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2024年6月27日 07時10分に生成された05時00分のデータです
2018-01-16 00:23:25
【神道シリーズ】第一回・朝鮮半島と日本の古代神祇信仰(倭人とは?)この神道シリーズは私個人の推測ではなく、あくまで今日本の古代史学会や考古学学会などの学者の意見が向かってる方向を分かりやすくまとめてお伝えする形で進めて行こうと思ってます。第一回は、倭人についてですが、倭人とは紀元前5世紀頃から中国江南地方の呉という国から難民になった人たちが、古代中国の鬼神信仰や社稷信仰、そして道教神仙思想や陰陽五行思想なども携えて朝鮮半島および日本列島に移民してきた人たちのことで、日本列島はその後、朝鮮半島からの移民が続き、その中で古代神祇信仰を形成して行きます。専門的意見のアドバイスを歓迎しますが、無内容な断言・レッテルはすべてNGにします(タグも含めて)
学会の意見じゃ参考にならない感じなのかな? ウミガメじゃねーよワニ(サメ)だよ 海水面が下がってたんだろ 氷河で繋がってた?は? 復習 民間信仰的仏教と言われているものかwww 物語と事実を混同している所が痛いなw 古モンゴロイドと新モンゴロイドの違...
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2018-01-29 22:53:40
【神道シリーズ】第三回・卑弥呼と邪馬台国(畿内説?九州説?)卑弥呼や邪馬台国に関しては江戸時代の頃から九州説と畿内説の論争が続いてきましたが、最近では、魏書に書かれていた「卑弥呼に与えた100枚以上の鏡」に相当する魏の年号が書かれた三角縁神獣鏡が纏向遺跡から見つかったり、箸墓古墳が卑弥呼の墓に相当するのでは?と圧倒的に畿内説が有利になってきています。今回は新羅系の天日槍族の血統のオキナガタラシヒメ(神功皇后)と卑弥呼の繋がりについて検証します。専門的な知識に基づくアドバイスは歓迎しますが、感情論や願望による中傷・レッテル張りはすべてNGにします。
新羅からの渡来勢力は鉄の武器と先進技術を持ってたので侵略はけっこう楽だったと思います。 鳥居はあるだろ・・・本殿がないの間違いのないの? 1代でできることなのか? 行ったぞそこ
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2018-11-19 22:25:02
【神道シリーズ】第39回・両部神道①(まずは真言密教とは何か?から)いよいよ日本の中世から近世にかけて圧倒的な宗教的ヘゲモニーを握った真言密教系神道である両部神道のお話に入りますが、その前にまずは真言宗(真言密教)とは何か?を理解していないと、両部神道のみならず、その後に展開された伊勢神道や吉田神道という中世から近世にかけて重要な役割をした中世神道を理解することが出来ません。
ちなみに、伊勢神道は両部神道(真言密教系)と道家(道教)の結合によって生まれ、さらに吉田神道は、その伊勢神道(両部神道+道教)に儒教思想が加わって出来ています。
奈良時代までは雑密と言う未完成な呪術中心の密教の下で朝鮮半島由来の古代信仰(神祇信仰)と習合が進み、神宮寺の形成により雑密仏教が神祇信仰を支配する仕組みが出来ていましたが、中世以降は純密と言われる真言宗系密教が神祇信仰をその傘下において発展していきます。- 797
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2019-03-25 22:15:03
【神道シリーズ】第53回・八百万の神⑩飯縄のクダ狐に始まる全国の迷信前回は飯縄三郎坊という烏天狗の飯縄大権現について高尾山を中心とする飯縄大権現信仰についてお話しましたが、今回は、「飯縄信仰」の中でのもう一つの要素「飯縄(いづな)の法」に基づく「クダ(管)狐」に纏わる信仰と伝承についてお話していきたいと思います。
戸隠山と飯綱山と高尾山は「飯綱(飯縄)」信仰繋がりなんですが、戸隠は「飯縄の法」から発展した験術(日本の忍者などのルーツとなる)が中心で、飯綱山は「飯縄の法」で使役すると言われる「クダ(管)狐」に纏わる信仰、そして高尾山では「飯縄の法」やクダ狐とは無縁で、狐=ダキニ天とする真言密教の影響が圧倒的に強く、ダキニ天法と修験道の不動明王、そして中国から伝わって日本で形成された天狗のイメージとの習合による「飯縄大権現」(飯縄三郎坊・天狗)の信仰が中心となります。
今回は、飯綱山を中心に発生した「クダ狐使い」が江戸時代以降には全国に様々な形で伝わり、日本中を覆うように様々なクダ狐繋がりの迷信が広がり、それがなんと今日まで残ってることについてお話をします。たぐ… クマ出没注意だよ! これだけタグ狐が増えたのは、管狐の仕業に違いない
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2018-02-06 00:11:38
【神道シリーズ】第4回・天日槍(新羅からの渡来勢力)の足跡その1古事記、日本書紀には新羅王子とされ、播磨風土記では新羅神とされた天日槍は、その足跡を北九州から瀬戸内海、そして近畿、北陸まで朝鮮半島から持ち込んだとされる品目(須恵器、金銅製冠・装飾物、馬具、鉄器製品、支墓石、新羅製鏡など)を遺跡に残しながら、地方風土記や神社の伝承、地元の祭祀など濃厚に残しながら今日の発掘研究を可能にしています。この天日槍の血統上にある五十迹(いそて)、田道間守らは地方信仰の対象となり、そしてその末裔である神功皇后はスサノオ王朝(新羅系)を倒し、今日の皇統に繋がる存在となっています。(夫とされる仲哀天皇の非実在性は確実視されてます)専門的アドバイスは歓迎しますが、感情論、願望に基く中傷やレッテル張りはすべてNGにします。
27ですがどの学者ですか どの学者ですかwww ムーかオカルト雑誌の読みすぎですか 天日槍族など学術的に存在が認められていない 古事記日本書紀のどこにスサノオ族王国が出ていますかwww 山口のだけどコウゴイシは何回か見に行きましたなどうゆう歴史がある...
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2019-03-18 22:34:01
【神道シリーズ】第52回・八百万の神⑨飯縄大権現(中編)戸隠・飯綱・高尾山を繋ぐ飯綱権現信仰とは?(天狗編)<飯「綱」大「明神」>は戸隠、<飯「縄」大「権現」>は飯綱山(荒安)と高尾山薬王院で、「綱」と「縄」どちらも「つな」と呼びます。
「綱」とか「縄」とか「明神」とか「権現」とかややこしくなってますが、この長野県北部(戸隠山・飯綱山)から東京都八王子市(高尾山)をむすぶ「いいづな」信仰の繋がりを今回は解析していきたいと思います。
戸隠山と飯綱山では妖狐(霊狐)のクダ狐を駆使する「飯縄の法(術)」を中心とした妖術の伝承が強く、戸隠では飯縄使いから様々な忍術が産まれ、戸隠(伊藤)流忍法が発生し、その戸隠忍法の開祖・仁科甚十郎(大助)は忍法を出身地の伊賀やその隣の甲賀に伝え、伊賀流忍法や甲賀流忍法などが誕生し、戸隠は日本の忍者のルーツとなります。
一方、京都の醍醐寺(真言宗)から鎌倉時代に俊源大徳という真言僧が高尾山に登拝し、不動明王を祀ったところ、同時に飯綱大権現を感得し、飯縄大権現が祀られるようになりました。
しかし、高尾山薬王院の飯縄大権現にはタグ狐の「飯縄の法」の面影はなく、不動明王やダキニ天(稲荷神)、迦楼羅天、歓喜天(多聞天)、宇賀弁財天などが習合した烏天狗で大天狗の「飯縄三郎坊」としての飯縄大権現が祀られています。せめて里宮の動画を引用してあげて… 飯縄神社はいくつかあり、ここのは荒安の神社ではありません え、、ネームバリューのわりに小さいな、、 如意宝珠じゃなくて? 分かりやすいっすよ ぜひいらして下さい 後醍醐天皇は良い趣味をしてますね もう飯綱山とあまり...
