キーワード本地垂迹説を含む動画:12件 ページ目を表示
2024年6月24日 07時12分に生成された05時00分のデータです
2019-03-16 15:05:01
野獣先輩NKTIDKSG説出し得仮説
2019/3/18追記:
例のアレランキングで69位を達成しました
視聴者兄貴達、広告兄貴達ありがとナス!
2019/4/1追記:
3月投稿のNKTIDKSGランキングで79位(一応ネタバレにつき反転)を達成しました
NKDKランキング兄貴、視聴者兄貴達、広告兄貴達ありがとナス!最有力学会追放説 有力 野獣先輩も枕がデカすぎる 思ったより面白い 枕がデカイ→ネクタイがデカイんだから枕がデカイのも当然 ファッ!? マクラデカスギ氏 これはないですね 調 子 に 乗 る な 調子乗りすぎですよ~ 賞金首かな? 金川温香 笑っち...
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2018-04-24 00:08:53
【神道シリーズ】第14回・本地垂迹説(日本のすべての神々(朝鮮渡来の神々および人工神)は仏の眷属の化身とされる)宇佐八幡(八幡大菩薩)シリーズの第三話に進む前に、この本地垂迹説、つまり、日本の神々(元は朝鮮半島・新羅から)は仏の眷属(仲間たち)の化身であるとする思想をよく理解しておく必要があると思い、この一話を挿入することにしました。
八幡大菩薩が釈迦如来(本地)の化身(垂迹)だとされたのは9世紀後半で、本地垂迹説の先駆けだと言われます。
その後、11世紀、12世紀を通じて日本のすべての神社の神々は仏の眷属の化身であるとされるようになり、各神社に設置された神宮寺(神社を支配する寺)が中心となり各地独特の神仏習合文化を形成して行きます。
そして、これは一時期明治政府により否定され、神宮寺は破壊されたものの、この神仏習合思想は今日まで全国各地のお祭りや祭祀にまで生き続けています。
神社本庁を解体して全国神宮寺を復活させることこそが真に日本を取り戻すことだと思います。空海が軟禁されてるタイミングだったんすか!
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2018-04-02 22:51:24
【神道シリーズ】第11回・神宮寺(神道(古代朝鮮信仰)が仏教の傘下に下る)6世紀に百済から日本へ仏教が公式に伝来する以前から道教色(呪術的色彩)の強い雑密(ぞうみつ)と呼ばれる新羅仏教が新羅からの渡来人により伝えられ、皇族も豪族も競って自らの氏神を仏教へ帰依させようという動きが一機に広がりました。
これはそれまで信仰に無関係だった一般庶民の間にも雑密(新羅仏教)が燎原の火のごとく広まり、皇族や豪族たちもその時代の変化に対応したものでした。
そして、この動きは私度僧(無資格僧侶)たちによる神宮寺、つまり、氏神の仏教帰依を助けるお寺が日本国中すべての神社に建てられ、神宮寺が神社を支配する時代が始まります。
この神宮寺は平安時代になると真言・天台密教の傘下に入り、江戸時代終わりまで続く本地垂迹説の時代に突入します。
専門的なアドバイスは歓迎しますが、感情論、願望およびその場の思い付きに基づく非難、中傷は一切NGにします。年代はともかく『中世神道入門』などにもこれらの思想は書いてある。 それは嘘。何を基準にすべてと言っているかわからない。すべて見ることはまず不可能。 載ってなかったらないことになるんですか? 修験道についてもデタラメだろう ここにはあなたの言うことが載...
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2018-11-26 22:31:03
【神道シリーズ】第40回・両部神道②(伊勢神宮と両部神道の歴史)密教によって伊勢神宮が再興する平安時代始めの真言宗開宗(806年)以降、朝廷の信仰は真言宗中心となり、中には真如法親王のように平城天皇の皇太子でありながら皇位継承を拒否し、出家して真言僧となり、インドへの求法の旅へと出て行方不明となった皇族も出るほど皇室はこぞって真言密教の信仰に熱中しましたが、鎌倉時代に入り13世紀の元寇の時代を迎えると、真言宗の主流派は伊勢神宮の内宮(禰宜・荒木田氏)への接近を図り、伊勢神宮を真言密教の理論に当てはめ、内宮を胎蔵界、外宮を金剛界とし、神宮全体を真言密教の大曼荼羅として描くようになります。
仏教信仰が盛んだった当時、伊勢神宮でも氏寺で出家得度する伊勢神宮の神職(宮司、禰宜ら)が後を絶たず、こうした背景の中、伊勢神宮の内宮は次第に真言密教の支配下に入って行きます。
天照大神を大日如来の化身と位置づけ、真言宗による「神国日本」論を展開し、皇室や伊勢神宮の持つ荘園全体に大きな影響力を広めて行きます。
やがて両部神道は伊勢神宮に留まらず、真言宗の学僧、勧進僧、高野聖などを通じて全国の修験道に絶大な影響を与え、古事記や日本書紀に出てくる神々を密教理論の上で解釈を加えた新説を持って地方の信仰対象に比定して行き、密教的な本地垂迹説により日本全国の修験道を塗り替えて行きます。
そして、やがて記紀の中では名前の羅列だけだった神々にも「八百万の神」の地方伝承を作って行きます。- 284
