キーワード神皇正統記を含む動画:19件 ページ目を表示
2024年5月29日 06時22分に生成された05時00分のデータです
2011-02-03 15:32:46
【新田均】さようなら小林よしのり ゴーマニスト宣言Part8[桜H23/2/3]論理破綻を嘘と悪罵と論旨のすり替えで糊塗したまま一方的に幕が下ろされた「天皇論追撃篇」に対し、別冊『正論』掲載の「小林よしのり氏の皇統論を糺す」にて、徹底的に検証なさった皇學館大學教授の新田均氏を、前回(12月9日)に引き続きお迎えし、『新天皇論』及び、『SAPIO』(2月16日号)における新田氏への批判などにどのような矛盾や詭弁が見られるのか、八木秀次氏から提供された女系問題に関わる新たな情報などもまじえながら、じっくりとご指摘いただきます。
◆新田均のコラムブログ
http://nittablog.exblog.jp/
◆チャンネル桜公式HP
http://www.ch-sakura.jp/脳の状態www 継体天皇絶句もんやなwww 草 逃げたなコバヤシ デマコバヤシ 今反対してるな新田均の予想通り うそつきパチノリ うそつきパチノリ 普通はそうだよな なめのりww なんで漫画家が出てきたのかね? 権力の座を狙う輩は多そうだが 頭w 脳...
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2021-01-20 13:13:02
3分で歴代天皇紹介シリーズ! 「57代目 陽成天皇」※後世における陽成天皇の評価 (一部)
「暴悪無双 (玉葉)」、「性悪であって人主の器に足らない (神皇正統記)」、
「物狂帝 (皇年代略記)」「いささか御物狂わしくいらっしゃって (賀茂皇太神宮記)」
●陽成 (ようぜい) 天皇 基本プロフィール
父 清和天皇 (第一皇子) 母 藤原高子 (藤原長良娘)
在位 876年 ~ 884年 (9年間)
生涯 868年 ~ 949年 (82歳)
●1代目 神武天皇 → sm33459779
56代目 清和天皇 → sm38098072 58代目 光孝天皇 → sm38207465
●このころの世界
878年 黄巣軍による広州大虐殺が発生
882年 キエフ大公国が成立
●参考文献一覧 (下の方に掲載しております)
https://inocchi-douga.com/tennou/heian1.html
●3分天皇紹介リスト → mylist/62530271 ついったー @inocchi_0515
●いのっちHP! → https://inocchi-douga.com/あき竹城? 政争に敗れると「こんなにヤバいやつだったんだ!」ってあることないこと喧伝されて勝者の正当化に使われるいつものやつ 天智天皇も蘇我入鹿殺してるで 宮中で臣下殴り殺すとか陽キャすぎやろ 後陽成というのは息子が嫌がらせでつけた諡号だぞ マッカー...
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2008-10-25 21:20:30
明治天皇 軍人勅諭軍人勅諭は、1882年(明治15年)1月4日に明治天皇が陸海軍の軍人に下賜した勅諭。正式には『陸海軍軍人に賜はりたる勅諭』。西周が起草、福地源一郎・井上毅・山縣有朋によって加筆修正された。下賜当時、西南戦争・竹橋事件・自由民権運動などの社会情勢により、設立間もない軍部に動揺が広がっていたため、精神的支柱を確立する意図で起草されたものされ、1878年(明治11年)10月に陸軍卿山縣有朋が全陸軍将兵に印刷配布した軍人訓誡が元になっている。教育勅語→sm5037463 五箇条の御誓文→sm5037980 国威宣布の宸翰→sm5038549 乃木希典「士規七則講話」→sm7372847 福沢諭吉「帝室論」→sm5120245 山鹿素行「中朝事実」→sm6938281 北畠親房「神皇正統記」→sm6922359 南洲翁遺訓 西郷隆盛→sm6932526
日本が嫌いな癖にこういうの見に来るなよきめぇな まともな事を云ってます この動画見て暗...