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2018-09-10 22:41:02
【神道シリーズ】第32回・白山信仰(朝鮮道教と天台密教と真言密教の接点)①682年(天武天皇の時代)に越前(福井県)の麻生津に生まれた渡来系(朝鮮半島系・新羅)の家系の両親の下に生まれた泰澄(たいちょう)は、11歳の時に中国の玄奘三蔵法師の直弟子だった法相宗の僧侶・道昭(道照)に天童と見込まれ、14歳の時に夢に十一面観音が出てきて、指示されたように近くの越知山で山林修行を始め、そして36歳の時、夢に女神の白山神(菊理媛<ククリヒメ>)が現れ、指示されたように白山に登ると、九頭龍王に出会い、九頭龍王が自ら自分の本当の姿は十一面観音だと名乗り、ここに泰澄が白山を開山することになります。
白山信仰では飛鉢(ひはつ)法と言って米の入った鉢を泰澄の弟子の臥業者(ふせりのぎょうじゃ)が飛ばして越知山に運ぶという伝承がありますが、この類似の伝承と十一面観音本尊の本地垂迹思想は白山を中心に北陸全体・美濃(岐阜県)北部・畿内へと広範に広がり、泰澄の足跡と重なるように「十一面観音信仰地帯」のようなものを形成して行きます。言われてみれば九は老陽の数だな 世界のATMにっぽん
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2018-05-28 21:45:32
【神道シリーズ】第19回・(践祚)大嘗祭について(桓武以降中国化した朝廷文化>即位儀礼・天長節・・)大嘗祭と言えば新天皇即位の宮中儀礼として知られてますが、実は新嘗祭(大嘗祭)が天皇即位の年の11月に行われるようになったのは平安時代の桓武天皇の時代からで意外と歴史が浅く、しかも、大嘗祭=天皇即位儀式としたのは中国(唐)の皇帝即位儀礼である冬至の郊祀(こうし)を真似たものだったのです。
そもそも(文献で確実に行われたと確認できる範囲だと)大嘗祭が新嘗祭として行われるようになったのは奈良時代の天武天皇の頃からだとされますが、この大嘗祭(当時は天皇即位儀礼ではなかった)も天日槍来日時代に新羅より伝わったとされる天の羽衣伝説から来ており、その伝説のように天皇が羽衣を来て沐浴すし(天羽衣伝説と同様)、その後地方で採れた新米を食する、という儀礼は、朝廷儀礼の中国化を進めた桓武天皇の時代に即位儀礼として今日に至ります。
しかしながら、嵯峨天皇より明治の前まで途絶えることなく続いた真言密教による荼枳尼天即位灌頂に比べ、この践祚(せんそ)大嘗祭も室町時代から江戸時代に至る240年間の中断があったり、伊勢神宮の式年遷宮も120年以上の中断があったりと、皇室自体がこうした儀礼に強い興味を示していなかった(真言密教一筋だった)ことが窺われます。てんじでしょ、読み方くらいしっかりしてよ
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2018-03-26 23:20:31
【神道シリーズ】第10回・三輪山信仰と朝鮮半島(新羅)三輪山にある大神神社は日本最古の神社と言われますが、現在の風貌とは異なり、もともとは鳥居も本殿(神殿)もなく、三輪山にある磐座(石)自体が信仰の対象だったのですが、それと同じ形態の信仰形態が新羅(現在の韓国の慶州)の神堂(しんだん・しんたん)と呼ばれる神石や神木などの自然を対象とした巫覡によるシャーマニズム的な信仰と酷似してることが学者たちに指摘されてます。
古事記などに出てくる大物主神の神話と朝鮮半島の蛇と針に関する口伝伝説の酷似や、神の正体が蛇であった点とか、これも朝鮮半島の伝承との類似性が指摘されてます。
巻向遺跡や箸墓古墳でも新羅製の須恵器や鉄製品、馬具などが出土しており、さらにこの傾向は伊勢神宮の外宮の高倉山古墳でも見られています。
スサノオ族や天日槍族という半島(新羅)からの渡来勢力が古代日本や日本の古代信仰(神道)を形成した跡が窺われます。古いっていつだよ。古いっていうならせめて4世紀には遡れよ 6世紀でも国産できるだろ 7世紀なんだから国産できてるだろ は?穢の概念が仏教伝来以前に無かったら、禊ぎする意味ないじゃん どの経典だよこら 仏教のケガレ? 薬でもやってんのか
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2018-04-24 00:08:53
【神道シリーズ】第14回・本地垂迹説(日本のすべての神々(朝鮮渡来の神々および人工神)は仏の眷属の化身とされる)宇佐八幡(八幡大菩薩)シリーズの第三話に進む前に、この本地垂迹説、つまり、日本の神々(元は朝鮮半島・新羅から)は仏の眷属(仲間たち)の化身であるとする思想をよく理解しておく必要があると思い、この一話を挿入することにしました。
八幡大菩薩が釈迦如来(本地)の化身(垂迹)だとされたのは9世紀後半で、本地垂迹説の先駆けだと言われます。
その後、11世紀、12世紀を通じて日本のすべての神社の神々は仏の眷属の化身であるとされるようになり、各神社に設置された神宮寺(神社を支配する寺)が中心となり各地独特の神仏習合文化を形成して行きます。
そして、これは一時期明治政府により否定され、神宮寺は破壊されたものの、この神仏習合思想は今日まで全国各地のお祭りや祭祀にまで生き続けています。
神社本庁を解体して全国神宮寺を復活させることこそが真に日本を取り戻すことだと思います。空海が軟禁されてるタイミングだったんすか!
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2018-08-06 22:29:03
【神道シリーズ】第28回・諏訪信仰(中国より渡来した弥生人の陰陽五行説思想と新羅系移民出雲族の確執)1960年に諏訪湖の北方に位置する塩尻市の大門神社で銅鐸が発見されるまでは諏訪信仰のミシャグジ神(洩矢<もりや>神)は縄文信仰だろうと考えられていたのですが、この銅鐸出土以降、諏訪信仰が中国江南地方より朝鮮半島や日本列島に大量移民してきた倭人、つまり弥生人の持ち込んだ陰陽五行説や社稷思想(穀物信仰)に基づくものだと認識されるようになりました。
諏訪信仰は、弥生系のミシャグジ信仰と、朝鮮半島(新羅)から移民してきたスサノオ族(出雲族)の諏訪への侵攻(侵略)から発する建御名方(タケノミナカタ)神信仰の陰陽五行説を通じた合体から成り、その原始諏訪信仰を継ぐ「諏訪氏」というのは、ミシャクジ(洩矢神)系の守矢氏(諏訪大社上社・神長官)と大祝(おおほおり)家と言われる建御名方系の神(じん)氏と金刺(かんざし)氏から成ります。
この両者(守矢氏VS神・金刺氏)は今日でも御柱(おんばしら)祭などの主導権をめぐって正統性の確執がありますが、今日でも中心的な祭祀で6年に一度ごと遷宮の代わりに四柱を諏訪大社(上社の前宮と本宮・下社の春宮と秋宮)をそれぞれ計4×4=16本、大木を伐採し、急な坂を男たちが乗って下って行くという危険な神事(過去に死亡者複数有)を行っています。巨大なたたき台を多くの人に提供している点でこの人の動画には非常に価値があると思う。 この動画だけで確実なソースが手に入ると思ってるのも甘い。 ソースは明らかにされた上で自分でその文献をよみそのソースのソースまで把握するのが筋では。確かな情報を手に入れ...
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2018-01-22 22:54:19
【神道シリーズ】第二回・新羅本紀と古事記・日本書紀(対比検証)よく保守系の人たちの間で、「新羅の国王は日本人(倭人)だった」「日本は強い高句麗から新羅・百済・任那を守ってた」「古代の朝鮮半島は日本の一部だった」などという首を傾げてしまうような言論を耳にしますが、そもそも倭人という点で当時の列島と半島の間の人種的な差は無く、しかも、新羅本紀や記紀を比較すると、そこには壮絶に戦争をし続けた両国の歴史が綴られており、決して「新羅が日本の一部」とは言えない歴史が記されています。当シリーズでは、専門的なアドバイスは歓迎しますが、感情論・願望に基づく根拠無き断定やレッテル張りはすべてNGにします(タグも含めて)
新羅に帰れよ 新羅好きだねぇーwwww 日本人と朝鮮人はDNAから見ると起源が違う 韓国人にはないという研究を発表した この人は日本人は環太平洋の民俗に似たDNAがあり ないないwww ソース無しwww しかしよく調べたもんだな期待してるぞ 倭人文化...
