キーワード田島道治を含む動画:12件 ページ目を表示
2024年7月21日 07時10分に生成された05時00分のデータです
2019-08-17 12:31:04
昭和天皇 拝謁記「国民が退位希望するなら躊躇せぬ」2019年8月17日 3時57分
昭和天皇との対話を記した初代宮内庁長官の「拝謁記」から、敗戦後の退位をめぐる問題が決着したとされる東京裁判の後にも、昭和天皇が「国民が退位を希望するなら少しも躊躇(ちゅうちょ)せぬ」と語るなど、退位の可能性にたびたび言及していたことがわかりました。分析にあたった専門家は「本当に皇室が国民に認められるかどうかがすごく気になっていて、存続には国民の意思が決定的に重要だという認識がみえる」と指摘しています。
「拝謁記」を記していたのは民間出身の初代宮内庁長官だった田島道治(たじま・みちじ)で、戦後つくられた日本国憲法のもとで、昭和23年から5年半にわたり、宮内庁やその前身の宮内府のトップを務めました。在任中、600回余り延べ300時間を超える昭和天皇との対話を詳細に記録していました。
昭和天皇の退位をめぐる問題は、これまでの研究で、昭和23年11月の東京裁判の判決に際し、昭和天皇が連合国軍最高司令官のマッカーサーに手紙を送り、退位せず天皇の位にとどまる意向を伝えたことで、決着したとされてきました。
しかし、「拝謁記」には、判決から1年が過ぎた昭和24年12月に、昭和天皇が田島長官に、「講和ガ訂結(ていけつ)サレタ時ニ又退位等ノ論が出テイロイロノ情勢ガ許セバ退位トカ譲位トカイフコトモ考ヘラルヽ」と退位の可能性に言及し、そのためには当時皇太子だった上皇さまを早く外遊させてはどうかと述べたと記されていました。
また、サンフランシスコ平和条約の調印が翌月に迫った昭和26年8月には「責任を色々とりやうがあるが地位を去るといふ責任のとり方は私の場合むしろ好む生活のみがやれるといふ事で安易である」と、退位したほうがむしろ楽だと語ったと記されています。
さらにその4か月後の拝謁でも「国民が退位を希望するなら少しも躊躇(ちゅうちょ)せぬ」と述べたと記されています- 914
- 00.0
- 00.0
- 10.1 YouTubeで検索
2019-08-21 07:05:04
昭和天皇 拝謁記 歴代首相の人物評繰り返す2019年8月19日 2:04
昭和天皇との対話を記した初代宮内庁長官の「拝謁記」には、当時の吉田茂総理大臣について「吉田ハカンで動く人間ハ六ヶ(むつか)しいね」と述べるなど、昭和天皇から見た歴代総理大臣の人物評が頻繁に記されています。
「拝謁記」を記していたのは民間出身の初代宮内庁長官だった田島道治で、日本国憲法のもとで昭和23年から5年半にわたり、宮内庁やその前身の宮内府のトップを務め、在任中、600回余り延べ300時間を超える昭和天皇との対話を詳細に記録していました。
「拝謁記」には戦前から戦後にかけて、昭和天皇が接してきた歴代の総理大臣の人物評が頻繁に登場します。
近衛文麿と東條英機
特によく出てくるのが、日中戦争開戦や御前会議で対米戦争の方針を実質的に決めた際、総理大臣を務めていた近衛文麿と、その後任で、太平洋戦争開戦時の総理大臣として戦後、A級戦犯として処刑された東條英機です。
昭和27年5月28日の拝謁では、昭和天皇は自らは事務的な人間であり、同じように事務的な人間と相性がよかったとしたうえで、近衛と東條を比較し、「近衛はよく話すけれどもあてニならず、いつの間ニか抜けていふし、人はいかもの食ひで一寸(ちょっと)変つたやうな人が好きで、之を重く用ふるが、又直(じ)きにその考へも変る。政事家(せいじか)的といふのか知らんが事務的ではない。東條ハ之ニ反して事務的であつたそして相当な点強かつた。強かつた為に部下からきらはれ始めた」と語ったと記され、別の機会には、「近衛と東条との両長所が一人ニなればと思ふ」などと述べたと記されています。陛下 あ
- 351
- 20.6
- 20.6
- 10.3 YouTubeで検索
