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2021-08-12 15:03:02
【神道シリーズ・シーズン2】第39回・熊沢蕃山【前編】理論・思想編(陽明学と万物同胞兄弟論)熊沢蕃山は、26歳の時に地元近江の国に住む近江聖人と言われた中江藤樹に入門を願った時、藤樹は36歳で、ちょうど藤樹は当時朱子学と陽明学のはざまに立ち、蕃山の入門を何度か拒んだのは藤樹自身が自身の思想的転換期の迷いの中にあったことも原因の一つだと言われる。
蕃山は武家の家に生まれ、それまでに四書五経の素養は十分にあったものの、本格的に朱子学や陽明学を学んだのは藤樹の門下生になってからであった。
中江藤樹の陽明学は結局最終的に中国の古代神・上帝・太乙神の信仰に向かい、直接的に社会変革運動を行う活動家たちへの影響は無かったが、弟子の蕃山はその後、積極的に藩主や時の政権に対して批判的な言論活動を行い、自らの扶持を失い、家族にも生活苦を強い、最後は蟄居生活を強いられることとなった。
しかし、そうした蕃山の、才能がありながら自ら苦汁を舐める生活を強いるという実に不器用な生き方は、その思想とともに幕末になると再び脚光を浴びるようになり、藤田東湖、山田方谷、吉田松陰らが彼の思想に傾倒するようになり、倒幕の原動力となっていくのだが、果たして熊沢蕃山の陽明学はどのように彼らに影響を与えたのであろうか?
一般的に熊沢蕃山は陽明学だとみられているが、果たして本当に彼は陽明学に触発されてああした彼の生き方をしたのだろうか?
実は、蕃山が傾倒したのは完全な陽明学ではなく、陽明学寄りの朱子学との折衷的な思想であった。
蕃山は、陽明学で言う、理が気に働きかけて易の64掛や朱子学の天動説に基づく形而上学的宇宙論を受ける一方、陽明学で言う致良知説も同時的に受け入れ、陽明学の心即理と言うよりも、朱子学的な性即理を陽明学的な致良知で達成しようと言うような発想で、儒教の根本的価値観である五常や五倫の窮理を追究するという姿勢は崩さなかった。
結局、中心的思想は、師の中江藤樹に倣い、朱子学の理気二元論と陽明学の理気一元論の中間を行く理気混淪論を採ったが、しかし、自分の心の良知に目覚め、行動を起こせばそれに連動して世の中はおろか自然万物までをも変えることができるという陽明学の万物一体の仁思想を支持し、そのエネルギーがその後幕末の勤王の志士たちに大きな影響を与えることになったのである。- 79
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1970-01-01 09:00:00
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