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2018-05-14 22:46:25
【神道シリーズ】第17回・稲荷信仰(新羅系秦氏の伊奈利神と真言密教の習合)①山背国風土記によると、新羅から渡来した秦氏の秦伊侶具が餅を的に矢を射てたら餅が白鳥になって飛んでいき、峯に留まって稲となり、711年にはその地に伏見稲荷大社が創建されたとありますが、もともと稲荷とは伊奈利という新羅系秦氏が持ってきた神で、この神はこの伝説以降「稲荷」と稲が当てられるようになったのですが、平安時代になり真言密教の作った両部神道の理論により、大日如来の化身である荼枳尼天(だきにてん)と習合することになり、荼枳尼天の乗るジャッカルという生き物が狐に似てることから稲荷神のイメージとして狐が生まれてきます。
真言密教と繋がることにより稲荷信仰は全国へ広がり、一方、朝廷の中でもこの荼枳尼天を天皇家の本尊として祀るようになり、荼枳尼天真言による即位灌頂が皇位継承の絶対条件となり、この習慣は明治前の孝明天皇の時代まで続きます。(始まりは11世紀の後三条天皇の時代からと言われる)テスト
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2018-05-21 22:55:22
【神道シリーズ】第18回・稲荷信仰(新羅系秦氏「伊奈利」の神と真言密教の習合)②江戸時代以降室町時代の応仁の乱で焼け落ちた伏見稲荷大社の再建の為、真言宗の東寺(教王護国寺)は、その末寺で愛染寺という寺を創建し、そのお寺を伏見稲荷大社の神宮寺(つまり、伏見稲荷社を支配・管理する寺)とし、その愛染寺に集まった真言宗の密教僧らが中心となり、「稲荷勧進聖(かんじんひじり)」として全国に散って稲荷大社再建の為の寄付を集め、怒涛の勢いで勧進聖たちは伏見稲荷大社を再建すると同時に全国に(真言密教系)修験道を通じて稲荷信仰を広めました。これにより全国(特に関東を中心に)広がった稲荷信仰は、屋敷神、流行(はやり)神、農業神など多岐の性質を持った神として、武家、商人から農民へと国の辻浦浦まで広まっていきます。
明治以降は、神仏判然令の弾圧を受け、神仏が切り離されましたが、民衆の中に根強く残る稲荷信仰はお塚(石碑)を作り般若心経を唱え、やがてはお塚に建てた鳥居が千本鳥居となり、現在各地に見られる「お稲荷さん」になっていきます。トラック さっしょうせきw いなり寿司食べたいw 護摩? 口笛w タミヤ たまものまえ殺生石な しんでんやろw 面白いねえ れいむじゃない? 1
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2018-07-23 22:40:00
【神道シリーズ】第26回・祇園信仰(新羅の神(牛頭天王)と陰陽五行思想)神道無関係w①祇園社(現在の八坂神社)は、斉明天皇の時代の656年に、高句麗から来た新羅人の使者・伊利之使主(イリシノオミ)が天皇と接見し「新羅の神・スサノオが日本に住み着いていらしてこれから帰国するところです」(八坂神社社伝)と伝えられ、その伊利之使主は高麗(の狛国)より連れて来た81人の新羅人とともに祇園社を作りました。(帰国の予定のスサノオ神がそこに留まることになったわけです)
それから朝鮮半島より播磨に伝わっていた蘇民将来の民間伝承に出てくる武塔神(天刑星>道教神)が廣峯神社より近江の東光寺(天台宗)を経て9世紀には武塔神とスサノオ(牛頭天王)が習合し、現在に至る祇園神が形成されます。
この祇園信仰は古代朝鮮の神信仰(牛頭天王=スサノオ)に加え、きわめて中国の陰陽五行説(道教)色の強い信仰だと言えます。
明治維新でそれまでの本来の祇園信仰は破壊され、国家神道的な解釈になりましたが、今でも八坂神社や祇園の会を始め全国の祇園祭の会が本来の祇園信仰を取り戻そうと奮起しています。盤古も淮南子にでてくるけど、陰陽の分離とは話が別だったような。 応神母子は三韓征伐しているから間違いではないけれど
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2018-10-30 00:33:02
【神道シリーズ】第36回・出雲国造②(出雲と物部と賀茂氏)十種神宝(とくさのかんだから)の謎とは?出雲国造は「現人神」として現在でも見なされてる割には出雲国造は宮司でもなければ禰宜でもなく、また神官でもない。
それでいて出雲大社、神魂(かもす)神社、出雲大社(島根県)の三社にまたがって出雲の神事に大きく現在でも関わってるという不思議な存在です。
今回はこの謎を解くカギとして、物部系の賀茂氏(出雲系賀茂氏・山城系賀茂氏・葛城(山)系賀茂氏)の信仰するスサノオ、大国主、カミムスヒ、事代主(一言主)、大物主と出雲国造との関係にメスを入れて行きたいと思います。
その中で、こうした出雲(物部)の信仰がいかにして古事記や日本書紀を作成するときに利用されたのか(パクられたのか)を探っていきたいと思います。事代主一言主 アマテルクニテルヒコホアカリクシミカタマ 春日氏は謎です。
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2018-08-27 22:44:25
【神道シリーズ】第30回・住吉信仰①(日本で一番在日韓国人の氏子が多い神社群)その理由は?日本の神社の中で一番在日氏子が多いので有名なのが住吉神社系なんですが、
なぜ住吉神社は在日系の氏子が多いのか? 今回はここに焦点を当てながら住吉信仰の歴史を辿って行きたいと思います。
住吉信仰の始まりは、新羅系秦氏の海人(あま)族の安曇(あずみ)氏が北九州の志賀島というところに住み、ワタツミ三神(ウワツツノヲ・ナカツツノヲ・ソコツツノヲ)の信仰を持ち、それが同じ海神族の宗像氏の宗像三女神信仰や対馬の天道信仰(女陰と太陽の信仰<新羅系信仰>)と交わりながら厳島神社など瀬戸内海に広がり、やがて尾張氏(物部系・出雲系・スサノオ族<新羅系>)の津守氏が摂津の住吉にワタツミ三神を勧請することになり、さらに天日槍系(新羅系)のオキナガタラシヒメ(神功皇后)も合祀し、今日に至る住吉大社が創建されました(5世紀後半)。
古代朝鮮の祭祀を継ぐところが多かった為に日露戦争以降日本に移民してきた朝鮮半島の人たちもそういう由緒を頼りに集中して居住するようになってきたのかもしれません。
住吉信仰は室町時代以降、七福神の恵比寿(戎・恵比須)さまとも習合し、地元では今日でも「えびっさん」と呼ばれ親しまれてます。- 414
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2018-10-22 22:37:02
【神道シリーズ】第35回・出雲国造(火継式に伝わるスサノオ伝承と消された出雲の実態とは?)「出雲国造(いずもこくぞう)」と言うとイメージが湧かない人が多いと思いますが、しかし、出雲国造とは決して出雲大社の宮司でも何でもなく、祭祀は出雲大社で行うものの、宮司とは別に「現人神」としての国造が出雲にはあるのです。
出雲国造は国譲り神話の中で、天津国から派遣されながらも交渉せずにそのまま出雲に住み着いてしまったとされるアメノホヒの末裔と自称されていますが、実際に出雲国造が崇敬信仰してるのはアメノホヒではなくスサノオなのです。
実は、出雲大社(明治以前は杵築大社と呼ばれてました)の祭神も今は大国主ですが、江戸時代に入る17世紀まではスサノオでした。
出雲国造家は14世紀に千家(せんげ)家と北島家に分立し、以降、それぞれの継承儀式である火継式は、千家氏は(出雲・島根県の)熊野大社で、北島氏は神魂(かもす)神社で(今日でも)行っています。
明治以降、千家氏は出雲大社教、北島氏は出雲教という、伊勢神宮とはまったく異なる神道観と歴史解釈で、今日でもスサノオ・大国主の正統性を支柱にしています。出雲は、コクソウとよみます。コクゾウではありません。 頼む嵐さんへの対応部分はカットしてくれない? もう無視しといたら? いちいち警告するのが見てて醜い 隠し神だし古代雲太の頃までは大国主では? 泉鏡花みたいなもんか。 出来のいい弟子は誰ですか。ホモ...
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2018-06-04 22:26:02
【神道シリーズ】第20回・天神信仰(真言密教僧(道賢)によって広まった御霊信仰)神道関係無し①【神道シリーズ】第20回・天神信仰(真言密教僧(道賢)によって広まった御霊信仰)神道関係無し①
日本の御霊信仰は、8世紀の聖武天皇の時代の長屋王の変や9世紀の桓武天皇の時代の早良(さがら)親王事件などの第一期御霊信仰と、菅原道真の大宰府左遷での憤死のよる
菅公(道真)御霊(怨霊)に始まる第二期御霊信仰の二期に分かれます。
第一期での鎮霊は雑密の法相宗の僧侶たちによってなされ、第二期になると真言宗の僧侶たちによってなされてます。
第一期では朝廷内だけでの御霊信仰でしたが、第二期の道真の御霊信仰は、吉野峯真言修験僧の道賢(どうせん)が自らの臨死体験を綴った「道賢上人冥途(めいど)記」の中で蔵王菩薩が現れ、道賢を道真の御霊である大政威徳天に会わせられ、そこで地獄の煉火の中で苦しむ藤原時平や醍醐天皇の姿を見せられた上で(道賢)に「日蔵」という名前を与えてもらった、という話が書かれています。
この逸話は朝廷のみならず農民を中心とする民衆の間にも広く広まり、自在天神、大富天神などの名で全国に広まります。
その天神信仰は御霊信仰を越えて農民の田歌や田楽にも影響を与え今様(いまよう)歌として広まり今日に続いていきます。- 364
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2018-11-05 22:28:02
【神道シリーズ】第37回・山王神道(山王一実神道)①(天台宗の作った神道)中世になると、真言宗や天台宗がそれぞれの仏教理論に基づいて独自の神道理論を生み出し、その神道理論に基づいて古事記や日本書紀に出てきた神々仏様の眷属(仲間)にあてがい(これを「比定」と言います)、例えば、アマテラスの本地(本当の姿)は大日如来だとか(真言宗)、比叡山の神様(山王)は大物主神(大貴己神=大国主神)として仮の姿を現してるが、実は正体はお釈迦様なのだとか、全国の地方信仰(単純に山神とか川神様とか呼ばれていたようなもの)にこの公式を次々とあてはめて行きます(比定)。
そしてやがて日本国中の神々(八百万神)はすべて古事記の神様で、しかもその正体(本地)は仏様の眷属(阿弥陀如来とか不動明王とか、、)であると比定することにより、今日に繋がる地方信仰は作られて行きます。(これは古事記のストーリーとはまったく無関係に新たな(仏と神の)関係ストーリーが作られ、それが地方伝承として定着していきます。
山王神道(山王一実神道)や両部神道は、それぞれ天台宗、真言宗が作った神道(仏家神道)で、その後に生成された神道はすべてこの原理をベースに形成されています。
そういった意味では、「日本の神道を作ったのは天台宗と真言宗である」と言ってもまったく過言にはなりません。
今回は、その天台宗による仏家神道を見て行きたいと思います。薬師は家康の漢方通と通じるのかな? 東照ってアマテラスとかぶるな。ちょっと挑戦的な名前に感じるよね。 台密と東密
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2018-04-09 23:18:49
【神道シリーズ】第12回・宇佐八幡(新羅の神々(ヤハタ神・応神霊)と弥勒信仰の習合)①現在日本の神社12万社(摂社・末社も含めて)のうちその三分の一以上を占める八幡社は、もともと宗像神(宗像三女神)を信仰していた宇佐氏の住む宇佐に、西の香春に降臨した新羅の神「ヤハタ」を持ち込んだ(新羅系秦氏の)辛嶋氏が香春より東進を続け、宇佐の駅館川(宇佐川)で宇佐氏と対峙するまで勢力を広め、宇佐氏が磐井との戦いで勢力を弱めると(6世紀)、一旦は宇佐の馬城嶺(御許山)まで支配下に収めますが、その後、大和より大神氏が応神霊を持ち込み、辛嶋氏との戦いの末、御許山を含む宇佐を支配しますが、その後、英彦山に出現した宇佐氏系の法蓮は新羅系仏教の弥勒菩薩信仰により強大な影響力を広げ、大神氏と辛嶋氏は法蓮に懇願して八幡神を菩薩へと地位を高めてもらい、ここに八幡大菩薩の信仰が完成します。専門的なアドバイスは歓迎しますが、感情論や願望論、あるいはその場の思い付きによる非難や中傷に対してはすべてNGにします。(タグも含めて)
ネット記事だして「ここに書いてあるでしょ」というのは危険やで~、内容はともあれ 持統天皇も信仰してなかったのか… 八王子、八大龍王、胎蔵界の八葉、八正道… 釋迦菩薩の化身なのに、新羅神のヤハタ???? ん? ものが通りますよー 宇佐八幡の初代神官家系...
