キーワード神仏分離令を含む動画:13件 ページ目を表示
2024年6月22日 07時10分に生成された05時00分のデータです
2022-11-19 23:02:16
第590回『薩長維新政府は京都のお寺を徹底的に破壊した◇八坂神社と北野天満宮は神仏分離令前はお寺だった』【水間条項TV会員動画】【水間条項国益最前線】水間政憲のブログ
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2024-05-01 10:00:00
【脱洗脳】デーヴィッドアイク著、大いなる秘密、the answer第二巻 捏造された世界宗教。こうして悪魔的キリスト教は捏造された。宗教監獄マトリックス幻想をけ破り、本当のワンネスにたどり着け大いなる秘密「爬虫類人」-レプティリアン-〈上〉超長期的人類支配計画アジェンダ全暴露-デーヴィッド-アイク
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2019-07-29 23:04:02
【神道シリーズ】第68回・八百万の神㉓石鎚山信仰【前編】法螺貝と大般若経と念仏は今でも健在!!石鎚山は、8世紀に役小角が開山し、その弟子・芳元が中国の天台山から勧請したと言われる熊野権現をこの地に祀り、それが「石鎚山蔵王大権現」となり、それが今も昔も一貫した信仰対象となりました。
石鎚山信仰は、その同じ8世紀に寂仙(石仙)という修行僧が信仰の基礎を築き、大峯山(吉野)で峰修行した天台宗(比叡山)の高僧・光定は、最澄から天台座主のオファーを断り、(9世紀に)寂仙を師と仰ぎ、石鎚山で山岳修行を行い、やがて石鎚信仰の両輪の一つとなる横峯寺を創建しました。
9世紀になると真言宗御室派(古義真言宗・京都仁和寺が本山)が同地に進出し、前神寺を創建し、さらに横峯寺にまで進出します。
石鎚信仰は、両寺を中心に、多くの先達を率いた石鎚講を形成し、その組織が強大過ぎたために、明治期の神仏分離令も政府の思うように行かず、石鎚神社を新設するまでに35年もかかり、それも石鎚山真言宗系の石鎚本教により運営され、そのまま今日に至ってる。
今日でも石鎚山の山開きでは法螺貝の音とともに大般若経や念仏が唱えられる石鎚神社の石鎚講で信仰が支えられている。車で土小屋まで登れますから 鎖場は迂回できるからな 土小屋から登る手もある 修験道だから仏教だからどう見てもw 雨や霧が多いんだよねえここ 石鎚登ったことあるけど相当大変だわ 霊山がご神体であり、中宮成就社が古来よりございます。 「伝統的神仏習合が強...
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2020-03-02 22:50:03
【神道シリーズ】第84回・鞍馬寺信仰【前編】牛若丸と鬼一法眼と青蓮院(天台宗)<神道無関係w>鞍馬山と言えば、「鞍馬天狗(鬼一法眼・きいちほうげん)と牛若丸(源義経)」とか「鞍馬の火祭」で有名ですが、もともと、770年、鑑真の高弟・鑑禎(がんてい)が、山背に霊山があるとの夢を見た
。その地で毘沙門天像を得て、草庵を結んだのが始まりとされています。
その後、東寺の僧・峯延(ぶえん)が入寺し別当を任じられ、東寺真言宗となり(東寺の末寺となる)、
さらに、959年に鞍馬寺は延暦寺西塔末になり、天台宗に改宗し、天永年間(1110-1113)、天台座主・忠尋により、比叡山延暦寺の末寺になり天台密教の傘下におさまります。
その後、南北朝時代には、名和長年や新田義貞など南朝側の武将たちの干渉を受け、戦国時代に入ると、足利将軍家、武田信玄らの鞍馬寺の毘沙門天信仰への崇敬が集まり、さらに信長による庇護や秀吉、家康による信仰と庇護を受け、度重なる焼失にもかかわらず、焼失の都度、またたくまに復興という歴史を繰り返してきました。
江戸時代になると、徳川幕府による厚遇の下、鞍馬寺信仰は最盛期を迎え、10院9房を抱える一大寺院勢力となりました。
しかし、明治の神仏分離令に続く廃仏毀釈運動でその10院9房のほとんどは破壊し尽くされ、それまで鞍馬寺の鎮守(お寺の本尊をお護りする神社)として、鞍馬寺境内のほんの一角の小さな敷地に建てられていた由岐神社が(明治政府の命令により)火祭りなどの祭祀を引き継ぐことになり今日に至っています。
一旦破壊尽くされた鞍馬寺も信者たちによりすぐに復活され、明治期は比叡山延暦寺(天台宗)の末寺となりましたが、戦後の昭和22年(1947年)には鞍馬弘教(こうきょう)として天台宗から独立しました。