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2009-05-02 18:10:10
神皇正統記神皇正統記は、南北朝時代に公卿の北畠親房が、幼帝後村上天皇のために、吉野朝廷(いわゆる南朝)の正統性を述べた歴史書。史書としての正確さや論理性はいささか不備があるものの、足利尊氏に小田の小城に追い詰められた中で書かれ、読まれた書であり、現代に於いても日本の国体(くにがら)について考える時、不可欠の書だと思います。山鹿素行「中朝事実」→sm6938281 本居宣長「直毘霊」→sm5015829 本居宣長「玉くしげ」→sm5058142 賀茂真淵「国意考」→sm5000813
←それな 近代日本に利用された言葉 その他南朝方「キレそう」 南朝は尊を使っても高にこだわるのが親房 この前置きの真情がワカランとは・・・ わざわざ「高氏」と書いているところに器の小ささを感じるわ つまり「忠」は君たる者の「有徳」なくして成立しないと...
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2008-10-22 22:28:09
本居宣長 直毘霊本居 宣長は江戸時代日本の国学者・文献学者・医師。荷田春満・賀茂真淵・平田篤胤とともに「国学の四大人」の一人。当時、解読不能に陥っていた古事記を解読し、35年かけて著した「古事記伝」,賀茂真淵にただ一度だけ真淵より教えを受けた(「松坂の一夜」)などが有名。「直毘霊」(なおびのみたま)は儒教や仏教で説く道はただ人智による理屈にすぎず,「古事記」などの日本の古典にこそ真の道が備わっているとして,その国学思想を古道として説き,自らこれを用いて講義したといわれ、古学の眼を開く為の精髄を凝縮した書。山鹿素行「中朝事実」→sm6938281 北畠親房「神皇正統記」→sm6922359 本居宣長「玉くしげ」→sm5058142 賀茂真淵「国意考」→sm5000813
御代御代の間に、時折まつろわぬ穢れ多い人もあったけれども、神代からの古い約束通り、神威を表して、たちまち滅ぼしておしまいになったのだ。 幾万代を経ようと、誰が大皇に背き得ようか。 天津日嗣の高御座が天地のように不動であることは、ここで既に決まっていた...
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2008-10-25 02:24:01
明治天皇 五箇条の御誓文慶応4年(明治元年)3月14日、明治天皇は京都御所紫宸殿に公卿・諸侯以下百官を集め、維新の基本方針を天地の神々にお誓いになりました。この日、天皇みずからが国難の先頭に立って伝統あるこの国を護り、世界各国との親交を深めつつ国を隆昌に導こうとするにあたり、国民への協力を求める告諭(宸翰)が、御誓文とあわせて布告されました。ここには日本の民主主義の基本と、普遍的な理念が示されております。私たちは明治維新の尊い精神を継承し、その心を現代に生かすことが肝要です。教育勅語→sm5037463 国威宣布の宸翰→sm5038549 軍人勅諭→sm5046534 乃木希典「士規七則講話」→sm7372847 福沢諭吉「帝室論」→sm5120245 山鹿素行「中朝事実」→sm6938281 北畠親房「神皇正統記」→sm6922359 西郷隆盛→sm6932526
このBGMいいね 偉大なる明治天皇 美しい日本 皇祖皇宗の御心そのもの 天皇陛下万歳! 帝王学...