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2018-04-02 22:51:24
【神道シリーズ】第11回・神宮寺(神道(古代朝鮮信仰)が仏教の傘下に下る)6世紀に百済から日本へ仏教が公式に伝来する以前から道教色(呪術的色彩)の強い雑密(ぞうみつ)と呼ばれる新羅仏教が新羅からの渡来人により伝えられ、皇族も豪族も競って自らの氏神を仏教へ帰依させようという動きが一機に広がりました。
これはそれまで信仰に無関係だった一般庶民の間にも雑密(新羅仏教)が燎原の火のごとく広まり、皇族や豪族たちもその時代の変化に対応したものでした。
そして、この動きは私度僧(無資格僧侶)たちによる神宮寺、つまり、氏神の仏教帰依を助けるお寺が日本国中すべての神社に建てられ、神宮寺が神社を支配する時代が始まります。
この神宮寺は平安時代になると真言・天台密教の傘下に入り、江戸時代終わりまで続く本地垂迹説の時代に突入します。
専門的なアドバイスは歓迎しますが、感情論、願望およびその場の思い付きに基づく非難、中傷は一切NGにします。年代はともかく『中世神道入門』などにもこれらの思想は書いてある。 それは嘘。何を基準にすべてと言っているかわからない。すべて見ることはまず不可能。 載ってなかったらないことになるんですか? 修験道についてもデタラメだろう ここにはあなたの言うことが載...
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2018-10-01 22:59:07
【神道シリーズ】第33回・白山信仰②(白と太陽信仰と朝鮮半島と宮中仏事の祭祀中心化)1999年に泰澄が山岳修行をしたと言われる越知山(福井県)の大谷寺(おおたんじ)の裏山で朝鮮半島(新羅)から伝わった須恵器が出土し、これまでに福井県から石川県全般に渡る地域で見られる泰澄の伝承地と須恵器出土地域の一致などから泰澄の実在性を証明するものでは?と注目が集まっています。
泰澄の実在性の真偽はともかく、泰澄にまつわる伝承は北陸を中心に中部・関西全域に及び、他の修験道にも大きな影響を与えています。
当時宮中で絶大な権勢を誇った法相宗の僧侶・玄昉も泰澄から十一面観音経(十一面神呪経)を授けられており、宮中でも仏事は神事を押しのけて宮中祭祀の中心となっていきます。
この時代に神社を管理支配する神宮寺の創建のラッシュがあり、国家鎮護も神祇ではなく仏教(法相宗)となり、朝廷も仏教を中心とした政治を行うようになります。- 335
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2019-01-28 23:11:02
【神道シリーズ】第46回・八百万の神③(三宝荒神)全八百万の神信仰の1割強を占める荒神さま<仏教・修験道・道教の習合>三宝荒神は「荒神さま」と呼ばれて現在でも竈の神として関西を中心に各地で祀られてますが、もともと三宝荒神の三宝とは仏教三宝の仏法・仏僧・仏経典のことですが、歴史を遡ると7世紀の役小角(雑密私度僧)が感得し、それがやがて仏教の菩薩・天部・道教神・陰陽道などと習合し、平安時代になると道教陰陽五行から発生した庚申信仰と習合し、障礙の神様(禍起こすが、禍を転じれば大きなご利益になる)として民間で広く信仰されるようになりました。
三宝荒神は八百万の神信仰全体の中で1割強(12~13パーセント)を占めると言われてますので(庚申信仰はもっと広範に広がる)、八百万の神の中ではかなり大きな存在だと言えます。
江戸時代になると、竈の神、火の神という側面が強調されるようになり、当時高まってた国学の機運の中、古事記に出てくる火の神のカグツチに比定されたりしましたが、これは後世の事で、もともと民衆の間にカグツチ信仰があったわけではありません。
前回放送しきれなかった、神楽・田楽・延年・柱松・権現舞などについても説明します。ストリップはアメノウズメの踊りです。
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2018-03-19 23:28:33
【神道シリーズ】第9回・天日槍の足跡(但馬・丹後・播磨編)古事記・日本書紀では新羅王子とされ、播磨国風土記では新羅の大神とされた天日槍は、北九州(糸島)⇒瀬戸内海⇒播磨⇒難波⇒近江⇒若狭⇒丹後⇒但馬と足跡を残して行きますが、その中で先住のスサノオ族(新羅系)の祭神であったスサノオ=牛頭天王と天日槍族が信仰したイササワケ神(天日槍)が習合し、さらに秦氏(天日槍族)が持ち込んだ(中国秦王朝より新羅に伝わった)兵主神もそれに習合していきます。
今回はその信仰の習合も含めた天日槍(族)の但馬・丹後・播磨の足跡を追います。
専門的なアドバイスは歓迎しますが、感情論や願望に基づくその場の思い付きによる批判や中傷はすべてNGにします。(タグも含めて)播磨じゃなくて備後じゃなかったっけ? あれですよね 山の辺の道沿いだな 浄土教や禅宗か・・ 古代倭国はフロンティア
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2018-02-13 22:43:52
【神道シリーズ】第5回・天日槍(九州編)砂鉄製鉄による鉄製品、金銅製冠装飾品、横穴式石室、鉄製馬具、須恵器などを朝鮮半島(新羅)から持ち込んだ天日槍族は、北九州の糸島に降り立ち、さらに瀬戸内海を通じて播磨より北上し、近江、若さを通って最後は但馬に永住した、と記紀では伝えてますが、この勢力は濃厚な足跡を残し、やがて出雲系のスサノオ王朝を倒し、「国譲り」を実現し、神功「皇后」(天皇)に始まる応神朝を形成し、今日の皇統へ続いていきます。専門的なアドバイスは歓迎しますが、感情論や願望に基づく誹謗中傷・レッテル張りはすべてNGにします。
伝説を歴史にすり替える朝鮮野郎
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2018-06-18 22:51:43
【神道シリーズ】第22回・春日信仰(興福寺(法相宗)や臨済宗とともに歩んで今日に至る春日浄土の世界)①春日大社と興福寺はその歴史からして、興福寺(669年)に始まり、春日大社(768年)が創建されて以来、興福寺が実質春日大社を支配管理する形で今日まで至っています。
明治の神仏判別令でこの一体の体制は破壊されたものの、やはり歴史の中で培われた文化力の強さはそんな弾圧も乗り越えて、今日では以前のように春日大社の中で興福寺の僧侶たちが神前読経をする姿やおん祭のように共同開催で行われる行事が生き続けています。
興福寺(法相宗)が藤原氏の信仰に基づいて創建されたの対し、その100年後に作られた春日大社は藤原氏の朝廷内の格付け証明の為に創建された経緯があります。
なぜ(創建時に)藤原(中臣)氏の本来始祖神であったはずの天児屋根命(あめのこやねのみこと)が(春日大社の)第一殿に祀られずに第三殿になってしまったのか?