2019-08-18 01:11:01
昭和天皇 拝謁記「象徴天皇」初期の模索明らかに2019年8月17日 0:29
昭和天皇との対話を記した初代宮内庁長官の「拝謁記」に、戦後の日本国憲法で「君主」から「象徴」となった昭和天皇が、自ら変わろうとする一方で、君主としての意識を払拭できずに、時に政治的な発言をしていさめられるなど、象徴天皇像を模索する姿が克明に記されていました。分析にあたった専門家は「象徴天皇の行動のあり方が決まっていく現場がわかる貴重な資料だ」と指摘しています。
「拝謁記」を記していたのは、民間出身の初代宮内庁長官だった田島道治(たじま みちじ)で、戦後つくられた日本国憲法のもとで、昭和23年から5年半にわたり、宮内庁やその前身の宮内府のトップを務めました。在任中、600回余り延べ300時間を超える昭和天皇との対話を詳細に記録していました。
戦後、日本国憲法によって「君主」から「象徴」となった昭和天皇は、「私ハ象徴として、自分個人のいやな事は進んでやるやうに心懸けてる又スキなやりたい事ハ一応やめる様ニ心掛けてる」とか、「兎ニ角(とにかく)皇室と国民との関係といふものを時勢ニあふ様ニしてもつとよくしていかなければと思ふ。私も微力ながらやる積りだ。長官も私の事で気付いたらいつてくれ」などと語ったと記され、「象徴」として、自らも変わりながら、国民との新しい関係を築いていく決意を繰り返し示していたことがわかりました。
また、国民との距離を縮めることに心を配り、昭和27年2月25日の拝謁で、地方訪問の際の警備の強化が話題になると、「その為に折角の皇室と国民との接近を害するやうになつても困る/あまり厳重過ぎると折角出掛けても逆の印象を与へる事ニなるから困る。その辺のかねあひが六ヶ(むつか)しいネ」と述べたと記されています。
その一方で、昭和28年3月12日の拝謁では、新しい憲法で政治への関与を厳しく制限されたにも関わらず、保守陣営が分裂していた当時の日本の政界について、「真ニ国家の前途を憂うるなら保守ハ大同団結してやるべき」などと述べ、田島長官に「新憲法でハ違反ニなります故、国事をお憂へなりましても何も遊ばす事ハ不可能であります」と釘を刺されるなど、政治的な発言をいさめられる場面が、繰り返し記されています。- 266
- 00.0
- 10.4
- 00.0 YouTubeで検索
2019-09-10 19:49:50
昭和天皇 北海道巡幸を繰り返し強く希望 「拝謁記」記述2019年9月6日 6時29分
昭和天皇との対話を初代宮内庁長官が記した「拝謁記」の記述から、昭和天皇が戦後の占領期に国民を直接励ますために行った「戦後巡幸」をめぐるやり取りが明らかになりました。昭和天皇は占領期に当時の日本の施政権下では唯一、北海道を訪問していませんでしたが、朝鮮戦争の勃発後も「私が行けば北海道を何かの時見捨てぬといふ証拠二なる」などと、繰り返し北海道への訪問を強く希望していたことがわかりました。
昭和天皇は終戦の翌年から全国各地への巡幸を重ね、このころ宮内庁長官を務めていた田島道治が昭和天皇との対話を詳細に記録した「拝謁記」には、このうち北海道への巡幸についての記述が頻繁に登場します。
昭和24年7月の拝謁では、東西冷戦の激化を背景に左翼運動が活発化し、治安が危ぶまれる北海道への訪問に慎重な田島長官に対し、昭和天皇が「慎重論モ尤モダガ積極的ニ多少ノ危険ヲ冒シテ出掛ケル方ガ却テ国ノ為ニヨイトイフコトモ考ヘラレル」などと述べたと記されています。
昭和25年6月には朝鮮戦争が勃発し、情勢はさらに厳しくなりますが、昭和天皇は翌日の拝謁で(昭和25年6月26日)「北海道は朝鮮の問題ともニらみあはせて早い方がよいと思ふので七月ニ行つてはどうか」と述べ、むしろ訪問を急ぐべきだという考えを示したと記されています。
その後、連合国軍総司令部のマッカーサー最高司令官の意向を受けて訪問は先延ばしになりますが、昭和天皇は未訪問の地が残り少なくなる中、北海道訪問に積極的な姿勢を示し続けました。