明治以降、それまで(平安末期より)鞍馬寺が行ってきた火祭りの祭祀は由岐神社に移されたものの、
祭祀の内容はまったく変わっておらず、今でも由岐神社は由岐大明神や八所大明神というかつてからの名称(鞍馬寺毘沙門天の守護神)で神輿を出し、火祭りを行っています。- 123
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2019-11-11 23:01:13
【神道シリーズ】第73回・八百万の神㉓英彦山大権現(伝燈大先達とは?)英彦山(彦山)は中世より天台宗の霊仙寺(りゅうせんじ・天台宗系)が山岳信仰の中心になってきましたが、その霊仙寺の座主は同時に英彦山の峰入り修行を20年以上繰り返した「伝燈(でんとう)大先達」という先達(今で言うところの登山ガイド)でなければならないというシステムがありました。
しかしながら中世初期には、天台宗聖護院(天台宗寺門派)が皇室系の座主を霊仙寺に送り込んできて黒川院という皇室系で世襲制の座主の時代が12世紀から14世紀までの200年間続き、まともに峰入り修行もしていない人が霊仙寺の座主や伝燈大先達になってしまうという時期があったり、あるいは聖護院(京都)から派遣された修験僧が弟子から弟子へと法統で継承される時期が長く続きました。
16世紀の半ば(1540年)になると、聖護院系ではない、日光修験(天台系)の阿吸坊即伝(あきゅうぼうそくでん)が英彦山の座主(同時に伝燈大先達)に就くと、それ以降は、当初のシステム通り、20年以上に渡る峰入り修行を英彦山で行った英彦山出身の山伏だけが霊仙寺の座主および伝燈大先達になれるという制度が徹底されるようになります。
全国の修験道(山岳信仰)が法統中心の別当寺(その山岳信仰を支配する寺)の座主になっていたり、山岳信仰支配のシステム自体が緩んで行く中、英彦山は特に江戸時代以降この座主=伝燈大先達制度が強化され、同時に信仰の深まりと九州全土への広がりの中、結束を固めて行きます。
明治には神仏分離令で政府により霊仙寺やその200以上あった僧坊は完全に破壊され、代わりに政府が英彦山神社を作りましたが、英彦山信仰の内容はその後も変わらず、
戦後になると、なんと英彦山神社(神宮)が中心になって英彦山修験(本山派<天台系>修験)の復活運動を始め、既に英彦山の末山である宝満山では英彦山修験が復活してきています。
今でも英彦山信仰の信仰対象は英彦山三所権現たる英彦山大権現です- 113
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2019-10-21 23:11:03
【神道シリーズ】第71回・八百万の神㉖英彦山信仰【前編】(英彦山神社になっても今でも英彦山大権現信仰w)英彦山(ひこさん)は、6世紀の北魏僧・善正による開山伝説や、二代忍辱(にんにく)の伝承、そして8世紀以降の法蓮による弥勒信仰に基づく新羅仏教による中興の祖としての活躍、そして、9世紀以降は天台二派(比叡山と聖護院門跡)による天台支配が以降続き、17世紀には霊仙寺(りょうぜんじ・英彦山信仰は伝説期の6世紀より明治前まではこの寺が中心になっていました)の座主・広延が真言系の三輪流神道に転向して真言宗(当座派修験)の影響が強くなりますが、基本的に天台宗の大拠点の一つとして中世・近世を送ってきました。
明治の神仏分離令で信仰の中心だった霊仙寺は破壊され、そこに政府によって英彦山神社が作られたものの、
信仰内容は不変で、今日でも「英彦山大権現」への信仰は変わらず、祭祀も天台や真言の修験者たちが中心で行われており、今、明治に政府によって廃止させられた英彦山修験は復活しつつあります。- 100
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2019-11-18 22:53:02
【神道シリーズ】第74回・八百万の神㉔岩木山三所権現(天台と真言の確執の中で発展した岩木山信仰)青森県津軽地方の「津軽富士」と呼ばれる岩木山(いわきさん)の特徴は、他の山岳信仰でほぼ例外なく伝わる「役小角による開山説」の伝承が無いことで、代わりに薬師如来の垂迹とされた大元尊(大己貴神)による開山が伝えられ、以後、岩木山と両隣の岩鬼山(がんきさん)と鳥海山(ちょうかいさん)が、それぞれ十一面観音の垂迹の多都比姫(宗像三女神)、阿弥陀如来の垂迹とされる国常立尊で構成される「岩木山三所大権現」が信仰の中心となってきました。