その辺の謎を解きながら興福寺とともに歩んだ春日大社の歴史を見て行きたいと思います。
(あと、なぜ奈良では鹿が神扱いされるようになったのか?も、鎌倉後半以降の仏教説話から出て来た鹿島立神影図からお話していこうと思います)あらしおのしおのやおぢのやしおぢのしおのやおあいにます 祝詞ですよ
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2019-06-03 22:30:05
【神道シリーズ】第61回・恐山信仰【後編】(山懸け・オシラ様・イタコ・・仏教の聖地)恐山信仰は、宇曽利湖(うすりこ)を擁する恐山は、お寺とか神社ではなく、それそのものが「本尊」とされ、地蔵菩薩信仰を中心に曹洞宗の円通寺が管理しており、一方、恐山に隣接する釜臥山は天台宗(山門派)の修験寺大覚院が「山懸け」修行(円通寺<むつ市>近くの兵主神社(祭神は釜臥山大明神)から釜臥山山頂の奥の院の観音堂を目指して毎年8月15日に行われる)を行っています。
東北地方には、下北も含む広範な範囲で、その蚕産業を営む地域で、16世紀頃から「オシラ様」という、4世紀の東晋の時代の中国の伝説「探神記」に出てくる「長者のお姫様と千段栗毛の馬の恋の物語」のストーリーに基づく民間信仰がありますが、これもおそらくは東北に精力を伸ばしていた天台宗の知識僧が伝えたことが発端なのかもしれません。
とにかく、明治の神仏分離政策の中でも、強制的に信仰の中心の寺を廃寺にして無理やり神社を作って古事記の神様を祀るような、全国で行われていた日本の伝統破壊政策もここ下北や東北では通用しなかったようです。恐山・イタコの歴史は大正時代以降なのだが・・・ 視れん やってることはJKと変わらんのやな うぽつ
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2018-07-02 22:42:02
【神道シリーズ】第24回・熊野信仰(浄土思想と天台密教が織りなす「死の国」の息吹)「神道」無関係w①熊野信仰は、奈良時代の新羅より伝わった雑密(未完成の呪術的密教)と平安時代以降の浄土信仰(一遍の時宗の融通念仏思想)と天台宗寺門派(三井寺)から成る「贖罪の国」「死の国」熊野から成っています。
華厳経や法華経に説かれた補陀落渡海(ほだらくとかい)と言って、小舟に30日分の食料を積み、念仏を唱えながら極楽浄土に辿り着くことを願って永遠の船旅に出る、つまり、水上自殺の聖地として那智は名所となっていました。
熊野三社(本宮・速玉新宮・那智)の熊野権現は古事記には出てこない仏教の神様で、こうした背景の中、時宗(時衆)の巡礼者たちが減罪を求めて「蟻の熊野」という紀州を通って熊野にいたる熊野古道の難所を越えて行きます。
ユネスコ世界遺産に指定された熊野三社や熊野古道はまさに日本の精神文化の神髄と言っても過言ではありません。
「神道」(国家神道のこと)とはまったく無関係な真の日本の精神文化の髄に触れられる場所がこの熊野です。
今回は熊野信仰の基本構造についてお話をし、次回はその肉付けのお話をしようと思ってます。- 308
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2022-07-11 22:26:02
【神道シリーズ・シーズン3】(思想編)第22回・宮地水位と宮地神仙道嘉永5年1852年に土佐の国潮江村(現・高知市土居町)に潮江天満宮の祠官の家に生まれた宮地水位の宮地常盤は、平田篤胤の没後門人で、異界と現界を往来し、道教の神仙思想と古神道を融合させた宮地神仙道の祖であった。水位は10歳の頃より父・常盤より脱魂法による異界訪問、つまり、特殊な瞑想法により、自分の意識が、平田篤胤が唱えた幽冥界に飛び、異界を彷徨い、また現実の世界に戻ってくる、という修行を繰り返していた。しかし、その父・常盤は、その霊能力が優れて門人を増やしたことや、当時、山崎闇斎の崎門派と言われた垂加神道が土佐の神職たちの間で中心となっており、垂加神道の儒教的要素を否定する平田国学を信奉する宮地常盤はまわりの神職たちから嫌われた為、潮江天満宮の祠官の職を追われてしまい、当時12歳だった宮地水位が父の祠官の職を継ぐこととなり、幼くして神職としての自覚を促される結果となった。
水位は、神職としてだけではなく、10代前半にして神職の身でありながら、高野山や法隆寺に住み込み、仏学などの見聞も広め、やがて17歳になると、四国の手箱山、石鎚山、金比羅を巡拝し、鉱山や薬草の知識に長けていた水位は、途中鉱山を発見したり、仙薬を開発したりしていた。
宮地水位は多数の著作を残しているが、彼の人生のほとんどは潮江天満宮の中での瞑想による異境訪問で費やされており、その異境訪問は、10歳の頃から53歳で帰幽するまで数百回におよぶと言われており、その異境、つまり平田篤胤の言う幽界での体験をまとめたものが「異境忘備録」という彼自身の著作であった。
客観的にはたから見れば、ただ単に神社の中で座って一日中瞑想にふけっているだけのように見えるものの、彼自身の中では何度も何度も頭のイメージの中で繰り返されっる異境幽界訪問であり、その幽界のイメージには一貫性があり、4層に分かれる神界と彼が呼んだ幽冥界の様子が「異境忘備録」には詳細に記述されている。
しかしながら、そこに描かれている神仙界の世界はまさに道教の神仙思想の描く神仙界に酷似しており、自らも土佐の高山手箱山で出会ったと言う推定年齢2300歳の朝鮮国から来た仙人・川丹に導かれた、と主張するが、水位に言わせれば、中国の道教とは、出雲の神の少名彦那が中国で作ったものであり、元は日本の神道であると主張する。- 297
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2019-05-27 22:43:03
【神道シリーズ】第60回・恐山信仰【前編】仏教(曹洞)仏教(天台)仏教(浄土)で神道無関係の下北信仰恐山と言えば、イメージとしてはイタコとか独特のあの世の世界のような感じが強いですが、実は、曹洞宗・天台宗を中心に浄土宗や真言宗などの仏教各派の習合による仏教だけの信仰によって成り立っており、古事記の神は一切祀られてない、所謂、仏経による仏教の為の仏教信仰の地域だとも言えます。
恐山の開山は、9世紀に当地を訪れたと言われる(実際には天台僧<比叡山系>たちが訪れたのでしょうが)比叡山天台宗3代座主の慈覚太師(円仁)が開闢(かいびゃく)したと下北半島では伝わっています。
慈覚太師は恐山の近くの釜臥山に恐居山金剛念寺という寺を創建し、慈覚太師は「釜臥大明神」として祀られましたが、当寺は戦国時代の戦乱の中で焼き討ちされ廃寺になってしまったのですが、17世紀に恐山を訪れた曹洞宗の僧侶・宏智聚覚(わちじゅかく)が現在のむつ市のあたりに円通寺を創建し、地蔵菩薩信仰を中心に広めて行きますが、同時に廃寺になった恐居山金剛念寺を釜臥山菩提寺として再建し、天台の慈覚太師の恐山開闢伝説を復活させ、以降、今日に至るまで円通寺の地蔵尊信仰と天台の大覚院の釜臥大明神信仰の両立で成り立つようになりました。神道関係ないやんw
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2019-02-18 23:18:04
【神道シリーズ】第48回・八百万の神⑤(七福神信仰)日本神1柱・中国神3柱・インド3神柱(インターナショナル神信仰)七福神と言えば、日本各地で福の神としてめでたい時の出し物として祝われたり、お守りなどでも人気のアイテムとして定着してますが、実は、今の七福神のメンバーが揃うのは江戸時代に入ってからで、メンバーによって古くは聖徳太子の時代(毘沙門天)から、そして平安時代末頃からは恵比寿神、大黒天、弁才天、室町時代に入ると、密教神道や吉田神道による中世神道の解釈が加わり(例えば、恵比寿神は蛭子からとか、スクナビコナからとか、また密教的解釈も加わり<宇賀弁財天など>)、さらに江戸自体になると中国から道教の神の福禄寿や寿老人が加わり、さらには中国(南宋時代)で実在した布袋和尚が仏教の神として日本に伝わり今の七福神のメンバーの陣容が整ってきます。
日本の神(恵比寿)、インドの神(大黒天・弁財天・毘沙門天)、中国の神(福禄寿・寿老人・布袋尊)と、実にインターナショナルな顔ぶれの七福神は日本の八百万の神の中でも大きな存在感を持ち続けています。- 294
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2018-07-30 22:48:02
【神道シリーズ】第27回・祇園信仰(新羅の神(牛頭天王)と陰陽五行思想)神道無関係w②前回は祇園信仰の成り立ちと基本構造についてお話しましたが、とにかく祇園信仰とは、朝鮮半島(新羅)から伝わった牛頭天王(スサノオ)と道教伝説で中国⇒半島⇒播磨(兵庫)と伝わった蘇民将来の伝説(武塔神=天刑星)の習合からなるもので、所謂「神道」(古事記・日本書紀に基づくもの)とはまったく無関係の信仰で、
今回は全国に広がった祇園祭(地域によっては天王祭<牛頭天王>とも呼ばれる)に注目し、多様化して広がった祇園祭(ないしは天王祭)を見て行きたいと思います。
日本の三大祭と言えば、この祇園祭と天神祭(御霊信仰と浄土信仰と天台密教)と神田祭(神田明神=御霊信仰と真言密教)と、いずれも古事記・日本書紀にはまったく無関係で、いわゆる「神道」とは無関係です。