昭和26年10月の拝謁では、ソ連の脅威を理由に慎重な姿勢を崩さない田島長官に対し、「私が行けば北海道を何かの時見捨てぬといふ証拠ニなりアメリカニもよいし、道民ニも不安の念を去るに役立つと思ふ故 私ハいつた方が良いと思ふ」と述べたと記されています。
しかし、治安当局者や田島長官だけでなく当時の吉田茂総理大臣も慎重な姿勢を崩さず、独立回復前の北海道訪問は見送られ、独立の2年後の昭和29年夏にようやく実現しました。
戦後巡幸に詳しく、「拝謁記」の分析にも加わった成城大学の瀬畑源非常勤講師は「占領期に北海道に行けなかったのは治安の問題や朝鮮戦争が理由だということはわかっていたが、『拝謁記』で、朝鮮戦争勃発後も昭和天皇が北海道行きを希望し続けていたことがわかった。昭和天皇は北海道を防衛する意味で訪問したいと述べていて、戦後巡幸の政治的な効果について極めて自覚的だったことがわかる」と話しています。- 265
- 00.0
- 00.0
- 00.0 YouTubeで検索
2019-08-18 12:24:02
昭和天皇 拝謁記 国民の目を気にする姿も克明に2019年8月18日 0:34
昭和天皇との対話を記した初代宮内庁長官の「拝謁記」には、昭和天皇が国民の目や国民との距離を気にして、自らの暮らしぶりが贅沢(ぜいたく)に見えないかや、皇室についての報道に神経をとがらせる姿が記されています。
「拝謁記」を記していたのは、民間出身の初代宮内庁長官だった田島道治で、戦後つくられた日本国憲法のもとで、昭和23年から5年半にわたり、宮内庁やその前身の宮内府のトップを務めました。在任中、600回余りのべ300時間を超える昭和天皇との対話を詳細に記録していました。
田島長官が仕えた時期は、昭和天皇が象徴として歩み始めた一方、退位の問題もくすぶっていて、「拝謁記」には、昭和天皇が国民の目を気にする様子がたびたび記されています。
終戦から4年がたった昭和24年8月30日の拝謁では、住まいとして使い続けていた防空施設の「御文庫(おぶんこ)」の増築が話題に上ると、昭和天皇は、「今ハ皇室殊ニ私ニ対シテ餘(あま)リ皆ワルク思ツテナイ様デ一部ニハ退位希望者アルモ大体ハ私ノ退位ヲ望マヌ様ナ時ニ私ガ住居ヲ大(おおい)ニ新築デモシタ様ニ誤伝セラルレバ私ハ非常ニ不本意デ、イハバ(いわば)一朝(いっちょう)ニシテ信ヲ失フ事ハツマラヌト思フ」と述べたと記されています。
さらに、昭和26年12月19日の拝謁では、昭和天皇が葉山御用邸での静養について、「退位論などを唱へる人達、生活ニ困つた人特ニ軍人など戦争の為ニひどい目ニあつた人から見ると私が葉山へ行くなど贅沢の事をしてると思ふだらう」と懸念を示し、「行つていゝか」と田島長官に尋ねたと記されています。
これに対し田島長官が「退位其他の事を云々(うんぬん)する人ハ葉山へ御出掛などをそう八釜(やかま)しく申しハ致しませぬし、大切な御位置の方の御健康上御よろしい事ハ結構な事であります故よろしいと存じまして」と述べると、昭和天皇は「そんならそれでよろしい」と述べ安心した様子を見せたと記されています。
一方、皇室についての新聞報道に神経をとがらせる様子も記されていました。
昭和28年11月4日の拝謁では、昭和天皇が大手新聞の報道に触れ、「『菊のかーてん』などと書き出してハ誠ニ困る」と述べたと記されています。これに対し田島長官が「内容を読みますれば宮内庁のやり方の批難ではありませぬがどうも標題がわるうございまして」と述べると、昭和天皇は「見出しだけで中を読まぬ人も多く『菊のかーてん』といふ言葉で想像して皇室が国民ニ接近したがらぬとの印象を与へる事ニなつてハ困る」と述べたと記されています。- 254
- 00.0
- 10.4
- 00.0 YouTubeで検索
2019-09-10 19:46:02
昭和天皇「拝謁記」 吉田茂が内奏の形で外交方針など国政報告2019年9月7日 5時15分