この岩木山三所権現は、天台宗の聖護院が自ら形成した熊野三所権現や白山三所権現と同じパターンで、さらに天台宗比叡山の山王三聖の中心の大己貴神=釈迦如来の化身を本地仏を薬師如来に変えて持ち込み、これも白山三所権現や英彦山三所権現(いずれも天台系)と同じパターンで、「大己貴神(釈迦か薬師か阿弥陀の化身)が地元の竜女神と結婚した」パターンが採られています。
こうしても見ても、岩木山信仰のほとんどは天台両派(比叡山と聖護院)によって形成されたと言っても過言ではありません。
岩木山信仰は①岩木山三所権現を中心に、室町時代から江戸時代にかけて、②坂上田村麻呂=毘沙門天(多聞天=北斗七星=妙見)信仰③深沙(じんじゃ)大権現<大般若経守護神の一つ>の猿賀(岩木山の麓)④安寿姫と厨子王丸(仏教の説教話「さんせう太夫」の登場人物)から来る安寿姫=岩城大権現信仰の4つの柱からなっていますが、いずれも天台宗の影響が大きいのが窺われます。
明治の神仏分離令で、信仰の中心の百沢寺(ひゃくたいじ)は政府により強制的に神社に改編され(岩木山神社)、多くの僧房は破壊されましたが、今でも上記の四要素は昔と変わらず、山伏が中心となる祭祀が行われています。- 91
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2020-03-23 22:22:02
【神道シリーズ】第87回・八百万の神㉜鳥海山大権現(真言と天台の係争の場・鳥海山修験)鳥海山(ちょうかいさん)は、かつて出羽三山(現在は羽黒山・月山・湯殿山)の一つとして羽黒山、月山とともに数えられたことがありますが、山形県の五山(羽黒山・月山・湯殿山・葉山・鳥海山)の中では標高(2236m)でダントツで最高であり、山麓を含めた面積も他山を圧倒的に凌いでいるにもかかわらず影の薄い存在となっています。
鳥海山は奈良時代から朝廷と蝦夷の戦いの最前線にあり、朝廷は大物忌(おおものいみ)神社(祭神は鳥海山大権現)を建て、仏経的な意味で血穢や死穢を清める意味での「物忌」を願い、殺害した蝦夷の祟りを恐れて鎮霊の為にこの神社を創建しました(6世紀後半・欽明期)。
平安以降は真言宗と天台宗の修験が進出し、両宗派ともに神宮寺や大物忌神社の社僧(神社に常駐する僧侶)として神社の実験を握り、その主導権を両宗派によって明治前まで争い続けました。
明治の神仏分離令で鳥海山修験が禁止された為に鳥海講は衰え、その後消滅の道を辿り、今では大物忌神社そのものは残っているものの、その信仰を支えた修験道の消失で現在は登山地・観光地としてだけ注目されるようになりました。- 83
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2020-04-27 22:57:02
【神道シリーズ】第91回・八百万の神㊱その他の山岳信仰(4)霧島山・久住山・牛尾山・開聞岳・硫黄岳今回は、九州でまだ解説してない霧島山(きりしまさん)・久住山(くじゅうさん)・牛尾山(うしおやま)・開聞岳(かいもんだけ)・硫黄岳を紹介します。
霧島山は、天暦(てんりゃく)年間(847~752)に証空の開基を伝え、そののち、霧島六社をもって霧島六社権現として発展し、明治前まではその各社とも、天台・真言の別当寺を持っていたが、明治政府により強制廃絶され、江戸時代以降に国学の影響でヤマトタケルが祀られた霧島神社のみが残っています。
牛尾山は、信仰の中心は法厳寺(単立の本山修験宗。本尊は十一面千手観音)が中心で、牛尾神社は:延暦11年(792)、出雲大社より勧請創建された古社で、もと八王子大明神といい牛頭天王を併せ祀り、地元では「天王さん」と親しまれており、現在でも修験道が盛んです。
久住山(九重山)は、文明2(1470)年、英彦山より養順法印(天台宗)が入山し、修験道場を建立、法華院白水寺と呼ばれるようになり、英彦山信仰に吸収されていきました。
開聞岳は、信仰の中心は別当寺の普門寺(真言宗)であったが、明治の神仏分離令の際に破壊されましたが、現在でも岩屋や石祠(せきし)などから、かつては当山派修験の名残が窺われます。
硫黄岳は、山麓に、蔵王権現と熊野権現を祀り、熊野権現は、この島に島流しになった僧・俊寛(真言宗)らの勧請と伝えられています。- 81
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2020-03-16 22:59:09
