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2023-04-12 23:58:02
【神道シリーズ・シーズン3】(思想編)第54回・谷口雅春と生長の家(その①)生長の家の開祖・谷口雅春は、1893年〈明治26年〉11月22日、兵庫県八部郡烏原村東所(現在の兵庫県神戸市兵庫区烏原町)に、新田義貞の血筋を引くと言われた谷口音吉と妻・つるの間に6子のうちの次男として生まれたが、4歳の時に、同じ谷口家の叔父の家に養子として引き取られ、優秀な成績のもと、大坂の旧制大阪府立市岡中学校を出た後、上京して早稲田大学英文科に進むが、女性のトラブルの為に途中退学し、神戸に帰省後、摂津紡績(現ユニチカ)の木津川工場で働き、そこでも付き合っていた遊女から性病を移され、また女性のトラブルで退職した後、紡績工場勤務時代の資本家に搾取される女工たちを見た体験や、性病で一命を落としそうになった体験から社会変革や神霊治療に興味を持ち始めたことがきっかけで、大正7年、大本教の本山である綾部を訪ね、その教えに心酔した上で翌年綾部に移住し、大本信者として入信した。
谷口雅春が大本にいたのは約3年間だったが、大正10年の第一次大本弾圧事件をはさみ、出口王仁三郎の側近の一人として霊界物語の朗読聞き取り記述を手伝ったり、大本系列の愛善新聞の出版局長を行ったりと、精力的にその宗教活動に協力した。
しかし、大正10年世界立替え説と言う、大正10年に世界が滅亡するという大胆な予言が外れ、その煽りがもとで第一次弾圧を受けることになった大本に失望し、一次弾圧事件の翌年の対象11年に大本で知り合い結婚した妻・輝子とともに大本をさることとなった。
その後、同じく大本を脱会した浅野和三郎の主宰する「心霊科学研究会」に一時期席を置いたが、その後は、神戸の養母の家に夫婦で居候しながら宗教雑誌への投稿と自費出版の執筆の日々にあけくれた。しかし、大量の投稿の内容が多くの読者に支持され、とうとう昭和5年には自主出版で月刊誌「生長の家」を創刊し、読者数も急増する中、5年後の昭和10年には宗教団体「教化団体生長の家」を創立し、それが今日に繋がる宗教法人「生長の家」へと発展していくのであった櫻井? 大本組?
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2022-12-04 21:43:03
【神道シリーズ・シーズン3】(思想編)第38回・霊界物語(その①)大本教では、第一次大本弾圧事件までは、大本教の開祖・出口なおが自らに憑依した艮の金神からのメッセージとしてすべてひらがなで書かれたお筆先と言われる自動書記の書が「大本神諭」として大本の教典となっていたが、大正10年1921年の大本弾圧事件の時にそのなおのお筆書きはすべて警察に没収された上、焼却されてしまい、しかも禁書となってしまった。
当時、お筆先の写しも無く、ましてや出版もしてなかった為、大本神諭とされた原本のお筆書きはそのほとんどが失われてしまった。
そして、この大本神諭に続いて第二の教典となったのが、第一次大本事件直後から出口王仁三郎によって著述されたのが「霊界物語」である。
霊界物語は、王仁三郎が瞑想しながら語る物語を40人以上の弟子たちが書き取っていくという大変な作業を通じて形成されて行った。
その中には、後に生長の家を創設した谷口雅春も含まれていた。
霊界物語は、第一次大本弾圧事件のあった1921年から5年間と、その後、7年間の中断を経て昭和8年1933年から約1年間のトータルで6年間の月日を経て書かれ、全部で81巻・83冊の超長編物語となった。
その中には、王仁三郎自身が修行時代に亀岡の高熊山の瞑想修行の中で見て来た霊界の姿や、国祖クニトコタチによる宇宙創造や地球の修理固成、つまり、大地や海、川、そして樹木や人や動物が生成される様が描かれ、さらに霊界物語では、彼がその後の瞑想の中で見て来た霊界の歴史を語っている。