昭和天皇との会話を記した、初代宮内庁長官の「拝謁記」には、憲法で政治関与を厳しく制限されている昭和天皇が、当時の吉田茂総理大臣から、戦前から慣例的に続く「内奏」の形で、朝鮮戦争の日本への影響や政府の外交方針など、国政に関する報告を受けていたことが記されていました。分析に当たった専門家は、「朝鮮戦争や内閣の人事などについて、吉田がどのように話していたのかわかる貴重な資料だ」としています。
初代宮内庁長官の田島道治が、昭和天皇との対話を記録した「拝謁記」には、戦前から慣例的に続く「内奏」などの機会に、吉田茂総理大臣が昭和天皇に話した内容が頻繁に登場します。
このうち、朝鮮戦争勃発の翌月、昭和25年7月の拝謁では、昭和天皇が田島長官に「今日吉田総理が来て朝鮮の問題ハ第三世界戦争ニならぬ限り又アメリカがまづい事をしない限り日本ニとつてはむしろよい影響がありますといつてた」と述べたうえで、吉田が、朝鮮戦争によってソ連など東側諸国も含めた「全面講和論」が吹き飛び、失業者の減少にもつながる、などと話していたと、田島長官に明かしたことが記されています。
また、昭和26年2月の拝謁で、昭和天皇は、吉田が前日に日米の講和条約交渉の内容を「非常に詳細ニ話した」と述べたうえで、「吉田ハ再軍備とは決していはず、警察予備隊を十二万五千ニするとかいつてた。省も治安省とするといふ様な話であつた」と明かしたと記されています。
このほか、吉田が閣僚人事の方針などを、あらかじめ昭和天皇に伝えていたことも記されていました。
「拝謁記」の分析に当たった京都大学大学文書館の冨永望特定助教は、昭和天皇が、吉田からこうした報告を受けていたことについて「政治的行為と言えるかは微妙な問題だ」としたうえで、「同時進行のリアルタイムで起きていることについて、吉田がそのまま天皇に報告していたことが改めて確認できた。朝鮮戦争や内閣の人事などについて、吉田がどのように話していたのかわかる貴重な資料で、今後の吉田茂研究に一石を投じるものだ」と話しています。- 151
- 00.0
- 00.0
- 00.0 YouTubeで検索
2019-01-07 16:40:02
“世紀のご成婚”秘話 初代宮内庁長官の日記2018年12月24日 19時21分 昭和34年の天皇皇后両陛下の「世紀のご成婚」。NHKはこれに深く関わった初代宮内庁長官、田島道治の日記を入手し初めて近現代史の専門家とともに詳しく分析しました。日記には、天皇陛下のおきさき選びの舞台裏が詳細に記録されていて、専門家は「将来の象徴天皇のパートナーにふさわしい女性は誰なのかを周囲が模索していた過程がわかる貴重な資料だ」としています。 初代宮内庁長官の田島道治は、昭和23年から5年半にわたり、宮内庁やその前身の宮内府のトップを務め、退任したあとも天皇陛下のおきさき選びに深く関わりました。 田島は、日々の出来事や面会した相手とのやりとりを小型の手帳26冊に書き留めていて、NHKは遺族から提供を受けて初めて近現代史の専門家とともに詳しく分析しました。 このうち、ご成婚の9年前の昭和25年9月2日には皇太子教育の責任者を務めていた慶應義塾元塾長、小泉信三との面会の記述の中で「東宮妃サガスコト」と記していました。 「東宮」は「皇太子」を指す言葉で、天皇陛下が16歳、高校2年生だったこの頃には宮内庁の幹部や側近らがおきさき選びを始めていたことがわかります。 また皇太子と結婚できるのは戦前、皇族と一部の華族に限るとされ、おきさき選びは当初この前例に沿って進められましたが、昭和30年9月17日には、当時21歳だった天皇陛下が小泉氏との雑談の中で「平民デモヨシ」と述べたと記されています。 このあと昭和32年4月17日には、田島が当時候補として有力視されていた旧華族の女性の親と面会した記述の中に「光栄なれど拝辞。離れるのはいや。全員反対」などと記され、旧華族を対象としたおきさき選びがうまく進まなかったことがわかります。 こうした中、対象は民間にも広げられ、皇后さまと初めて会われた軽井沢での「テニスコートの出会い」の8か月後、昭和33年4月12日には、田島と小泉が車の中で話した記述の中に「Shoda(ショウダ)」という皇后さまの名字がローマ字で記され、婚約内定発表の半年あまり前のこの時期には有力なおきさき候補になっていたことがうかがえます。
