡児でしょ
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2019-06-24 22:56:02
【神道シリーズ】第64回・八百万の神⑲愛宕山大権現【前編】(明治の弾圧を跳ね返して今日まで続く愛宕信仰)愛宕山信仰とは、8世紀に役小角と白山信仰創設者の泰澄による開山と言われてはいますが、実際には781年に僧都・慶俊(法相宗)による開山だとされ(「雍州府史」)、さらに、和気清麻呂による愛宕五山寺(白雲寺・月輪寺・神願寺・日輪寺・伝法寺)の創建により愛宕大権現が祀られた、とされています。
9世紀に天台宗が愛宕さんに進出すると、愛宕山の山頂に位置する白雲寺が天台宗の傘下となり、さらに愛宕山の別当(支配管理職)に任命されると、6つの院(かつて皇族が住職を務めたことがある寺院のこと)によって運営されてたこの白雲寺が実質的に愛宕山信仰の中心となりました。
さらに、この愛宕山は戸隠信仰(飯綱大明神・真言系)の影響で天狗信仰が生まれ、「愛宕太郎坊」として日本の天狗信仰の中心ともなります。
天狗信仰は、真言宗系の当山派修験が中心となり、戸隠・飯綱・高尾山・秋葉山・愛宕山と、稲荷大明神(真言密教に基づくダキニ天の白狐に乗った仙人)のイメージが重なり、「白狐・烏天狗」と「勝軍地蔵・不動明王・毘沙門天信仰」を共有する一大「天狗信仰ネットワーク」を形成しました。- 206
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2020-08-24 23:15:03
【神道シリーズ・シーズン2】第1回・伊勢神道①(伊勢神道の基本構造)神道シリーズ・シーズン2では、両部神道から伊勢神道、吉田神道、儒家神道、復古神道と、中世から近世の終わりまでの神道各派の流れを解説していく予定です。
まず、最初に伊勢神道ですが、伊勢神道は、真言宗系の両部神道を土台として、そこから密教的要素を排除し、代わりに道家(道教・陰陽五行)思想で理論付けするという形で形成されますが、この流れは後の吉田神道や江戸時代以降の儒家神道(垂加神道・吉川神道など)に引き継がれていきます。
今回はこの伊勢神道形成までの過程の概略を説明し、第2回以降にはそれぞれの過程の詳細説明をして行こうと思っています。- 152
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2020-04-13 22:43:02
【神道シリーズ】第89回・八百万の神㉞その他の山岳信仰(2)金剛山・後山・剱山など・・・今回は、金剛山(こんごうさん)(大阪府~奈良県)、後山(うしろやま)(岡山県)、剣山(つるぎさん)(徳島県)の山岳信仰を紹介したいと思いますが、
金剛山と後山は、いずれも役小角による開山開基伝承があり、後に真言宗(醍醐寺派)が進出して、それぞれ転法輪寺(てんぽうりんじ)(金剛山寺)、道仙寺(後山)が中世より近世を経て明治前までの間信仰の中心になります。
剣山は、近世以前の資料が乏しく、実際に資料で確認できる開山は江戸時代初期に山麓の龍光寺と円福寺(いずれも真言宗)によってなされ、当山派(真言系)の修験の拠点として幕末まで栄えましたが、明治の神仏分離で剣神社と真言系寺院との関係は強制的に絶たれたものの、現在でも山内には不動坂、垢離(こり)取川、弥山、行者堂、禅定場など修験にちなむ名称が多く残っています。大峯山も役小角の開山じゃなかったけか?これも尾ひれかもしれんけど 役小角の開山って言われてるのも、半分以上尾ひれだろうし 大陸の密教ていうより、日本のシャーマニズム的なものの変化だと思うけどなぁ
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2020-05-18 22:39:02
【神道シリーズ】第93回・八百万の神㊳その他の山岳信仰(5)安達太良山・霊山・飯豊山・根室山・鹿野山など・・・今回は、安達太良山(あだたらやま)、霊山(りょうぜん)、飯豊山(いいでさん)、室根山(むろねさん)、両神山(りょうかみさん)の山岳信仰を紹介します。
安達太良山の信仰の中心となった相応寺と円東寺は磐梯山の恵日寺と同じく法相宗の徳一の開基を伝えている(大同2年(807年))が、相応寺はその後度重なる火災に遭い、宝暦4年(1452年)玉井亀山に再建され、修験道当山派(真言系)の拠点となりました。
霊山の信仰の中心は天台宗の寺院である霊山寺で、貞観元年(859年)に慈覚大師開山と言われ、霊山山頂に寺跡があり、室町時代に伊達氏によって再建されたが、火災によって焼失。現在の霊山寺は、寛永17年(1641年)に寛永寺末寺として復興し現在に至っています。
飯豊山に祀られた五所権現は、五大虚空蔵の垂迹神とされ、山頂には金峰(きんぷ)神社、御秘所権現、空海護摩壇跡などがあり、当山派(真言系)修験の影響が強く認められています。
室根山は、閏年の翌年の祭は、奥州三神幸の一つと言われ、多くの人が集まり、祭礼や伝統には、羽黒派修験や本山派(天台聖護院系)の両方の影響が色濃く残されています。
両神山は、その歴史で記録があるのは中世以降で、・金剛院と当山派・観蔵院を中心とした両神修験の発展で、近世末(江戸時代)には本山派修験241,当山派修験148,羽黒修験39,の合計428ヶ寺の修験寺院が存在していたと言われます。(当山派・本山派・羽黒派の共存)- 113
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2020-07-20 23:00:03
【神道シリーズ】第101回・山岳信仰のまとめ【後編】(神道シリーズ・シーズン1最終回)今回は、神道シリーズ・シーズン1(古代~中世)の最終回で、シーズン1の中でも大半を占めた山岳信仰についてのまとめの後半になります。