王仁三郎によれば、我々が住んでる世界は顕界と言われ、霊界とは、顕界と姿は異なるが、神や神人の住む世界で、言わば顕界のパラレルワールドとでも言える世界で、霊界で起きた事は比喩的に顕界で起き、さらに大本で起きた事は世界で起きる、という世界雛形論がその格子にある。
ストーリーの一貫したテーマは、正義が悪をくじくとき、けっして暴力を用いてはならず、あくまで悪人に諭すことで改心させよ、と言うもので、このパターンのショートストーリーが延々と語られている。
荒唐無稽な話の連続ではあるが、そこには、王仁三郎が一貫して追求した万教同根と世界愛善の精神が貫かれており、人類皆兄弟のようなキリスト教的博愛主義が感じられる。
結果的に見ると、ユダヤ教やキリスト教の世界観の中に日本の古事記神話を組み込もうという図式さえ垣間見えたりするのである。
しかし、この霊界物語は、その後大本を離れて独立宗派を形成した神道系カルト教団全体に大きな影響を与えることになったのである。- 92
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2022-10-02 22:04:02
【神道シリーズ・シーズン3】(思想編)第31回・大本教・第一次大本弾圧事件前夜大正7年1918年、大本教の初代教主出口なおが83歳で生涯を閉じるまで、大本ではなおのお筆先という全文ひらがなで書かれたメッセージノートが大本神諭として信仰の中心になっていたが、なおの死後は出口王仁三郎に実権が移り、さらに入信加入してきた神霊イデオローグの浅野和三郎や谷口正治らによって大本神諭は恣意的に解釈されるようなり、そうした背景の下、「大正10年立替え論」つまり大正10年に日本も世界も滅んでしまうという大予言が行われ、これに釣られて膨大な数の信者が日本全国的に増え、大正10年1921年の第一次大本弾圧事件の間接的原因ともなって行った。
かつて出口なおは、日露戦争の時に、この戦争が世界大戦に発展して世界は一度滅びると予想し、それが外れたために大本は一時崩壊状態になったが、今回の「立替え説」を教団では「二度目の世の立替え」と宣言し、今回もまた大きく予言が外れる事により多くの信者たちが大本を去ることとなった。
同時に、それまでなおの神諭の解釈を巡って王仁三郎と対立していた浅野や谷口や友清歓真らも大本を去り、それぞれ、心霊科学研究会、生長の家、神道天行居と言った各自の神道系カルト教団を形成して行った。
大正10年頃の社会状況は、第一次大戦が終わって3年経って急速に欧州への輸出が激減した為に町に失業者が溢れる一方、大戦以降高まった国民の所得急増に伴う米不足により、労働争議と米騒動が全国各地に広がり、次第に深まる世界情勢の暗雲の中、大本が発表した終末論「二度目の立替え」予言は膨大な数の人々の気持ちを引き付け、教団は急激に規模が膨張し、政府や警察は大本の動向に注目し、きっかけを見つけて弾圧する機会を虎視眈々と窺っていた。
大正10年1921年2月12日の未明、検事総長平沼騏一郎の指示をうけた京都府警察部長藤沼庄平は、予審判事・検事らとともに、武装警官200人を動員して大本をおそった。すなわち綾部・亀岡・京都・八木における20数ヵ所が、不敬罪および新聞紙法違反の容疑で家宅捜査され、筆先の全部と神体の一部が押収され、大阪梅田の大正日日新聞社に出務中の出口王仁三郎、および綾部に在宅していた浅野和三郎・吉田祐定の三幹部が検挙され、だだちに京都監獄未決監に収容された。そして三幹部は、不敬罪および新聞紙法違反の罪名で起訴されたのである。
敬神尊皇愛国を標榜する宗教団体の幹部が、こともあろうに、不敬罪という罪名で逮捕されるという皮肉的で前代未聞の大事件であった。- 71
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2022-12-04 20:28:02
【神道シリーズ・シーズン3】(思想編)第37回・大本教と朝鮮半島出口王仁三郎は、昭和10年1921年の第一次大本弾圧事件の後の入蒙以後からの5年間と、昭和10年1935年の第二次大本事件の2年前の1年間のトータル7年間に渡って自らが瞑想の中で見た霊界の様子を綴った
幽界物語全81巻を書き上げた。