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2016-07-15 19:57:05
第51代 平城天皇「帰化人ども神皇の系譜を汚し愚民を惑わすな!」桓武天皇第一皇子 第51代 平城天皇『日本後紀』巻十七 「勅(みことのり)して、倭漢惣歴帝譜圖は、天御中主尊を標(しる)して始祖と為し、魯王・呉王・高麗王・漢の高祖命等(たち)に至るが如く、其の後裔と接(まじ)る。倭漢雜糅(ざつじゅう)、敢(あえ)て天宗の垢(よごれ)となり、愚民迷執し、輙(すなわ)ち實録と謂ふ。」北畠親房『神皇正統記』「異朝の一書の中に、「日本は呉の太伯が後也と云ふ。」といへり。返々あたらぬことなり。昔日本は三韓と同種也と云事のありし、かの書をば、桓武の御代にやきすてられしなり。天地開(ひらけ)て後、すさのをの尊 韓の地にいたり給きなど云事あれば、彼等の国々も神の苗裔ならん事、あながちにくるしみなきにや。それすら昔よりもちゐざること也。」
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2009-05-04 02:29:48
山鹿素行 中朝事実山鹿素行は、江戸時代前期の儒学者・兵学の大家。中朝事実は、山鹿素行が寛文9年(1669年)に記した尊王思想の歴史書。全2巻、付録1巻。江戸幕府によって朱子学が奨励され、儒学が偏重され、中国を過大評価し我が國を過小にみる風潮が蔓延していた。これに対し反論したのが素行の「中朝事実」であった。素行の思想はその後、幕末の吉田松陰(山鹿流兵学)に影響を与え、更に松蔭と素行から乃木希典大将は影響を与えており、後世へ大きな影響を及ぼした。吉田松陰「士規七則」→sm7345233 乃木希典「士規七則講話」→sm7372847 北畠親房「神皇正統記」→sm6922359 本居宣長「直毘霊」→sm5015829 本居宣長「玉くしげ」→sm5058142 賀茂真淵「国意考」→sm5000813 山鹿素行「武教小学」→sm7401755
天皇(日本のリーダー)は魂で選ばれる者。。霊力がアルので判りやすい世。。。卍3286卍ss 昔...
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2008-10-26 19:50:27
本居宣長 玉くしげ「玉くしげ」は国学者、本居宣長(1730-1801)が研究し明らかにした「古道」精神を政治に反映させようとしたもので、書名は、本書に添えた「身におはぬしづがしわざを玉くしげあけてだに見よ中の心を」という歌に由来する。『玉くしげ』は理念篇であり、直毘霊→sm5015829と共通する部分が多い。『秘本玉くしげ』は実際の政策について述べられており、現在の日本に通じることの多い興味深い書です。賀茂真淵→sm5000813にただ一夜だけの指南を受けた「松阪の夜」が知られている。山鹿素行「中朝事実」→sm6938281 北畠親房「神皇正統記」→sm6922359 本居宣長「直毘霊」→sm5015829 賀茂真淵「国意考」→sm5000813
保守諸君のバイブルに・・・ 風俗が悪いってwww 戦前の小学生なら誰でも知ってる話 一度し...
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2009-06-16 04:06:35
無逸の心死を哭す 吉田松陰「無逸の心死を哭す」は安政六年二月に吉田栄太郎(後の吉田稔麿)に宛てて吉田松陰が送った手紙です。松蔭は栄太郎に”無逸”の字を与え、その人物を高く評価し、将来を嘱望していましたが、栄太郎は心中深く期するところがあり、松下村塾を離れます。これを嘆き、勤皇の心が死んだのか、と問いかけ嘆いたのがこの手紙の内容です。その後、吉田稔麿は池田屋事件で斃れるまで、勤皇の志士として活躍することになります。吉田松陰「士規七則」→sm7345233 山鹿素行「武教小学」→sm7401755 山鹿素行「中朝事実」→sm6938281 乃木希典「士規七則講話」→sm7372847 北畠親房「神皇正統記」→sm6922359 本居宣長「直毘霊」→sm5015829 本居宣長「玉くしげ」→sm5058142 賀茂真淵「国意考」→sm5000813 明治天皇「教育勅語」→sm5037463
時代のせいではない BGM? その松陰先生にしたって三十歳、惜しい死だよね この時代から考え...
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2008-10-21 03:03:46
賀茂真淵 国意考賀茂真淵は荷田春満(かだのあずままろ)を師とし、万葉集などの古典研究を通じて古代日本人の精神を研究した。荷田春満・本居宣長・平田篤胤とともに「国学の四大人(しうし)」の一人とされる。主な著書に『国意考』を含む『五意考』などがある。国意考は儒教の説く聖人の道を一種局小なる人為的智巧の道であるとし、之に対して我が古神道は天地の自ずからなる大道であることを主張しているものである。山鹿素行「中朝事実」→sm6938281 北畠親房「神皇正統記」→sm6922359 本居宣長「直毘霊」→sm5015829 本居宣長「玉くしげ」→sm5058142
母系なのか www w 天皇の下の平等ですな。 和歌は良いですね 訴訟社会のアメリカみたい...