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2019-01-07 22:44:02
【神道シリーズ】第44回・八百万の神とは?(仏神・外国神・人格神・家祖神・職祖神・女性神・・)八百万の神と言えば、日本にはありとあらゆる所に神様がいるというイメージで、特に保守愛国系の人たちの間では
「八百万の神こそは神道」と言う人が多いですが、実は、八百万の神とは、縄文のアニミズムから生まれたものでもなければ、古事記・日本書紀に出てくる多くの神々そのものが実際に存在した日本各地の神々を取り上げてるわけでもなく、奈良時代から平安時代にかけて雑密や純密と言った密教系の仏教勢力を中心に形成された山岳信仰や地方信仰が確立していく中で、本地垂迹説的に後世になってから古事記や日本書紀の神々が(密教系の中世神学によって)あてはめられて行ったというのが実体です。
古事記や日本書紀に出てきた数々の神々は基本的に名前の羅列だけでその背景の詳細が書かれてるものではありませんでした。
それが、真言宗(三宝院)や天台宗(聖護院)の密教系神道を通じて本尊を仏の眷属としつつ、その垂迹(仮の姿)としての神々として古事記や日本書紀に名前の羅列だけだった神々を借用し(これを比定と言います)、中世の神道説(これが現在まで地方祭祀に反映されて行きますが)が形成され、定着して行きます。
そこには、外国神(中国・朝鮮からの播神)や仏教天部の神々、道教の神々、ヒンズー教の神々などがさまざまな形で八百万の神を形成して行く姿が見られます。
一方、中世以降の御霊信仰(古事記・日本書紀無関係)なども仏教(密教)の法会によって慰撫するという形で鎮霊・除霊がされ、天神などの御霊も八百万の神の一部となって行きます。- 260
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2019-06-18 00:02:03
【神道シリーズ】第63回・八百万の神⑱金毘羅信仰【後編】まなすさんの金毘羅観光動画を見ながら発展する「こんぴらさん」を解説明治になると、それまで古代より祀ってた権現神(本地垂迹説の仏教神)が山岳信仰から政府により外され、山岳信仰の中心になってきた寺院を破壊し、まったくその山岳信仰に縁の無い古事記の神々を祭神として祀る神社を新設する動きが全国に及びましたが、ここ象頭山では、15世紀以降信仰の中心になっていた金光院松尾寺(真言宗)の祀る本尊・十一面観音と垂迹神・金毘羅大権現の松尾寺が廃仏毀釈によって破壊されたのですが、なんと、その後に新設された「金刀比羅宮(琴平神社)」の初代宮司には、金光院松尾寺(真言宗)の最期の院主の宥常が就き、新社伝こそ平田派国学系の出雲大社教の「大物主神の行宮先の<琴平宮>が起源」という捏造を受け入れたものの、あたかも「隠れキリシタン」ならる「隠れ金毘羅」と言えるべき、
本尊の十一面観音を死守し、さらに「厳魂(いづたま)神社」なる摂社を境内の中に作り、厳魂彦命という名の下、
金毘羅金剛坊大権現を本尊十一面観音の垂迹神として祀り、今日に至ってます。 神社の名称も「琴平」ではなく「金刀比羅」と、読み方によって「こんぴら」と読めるように改称したのも宥常の見事な「隠れ金毘羅」業でした。
今回は、こうした歴史をおさらいする意味を含めて、生主のまなすさんの金毘羅詣りの旅のビデオを皆さんとともに鑑賞したいと思います。風情がありますな
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2018-12-17 22:14:02
【神道シリーズ】第43回・両部神道⑤富士山修験(理論は両部神道で管理は聖護院<天台宗寺門派>)日本の山岳信仰が具体的な神名を持って信仰されるようになったのは真言密教による両部神道が確立した鎌倉時代以降ですが、密教僧たちは山に登頂し、そこに仏の眷属を祀り、さらに古事記の神々の中から選んで比定し、仮の姿として古事記の神様の姿になるときがあるとしました。
これこそが日本における「八百万の神」信仰の始まりであり、古事記に出てくるコノハナサクヤビメも、火山という属性だけで大日如来の仮の姿であるとされ、それが富士山においては浅間(せんげん)大権現として祀られ、信仰されるようになりました。
つまり、もともと民衆の間に古事記の神々の信仰があって、それが八百万の神の信仰になったのではなく、密教僧らによって形成された山岳信仰の中心をなす本地垂迹説として古事記の神々が採用されていったのです。
富士山修験が始まったのは13世紀に仏僧の末代(まつだい)が富士山頂に登頂して大日寺を創建し、大日如来を祀ったことから始まります。
16世紀になって富士講を統合組織した長谷川角行は、役小角の夢告で富士山に登頂して以降、大日如来=コノハナサクヤビメを浅間大権現として信仰する一神教的意味合いの浅間権現信仰を確立し、以降、弟子たちによって村上修験(富士山修験をそう呼びます)の富士講は江戸時代には全国に広がって行きます。
明治に神仏分離で浅間神社の祭神はコノハナサクヤビメとされましたが、今日でも浅間大権現の信仰は続いており、村山修験の流れを汲む修験道の団体が伝統を引き継いでいます。- 226