【神道シリーズ】第86回・八百万の神㉛葉山大権現(今でも薬師如来を本尊として祀る葉山神社<旧・天台大円院>)山形県の葉山はちょうど現在「出羽三山」と呼ばれる羽黒山・月山・湯殿山のすぐ東隣りに位置し(月山・湯殿山のすぐ隣)、かつては羽黒山・月山とともに出羽三山の一つに数えられていましたが、江戸時代以降、湯殿山に真言宗が進出して湯殿山信仰を確立すると今の三山形式になりました。
それまでは現出羽三山に匹敵する山岳信仰があったとされています。
葉山信仰は天台宗の葉山大円院とともにあり、葉山信仰=天台葉山大円院と言っても過言でないほどですが、江戸後期頃には次第に月山信仰に吸収されて衰退し、明治維新の神仏分離令により葉山神社(明治に新設)に強制改装されて今日に至っています。
しかし、普通明治に信仰の中心であった寺院が破壊されて神社化させれる時、縁も所縁もない古事記の神々が祀られる事がほとんどの中、今でも葉山神社では本尊として薬師尿来が祀られていることからしても明治の神社神道化(国家神道化)の失敗例だとも言えるでしょう。- 75
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2019-12-16 22:53:02
【神道シリーズ】第76回・八百万の㉖日光山信仰【後編】(峰修行・現在の祭祀)前回は勝道上人による開山伝承やその後の日光山(二荒山)の天台化や比叡天台系の輪王寺を中心にして確立した日光三所大権現信仰の歴史などを紹介しましたが、今回は、その日光山で行われてきた四季峰修行や現在の日光山の祭祀などについてお話したいと思います。
日光山信仰は中世以降天台宗(比叡山)を中心とした日光三所大権現信仰を中心に発展して行き、近世(江戸時代)になると日光東照宮の創建や天台僧天海による山王一実神道の確立などで幕府からの強い後援を受けて発展しますが、明治になると神仏分離令で三社権現社が日光二荒山神社に改編され、輪王寺との関係が強制的に断絶させられましたが、それでも日光山の登拝祭祀や護摩祈祷などは輪王寺と日光二荒山神社の協力の下で行われており、さらに江戸時代以降に確立した東照宮の祭祀などが今日でも続いており、(かつての)日光山修験道の廃止以外は今も昔も祭祀は変わっていません。- 70
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2021-01-29 22:01:03
【周防岩国の霊峰】阿品弥山 弥山本社「日宛山神社」の紅葉と山頂からの大展望 令和2年近くて遠い幽境で元来は山岳信仰の山。弥山本社 日宛山神社の紅葉を眺めた記録。旧岩国領吉川公の祈願所であった弥山社。現在明治の神仏分離令にて三社に分割された。令和2年2回目の訪問。展望所からの山並みがなかなか良い。
弥山本社 日宛山神社= 猿田彦大神、大山祇大神を祀る。岩国市日宛地区(旧日宛村)の鎮守.
社殿右の陽光を受けた紅葉の古木が見事だと思う。展望台は山並みが遥かに見えて、周防大島や柳井、広島県の山も見える。
山口の登山家 中島篤実先生選定の山口百名山の一座
〜歴史〜
岩國の霊峰〜弥山の寺社巡りと山の風景。かつては江戸時代吉川広家公により〜岩国北ノ方鬼門除護と岩国領と領民の全ての安寧を祈る霊場である弥山社として神仏習合の霊場だった。
明治期、阿品、日宛、瓦谷の三村の境にあることから阿品=長楽寺、日宛=日宛山神社、瓦谷=赤滝神社の社寺に分割された経緯がある。自然豊かな展望の良い信仰の山。
弥山社=山の開創は役行者とされひと呼んで新四郎坊。修験道の山であった。元来は神仏混合の社寺。享保年間社殿造営の時、東光寺の禅師が来山し黄檗宗と定まった。現在の弥山本堂の社殿後ろのもみぢの木が大きいです。アクセスが大変なので普段はあまり訪れる人は少ないようです。
2019年より綺麗に撮れたから満足です^^> 新緑が楽しみだ。中Xコロナみ負けないぞ。
(2)弥山本宮 赤滝神社周辺の紅葉 sm38199118 (瓦谷)
(3)弥山本堂 長楽寺(阿品)(4)番外記録 R31月14日大祭の日。山の頂風景(阿品登山道 山頂から14丁あたりまでなど)
阿品弥山への林道【車載】 sm37842965- 55
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1970-01-01 09:00:00
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