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2009-06-14 20:17:17
士規七則 吉田松陰「士規七則」は、安政2年1月(1855年2月)、甥の玉木彦助の元服の日に与えた手稿であり、後に武士道の在り方として後世に大きな影響を与え、特に乃木希典大将に於ては、「士規七則講話」に於て重大な影響と尊信を知る事が出来ます。「士規七則」を知る事は、我が国の国体について、山鹿素行の武教全書、その抄訳たる武教小學などから吉田松陰、乃木希典大将に至る日本思想の一端の系譜をも知る事になります。山鹿素行「中朝事実」→sm6938281 乃木希典将軍「士規七則講話」→sm7372847 山鹿素行「武教小学」→sm7401755 明治天皇「教育勅語」→sm5037463 福沢諭吉「帝室論」→sm5120245 北畠親房「神皇正統記」→sm6922359
ちょびっともわかれあねえwwwwwwwww 感銘を受けた おk 松陰先生! 松陰先生!! ちっともわかんねww...
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2008-10-25 03:09:35
明治天皇 国威宣布の宸翰『五箇条の御誓文』が出された明治元年(1868(慶應4))3月14日、天皇自身の信条を全臣民に認識させる目的で「国威宣布ノ宸翰(しんかん=天皇直筆の文書。宸筆・親翰とも)」が発表された。教育勅語→sm5037463 五箇条の御誓文→sm5037980 軍人勅諭→sm5046534 乃木希典「士規七則講話」→sm7372847 福沢諭吉「帝室論」→sm5120245 山鹿素行「中朝事実」→sm6938281 北畠親房「神皇正統記」→sm6922359 西郷隆盛→sm6932526
MeijitheGreat 明治大帝∩(・ω・)∩ばんじゃーい 振り仮名が中途半端 日本にとって重要なもので...
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武教小学 山鹿素行武教小学は山鹿素行の講義などを基に門人達が簡潔にまとめたもので、「武教全書」の巻頭にあり、素行はこれを用いて講義も行っていたので、自著と同等に扱われています。忠臣蔵で有名な江戸時代の大石内蔵助、幕末の吉田松陰、明治時代の乃木希典大将へと大きな影響を及ぼした兵学者・儒学者が示した江戸時代の泰平の世の武士の日常生活規範がここにあります。山鹿素行「中朝事実」→sm6938281 吉田松陰「士規七則」→sm7345233 乃木希典「士規七則講話」→sm7372847 北畠親房「神皇正統記」→sm6922359 本居宣長「直毘霊」→sm5015829 本居宣長「玉くしげ」→sm5058142 賀茂真淵「国意考」→sm5000813
目から鱗です べんきょうさせてもらいます! 江戸時代はスゴイな ありがとうございました ...
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【万世一系の皇統】皇胤たえ...国々にめぐり、ちかき皇胤を求奉ける『神皇正統記』巻三「第二十七代、第二十世、継体(けいたい)天皇は応神(おうじん)五世の御孫也。応神第八(の)御子隼総別(はやぶさわけ)の皇子、其子大迹(おほと)の王、其子私斐(しい)の王、其子彦主人(ひこぬし)の王、其子男大迹(をほと)の王と申(まをす)は此天皇にまします。御母振姫(ふるひめ)、垂仁(すゐにん)七世の御孫也。越前(ゑちぜんの)国にましける。武烈(ぶれつ)かくれ給て皇胤(くわういん)たえにしかば、群臣うれへなげきて国々にめぐり、ちかき皇胤を求奉(もとめたてまつり)けるに、此天皇王者(わうしや)の大度(たいど)まして、潜龍(せんりよう)のいきほひ、世にきこえ給けるにや。群臣相議(はからひ)て迎(むかへ)奉る。」https://www.youtube.com/watch?v=J8i8zO5JKdc
高森明勅がメディアに呼ばれるのは何故 高森明勅ga むしろ兄の子供の方が正統でしょ 小林=功罪半ば、後半は罪 所氏の無理解には驚いた・・・ 小林転落の歴史・・・ 正論です 同意 この頃からヨシリン漫画は読まなくなった・・・ ←小林:パチンコマネーの影...