- 147
- 00.0
- 00.0
- 10.7 YouTubeで検索
2019-08-21 06:58:02
昭和天皇 拝謁記 旧軍否定も再軍備や憲法改正に言及2019年8月18日 5:36
昭和天皇との対話を記した初代宮内庁長官の「拝謁記」に、独立回復後の安全保障が現実的な課題となる中で、昭和天皇が戦前のような軍隊を否定しつつも、再軍備やそれに伴う憲法改正の必要性にたびたび言及し、総理大臣に伝えないよう長官にいさめられる様子が記されていました。分析にあたった専門家は「昭和天皇が改憲や再軍備に言及していたことは新たな発見だが、自衛隊的なものを作ることを憲法上認めるというものであり戦前の軍隊を再現する気が全くないということは押さえておかなければならない」としています。
「拝謁記」を記していたのは、民間出身の初代宮内庁長官だった田島道治で、戦後つくられた日本国憲法のもとで、昭和23年から5年半にわたり、宮内庁やその前身の宮内府のトップを務めました。在任中、600回余り延べ300時間を超える昭和天皇との対話を詳細に記録していました。
「拝謁記」には、東西冷戦が激しさを増す中で、ソ連の侵略を現実的な脅威と認識し、危機感を募らせる昭和天皇の様子が記録されていて、サンフランシスコ平和条約の調印から5か月が経過した昭和27年2月11日に、昭和天皇が田島長官に対して、「私は憲法改正ニ便乗して外(ほか)のいろ/\(いろ)の事が出ると思つて否定的ニ考へてたが今となつては他の改正ハ一切ふれずに軍備の点だけ公明正大に堂々と改正してやつた方がいヽ様ニ思ふ」と再軍備と憲法改正の必要性について言及したと記されています。
昭和天皇は、その一方で、戦前の軍隊や軍閥の復活はかたくなに拒む姿勢を示していて、日本が独立を回復した直後の昭和27年5月8日の拝謁では、「私は再軍備によつて旧軍閥式の再抬頭(たいとう)は絶対にいやだが去りとて侵略を受ける脅威がある以上防衛的の新軍備なしといふ訳ニはいかぬと思ふ」と語ったと記されています。
「拝謁記」には昭和天皇がこうした再軍備や憲法改正についての考えを、当時の吉田茂総理大臣に直接伝えようとして、田島長官がいさめる様子が記されています。
昭和27年3月11日の拝謁では、昭和天皇が「警察も医者も病院もない世の中が理想的だが、病気がある以上は医者ハ必要だし、乱暴者がある以上警察も必要だ。侵略者のない世の中ニなれば武備ハ入らぬが侵略者が人間社会ニある以上軍隊ハ不得已(やむをえず)必要だといふ事ハ残念ながら道理がある」と述べたのに対し、田島長官は「その通りでありまするが憲法の手前そんな事ハいへませぬし最近の戦争で日本が侵略者といはれた計(ばか)りの事ではあり、それは禁句であります」と苦言を呈したと記されています。- 126
- 00.0
- 00.0
- 00.0 YouTubeで検索
2019-08-21 07:12:03
昭和天皇 「拝謁記」親心うかがえる記述も2019年8月19日 0:11
昭和天皇との対話を記した初代宮内庁長官の「拝謁記」には、11歳の時に軍に任官した昭和天皇がみずからのつらい経験から、皇太子だった上皇さまの軍への任官を遅らせたことなどが記されています。専門家は「青年将校への不信感や皇太子の教育に悪影響を及ぼすおそれを感じ、できるだけ任官を遅らせて軍部や青年将校から皇太子を守りたいという考えがかなり強かったのだろう」と話しています。
「拝謁記」を記していたのは、民間出身の初代宮内庁長官だった田島道治で、昭和23年から5年半にわたり、宮内庁やその前身の宮内府のトップを務め、在任中、600回余り延べ300時間を超える昭和天皇との対話を詳細に記録していました。
「拝謁記」には、昭和天皇が当時、東宮(とうぐう)、皇太子だった上皇さまを「東宮ちゃん」と呼び、気にかける様子がたびたび記されています。- 108