しかしこの「神道」にまったく無関係な三大祭のうちの祇園祭(天王祭)と天神祭はおよそ日本の都市部(大都市・中小都市)のほとんどで見られ、残りは山間部などの修験道系(真言密教系)と考えると、そもそも「神道」などというものは存在するのか?と疑問を感じざるを得ません。- 292
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2018-12-03 22:32:02
【神道シリーズ】第41回・両部神道③大日如来=天照大神説が中世日本を支配する日本の神道とはいつ形成されたのか?と言う問いに対して、縄文時代とか弥生時代からと信じてる人は多いように見受けますが、実際宗教としての神道が作られ始めたのは鎌倉時代(元寇以降)で、完成を見たのが室町時代(吉田神道)と言うのが学者たちの間で共通してる認識です。
もちろん仏教伝来(6世紀)以前に朝鮮半島からの移民による氏神信仰というのが渡来豪族たちの間で存在していたのですが、仏経が伝来するとすぐに豪族や朝廷の間で仏教信仰が始まり、8世紀になると神身脱落と言って、氏神たちがこぞって仏教徒になり、護法善神として仏教を守りながら(神たちが)仏教の修行に励むという時代になりました。
9世紀に真言密教や天台密教が広まり、鎌倉時代の元寇を境に真言密教による神道(両部神道)が形成され、密教理論による神国日本論が展開され、天照大神が大日如来の化身であり、日本は第六天魔王の支配下にあるという思想が平家物語や太平記と言った大衆文学の間にも見られるようになり、まさに(真言密教による)両部神道は中世の精神支配(国民を含めて)を確立します。
今回は、その両部神道の理論書とも言われる麗気記や中臣祓訓解などを紹介していきたいと思います。
両部神道はその後、真言系の当山派修験として全国に広がり、古事記や日本書紀に出てきた神々に密教的解釈を加え、所謂「八百万の神」の伝承や信仰を作って行きます。直木孝次郎説ですかw 古い説ですね
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2018-11-26 22:31:03
【神道シリーズ】第40回・両部神道②(伊勢神宮と両部神道の歴史)密教によって伊勢神宮が再興する平安時代始めの真言宗開宗(806年)以降、朝廷の信仰は真言宗中心となり、中には真如法親王のように平城天皇の皇太子でありながら皇位継承を拒否し、出家して真言僧となり、インドへの求法の旅へと出て行方不明となった皇族も出るほど皇室はこぞって真言密教の信仰に熱中しましたが、鎌倉時代に入り13世紀の元寇の時代を迎えると、真言宗の主流派は伊勢神宮の内宮(禰宜・荒木田氏)への接近を図り、伊勢神宮を真言密教の理論に当てはめ、内宮を胎蔵界、外宮を金剛界とし、神宮全体を真言密教の大曼荼羅として描くようになります。
仏教信仰が盛んだった当時、伊勢神宮でも氏寺で出家得度する伊勢神宮の神職(宮司、禰宜ら)が後を絶たず、こうした背景の中、伊勢神宮の内宮は次第に真言密教の支配下に入って行きます。
天照大神を大日如来の化身と位置づけ、真言宗による「神国日本」論を展開し、皇室や伊勢神宮の持つ荘園全体に大きな影響力を広めて行きます。
やがて両部神道は伊勢神宮に留まらず、真言宗の学僧、勧進僧、高野聖などを通じて全国の修験道に絶大な影響を与え、古事記や日本書紀に出てくる神々を密教理論の上で解釈を加えた新説を持って地方の信仰対象に比定して行き、密教的な本地垂迹説により日本全国の修験道を塗り替えて行きます。
そして、やがて記紀の中では名前の羅列だけだった神々にも「八百万の神」の地方伝承を作って行きます。- 284
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2019-06-10 22:52:02
【神道シリーズ】第62回・八百万の神⑰金毘羅大権現【前編】(真言宗金光院松尾寺とともに始まった金毘羅信仰)金毘羅さんと言えば、ほとんどその名を聞いたことが無い人がいないと言えるほど有名ですが、しかし、この金毘羅信仰というものは意外と歴史が浅く、17世紀の天正から慶長年間の間であったと言われています。
金毘羅さん(金毘羅大権現)を祀る讃岐(香川県)の象頭山(ぞうずさん)には明治前まで、その信仰の中心をなしたのは金光院松尾寺(まつおじ)という真言宗のお寺で(金光院とは高野山真言宗の系統で、15世末頃から象頭山の別当(地域の管理者)として明治前まで象頭山信仰を支配してました)、その金光院4代の宥盛(ゆうぜい)の時代(17世紀)に形成され、急発展したのでは?とされてます。
金毘羅信仰が始まる前の讃岐(象頭山を含む)は、もともと宗教的に真言宗の支配圏で、三十番神(法華経の守護神)が信仰されていました。
金毘羅信仰は江戸時代になると日本最大の流行り神となり、伊勢講を凌ぐ代参講(お金を出し合って代表者に参拝させる集団信仰)となり繁栄しました。
明治政府は神仏分離策で、象頭山の金光院松尾寺を廃寺にし、強制的に神社化(琴平神社)とし、大物主神を祀神としまし、松尾寺は麓に普門院を作り生き延びましたが、今でも普門院松尾寺は金毘羅信仰や金毘羅祭の中心となっています。あっはっはぁー https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q12204204187 "伝教大師最澄によると金毘羅と三輪明神(祭神は大物主神)は一体である" "大物主乃命が天竺に渡...
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2018-06-25 22:43:18
【神道シリーズ】第23回・春日信仰(藤原氏の正体(百済人)・真言密教系神道(両部神道)の影)②春日大社は藤原氏(不比等・永手ら)によって政治的な意図で作られた神社であることは①の方で説明しましたが、そもそもこの藤原氏とは何なのか?
今回はそれと三社託宣(春日・八幡・伊勢)に見られる両部神道(真言密教が作った神道)の影響に焦点を当て春日大社創建の背景を見て行きたいと思います。
藤原氏の出自に関してはさまざまな研究と見解がありますが、どれも共通していることは「日本人ではなく百済人である」という点です。
朝廷の祭祀を司る役職にいた中臣氏の家系の中に滅亡百済王族がどのように入り込んで来たのか?
百済王族は、藤原氏の計らいで百済王氏としてその後も朝廷の中で生き続け、桓武天皇の母親(高野新笠)などを輩出したりしてますが、百済村と呼ばれる地域に住み、百済人の濃厚な血筋を維持しながら朝廷内で生き続けて行きました。
一方、三社託宣では、春日・八幡・伊勢の三社が同時に儒教・道教的な道徳的訓示を託宣発表するという事になり、その中でアマテラスは真言密教理論に基づく両部神道で描かれた雨宝童子という16歳の少女として描かれています。
百済系の藤原氏の政治的思惑と興福寺のバックアップの中で生まれ、真言密教によって理論づけされ春日信仰は誕生します。- 279
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2019-03-11 22:15:04
【神道シリーズ】第51回・八百万の神⑧飯縄権現【前編】(戸隠・飯綱<飯縄>・高尾山を結ぶ飯綱権現信仰)「いいづな」は飯綱と飯縄という二つの書き方がありますが、飯綱山で信仰され、西隣りの戸隠山や遥か南の武州高尾山(東京都)にまで祭神として影響を与えた飯綱権現は「飯縄」と書きます(発音はどちらも「いいづな」)。
9世紀に戸隠山を開山して大日如来を本地とする飯縄大明神を戸隠に祀った学問行者(雑密僧)の約300年後の14世紀(鎌倉時代)には、地頭として派遣されてきた伊藤忠縄(千日豊前)が夢告で戸隠の飯縄大明神に飯綱山に登り、同山を開山するように告げられ、それを実践して登頂後、飯綱山に「飯縄大権現(明神ではなくて)」を祀り、それが飯縄権現信仰の始まりとなりました。
千日豊前と呼ばれた忠縄と、息子の盛縄(千日二郎太夫)は、二人合わせて「千日大夫」と呼ばれ、飯綱山開山者として今でも信仰されています。
この千日大夫は、クダ狐(管狐)という竹筒に収納できるサイズのオコジョ(イタチ科の一種の小型の狐に似た動物)を竹筒に入れて携帯し、このタグ狐を操って様々な妖術を駆使する「飯縄の法」(飯縄十二法)を開発し、やがてこの飯縄の法(いづなの法)は、戸隠流(伊藤流)忍法や、さらには伊賀流・甲賀流などの忍法の発祥にも貢献し、日本における「忍者のルーツ」となります。
一方で、戦国時代には飯縄権現は戦勝の神として、武田氏、北条氏、上杉氏、徳川家康たちからも厚い信仰を受けます。
そして江戸時代になると、戦勝の神のイメージは薄れ、飯縄の法のクダ狐にまつわる様々な迷信が産まれ、拡散され、遠くは座敷わらじや今日でも知られてる「こっくりさん」などの誕生に繋がっていきます。- 276
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2018-04-30 23:47:42
【神道シリーズ】第15回・宇佐八幡(新羅と仏教の神)の発展(石清水八幡・鶴岡八幡・そして全国へ)奈良の盧舎那仏(大仏)開眼式以来朝廷の絶大な崇敬を集めた宇佐八幡の八幡神はやがて朝廷から菩薩号を与えられて八幡大菩薩となり、その崇敬と信仰は天皇・貴族・一般民衆の間で絶大な信仰の拡大を見たのですが、我が子である惟人親皇(後の清和天皇)を天皇に即位させたがってた藤原北家の藤原良房は、大安寺(真言宗)の僧侶の行教に命じ、八幡大菩薩を宇佐八幡より平安京に分霊を持ってきて勧請(分霊を祀ること・分祀)させ、それが石清水八幡宮となり、さらに石清水八幡は清和源氏の流れを汲む源頼義の時代から源氏の氏神となり、源頼朝が鎌倉を拠点のするようになると鎌倉の由比にも勧請され、鶴岡八幡宮が創建されます。