山間修験道が生み出した山間芸能は今日の式舞や延年舞・権現舞や田楽、神楽・相撲などに繋がるありとあらゆる日本文化芸能に繋がって行きます。
聖徳太子の時代の前から百済から伝わった雑密(不動明王法・孔雀明王法など)思想に基づき8世紀頃から日本の山岳信仰は始まり、9世紀には密教勢力(真言・天台)の進出で現代の山岳地方信仰に繋がる修験道が確立します。
この山岳修験道は密教系宗派(真言・天台)により全国統一の修験修行のプラットフォームを形成していきます。(十界修行)- 102
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2019-08-26 22:06:03
【神道シリーズ】第66回・武州御嶽信仰【後半】武州・木曾・甲州御嶽信仰と明治の神仏分離武州御嶽、木曾御嶽、甲州御嶽(甲州金峯山)など、所謂「御嶽」信仰とは、8世紀の役小角発の蔵王権現を祀る修験道に由来していますが、もともと吉野や熊野で修行してきた当山派(真言系)や山門派(天台系)の修験者たちの修行の場としての山岳信仰だったのですが、これが江戸時代になると修験者たちの努力により一般人にも登拝が可能となり、修験者たちはそれまでの自らの修行を極める為の山岳信仰から一般人に信仰を広める御師(おしorおんし)として護摩焚き用の札(牛王札守<ごおうほういん>)を配り布教し、そのお札は別当寺の社僧・神主らによって焚かれ、その時の料金としての初穂料収入や、またスポンサー(檀那)からの寄付を集める役割をするようになりました。
こうした御嶽信仰は明治の神仏分離策の下、神社神道(国家神道)化した新設神社とは別に、教派神道の一派として全国の御嶽山信仰を連ねた「御嶽教」を形成して行きます。だいだいかぐら
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2020-04-27 22:57:02
【神道シリーズ】第91回・八百万の神㊱その他の山岳信仰(4)霧島山・久住山・牛尾山・開聞岳・硫黄岳今回は、九州でまだ解説してない霧島山(きりしまさん)・久住山(くじゅうさん)・牛尾山(うしおやま)・開聞岳(かいもんだけ)・硫黄岳を紹介します。
霧島山は、天暦(てんりゃく)年間(847~752)に証空の開基を伝え、そののち、霧島六社をもって霧島六社権現として発展し、明治前まではその各社とも、天台・真言の別当寺を持っていたが、明治政府により強制廃絶され、江戸時代以降に国学の影響でヤマトタケルが祀られた霧島神社のみが残っています。
牛尾山は、信仰の中心は法厳寺(単立の本山修験宗。本尊は十一面千手観音)が中心で、牛尾神社は:延暦11年(792)、出雲大社より勧請創建された古社で、もと八王子大明神といい牛頭天王を併せ祀り、地元では「天王さん」と親しまれており、現在でも修験道が盛んです。
久住山(九重山)は、文明2(1470)年、英彦山より養順法印(天台宗)が入山し、修験道場を建立、法華院白水寺と呼ばれるようになり、英彦山信仰に吸収されていきました。
開聞岳は、信仰の中心は別当寺の普門寺(真言宗)であったが、明治の神仏分離令の際に破壊されましたが、現在でも岩屋や石祠(せきし)などから、かつては当山派修験の名残が窺われます。
硫黄岳は、山麓に、蔵王権現と熊野権現を祀り、熊野権現は、この島に島流しになった僧・俊寛(真言宗)らの勧請と伝えられています。- 81
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2020-05-25 22:54:02
【神道シリーズ】第94回・八百万の神㊴その他の山岳信仰(6)鹿野山・蔵王山・神室山・大平山・七面山など・・・その他の山岳信仰、今回は、鹿野山(かのうざん)・蔵王山・神室山(かむろやま)・大平山・七面山(しちめんざん)を紹介します。
鹿野山の信仰の中心は真言宗の寺院の神野寺だが、推古6年(598)聖徳太子創建といわれ、霊場として栄えてきた。天正19年(1591)に徳川家康が佐貫城主 内藤家長に伽藍を造営させた。本尊は、薬師如来と軍茶利明王(ぐんだりみょうおう)を祭っています。
蔵王山はかつて「刈田嶺」と呼ばれ修験道の修行の場として多くの修験者が入山するようになり、吉野金峯山より蔵王権現が勧請され、いつしか「蔵王山」と呼ばれるようになり、奥州藤原氏の崇敬を受け興隆しました。
神室山は、農耕・養蚕の神の山として信仰を集め、ミニ鳥海山として「南鳥海山」の名前で地元では呼ばれており、「御田(おんだ)」に交じる雑草の割合で稲の豊凶作を占う祭祀があり、当山派(真言系)と羽黒派(天台の本山派から独立)の両派が祈祷などを行ってきました。
大平山は、古くからの薬師の峰・修験の山としての≪太平山信仰≫と、力の神・勝負の神を崇める≪三吉信仰≫があいまって、累代秋田藩主佐竹公の崇敬篤く、また戊辰の役では奥羽鎮撫総督九條道孝卿里宮に祈願されるなど、古来より勝利成功・事業繁栄の霊験高い守護神として崇敬されています。
七面山は、文永11年(1274年)に日蓮が開いた身延山久遠寺、また法華経を守護するとされる七面大明神(七面天女)を祀る信仰の山で、日蓮書状(「日蓮上人遺文」)にも記されており、日蓮の高弟である日朗が開いた山で、現在でも日蓮宗(一致派)の総本山となっています。- 71
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1970-01-01 09:00:00
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