キーワード池田光政を含む動画:7件 ページ目を表示
2024年7月21日 07時10分に生成された05時00分のデータです
2009-04-06 19:37:32
【戦国巡礼ツアー】城めぐりin岡山城 宇喜多直家篇【もりゅのみや】今回は桃太郎で有名な岡山県の岡山市にある"烏城"(うじょう)こと岡山城を探索します。
宇喜多直家・宇喜多秀家・小早川秀秋・池田光政ら個性はぞろいの彼らが城主を務めた岡山城を、おなじみもりゅのみやと共にまわりましょう。
お借りしました曲など⇒mylist/9926878
他ツアー⇒mylist/6560210
城めぐり⇒mylist/12362699
DAJO☆⇒mylist/14552981
巡礼順序☆ 蒲生氏郷篇sm6374004前2-2←2-3→2-4次sm6945310井伊直政篇岡山城めっちゃネコいるよなw おお そうでもしないと生き残れない激戦区だからな 2 忠家「せ、せやな・・・」 吉川広家「最後に笑うのは毛利やな」 宇喜多忠家「あわわわ・・・」 直家「そうですか(チッ・・・暗殺して首手土産にしようと思ってたのに・・・)...
- 3,829
- 3108.1
- 00.0
- 471.2
YouTubeで検索
2015-07-24 17:14:03
名君保科正之〜明暦の大火編Amazonにて発売中の歴史漫画立ち読みVer.です。動画は台詞が読めないので静画(http://seiga.nicovideo.jp/comic/17220)をご覧ください。この物語の主人公「保科正之」は、別名「消された名君」と呼ばれ、かつては徳川光圀、池田光政と並ぶ、江戸初期三代名君の一人。このお話はそんな彼の数々の活躍の中から、江戸時代の最大の大災害となった明暦の大火を題材に、ちょっとスピリチュアルなその隠された秘密に迫る!
意味ねぇ 読めねえwww
- 1,110
- 20.2
- 00.0
- 00.0
YouTubeで検索
2016-02-21 22:13:14
【金烏】備前国岡山城 平成26年(2014) 仲冬2014年の12月、岡山県岡山市にある岡山城を訪れました。
宇喜多直家が金光宗高から岡山城の前身である石山城を奪い、改修し、
その子宇喜多秀家が天正18年(1590)から本丸を移し、烏城とも呼ばれる
黒漆塗りの下見板張り、五重六階の天守を築きました。
関ヶ原後は小早川秀秋が入封し、池田氏が続いて改修を継続、
寛永9年(1632)頃にほぼ現在の姿となりました。
二の丸は市街地となっていますが、石垣等が所々残っており、
古地図を見ながらの散策も楽しめる城郭となっています。
宇喜多秀家の眠る八丈島自転車の旅→sm28271836
お城→mylist/37297571- 354
- 20.6
- 00.0
- 41.1
YouTubeで検索
2022-01-02 12:52:02
これは虚仮の一念男の物語――「西品寺鮪介」山本周五郎【朗読時代小説】 読み手七味春五郎 発行元丸竹書房針を据物斬りで真っ二つに! という本願をたてて、丸三年も修行してきた鮪介。じつは剣術修行は五日としていない。そんな彼が剣の達人とみこまれたことから、まきおこる騒動を描いた、山本周五郎の滑稽物です。
■登場人物
西品寺鮪介……農民だが、針割本願をたて修行をしている。
佐分利猪十郎……鳥取藩士。鮪介の剣をみて、道場に招く。
沢平……鮪介の父。
六助……鮪介の兄。
お民……長左衛門の娘で、鮪介の許婚者。
吉原不倒斎……鮪介の師匠。えせ剣術家
戸田市郎太……鳥取藩士。
岡田甚五兵衛……鳥取藩士。
池田光政……鳥取藩主。鮪介を藩士に取りたてる。
■用語集
慮外(りょがい)……思いがけないこと
拝察(はいさつ)……推察をへりくだって云う
慇懃(いんぎん)……真心がこもっていて、礼儀正しいこと
今様(いまよう)……当世風。今風
来駕(らいが)……来訪を敬って云う
やおら……おもむろに
つぶさに……詳細に。
上地(じょうち)……良い土地
野廻り(のまわり)……農事視察
■この動画の目次
0:00 一
4:13 二
10:23 三
16:51 四
22:17 五
29:09 六
35:43 七
39:43 八
#山本周五郎 #朗読時代小説 #短編- 190
- 00.0
- 00.0
- 10.5
YouTubeで検索
2021-08-23 22:55:02
【神道シリーズ・シーズン2】第40回・熊沢蕃山【後編】人物史編(あえて選んだ不器用な生き方)熊沢蕃山は、元和5年(1619年)京都稲荷(現・京都府京都市下京区)の浪人であった父・野尻藤兵衛一利と母・亀女の6人兄弟の長男として生まれたが、口減らしのため8歳の時、母方の祖父、熊沢守久の養子となり熊沢姓を名乗るようになった。