八幡大菩薩はその後、荘園鎮守、国府鎮守、寺院鎮守への勧請を通じ、日本全国へ燎原の火の如く短期間に広がり、日本全体が八幡大菩薩一神教のような様相を帯びてきます。
専門的なアドバイスは歓迎しますが、知識に基づかない感情論・願望論・その場の思い付きによる非難中傷はすべてNGにします(タグも含めて)- 270
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2019-04-15 22:55:02
【神道シリーズ】第56回・八百万の神⑬道祖神【前編】(中国道教旅の神と地蔵菩薩の習合)江戸時代に爆発!!道祖神(どうそじん)と言うと、あたかも仏教が日本に伝わる前より我国の古代民俗信仰として存在し続けてきたようなイメージがありますが、実はその歴史は非常に浅く、日本初の道祖神は群馬県で発見された1625年(17世紀)のもので、18世紀(江戸時代)から19世紀(明治維新の前)ぐらいが生産のピークの所謂「流行り神」でした。
「道祖」という言葉自体は3世紀の中国・秦朝の時代から中国で信仰されていた道教の旅の神「道祖」から来ており、それが日本の奈良時代頃に伝わると、日本では旅の神の意味から、当時全国で大流行した天然痘などの伝染病対策として、都(平城京・平安京)の境を「道祖」の木像(陰陽一対型>中国と同じ)で「塞ぐ」ことを目的にしたことから「塞(さい)の神」または「岐(ふど)の神」と呼ばれました。
鎌倉時代から始まった五輪塔や十二仏などの仏教の石像が広がっていくと、室町時代にはそれが地蔵菩薩の石仏として各地に設置されるようになり、江戸時代に入ると、地蔵菩薩石像の形態不明瞭なものが単体道祖神として「道祖神」と呼ばれるようになり、その後、僧形の単体道祖神が創られるようになります。
やがて、僧侶と尼僧のペアの双形道祖神も作られるようになり、19世紀になると国学が盛んになり、双形道祖神は「猿田彦と天鈿女」と比定(古事記から当て嵌め)されれるようになり、幕末には神像型の男女ペアの道祖神が増加します。
しかし、その後道祖神は衰退の一途を辿り、明治維新になると禁止令も出たりして道祖神はほとんど作られなくなりました。
道祖神は有名ではありますが、数の上からいうと庚申塔の方が圧倒的に多く、しかも、道祖神が作られた地域は群馬・長野・新潟・神奈川・山梨・静岡の5件が9割以上を占めています。うPつ
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2019-01-07 22:44:02
【神道シリーズ】第44回・八百万の神とは?(仏神・外国神・人格神・家祖神・職祖神・女性神・・)八百万の神と言えば、日本にはありとあらゆる所に神様がいるというイメージで、特に保守愛国系の人たちの間では
「八百万の神こそは神道」と言う人が多いですが、実は、八百万の神とは、縄文のアニミズムから生まれたものでもなければ、古事記・日本書紀に出てくる多くの神々そのものが実際に存在した日本各地の神々を取り上げてるわけでもなく、奈良時代から平安時代にかけて雑密や純密と言った密教系の仏教勢力を中心に形成された山岳信仰や地方信仰が確立していく中で、本地垂迹説的に後世になってから古事記や日本書紀の神々が(密教系の中世神学によって)あてはめられて行ったというのが実体です。
古事記や日本書紀に出てきた数々の神々は基本的に名前の羅列だけでその背景の詳細が書かれてるものではありませんでした。
それが、真言宗(三宝院)や天台宗(聖護院)の密教系神道を通じて本尊を仏の眷属としつつ、その垂迹(仮の姿)としての神々として古事記や日本書紀に名前の羅列だけだった神々を借用し(これを比定と言います)、中世の神道説(これが現在まで地方祭祀に反映されて行きますが)が形成され、定着して行きます。
そこには、外国神(中国・朝鮮からの播神)や仏教天部の神々、道教の神々、ヒンズー教の神々などがさまざまな形で八百万の神を形成して行く姿が見られます。
一方、中世以降の御霊信仰(古事記・日本書紀無関係)なども仏教(密教)の法会によって慰撫するという形で鎮霊・除霊がされ、天神などの御霊も八百万の神の一部となって行きます。- 260
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2022-05-27 00:25:03
【神道シリーズ・シーズン3】第16回・本田親徳と鎮魂帰神法明治以降、平田篤胤の思想の影響を受けた者たちは、基本的に、人は死後、地球上の周りにある幽界という空間を霊魂となって彷徨い、体は風、火、土、金というエレメントになって循環し、やがてはそれに魂が宿り、人間は再生する、という道教的な死生観と、地球を創生したのは日本の神のイザナギとイザナミであるからして、日本の天皇が全世界の上に総主として君臨すべし、という超誇大妄想的天皇世界総主論だけは引き継ぐという傾向を共有していたが、本田親徳は、平田思想の中でも特に人と神霊とのコミュニケーションに興味を持ち、その研究と実践のほとんどは神霊の人間への憑依を目指すことに向けられた。
死者や動物や神仏の憑依は修験道や民間信仰の間にも古くからあったが、そうした憑依が可能なのは特定の能力を持った者か、あるいは神や仏や死者などから指名された特定の人物に限られていたが、本田は、誰でも一定の術式に従って行えば神霊の人への降臨・憑依は可能であるとした。
本田は、神憑りには36通りの在り方があると言ったが、それを大きく3つに分類して、霊がいきなり憑依する場合、一部の素質のある人が一人で神霊を呼び寄せる場合、そして本田が提唱した審神者と神主を通じて、たとえ能力者や偶然の邂逅でなくても意識的に神霊を呼び寄せ憑依させることが可能な鎮魂帰神法があり、本田は自ら開発したこの鎮魂帰神法を通じ、神の言葉を直接聞くという方法で古事記理解の正誤を確認するという作業を行い、「難古事記」という著作にまとめた。
それによると、人はみな神の子であり、直霊という正しい心の霊を持ち、勇気と調和と愛と探求の心を呼び出す荒魂、和魂、幸魂、奇魂という四つの魂を持っているとし、善を行えばこれらの魂の量は増え、悪を行えば減るとした。
儒教の魂観の擦り直しと見れないこともないが、とにかく、本田の神霊降臨術・鎮魂帰神法は、その後、弟子の
長澤雄盾を通じ、大本教の出口王仁三郎や大本教を経た神道天行居の友清歓真ら多数の平田系神道カルト教祖たちに伝えられ、明治以降、古神道を名乗る平田派神道系カルトの中核的思想となって行った。
本田の鎮魂帰神法を継いだ者たちは、鎮魂帰神法とともに平田篤胤の超誇大妄想とも言える
天皇世界総主論、つまり、地球上の世界を創ったのは日本の神だから天皇が世界を治めるべきだと言う部分を強く受け継いでおり、彼らが本田の鎮魂帰神法による神託を担保とし、彼らはますます狂信的に持論にのめり込み、それは世界恐慌後の社会不安が広がる中、その狂気は国民を戦争の時代へと引き込んでいくこととなったのである。ほぼ創作ですね トランス状態にしちゃうわけか
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2022-06-05 08:45:02
【神道シリーズ・シーズン3】(思想編)第17回・川面凡児の禊行(伊勢神宮・全国神社の祭祀創設)豊前国(現・大分県宇佐郡両川村小坂)に、酒造業と呉服業を営む家の次男として生まれた川面凡児は、教育の為に預けられた宇佐神宮の神職で父の義弟の溝口千秋のもとで多くの勤王の志士たちとの出会いがあり、その中の常遠翁に漢籍を学び、13歳にして地元の馬城嶺に登り、自称697歳の童仙・蓮池貞澄から仙道を学び、
その後3年間馬城嶺で修験道の修行を経た川面は、15歳にして入津(豊後高田市)の私塾「涵養(かんよう)舎」で仏教、法律、経済を学んだあと、21歳で熊本県隈庄町に私塾「稚竜同盟谷」を開き、子供たちの教育に携わった。その後、24歳にして政治の世界を目指し上京するが、途中で宗教研究に転向し、小石川の浄土宗寺院・伝通院に住み込みながら、様々な宗教家たちと交流を続けたが、生活苦の中、浄土宗の本山・増上寺から後援で宗教雑誌への投稿や女学校の教師などをして糊口を凌いだ。
その後、自由党機関紙や長野新聞、そして和歌山の自由党機関紙など主筆となり、45歳の時に下谷区三崎町に「全神教趣大日本世界教」を旗揚げし、稜威(みいつ)会を創立した。そして、川面凡児が48歳になった1908年(明治42年)から片瀬などで修禊を開始し、その6年後には男爵の高木兼寛を会長に、古典を通じて日本の神々を学ぶ古典考究会を設立、『古典講義録』を刊行し、同会には秋山真之、八代六郎、平沼騏一郎、杉浦重剛、頭山満、筧克彦など、トップクラスの軍人や政治家らが加わった。
1917年(大正6年)川面が56歳になった頃から滝行など禊の行を会員とともに各地で始め、後の皇学館大学開設者の今泉定助が支持したことにより各地の有力な神職の賛同を得、海浜や滝水での禊行事が全国的に流行した。
現在の伊勢神宮や全国神社の滝打ち禊行は川面凡児が創設したものだが、川面は禊行のみならず、その宗教思想面も含めて日本の神道を明治期から大正期にかけて創設した人物とも言える。
逆に言えば、日本の神道とはこの時期に確立したとも言えるのである。- 247
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2019-06-18 00:02:03
