キーワード正覚院を含む動画:9件 ページ目を表示
2024年6月21日 07時11分に生成された05時00分のデータです
2024-04-22 10:43:04
【ニコニコ登山祭】カメラ担いで♪♪巡る芸州路「厳島神主家の守護神 廿日市天神 篠尾山登拝」 広島県廿日市市旧西国街道の廿日市宿跡の篠尾山(29.2m) 山頂に天満宮が鎮座する信仰の山。
桜尾城主 厳島神主家 藤原氏の守護神として祀られたものである。
藤原氏は毛利と同族(大江氏系)らしいです。
一部単なる解説ナレーション用としてVoicepeak彩澄りりせを利用。
行程
廿日市天満宮、正覚院、桜尾城跡(桂公園 桜の名所・・ちょい写真だけね)
撮影:オリンパスOM D EM1 markⅢ Olympus M.Zuiko Digital ED 12-40mm F2.8 Pro
広告御礼申し気ます ^^;人
PLYPLRS@エゾリス姉貴様
おじいちゃん様
丑年様
みみずく1000%様
運松翁様
ゲスト様
龍休宗庵様
deco様
nopposan様
しづ様
ゼルディア様
黒船様いい動画やった。 おつおつ ええやん 見事な法面だ おっすおっす 素敵ね 祈祷力+1919 街の中のこういう眺めも好き 合体してから分離したのね お、おう かわいいな 800年も前か エエヤン 栄えてる神社だな 鎌倉時代か 人 おつ こみかる おつで...
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2023-02-10 20:39:02
地元紹介祭 広島県・カメラ担いで♪♪【大鳥居修復完了した宮島とその周辺風景あれこれ】宮島と宮島街道周辺の関連 風景紹介。
地御前海岸、阿品海岸
宮島〜
大鳥居(いろんな美しく見える場所)
荒胡社(かつて金剛院の鎮守だった)、大元社(摂社で地主神とも言われる古社)
多宝塔(江戸時代は薬師如来をまつり大願寺に属していた、今は厳島神社付属)
光明院のあたりから塔の岡を見下ろして
町家通り・献灯あれこれ(R5一月からの献灯〜)
(参道商店街海側)有の浦海岸風景 と瀬戸の海上風景昼間と夕暮れ
廿日市市西端から宮島
廿日市天神と早春と夕暮れ
篠尾山に鎮座 厳島神主家(桜尾城主 藤原氏)の出城 篠尾城があった山 今は裏側などだいぶ削られて神社と正覚院(旧天神坊)が残るのみ。
PENTAX k-70きれいやなあ うぽ すごくええやん… 美しい! わー綺麗 なんだお前ら!? 五重塔は絵になるね おおー かわ ここすき 牡蠣の次はホタテ おお、あの工事終わったんだ
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2021-02-16 23:30:02
【西国街道 】今に残る【廿日市 街道松】と【桜尾城趾(桂公園)】 廿日市市桜尾〜天神西国街道旧跡〜廿日市(はつかいち)市で唯一残された文化財「街道松」。街道筋には幕府により4キロごとに一里塚(松とか木を植えてあった)さらに6mごとに街道松が植えられたという。大変なものですよね距離を考えただけでも。
訂正=文政二年の記録では五十八本→六十八本(が正しい)
桜尾城址(鎌倉初期 承久の乱の後 厳島神主家 藤原親実が築城し支配の拠点とした城)鎌倉末、室町〜戦国期は国人領主として下向して定住 神領を支配した。三方が海であり水軍もあった。
次第に衰退し神主家継承争いにつけ込まれ友田興藤の時代に大内氏により滅ぼされ〜大内氏が城代を置く〜厳島合戦前に毛利に落とされ〜桂元澄が城番〜さらには城主となる。
桂元澄死後は毛利(穂井田)元清の居城となる。関ヶ原の後、福島正則時代に廃城とされた。
元澄の子孫 元首相の桂太郎が買取、廿日市へ寄贈されて公園となる・・しかし戦後都市公園に作り替えてしまい城跡遺構は消滅した。
ちなみに上記三名のお墓は廿日市駅の北側の洞雲寺にある(陶晴賢の墓もあり)
妙見菩薩堂があるがこれは大内氏時代に大内氏の守護神 氷上山興隆寺の妙見社から勧請されたものらしい(「はつかいちぶらり」ブログHP参照)
廿日市招魂社=桂公園の山を見ながら進むと、大きくカーブした鍵型の辻の先にある。維新以後の戦没した英霊を祀る昭和十四年建立の神社。明治天皇が巡行でここにあった邸宅で休憩されたので記念碑がある。
廿日市天満宮=旧廿日市宿にある神社。江戸時代までは「天神坊」と呼ばれた神仏習合。今は分離され同じ狭い山頂に天満宮と正覚院が並んでいる。桜尾城の支城 篠尾城跡でもある(ただし遺構はない)
