キーワード新古今集を含む動画:5件 ページ目を表示
2024年6月18日 07時09分に生成された05時00分のデータです
2014-10-30 01:13:05
現代詩吟ブルーステイスト【初音ミク】百人一首第四番歌/山辺赤人
百人一首第四番歌/山辺赤人
新古今集巻六「題しらず」より
現代詩吟ブルーステイスト
モデル:Lat式雑音ミク(黒ミク)
本楽曲の一部はボカロデューサーを
用いて生成されたものです。
https://net.vocaloid.com/site/terms
編曲・動画:与那観Pブルースww うぽつ うぽつ
- 171
- 31.8
- 00.0
- 10.6
YouTubeで検索
2021-04-19 23:12:02
【神道シリーズ・シーズン2】第28回・本居宣長【前編】日本の「ジャック・デリダ」宣長の字音仮名遣本居宣長は享保15年(1730年)6月伊勢国松坂(現在の三重県松阪市)の木綿仲買商である小津家の次男として生まれ、8歳で寺子屋に学び、11歳で父を亡くし、16歳で商売見習のため江戸大伝馬町にある叔父の店に寄宿していたが、19歳で松坂に帰省すると、伊勢山田の紙商兼御師の今井田家の養子となるが、3年後、寛延3年(1750年)離縁して松坂に帰り、このころから和歌を詠み始めた。
22歳になると義理の兄が亡くなったため実家のあきないを継ぐが商売に関心はなく、店を整理して母と相談の上、医師を志し、京都へ遊学することとなった。
京都では医師で儒学者でもあった堀景山にに師事し、寄宿して漢学や国学などを学んだ。
景山は朱子学者でありながら反朱子学の荻生徂徠にも興味を示し、また国学者契沖の支援者でもあった。
宣長は、景山の影響で荻生徂徠や契沖の思想にも出会うこととなり、これが契機で国学への道を歩むことを決意したのである。
27歳になった5年後には地元松坂に戻り医者として開業し医業をはじめることになった。
そのかたわら自宅で『源氏物語』の講義や『日本書紀』の研究に励み、そして33歳になった時、大和から江戸への帰途で伊勢神宮に参宮しようとしていた賀茂真淵が松坂に泊まっていることを知り、宿を突き止めて真淵に邂逅し、いわゆる「松坂の一夜」という生涯で一回限りの真淵との面会を実現したのだ。
その後、真淵の門下生となった宣長は松坂と江戸との間の往復書簡による教授を受け、その関係は6年間続くもものの、正風体で書かれた万葉集ではなく、異風体で書かれた源氏物語や新古今集に興味を示した宣長は真淵の逆鱗になり絶縁されることとなった。
その後宣長は、71歳で世を去るまでの30年以上の年月を古事記解釈研究や日本語の仮名遣いや文法研究に費やすこととなり、その努力の結果は、「古事記伝」「玉勝間」『源氏物語玉の小櫛』『漢字三音考』などの形で結実することなった。
宣長は、古事記、万葉集などの万葉仮名という漢字当て字で書かれた書に出てくる固有名詞を従来の漢字訓読みから宣長本人が編み出した大和魂の読み方として字音仮名遣いをあてたことは、その後も日本で定着することとなり、あたかも古代よりそのような読み方をしていたのでは?と勘違いしてしまう人が続出するほどであった。- 94
- 00.0
- 44.3
- 11.1
YouTubeで検索
2021-05-29 19:18:02
持統天皇御製『春すぎて夏来にけらし白妙の衣干すてふ天の香久山』【VTuber/うぐいすもち】あーーー!!
この鳥、もうちょっと分かりやすくまとめられないんかい!(震え)
□参考文献□
『田辺聖子の万葉散歩』
『田辺聖子の小倉百人一首』
『ビギナーズクラシックス日本の古典 万葉集』
『ビギナーズクラシックス日本の古典 新古今和歌集』
『眠れないほどおもしろい小倉百人一首』
地図はグーグルマップをお借りしました!- 86
- 00.0
- 00.0
- 00.0
YouTubeで検索
2021-04-26 23:13:02
【神道シリーズ・シーズン2】第29回・本居宣長【後編】「直毘霊」「古事記伝」と妄想的皇国至上主義へ (2)医者になるために京都に遊学し、堀景山から医学のみならず契沖や荻生徂徠などの国学を学んだ宣長は、松坂の一夜で出会った賀茂真淵の指導の下、万葉集の読解に精を出したが、興味の方向は、真淵の嫌う中世風の源氏物語や新古今集で、次第に粗削りで素朴な古代日本人を好む真淵の教えから離れて、優雅で儒仏の影響を受けた中世文学を溺愛するようになった。
しかし、その一方では宣長がライフワークとした古事記の解釈研究にも取り組み、次第に宣長の思想は、皇国日本を中心とする強烈な国粋主義に走って行き、万葉仮名や日本語文法の研究、そして独自の字音仮名の開発とともに独善的とも言える唯我独尊的な古事記解釈を進めて行った。
源氏物語を溺愛した宣長は、一方では男女の色恋事の不条理や不貞行為を肯定的に受け止める「もののあわれ」の感情を日本人の気質とし、またその一方では、
太陽の神アマテラスを皇祖皇宗として戴く皇国日本は、その末裔たる天皇が国を治め、今日まで持続してることこそ日本が世界を君臨すべき地位になると豪語するような、ある意味偏狭とも言えるウルトラナショナリズム的な主張をする、という両極端な思想に走って行くのであった。
儒仏や道家を嫌う宣長は、外来の思想が入ってくる以前の皇国日本には「皇国の正音」というオリジナルな日本語があり、古事記に書かれたような日本の神々の信仰があったのだという主張の下、古事記をバイブル視するようになるが、残念ながらその主張の根拠となるものはなく、そこを同じ国学者の上田秋成から突かれた宣長は「あるからあるんだ」的な強弁になり、宣長は自ら作った復古神道にますますのめりこんで行った。
古事記を一般人が読める書にした宣長の功績は大きいものの、誇大妄想とも言える皇国日本中心主義は、皮肉なことに幕末の水戸藩天狗党の悲劇や昭和の日中戦争、太平洋戦争推進のスローガンともなり、戦後も日本保守運動の骨格部分となったのであった。女童心と漢意 『宣長の源氏学』おすすめです。失礼しましたm(_ _)m
- 74
- 11.4
- 11.4
- 11.4
YouTubeで検索
1970-01-01 09:00:00
- 0
- 0nan
- 0nan
- 0nan
YouTubeで検索