【神道シリーズ】第63回・八百万の神⑱金毘羅信仰【後編】まなすさんの金毘羅観光動画を見ながら発展する「こんぴらさん」を解説明治になると、それまで古代より祀ってた権現神(本地垂迹説の仏教神)が山岳信仰から政府により外され、山岳信仰の中心になってきた寺院を破壊し、まったくその山岳信仰に縁の無い古事記の神々を祭神として祀る神社を新設する動きが全国に及びましたが、ここ象頭山では、15世紀以降信仰の中心になっていた金光院松尾寺(真言宗)の祀る本尊・十一面観音と垂迹神・金毘羅大権現の松尾寺が廃仏毀釈によって破壊されたのですが、なんと、その後に新設された「金刀比羅宮(琴平神社)」の初代宮司には、金光院松尾寺(真言宗)の最期の院主の宥常が就き、新社伝こそ平田派国学系の出雲大社教の「大物主神の行宮先の<琴平宮>が起源」という捏造を受け入れたものの、あたかも「隠れキリシタン」ならる「隠れ金毘羅」と言えるべき、
本尊の十一面観音を死守し、さらに「厳魂(いづたま)神社」なる摂社を境内の中に作り、厳魂彦命という名の下、
金毘羅金剛坊大権現を本尊十一面観音の垂迹神として祀り、今日に至ってます。 神社の名称も「琴平」ではなく「金刀比羅」と、読み方によって「こんぴら」と読めるように改称したのも宥常の見事な「隠れ金毘羅」業でした。
今回は、こうした歴史をおさらいする意味を含めて、生主のまなすさんの金毘羅詣りの旅のビデオを皆さんとともに鑑賞したいと思います。風情がありますな
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2018-02-26 23:11:54
【神道シリーズ】第6回・天日槍の足跡(瀬戸内海編)古事記と日本書紀では新羅王子とされ、播磨国風土記では新羅の神とされていた天日槍は、学者の間では鉄製の武器で武装し、半島より鉄製品、鏡、金銅装飾品、横穴式石室、須恵器などをもたらした集団として考えられてますが、古事記や日本書紀での古代皇統が架空のものであったことを考えると、まさにこの天日槍系こそが現在の皇統に繋がる存在だと言えます。
その天日槍は九州・瀬戸内海・畿内・近江・北陸・山陽・東海の一部と広範な範囲に濃厚に足跡を残しましたが、今回は瀬戸内海に残るその足跡を追ってみました。
専門的なアドバイスは歓迎しますが、感情論や願望に基づく断言や中傷はすべてNGにします。こういう話になると東北も古いのに置いてかれるよなぁw 東北も藤原が居たんだからソレより前に居たんだよね 半島と言うけど・・ようするに中国からの流れでしょ? 半島は中国の属国だし
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2018-03-05 23:40:18
【神道シリーズ】第7回・天日槍の足跡(近江編)古事記・日本書紀では新羅王子とされ、播磨国風土記では新羅の大神とされた天日槍(天日矛)は、学者の間では個人ではなく、新羅から鉄武器や金銅製品、鉄器、須恵器などの文化を持って日本に移住した武装集団(部族集団でもある)とされています。
天日槍族は、その一族の息長氏や三尾氏や和邇氏らを率い、九州から瀬戸内海、難波、近江、北陸、そして山陰へと勢力を伸ばし、その足跡を追って今回はもっとも天日槍族が濃厚な足跡を残した地域の一つの近江を追ってみます。
専門的なアドバイスは歓迎しますが、感情論や願望に基づく断言や中傷はすべてNGにします(タグも含めて)- 242
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2019-02-04 23:37:01
【神道シリーズ】第47回・八百万の神④天狗信仰(道教と密教修験道の習合が生み出した妖怪(仏教)護法神)天狗と言えば、鼻が高くて山伏の格好をして手に大きな葉っぱを持ってるようなイメージですが、実はこうした天狗のイメージが創られたのは室町時代(「御伽草子」)ぐらいからで、もともとの天狗とは中国の道教神話の中で、流星の隕石が狐(ないしは犬)のような形をしてるのが天狗と呼ばれていたのですが、遣唐使の僧旻(そうみん)はその妖怪的なイメージだけを日本に伝えたところから、後にそのイメージが平安時代になって仏僧たちによって開かれた全国の山岳信仰の間で修験道の山伏たちにより僧形の天狗の神のイメージが生まれ、修行を多く積んで強力な験力を得たものが天狗になったとされました。
その天狗は、権現神(仏の眷属が仮の姿として山の神となったもの)と重なり、日本の山岳信仰(全国)の中に浸透して行きました。
八百万の神の中でもこの天狗信仰は全国の山岳信仰に隈なく普及しており、むしろ天狗信仰の無い山岳信仰を探すことが困難なぐらいになってます。
後に江戸時代に国学が盛んになると、天狗を古事記の神サルタヒコに比定する動きも出てきましたが、天狗自体は古事記や日本書紀にはまったく無関係の修験の神だと言えます。
やがて真言宗や天台宗が全国の山岳信仰を制覇するようになると(平安~鎌倉時代)、天狗信仰も両派(当山派=真言系/山門派=天台系)の傘下に入って行きます。
明治時代には国家神道形成の為に多くの天狗信仰の寺が廃寺に追い込まれたり、寺が無理矢理神社にされたり、祭神が無理矢理古事記の神に変えられたりしましたが、1000年以上に渡る歴史は変え難く、今では完全に元の天狗信仰が全国で復活してきています。- 240
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2018-03-12 23:13:50
【神道シリーズ】第8回・天日槍の足跡(若狭編)古事記・日本書紀では「新羅王子」、播磨国風土記では「新羅の大神」とされている天日槍は、学者の間では鉄製の武器を持った朝鮮半島(新羅)からの移民集団であったろうとされてますが、その天日槍族は九州・瀬戸内・播磨・難波・近江・若狭・丹後・但馬に渡り多くの足跡を今日にまで残してます。
古事記や日本書紀のアマテラスから仲哀天皇(14代)までの足跡が皆無である一方、これほどまでに日本各地に濃厚な足跡を残している天日槍系は、実質今日に至る皇統に繋がる重要な位置づけになります。
今回はその天日槍の若狭における足跡と、イササワケと天日槍の関係などを中心にお話します。
専門的アドバイスは歓迎しますが、感情論や願望に基づく断定や中傷はすべてNGにします。(タグも含めて)- 240
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2019-05-20 22:56:02
【神道シリーズ】第59回・八百万の神⑯羽黒三山信仰【後編】松例祭・即身仏・お竹大日如来今回は羽黒三山修験の後編として、主に松例祭やお竹大日如来信仰、湯殿山の即身仏などに焦点を当てて話をしようと思います。
出羽三山(奥羽三山)の中で、羽黒山と月山は、天台修験が支配する中、14世紀以降に成立した能除(蜂子皇子)の伝説信仰が中心となり、湯殿山は弘法大師(空海)の登山伝承や即身仏の信仰が中心となっています。
今回ご紹介する松例祭(しょうれいさい)は、羽黒山で毎年行われてる、能除伝説に基づく、巨大な藁製の「ツツガムシ」に火をつけて引っ張り競争するという祭祀で、終盤には頭に霊符を付け、赤青白に塗りたくった顔で白衣を纏った験者が火打石で発火するシーンが出てくるのですが、その様子は、日本というより中国や半島の道教祭祀を彷彿させるものがあります。(実際庄内地方には中世に渤海からの漂流者たちが住み着いたという記録がありますから、その影響が考えられます)
お竹大日如来は、江戸時代に羽黒の手向(とうげ)集落出身のお竹という女性が江戸に奉公に出てから、大日如来の化身だと言われるようになり、江戸を中心に広まった羽黒信仰の一種であります。- 239
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2019-03-05 00:18:02
【神道シリーズ】第50回・八百万の神⑦立山権現(後編)布橋灌頂会(うば尊と女人成仏信仰)今回は立山権現信仰の布橋灌頂会を中心にお話をしていきたいと思います。
布橋灌頂会とは、平安時代より阿弥陀信仰を中心とした浄土教信仰が続いてきた立山で、それまで経血や産血の血穢のために成仏出来ないとされてきた女性たちの救済の為に、立山の大日岳(名前の由来は密教の大日如来)のあたりで起きた
姥尊(うばそん)信仰で、うば尊とよばれる老婆の神様が成仏できずに血の池地獄に落ちた女性たちや穢れを落として成仏したいと願う女性たちの救済の為に、
三途の川に例えられたうば川(現在は水は無く谷底になってる)に架かる布橋の手前(東側)のうば堂で生前に犯した罪の懺悔をし、死装束をまとい、目隠しをして(布橋を流れるうば川の北側は氷の河で南側は火の河であるため、その恐怖におじけづかないようにするため)渡り、対岸(西側)に辿り着いたら閻魔堂にはいり念仏を唱え、阿弥陀様の加護を願えば、閻魔堂の扉が開いて日光が差し込んだ時にはもう阿弥陀如来のいらっしゃる極楽浄土(立山浄土)にいる、という儀式が行われるようになりました(江戸時代以降)。
この布橋灌頂は明治の神仏判然令の時に禁止され、以後廃止状態になってましたが、明治時代より明治政府による立山権現信仰禁止令に反対して運動し続けた地元の戦いもあり、明治半ばより立山権現は復活し、布橋灌頂会も戦後の1996年に復活し、現在でも3年に1度の9月24日に行われています。
現在では仏女ブームもあり、若い女性や外国人女性の参加が非常に多く、若い世代の女性たちによって引き継がれています。- 238
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