はつかいち宿 鍵型の辻と福佐売(ふくさめ)神社 sm38273096- 62
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2021-02-10 09:14:02
【西国街道 廿日市宿場跡】厳島神主家 桜尾城の鎮守「 廿日市 天満宮 」(旧廿日市の総氏神)(一)はつかいちの天神山 (篠尾山sasao yama)ちょいとだけ山登りです。創建は古く鎌倉時代承久2年(1220年)文官中原親能(大江広元の兄)の一族とも言われるている(毛利などと元は同族らしい)鎌倉幕府・御家人藤原親実が、厳島神主に任命され桜尾城に着任 。wiki参照。
天福三年(1233年)篠尾山に荏柄天神より守護神としてより勧請したものと伝わる。やがて室町期に安芸へ下向して国人領主化していく。 戦国末期郡山合戦ののち大内氏に反旗を翻した 厳島神主家が滅んだ後、次第に社運衰微して慶長五年に広島藩西の商業都市廿日市の氏子により再建されたといい「別当寺天神坊」と号した。その後、町の鎮守として続いてきた。神仏習合なんかわくわくします。
江戸期は、佐方八幡(佐方地区)、新宮社(下平良)をも勧請し広島藩の西の大きな宿場である廿日市の総氏神とされた。
明治以後、別当寺正覚院と天満宮が分離独立された。山上で並んでますけどね。
調べてみて元々桜尾城にあったものを遷座したか? 笹尾山(支城)に初めから社殿があったのか?いくつか微妙に違う説明を読みましたが一度郷土関係の本を探して調べてみないと。
廿日市宿本陣あとの石碑〜参道を上り、山上の社殿前〜展望の休息所南〜東方面の眺めまで。
狭い山頂に社寺のある山腹にあるコンクリートの補強と大楠が印象的な山。
2018年に西国街道筋をぽつぽつ歩いたり散策するようになってからたまに参拝します。なかなかいいです梅とか景色とか巨木とか歴史とかね。
長いのでその2 後半は西方面の展望〜正覚院・千年大楠。
天満宮関連神社
新宮神社(藤掛城主が建立した〜下平良の氏神)sm38156694
西国街道を少し進んだ宮内にある 宮内天王社(宮内上組の氏神)sm37969384
桜尾城支城があった藤掛山の広田神社 sm36972757
少し西にある厳島神社外宮 地御前神社 sm3738415
上平良にある二ノ宮 延喜式内社名神大社 速谷神社 sm35298947- 40
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2021-02-12 22:50:02
【西国街道 廿日市宿場跡】厳島神主家 桜尾城の鎮守「 廿日市 天満宮 」(二)旧別当寺正覚院と「巨樹 千年楠 」後半は旧別当寺正覚院と山頂の千年「大楠」など 少しパワスポ編です。*西側の眺め〜鐘楼〜正覚院〜千年楠巨樹〜参道を下る。参道大鳥居近くの今が盛りの蝋梅(2月12日に再度訪れた終わってました)
旧厳島神主家の守護神で、廿日市駅の南側にあり電車からも見える目立つ天神山(篠尾山)
明治後、天満宮と真言宗 正覚院(寺伝では行基開基とも言われ相当古いようです)に分離された。
天神の創建は古く鎌倉時代承久2年(1220年)文官の中原親能(大江広元の兄)の一族中とも言われるている鎌倉幕府・御家人藤原親実が、厳島神主に任命され、桜尾城に着任 天福三年(1233年)笹尾山に荏柄天満宮より守護神として神霊を勧請したものと伝わる。
のち藤原氏は鎌倉末期安芸国へ下向し国人領主化した。
篠尾山は厳島神主家の居城「桜尾城」(三方を海に囲まれていた)の支城の一つであったという。今山は小さくなっていますが・・・。
戦国末期 厳島神主家が滅んだ後も大内氏が祭祀を命じていたらしいですが、大内氏も滅び次第に衰微してしまう。江戸時代の慶安5年町の氏子の寄進がおこなわれ社殿が再興され傍らの神宮寺と共に神仏習合しており「別当寺天神坊」と呼ばれた。のちに新宮神社(下平良)、八幡宮(佐方)も勧請され〜 旧廿日市全域の鎮守・総氏神として続いてきたという。 神社庁、廿日市天神HP縁起参照。
廿日市総氏神 廿日市天満宮(1)(新宮社も勧請されている)sm38258080
新宮神社(藤掛城主が建立した〜下平良の氏神)sm38156694
西国街道を少し進んだ宮内にある 宮内天王社(宮内上組の氏神)sm37969384
桜尾城支城があった藤掛山の広田神社 sm36972757
少し西にある厳島神社外宮 地御前神社 sm3738415
上平良にある二ノ宮 延喜式内社名神大社 速谷神社 sm35298947- 39