大本では、霊界で起きた事件は大本で起き、さらに大本で起きたことは世界で起きると言う雛形論思想があり、故に幽界で起きた事は、たとえそれがいかに荒唐無稽な事であっても形を変えた比喩的な方法で大本、つまり顕界と言われる現実の世界でも形を変えて起こるのだと言う。
その幽界では、スサノオは天界より霊界のコーカサス地方に降臨し、カスピ海より西の中東からヨーロッパにかけての地域を統治していたが、数多くの邪神と戦う為に決意を新たにする為、母神のいる根堅洲国、つまり朝鮮半島に向かったが、その前に姉神のいる高天原、つまり、霊界における古代の富士山である綾部の弥仙山を訪ねたが、姉神天照は弟神が襲撃に来たと勘違いし、弟神スサノオが誠意を示すために姉神天照とカスピ海にて誓約を行う事となった。その後、スサノオは、根堅洲国である朝鮮に降り立ち、その地を長く治め、その後、息子の五十猛命とともに出雲に向かい、その後、オノコロ島と言われる日本列島を治めたと言う。
その霊界でのスサノオと朝鮮半島の歴史を反映するように、顕界、つまり現実世界の歴史では、大本の見解では、スサノオは、朝鮮半島のソシモリ、つまり、牛頭山である伽耶山に降り立ち、江原道を中心として伽耶を含む新羅を長らく治め、その後、息子の五十猛命とともに出雲に移り、日本の国造りに励んだと言う。
大本では、日本の古代国家は朝鮮の伽耶からの移民により成され、日本の皇統も檀君であるスサノオから続くものであり、日韓同祖論に基づく歴史観を持っている。
出口王仁三郎は、霊界で、ユダヤ人、トルキスタン人、コーカサス人、満蒙人、朝鮮人、日本人は同じセム語族に属するとという事実を見ており、一方、アラブ人、ペルシャ人、インド人、中国人はハム語族だとしている。
このセム語族説自体は王仁三郎の、霊界で見たとする妄想であるとしても、現在、日本の古代学者の間でも朝鮮南部の伽耶と呼ばれた地域から日本列島に移民した倭人たちが日本の古代国家を築いたのだというのは定説になりつつある。
しかし、この王仁三郎の霊界物語に始まる日韓同祖論は、その後、大本より派生した多くの平田神道系カルト教団にも引き継がれて行ったのである。- 67
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2022-10-13 22:58:02
【神道シリーズ・シーズン3】(思想編)第32回・第一次大本弾圧事件大正10年1921年の第一次大本弾圧事件後、仮出獄した出口王仁三郎は、来日し綾部を訪れていたバハイ教の米国人宣教師アイダ・エ・フインチと会見し、王仁三郎は、バハイ教が提唱する世界共通語としてのエスペラント語の普及の話に強く共感し、以後、大本内にもエスペラント語の研究会を設立し、エスペラント語とローマ字の全国普及に努めるようになる。
一方、大正9年1920年に中国で設立された新興宗教で慈善団体の世界紅卍字会との提携に乗り出し、これがきっかけで大本率いる王仁三郎は、世界中の全宗教との連合を企画し、大本の万教同根の精神に基づき、全世界の宗教は信仰対象や信仰内容に関わらず一致団結しようという世界愛善運動を始めた。
大正13年1924年には、王仁三郎は保釈の身でありながら、世界宗教連合会の設立に着手した。
しかし、その直後、王仁三郎は突如思い立って、信者の植芝盛平ら3名を引き連れ、満州入りし、関東軍特務機関の協力を得て、内蒙古の馬賊の棟梁の蘆占魁の率いる千名の匪賊の部下を同行させ、奉天派トップの張作霖から馬賊討伐の為という理由で満蒙の行軍を始めたが、この行軍は王仁三郎にとっては、新蒙古王国の建設であり、蒙古よりエルサレムを目指した世界の精神的統一の運動であった。
しかし、奉天より北西方向に進軍していた王仁三郎の隊列は外蒙古付近で突如南進に方向を変えた為、これは内蒙古独立運動ではないかと張作霖に疑われ、王仁三郎とともに隊列を進めていた蘆占魁らは張作霖の部隊に追討され、戦わずして武装解除の上、全員逮捕され、蘆は即座に銃殺され、王仁三郎たちも銃殺刑が決まったものの、運よく張作霖部隊の処刑担当兵の機関銃が根詰まりしたため処刑は延期となった。
