キーワード熊沢蕃山を含む動画:5件 ページ目を表示
2024年6月24日 07時12分に生成された05時00分のデータです
2021-08-23 22:55:02
【神道シリーズ・シーズン2】第40回・熊沢蕃山【後編】人物史編(あえて選んだ不器用な生き方)熊沢蕃山は、元和5年(1619年)京都稲荷(現・京都府京都市下京区)の浪人であった父・野尻藤兵衛一利と母・亀女の6人兄弟の長男として生まれたが、口減らしのため8歳の時、母方の祖父、熊沢守久の養子となり熊沢姓を名乗るようになった。
15歳の時、池田輝政の女婿であった丹後国宮津藩主京極高広の紹介で輝政の孫である備前国岡山藩主池田光政の児小姓役として出仕したが、寛永14年(1637年)島原の乱に参陣することを願い出たが受け入れられず一旦は池田家を離れ、近江国桐原(現・滋賀県近江八幡市)の祖父の家へ戻り、その時、同じ近江の小川村に帰郷していた中江藤樹の門下に入り陽明学を学ぶことなったが、ここで蕃山の思想の基礎が築かれることなった。
藤樹への入門が功を奏し、再び京極高広の紹介で岡山藩に出仕することとなったが、当時の藩主・池田光政は陽明学に傾倒しており、また中江藤樹の信奉者でもあったことから蕃山を大歓迎して迎えた。
その後、光政と蕃山は最強のタッグを組み、儒教的経世救民論による藩政改革を推し進めて行き、
大飢饉や大洪水の被害を最小限にとどめるよう農民の生活を中心に考えた徳政を進めて行った。
しかし、陽明学的立場より身分の上下無関係に藩内の役職者たちに手厳しい指導と批判を続けたため、藩内の保守派から猛烈な反発を受け、39歳にして隠居することを余儀なくされた。
岡山藩を去った蕃山は、その後、京都、明石と居住地を変えて行くが、50歳で明石に移転して以降は厳しく藩主光政や、かつての盟友だった津田重二郎たちを批判するようになり、池田光政と蕃山の関係は悪化の一途を辿って行った。
やがて明石も追われた蕃山は、大和国の郡山(現・奈良県大和郡山市)へ移り住み、自らの思想の仕上げ作業とも言える著作活動を続け、67歳にして、中国の呉の泰伯イコールアマテラス論を格子とする儒教的神道論の書かれた「三輪物語」や、69歳にして幕府の参勤交代制度の批判や武士の帰農主義などを書いた「大学或門」を著し、結局後者の「大学或門」が幕府批判と取られた為、
古河藩預かりの蟄居謹慎の処分を受け、古河の地で残りの4年間の人生を過ごす事となった。
陽明学の至良知にこだわったが故に、せっかくの幕府の将軍指南役の職のオファーも断り、さらには生涯蟄居という割に合わない処遇を受けてしまうという、ある意味、才能に溢れながらも不器用な人生を送ってしまった熊沢蕃山であった。- 101
- 00.0
- 11.0
- 11.0 YouTubeで検索
2021-08-12 15:03:02
【神道シリーズ・シーズン2】第39回・熊沢蕃山【前編】理論・思想編(陽明学と万物同胞兄弟論)熊沢蕃山は、26歳の時に地元近江の国に住む近江聖人と言われた中江藤樹に入門を願った時、藤樹は36歳で、ちょうど藤樹は当時朱子学と陽明学のはざまに立ち、蕃山の入門を何度か拒んだのは藤樹自身が自身の思想的転換期の迷いの中にあったことも原因の一つだと言われる。
蕃山は武家の家に生まれ、それまでに四書五経の素養は十分にあったものの、本格的に朱子学や陽明学を学んだのは藤樹の門下生になってからであった。
中江藤樹の陽明学は結局最終的に中国の古代神・上帝・太乙神の信仰に向かい、直接的に社会変革運動を行う活動家たちへの影響は無かったが、弟子の蕃山はその後、積極的に藩主や時の政権に対して批判的な言論活動を行い、自らの扶持を失い、家族にも生活苦を強い、最後は蟄居生活を強いられることとなった。
しかし、そうした蕃山の、才能がありながら自ら苦汁を舐める生活を強いるという実に不器用な生き方は、その思想とともに幕末になると再び脚光を浴びるようになり、藤田東湖、山田方谷、吉田松陰らが彼の思想に傾倒するようになり、倒幕の原動力となっていくのだが、果たして熊沢蕃山の陽明学はどのように彼らに影響を与えたのであろうか?
一般的に熊沢蕃山は陽明学だとみられているが、果たして本当に彼は陽明学に触発されてああした彼の生き方をしたのだろうか?