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2022-02-17 11:56:03
【天神さまの〜観梅】西国街道 廿日市天満宮境内&初春の広島湾の眺め梅の花がちょうど見頃で(一部まだ蕾の木もあった)ちょいと山登り(わずか)して散策した。場所は宮島も近い旧廿日市の中心部で旧道の旧山陽道(西国街道)が 社前を通っている。宿場町跡である。
廿日市天満宮(すぐ横が旧別当坊の正覚院)
創建は厳島神主家に就任した藤原親実により荏柄天神を勧請した桜尾城の鎮守として建立されたもの。
山は開発で峰続きがなくなっているが、桜尾城の支城〜篠尾城があった。墓地などがありそれが山の名残かなと思う、裏からも道があるようです。
江戸時代までは天神坊と呼ばれた神仏習合の寺社。
小高い山上からは極楽寺山、野貝原山(のうが高原)、舟倉、権現、経小屋の山々、
宮島〜能美島、似島、広島市方面の広島湾の島々が一望である。
音楽 ニコニ・コモンズ
のる様作
やさしいひととき。.*:+☆ジャズ風・優しいピアノソロ
donさま作
halfway through one's journey- 32
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2021-09-12 01:01:02
廿日市総鎮守 篠尾山「廿日市天満宮」からの夏の展望 風景廿日市天満宮 創建は厳島神主家 藤原氏の桜尾城の鎮守として建立された。篠尾山sasao yamaちょいとだけ山登りです。大変眺めが良い。都市化されてしまっていますが広島湾の島々がよく見て取れます。宮島なども指呼の間に見えて厳島神主家の支配の出城とされた場所です。
快晴より多少雲がある方が変化があり景色は面白いですね。
創建は古く鎌倉時代承久2年(1220年)文官中原親能(大江広元の兄)の一族とも言われるている(毛利などと元は同族らしい)鎌倉幕府・御家人藤原親実が、厳島神主に任命され桜尾城に着任。wiki参照。
厳島神主家が滅んだ後、次第に社運衰微して慶長五年に広島藩西の商業都市廿日市の氏子により再建されたといい「別当寺天神坊」と号した。その後、町の鎮守として続いてきた。
江戸期は、佐方八幡(佐方地区)、新宮社(下平良・動画あり)をも勧請し広島藩の西の大きな宿場である廿日市の総氏神とされた。
明治以後、別当寺正覚院と天満宮が分離独立された。山上で並んでますけどね。- 28
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2021-09-12 12:19:02
【廿日市 天神 山麓界隈散策】〜真宗 蓮教寺と大蘇鉄 (はつかいち市天然記念物)天満宮の山麓界隈を散策。本陣後の楠と石碑〜JR駅側からの風景〜西側山麓の浄土真宗 古刹 蓮教字と県下第4位ソテツの古木、境内風景。広島県歴史散歩に出ていたのでお参りしてきた。結構風情があります。
注)三業惑乱(さんごうわくらん)=浄土真宗で江戸時代本山学頭 功存により 意(心)口(言葉) 身(身体活動)の三業を通して弥陀仏に救済を求め全てに信心帰命の姿が伴わねばばらぬとした自力要素のあるものだった。これに対し批判が起こり 安芸の学僧大瀛(だいえい)らはその資料を集め団結、批判を展開した。宗派内では解決できず幕府の寺社奉行の前で討論がなされ古義派の安芸学僧らが勝って異安心(異端説)が正された。しかし騒動中に死者や獄死者や遠島、本山の閉門100日間の沙汰も出るほどの騒動となり真宗史上の大事件であった。wiki参照
廿日市天満宮 創建は厳島神主家 藤原氏の桜尾城の鎮守として建立された。篠尾山sasao yamaちょいとだけ山登りです。大変眺めが良い。都市化されてしまっていますが広島湾の島々がよく見て取れます。宮島なども指呼の間に見えて厳島神主家の支配の出城とされた場所です。
厳島神主家が滅んだ後、次第に社運衰微して慶長五年に広島藩西の商業都市廿日市の氏子により再建されたといい「別当寺天神坊」と号した。その後、町の鎮守として続いてきた。
江戸期は、佐方八幡(佐方地区)、新宮社(下平良)をも勧請し広島藩の西の大きな宿場である廿日市の総氏神とされた。
明治以後、別当寺正覚院と天満宮が分離独立された。山上で並んでますけどね。- 22
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1970-01-01 09:00:00
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