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2019-01-22 09:08:01
【神道シリーズ】第45回八百万の神②(一目で分かる図解・修験道の構造)八百万の神と言うと、古事記に出てくる神々の信仰が古来からあってそれに対する国民の信仰があったような勘違いをしてる人が多いですが、実際に現在の地方信仰に繋がるような八百万の神信仰は8世紀の奈良時代の頃から雑密(呪術密教>主に朝鮮半島より伝わる)の私度僧たちにより、役小角信仰の全国拡散を通じ、そして、本格的には9世紀になってから本地垂迹説が進み、既に全国に広がっていた仏の眷属をそれぞれの山の本尊とする信仰と、既に護法善神(仏教守護者としての氏神)となっていたすべての公家・貴族の氏神の本地(本来の姿としての仏の眷属)を設定(比定)する動きと、されに元寇来襲を境に真言密教の両部神道理論の下、密教勢力による日本書紀解釈(真言密教的解釈)が進み、その解釈研究活動が伊勢神宮や宮中に及び、中央・地方の、既に存在していた〇〇権現(仏の眷属の仮の姿としての神)の、さらに仮の姿としての「古事記・日本書紀に出てくる神々」が当てられて(比定されて)行きます。これが今日に続く「八百万の神」の信仰となります。
純粋な仏教もないよな
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2011-09-30 00:16:12
こんぴらさん四国へ旅行へ行った際に立ち寄った金刀比羅宮
石階段が結構長くて登るのが大変
でも、神社やお寺は神聖な感じがあって良いものですね
<歴史>
讃岐のこんぴらさんの名で親しまれている金刀比羅宮(ことひらぐう) は、琴平山(象頭山)の中腹に鎮まります。中古、本地垂迹説(ほんちすいじゃくせつ)の影響を受け、金毘羅大権現(こんぴらだいごんげん)と改称し、永万元年(1165)に相殿に崇徳天皇を合祀する。その後、明治元年(1868)に神仏混淆(しんぶつこんこう)が廃止されて元の神社に復(かえ)り、同年7月に宮号を仰せられて、金刀比羅宮と改称し、現在に至っています。資生堂パーラーさんがこの角にあります ここと同じところに神馬さんもいますよ 機会があれば奥もどうぞ 桜の季節超お勧めですよ^^ 犬のストラップかわいいよね 2011 なついw 2 うぽつです
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2018-07-10 00:38:02
【神道シリーズ】第25回・熊野信仰(別当・検校と九十九王子)天台修験が支配する熊野②熊野信仰は、基本的には①雑密(新羅系の道教的密教)②天台修験(天台宗寺門派)③一遍の浄土信仰④観音信仰から成っています。
熊野三山の神々に古事記の神々を割り当てたのは後世(室町時代~江戸時代)であって、もともとは熊野川の神や(ゴトビキ)岩の神(速玉神)などで、これが仏の眷属と結びつけられ、本地垂迹説の下、極めて仏教色の強い独自の熊野信仰が完成します。
今回は、熊野古道と言われる和歌山県の海外線から本宮・新宮・那智へ至る道の途中に築かれた九十九王子と呼ばれる中継地点や、熊野検校や熊野別当(どちらも天台宗寺門派が独占)について説明します。自然神信仰がことごとく朝鮮半島由来だといいきれる根拠の説明が弱いかな。似てるものが半島にあるというだけでは漠然としすぎている。
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2020-01-06 22:15:02
【神道シリーズ】第78回・箱根山信仰【後半】箱根大権現と浄土真宗(親鸞上人)室町時代に本願寺(山科本願寺)三世の覚如によって書かれたとされる「親鸞伝絵」の中の「箱根霊告」の中には、親鸞上人が箱根山の訪れ、箱根大権現に会い、権現が感動して
翁を通じて親鸞上人を厚遇した、という下りがありますが、
果たして、神祇不拝(阿弥陀如来だけを信じて邪神は一切信じるなという事)を訴えていた親鸞が何故その神祇(神様という意味)である箱根権現に会い、敬意を払ったのか?というところが近年学者の間でも議論の対象になってきました。
実際に親鸞が箱根を訪ねたかどうかについては、越後より関東(常陸)に旅していた親鸞が54歳の時にこの地箱根を訪ねたことは地元での伝承などからしても事実であろうと見られてますが、「箱根権現との出会い」の部分については後世の創作だと推測されています。
浄土真宗(明治前は一向宗とか門徒宗と呼ばれていた)は覚如の室町時代から8世の蓮如の戦国時代にかけて急速な勢力拡大を始めており、それまで本地垂迹説で成立していた地方の権現信仰の地域を制圧する為にも「箱根霊告」(覚如)のような説話が必要であったのではないか?と推測されています。- 81
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1970-01-01 09:00:00
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