- 00.0
- 00.0
- 00.0 YouTubeで検索
2019-08-21 07:14:02
昭和天皇 戦争回顧 メモ見つかる 具体的記述も2019年8月19日 0:1
昭和天皇との対話を記した初代宮内庁長官の「拝謁記」には、11歳の時に軍に任官した昭和天皇がみずからのつらい経験から、皇太子だった上皇さまの軍への任官を遅らせたことなどが記されています。専門家は「青年将校への不信感や皇太子の教育に悪影響を及ぼすおそれを感じ、できるだけ任官を遅らせて軍部や青年将校から皇太子を守りたいという考えがかなり強かったのだろう」と話しています。
「拝謁記」を記していたのは、民間出身の初代宮内庁長官だった田島道治で、昭和23年から5年半にわたり、宮内庁やその前身の宮内府のトップを務め、在任中、600回余り延べ300時間を超える昭和天皇との対話を詳細に記録していました。
「拝謁記」には、昭和天皇が当時、東宮(とうぐう)、皇太子だった上皇さまを「東宮ちゃん」と呼び、気にかける様子がたびたび記されています。- 92
- 00.0
- 00.0
- 11.1 YouTubeで検索
2019-08-21 06:50:03
昭和天皇 拝謁記 国民の目を気にする姿も克明に2019年8月18日 0:34
昭和天皇との対話を記した初代宮内庁長官の「拝謁記」には、昭和天皇が国民の目や国民との距離を気にして、自らの暮らしぶりが贅沢(ぜいたく)に見えないかや、皇室についての報道に神経をとがらせる姿が記されています。
「拝謁記」を記していたのは、民間出身の初代宮内庁長官だった田島道治で、戦後つくられた日本国憲法のもとで、昭和23年から5年半にわたり、宮内庁やその前身の宮内府のトップを務めました。在任中、600回余りのべ300時間を超える昭和天皇との対話を詳細に記録していました。
田島長官が仕えた時期は、昭和天皇が象徴として歩み始めた一方、退位の問題もくすぶっていて、「拝謁記」には、昭和天皇が国民の目を気にする様子がたびたび記されています。
終戦から4年がたった昭和24年8月30日の拝謁では、住まいとして使い続けていた防空施設の「御文庫(おぶんこ)」の増築が話題に上ると、昭和天皇は、「今ハ皇室殊ニ私ニ対シテ餘(あま)リ皆ワルク思ツテナイ様デ一部ニハ退位希望者アルモ大体ハ私ノ退位ヲ望マヌ様ナ時ニ私ガ住居ヲ大(おおい)ニ新築デモシタ様ニ誤伝セラルレバ私ハ非常ニ不本意デ、イハバ(いわば)一朝(いっちょう)ニシテ信ヲ失フ事ハツマラヌト思フ」と述べたと記されています。
さらに、昭和26年12月19日の拝謁では、昭和天皇が葉山御用邸での静養について、「退位論などを唱へる人達、生活ニ困つた人特ニ軍人など戦争の為ニひどい目ニあつた人から見ると私が葉山へ行くなど贅沢の事をしてると思ふだらう」と懸念を示し、「行つていゝか」と田島長官に尋ねたと記されています。
これに対し田島長官が「退位其他の事を云々(うんぬん)する人ハ葉山へ御出掛などをそう八釜(やかま)しく申しハ致しませぬし、大切な御位置の方の御健康上御よろしい事ハ結構な事であります故よろしいと存じまして」と述べると、昭和天皇は「そんならそれでよろしい」と述べ安心した様子を見せたと記されています。
一方、皇室についての新聞報道に神経をとがらせる様子も記されていました。
昭和28年11月4日の拝謁では、昭和天皇が大手新聞の報道に触れ、「『菊のかーてん』などと書き出してハ誠ニ困る」と述べたと記されています。これに対し田島長官が「内容を読みますれば宮内庁のやり方の批難ではありませぬがどうも標題がわるうございまして」と述べると、昭和天皇は「見出しだけで中を読まぬ人も多く『菊のかーてん』といふ言葉で想像して皇室が国民ニ接近したがらぬとの印象を与へる事ニなつてハ困る」と述べたと記されています。- 55
- 00.0
- 00.0
- 00.0 YouTubeで検索
1970-01-01 09:00:00
- 0
- 0nan
- 0nan
- 0nan YouTubeで検索