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2020-12-14 22:48:02
【神道シリーズ・シーズン2】第15回・慈円「愚管抄」(伊勢神道時代の背景にあった神概念とは?)前回紹介した「神皇正統記」の著者である北畠親房と、今回紹介する一時代前の「愚管抄」の著者である慈円は、平安末期から南北朝時代までの約150年間に渡り、当時の天皇・公家・貴族・武家らが実際にどのような神概念を抱いていたのかを物語る上で大変貴重な資料となっています。
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2020-12-07 23:10:03
【神道シリーズ・シーズン2】第14回・「神皇正統記」北畠親房(伊勢神道を継ぐ者たち①)渡会家行の後、後継者なく途絶えそうになっていた伊勢神道は、内宮の荒木田氏により救出され引き継がれることとなったものの、その法統も南北朝の戦乱の中、再び途絶えようとしていた時期に、南朝の重臣の北畠親房や天台僧の慈円らによってその流れが引き継がれることになりました。
伊勢神道自体の復興は江戸時代の 度会延佳の時代を待たねばならなかったものの、この南北朝時代に伊勢神道の流れを継いだ北畠親房の「神皇正統記(じんのうしょうとうき)」の中では、道教的な思想が中心であった伊勢神道に儒教(朱子学)的なイデオロギーを注入したのが特徴で、実はこの流れはこの先の吉田神道や江戸時代の儒家神道・水戸国学・復古神道にも強い影響を与えて行くことになります。- 72
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2021-05-04 10:15:02
【神道シリーズ・シーズン2】第30回・藤田幽谷と中期水戸学藤田幽谷は安永3年2月18日1774年3月29日常陸国水戸城下の奈良屋町に、古着商藤田屋を営む藤田与右衛門の次男として生まれ、頭脳明晰の才が認められ、父与右衛門の英才教育の下、寺社奉行下役の小川勘助や医師の青木侃斎から儒教を学び、その後、彼らの推挙により10歳にして荻生徂徠の古辞学派の、のちに水戸藩の彰考館総裁となる立原翠軒の門人となった。
その後15歳で彰考館の正式な館員となり、水戸藩の修史事業である『大日本史』の編纂に携わるようになった。
そして17歳になると「神皇正統記」の研究をはじめ、「天皇考」「幽谷随事」を著して国体論を確立し、この時より幽谷を名乗るようになる。
18歳になった年には老中松平正信の求めにより、天皇と幕府と諸藩との間の君臣上下の名分を正すことの重要さを説いた「正名論」を寄稿し、24歳以降は、封事という、藩主への直訴とも言える訴えを行い、幽谷は、文公治保、武公治紀、哀公斉修の藩主三代に渡り生涯に26回の封事を行った。
29歳の時には、水戸梅香の自宅に青藍舎という私塾を開き、ここに日本全国から尊王攘夷に燃える若者たちが集まり、その中にはのちに長州で松下村塾を始めた吉田松陰も含まれていた。
幽谷の封事は、迫りくる外国勢力からの海防国防の為の強兵策と悪化し続ける水戸藩の財政の立て直しを目指して行われたが、幽谷の在任中は藩内の旧守派藩閥派にことごとく阻まれ実行されることはなかったが、幽谷の死後、9代藩主となった列公水戸斉昭は幽谷の海防論と藩財政立て直しの為の経世救民論を受け入れ、それを実行しようと心がけたのだ。
しかしながら、海防を充実するだけの財政余裕はなく、また、藩財政の立て直しに関しても、江戸中期以降発達した商品経済貨幣経済にまったく対応のできない儒教的な農本主義に基づく名分再建論で水戸藩の財政を止めることは出来なかった。
幽谷の儒教的経世救民的財政再建策はなんの効果も無かったものの、度重なる処分や死の覚悟をしてまで藩主に直訴を続けた姿勢と尊王攘夷の気概は、彼の開いた青藍舎を通じて全国の勤王の志士たちに大きな影響を与えることとなったのである。孝経でも諫争が強調されてますね
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