その直後、日本領事館からの歎願により処刑自体が中止となり、王仁三郎一行は間一髪の難を逃れることが出来たのだ。無事帰国できた王仁三郎は、一旦大阪刑務所に収監されたが、ただちに再保釈され、いよいよ、入蒙前からの目的だった世界宗教連合会結成の準備を進め、大本信者で大陸浪人の岡崎鉄首や、大アジア主義者で日蓮主義者の当山満や内田良平らの協力もあり、大正14年1925年の5月20日に、北京悟善社において、世界宗教連合会の発会式が挙行されるに至った。
このようにして発足した世界宗教連合会の総本部は北京におかれることになり、東洋本部は亀岡に設置することになった。
こうして、一見、世界の反戦平和の実現と世界宗教の融和を求めたような世界大家族主義運動を進める一方で、実は、王仁三郎の中ではもう一つのそうした平和的な動きとは相反するような思想的発展が進行していた。- 64
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2023-03-02 21:25:02
【神道シリーズ・シーズン3】第49回・植芝盛平の生涯【後編】第一次大本弾圧事件を難なく逃れた植芝盛平は、1924年(大正13年)2月、出口王仁三郎が仮出獄の身でありながらも、満蒙の地に宗教国家の建設を目指して満州に渡り、盛平もそれに随伴することとなった。張作霖配下の馬賊・盧占魁(ろ せんかい)の率いる「西北自治軍」と共にモンゴルへ向かうが、盧の独走を疑った張の策謀により幾度も死の危機に晒されることになり、張作霖軍からの銃撃にも合うが、その時は盛平は敵弾が来る前に「光のツブテ」が飛んでくるのが見え、それを避けることで敵弾から逃れるという体験をした。このパインタラ事件と呼ばれる事件で、盛平を含む王仁三郎一行は九死に一生を得る体験をするが、無事帰国した後は、王仁三郎は霊界物語の著述に精を出し、植芝盛平は、その霊界物語に影響を受けながら柔術の研鑽と弟子の指導に専念した。
しかし、満州で経験した「光のツブテ」は、「突如大地が鳴動し黄金の光に全身が包まれ宇宙と一体化する」幻影に襲われるという神秘体験とともに起こり、これが気の妙用という武術極意に達することとなる、盛平は、これを黄金体体験と呼び、自らの合気道を創設するための大きな開眼となったのである。
その後、後に起こる第二次大本教弾圧事件を予見した王仁三郎の勧めもあり1927年(昭和2年)より東京へ移住することとなり、同時に柔術師匠の武田惣角から次第に距離を置くようになった。
1931年(昭和6年)48歳。新宿区若松町に道場「皇武館」を設立、激しい稽古振りから「地獄道場」と呼ばれる。この頃の教授対象は皇族・華族・軍人・警察官・実業家・武道家の子弟など一部の層に限られた。入門に当たっては身元の確かな2人以上の保証人を条件とし、無頼の輩に悪用されぬよう公開を厳しく制限した。また軍部の要請で、陸軍戸山学校・憲兵学校・中野学校・海軍大学校などで武術指導を行った。
その後、国情は日中戦争、太平洋戦争と日本が深く大戦にのめり込んで行く中、陸海軍の幹部軍人を始め、軍人を中心とした合気道の訓練の師範として次々と要請があり、盛平はそうした軍人らの稽古、訓練に多忙な日々を過ごして行った。
太平洋戦争終戦の1945年(昭和20年)東京の本部道場は空襲による焼失を免れるも、62歳になった盛平のところには、道場への避難民収容や復員した弟子たちが集まり、岩間の道場と東京の本部道場の復興に努め、どちらも復興を果たし、ここに東京と岩間を軸に戦後皇武会の活動が始まった。
1948年(昭和23年)2月9日に「皇武会」は「財団法人合気会」(初代理事長・富田健治)と改称、岩間の合気苑を本部とし、改めて文部省の認可を受け、この時はじめて正式に「合気道」を名乗るようになり、盛平は初代合気道「道主」となった。- 58
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1970-01-01 09:00:00
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