15歳の時、池田輝政の女婿であった丹後国宮津藩主京極高広の紹介で輝政の孫である備前国岡山藩主池田光政の児小姓役として出仕したが、寛永14年(1637年)島原の乱に参陣することを願い出たが受け入れられず一旦は池田家を離れ、近江国桐原(現・滋賀県近江八幡市)の祖父の家へ戻り、その時、同じ近江の小川村に帰郷していた中江藤樹の門下に入り陽明学を学ぶことなったが、ここで蕃山の思想の基礎が築かれることなった。
藤樹への入門が功を奏し、再び京極高広の紹介で岡山藩に出仕することとなったが、当時の藩主・池田光政は陽明学に傾倒しており、また中江藤樹の信奉者でもあったことから蕃山を大歓迎して迎えた。
その後、光政と蕃山は最強のタッグを組み、儒教的経世救民論による藩政改革を推し進めて行き、
大飢饉や大洪水の被害を最小限にとどめるよう農民の生活を中心に考えた徳政を進めて行った。
しかし、陽明学的立場より身分の上下無関係に藩内の役職者たちに手厳しい指導と批判を続けたため、藩内の保守派から猛烈な反発を受け、39歳にして隠居することを余儀なくされた。
岡山藩を去った蕃山は、その後、京都、明石と居住地を変えて行くが、50歳で明石に移転して以降は厳しく藩主光政や、かつての盟友だった津田重二郎たちを批判するようになり、池田光政と蕃山の関係は悪化の一途を辿って行った。
やがて明石も追われた蕃山は、大和国の郡山(現・奈良県大和郡山市)へ移り住み、自らの思想の仕上げ作業とも言える著作活動を続け、67歳にして、中国の呉の泰伯イコールアマテラス論を格子とする儒教的神道論の書かれた「三輪物語」や、69歳にして幕府の参勤交代制度の批判や武士の帰農主義などを書いた「大学或門」を著し、結局後者の「大学或門」が幕府批判と取られた為、
古河藩預かりの蟄居謹慎の処分を受け、古河の地で残りの4年間の人生を過ごす事となった。
陽明学の至良知にこだわったが故に、せっかくの幕府の将軍指南役の職のオファーも断り、さらには生涯蟄居という割に合わない処遇を受けてしまうという、ある意味、才能に溢れながらも不器用な人生を送ってしまった熊沢蕃山であった。- 101
- 00.0
- 11.0
- 11.0
YouTubeで検索
2022-02-15 21:10:03
【神道シリーズ・シーズン3】第5回・明治以前からの廃仏毀釈(岡山藩・津和野藩・土佐藩)まなすさんの土佐廃仏毀釈解説付き最も早い時期から神社統廃合や寺院統廃合が行われていたのは水戸藩と岡山藩で、岡山藩では陽明学者の熊沢蕃山の影響を強く受けた藩主池田光政はまず淫祠と呼ばれる陰陽行に基づく男女性器をシンボルにした陰陽石や道祖神およびそうした神体を祀る小詞・堂宇・庵などが破却整理の対象となった。そして権現神や明神を祀ってる社から記紀の神々を切り離して寄宮という場所にまとめて祀るという、所謂「寄宮」政策が行われた。
しかし、こうした政策は神仏分離というよりも実は民間信仰の否定破壊であり、その上にさらに仏教葬祭を禁止して神道葬祭に強制的に切り替えさせるという政策も民衆の抵抗があり、結局徹底した寺院整理は実現できず、神道葬祭強制も結局もとの仏教葬祭に戻す武家や民衆の動きにより実現できなかった。
しかし、岡山藩では神社統廃合は徹底して行われ、約94%の神社的祠、堂宇、庵が破壊された。
一方の寺院統廃合では特に日蓮宗不受不布施派がターゲットにされ大半が破却された。
島根県西部の津和野藩では、幕末に平田派の国学者、大国隆正や福羽美静の影響を受けた藩主・亀井茲監は廃仏を目的とする寺院統廃合は行わなかったものの神仏分離政策は徹底され、当時急増していた新創建神社の整理とともに寺院の神社化や平田国学者による社伝の書き換えなどは徹底された。
さらに寺請制度の廃止と神社請制度による置き換えを目指したが幕府からの圧力により頓挫した。ここでも仏教葬祭の廃止と神道葬祭の強制が行われたがうまく行かなかった。
土佐藩では、明治直前より平田国学の影響を強く受けた藩役職の者たちにより寺院統廃合と廃寺化した寺院の神社化が進められた。
この三藩に共通していることは、寺を失い、僧侶を失っても民衆の仏教信仰は止まず、
仏教葬祭の廃止と神道葬祭の強制はことごとく失敗し、同時に民衆の信仰の中心であった民間信仰が徹底的に破壊され、巨大な心の空洞を産みだした。一連の廃仏毀釈および寺社統廃合により仏教を消し去ることには失敗したが、日本人の古くから引き継がれてきた民間神道は徹底的に破壊され、明治以降はそうした民間信仰の維持を願う民衆と神道という名の平田派系の新興宗教との静かなるせめぎ合いが続いていくのであった。- 71
- 00.0
- 00.0
- 11.4
YouTubeで検索
1970-01-01 09:00:00
- 0
- 0nan
- 0nan
- 0nan
YouTubeで検索