実は、蕃山が傾倒したのは完全な陽明学ではなく、陽明学寄りの朱子学との折衷的な思想であった。
蕃山は、陽明学で言う、理が気に働きかけて易の64掛や朱子学の天動説に基づく形而上学的宇宙論を受ける一方、陽明学で言う致良知説も同時的に受け入れ、陽明学の心即理と言うよりも、朱子学的な性即理を陽明学的な致良知で達成しようと言うような発想で、儒教の根本的価値観である五常や五倫の窮理を追究するという姿勢は崩さなかった。
結局、中心的思想は、師の中江藤樹に倣い、朱子学の理気二元論と陽明学の理気一元論の中間を行く理気混淪論を採ったが、しかし、自分の心の良知に目覚め、行動を起こせばそれに連動して世の中はおろか自然万物までをも変えることができるという陽明学の万物一体の仁思想を支持し、そのエネルギーがその後幕末の勤王の志士たちに大きな影響を与えることになったのである。- 79
- 11.3
- 22.5
- 11.3 YouTubeで検索
2022-02-15 21:10:03
【神道シリーズ・シーズン3】第5回・明治以前からの廃仏毀釈(岡山藩・津和野藩・土佐藩)まなすさんの土佐廃仏毀釈解説付き最も早い時期から神社統廃合や寺院統廃合が行われていたのは水戸藩と岡山藩で、岡山藩では陽明学者の熊沢蕃山の影響を強く受けた藩主池田光政はまず淫祠と呼ばれる陰陽行に基づく男女性器をシンボルにした陰陽石や道祖神およびそうした神体を祀る小詞・堂宇・庵などが破却整理の対象となった。そして権現神や明神を祀ってる社から記紀の神々を切り離して寄宮という場所にまとめて祀るという、所謂「寄宮」政策が行われた。
しかし、こうした政策は神仏分離というよりも実は民間信仰の否定破壊であり、その上にさらに仏教葬祭を禁止して神道葬祭に強制的に切り替えさせるという政策も民衆の抵抗があり、結局徹底した寺院整理は実現できず、神道葬祭強制も結局もとの仏教葬祭に戻す武家や民衆の動きにより実現できなかった。
しかし、岡山藩では神社統廃合は徹底して行われ、約94%の神社的祠、堂宇、庵が破壊された。
一方の寺院統廃合では特に日蓮宗不受不布施派がターゲットにされ大半が破却された。
島根県西部の津和野藩では、幕末に平田派の国学者、大国隆正や福羽美静の影響を受けた藩主・亀井茲監は廃仏を目的とする寺院統廃合は行わなかったものの神仏分離政策は徹底され、当時急増していた新創建神社の整理とともに寺院の神社化や平田国学者による社伝の書き換えなどは徹底された。
さらに寺請制度の廃止と神社請制度による置き換えを目指したが幕府からの圧力により頓挫した。ここでも仏教葬祭の廃止と神道葬祭の強制が行われたがうまく行かなかった。
土佐藩では、明治直前より平田国学の影響を強く受けた藩役職の者たちにより寺院統廃合と廃寺化した寺院の神社化が進められた。
この三藩に共通していることは、寺を失い、僧侶を失っても民衆の仏教信仰は止まず、
仏教葬祭の廃止と神道葬祭の強制はことごとく失敗し、同時に民衆の信仰の中心であった民間信仰が徹底的に破壊され、巨大な心の空洞を産みだした。一連の廃仏毀釈および寺社統廃合により仏教を消し去ることには失敗したが、日本人の古くから引き継がれてきた民間神道は徹底的に破壊され、明治以降はそうした民間信仰の維持を願う民衆と神道という名の平田派系の新興宗教との静かなるせめぎ合いが続いていくのであった。- 71
- 00.0
- 00.0
- 11.4 YouTubeで検索
2021-09-06 23:35:02
【神道シリーズ・シーズン2】第41回・大塩平八郎【前編】理論・思想編大塩平八郎は、大阪東町与力の家系に育ち、四書五経などの儒学の素養はもともと持っていたが、彼が陽明学に目覚めたのは与力職を引退した後の36歳の時に明代の陽明学者・呂新五の「呻吟語」という本に出合ってからで、もともと生真面目実直で愚直とも言える一徹な性格の大塩は自らの与力職体験と重ね合わせながら独自の陽明学論を形成して行った。
良知と呼ばれる生来の善の心を発揮すればそれそのものが宇宙の原理だという考え方で、朱子学のようにどうしたらその善の心を発動できるかという方法が陽明学ではまったく語られていないので多くの陽明学者たちを苦悶させることとなった。
確固たる方法が見つからず最終的には中国の古代神上帝の信仰に走った中江藤樹や、自説の政治改革論を藩士・藩主・幕閣に訴え続け、立場の上下無関係に彼らを批判し続けて最後は蟄居となった熊沢蕃山、そして大塩は精神的に四六時中自己の心の監視を続けるというやり方で自分を追い込み、最後は大塩平八郎の乱という大坂の約五分の一を焼き払ってしまう大火を招いた反乱を起こしたのちに自爆した。
日本の陽明学者が苦悶に陥ったのは、陽明学で良知なる宇宙真理である善、つまり良き心、つまり、学習や経験によって習得したものではなく、生まれつき持ってる良心をどう発動させるかというところであるが、大塩は、眠っている時間も含めて一瞬たりとも緊張を緩めることなく自分の良心に照らして自己監視し続けるという方法を採った。
その時を同じくして天保の大飢饉が訪れ、周りに餓死者たちが次々で出てくる現実に直面し、知行合一をモットーとする大塩にはクーデターを起こして幕藩体制そのものまで覆さなければならないという使命感に至り、天保8年2月19日(1837年3月25日)世に言う大塩平八郎の乱を起こすこととなった。
果たして大塩は自ら確立した大塩陽明学の理論の行きつく果てとして乱を起こしたのか?それとも彼の行きついた論理破綻の上、絶望的な判断として乱に至ったのか? 今、彼の本当の心の中を知るものは誰もいないが、これは陽明学の可能性や危険性を理解する上でも大塩の陽明学理論は貴重な研究材料となる。
大塩平八郎の乱自体はわずか1日で鎮圧され、大坂は火の海となり、多くの犠牲者が残されたが、もう一つ大塩が残した遺産として彼の14年間をかけた著書「洗心同さっき」は、その後、明治維新の立役者・西郷隆盛や西郷に心酔していた後の大アジア主義者の当山満らに大きな影響を与えることになったのである。二十人くらいで何が・・妄想だわ
- 68
- 11.5
- 11.5
- 11.5 YouTubeで検索
1970-01-01 09:00:00
- 0
- 0nan
- 0nan
- 0nan YouTubeで検索