キーワード賀茂真淵を含む動画:15件 ページ目を表示
2024年6月18日 07時09分に生成された05時00分のデータです
2008-10-22 22:28:09
本居宣長 直毘霊本居 宣長は江戸時代日本の国学者・文献学者・医師。荷田春満・賀茂真淵・平田篤胤とともに「国学の四大人」の一人。当時、解読不能に陥っていた古事記を解読し、35年かけて著した「古事記伝」,賀茂真淵にただ一度だけ真淵より教えを受けた(「松坂の一夜」)などが有名。「直毘霊」(なおびのみたま)は儒教や仏教で説く道はただ人智による理屈にすぎず,「古事記」などの日本の古典にこそ真の道が備わっているとして,その国学思想を古道として説き,自らこれを用いて講義したといわれ、古学の眼を開く為の精髄を凝縮した書。山鹿素行「中朝事実」→sm6938281 北畠親房「神皇正統記」→sm6922359 本居宣長「玉くしげ」→sm5058142 賀茂真淵「国意考」→sm5000813
御代御代の間に、時折まつろわぬ穢れ多い人もあったけれども、神代からの古い約束通り、神威を表して、たちまち滅ぼしておしまいになったのだ。 幾万代を経ようと、誰が大皇に背き得ようか。 天津日嗣の高御座が天地のように不動であることは、ここで既に決まっていた...
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2009-05-04 02:29:48
山鹿素行 中朝事実山鹿素行は、江戸時代前期の儒学者・兵学の大家。中朝事実は、山鹿素行が寛文9年(1669年)に記した尊王思想の歴史書。全2巻、付録1巻。江戸幕府によって朱子学が奨励され、儒学が偏重され、中国を過大評価し我が國を過小にみる風潮が蔓延していた。これに対し反論したのが素行の「中朝事実」であった。素行の思想はその後、幕末の吉田松陰(山鹿流兵学)に影響を与え、更に松蔭と素行から乃木希典大将は影響を与えており、後世へ大きな影響を及ぼした。吉田松陰「士規七則」→sm7345233 乃木希典「士規七則講話」→sm7372847 北畠親房「神皇正統記」→sm6922359 本居宣長「直毘霊」→sm5015829 本居宣長「玉くしげ」→sm5058142 賀茂真淵「国意考」→sm5000813 山鹿素行「武教小学」→sm7401755
天皇(日本のリーダー)は魂で選ばれる者。。霊力がアルので判りやすい世。。。卍3286卍ss 昔...
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2008-10-26 19:50:27
本居宣長 玉くしげ「玉くしげ」は国学者、本居宣長(1730-1801)が研究し明らかにした「古道」精神を政治に反映させようとしたもので、書名は、本書に添えた「身におはぬしづがしわざを玉くしげあけてだに見よ中の心を」という歌に由来する。『玉くしげ』は理念篇であり、直毘霊→sm5015829と共通する部分が多い。『秘本玉くしげ』は実際の政策について述べられており、現在の日本に通じることの多い興味深い書です。賀茂真淵→sm5000813にただ一夜だけの指南を受けた「松阪の夜」が知られている。山鹿素行「中朝事実」→sm6938281 北畠親房「神皇正統記」→sm6922359 本居宣長「直毘霊」→sm5015829 賀茂真淵「国意考」→sm5000813
保守諸君のバイブルに・・・ 風俗が悪いってwww 戦前の小学生なら誰でも知ってる話 一度し...
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2009-06-16 04:06:35
無逸の心死を哭す 吉田松陰「無逸の心死を哭す」は安政六年二月に吉田栄太郎(後の吉田稔麿)に宛てて吉田松陰が送った手紙です。松蔭は栄太郎に”無逸”の字を与え、その人物を高く評価し、将来を嘱望していましたが、栄太郎は心中深く期するところがあり、松下村塾を離れます。これを嘆き、勤皇の心が死んだのか、と問いかけ嘆いたのがこの手紙の内容です。その後、吉田稔麿は池田屋事件で斃れるまで、勤皇の志士として活躍することになります。吉田松陰「士規七則」→sm7345233 山鹿素行「武教小学」→sm7401755 山鹿素行「中朝事実」→sm6938281 乃木希典「士規七則講話」→sm7372847 北畠親房「神皇正統記」→sm6922359 本居宣長「直毘霊」→sm5015829 本居宣長「玉くしげ」→sm5058142 賀茂真淵「国意考」→sm5000813 明治天皇「教育勅語」→sm5037463
時代のせいではない BGM? その松陰先生にしたって三十歳、惜しい死だよね この時代から考え...
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2008-10-21 03:03:46
賀茂真淵 国意考賀茂真淵は荷田春満(かだのあずままろ)を師とし、万葉集などの古典研究を通じて古代日本人の精神を研究した。荷田春満・本居宣長・平田篤胤とともに「国学の四大人(しうし)」の一人とされる。主な著書に『国意考』を含む『五意考』などがある。国意考は儒教の説く聖人の道を一種局小なる人為的智巧の道であるとし、之に対して我が古神道は天地の自ずからなる大道であることを主張しているものである。山鹿素行「中朝事実」→sm6938281 北畠親房「神皇正統記」→sm6922359 本居宣長「直毘霊」→sm5015829 本居宣長「玉くしげ」→sm5058142
母系なのか www w 天皇の下の平等ですな。 和歌は良いですね 訴訟社会のアメリカみたい...
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2020-10-03 07:00:02
3分で流す日本思想 賀茂真淵『国意考』「ただ何事も、もとつ心の直きにかへりみよ。」
前:sm37580967
次:sm37688436
思想:mylist/69237326
文学:mylist/72373795
賀茂真淵(1697-1769)
国意考(1769)
国立国会図書館デジタルコレクションで原著が読めます。
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/992921 (409/650-415/650)
音楽:おとわび(https://otowabi.com/)
広告・コメント頂いた方、どうもありがとうございます。本音✕同意✕利用規約! ナオキです… 侘び寂び✕講和✕おもてなし同盟! 戦場での強奪も考慮すべき(君主も黙認) 家族を使うのが簡単。でも情がねぇ? 呆気 俺たちは血に飢えてるんだぜ〜!…ガァン! (建前) 船は出ていく、シコリは残る。 ゲボも吐け!...
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2011-02-15 04:09:51
旧・浜松市歌をファンファーレ風にアレンジしてみました浜松市の役人いわく、「前の浜松市歌は合併された浜北や北遠の主旨に合わない。
(浜北や北遠は賀茂真淵や曳馬とは無縁)だから葬ったった」とのこと。
というわけでこのプロジェクト、完!
「新・浜松市歌」ファンファーレ版:/sm17578215 その他の作品:mylist/12822588歩いて5分のとこだw 曳馬といっても曳馬町だって元は浜松とは関係ない このファンファーレ...
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2009-06-21 00:37:27
武教小学 山鹿素行武教小学は山鹿素行の講義などを基に門人達が簡潔にまとめたもので、「武教全書」の巻頭にあり、素行はこれを用いて講義も行っていたので、自著と同等に扱われています。忠臣蔵で有名な江戸時代の大石内蔵助、幕末の吉田松陰、明治時代の乃木希典大将へと大きな影響を及ぼした兵学者・儒学者が示した江戸時代の泰平の世の武士の日常生活規範がここにあります。山鹿素行「中朝事実」→sm6938281 吉田松陰「士規七則」→sm7345233 乃木希典「士規七則講話」→sm7372847 北畠親房「神皇正統記」→sm6922359 本居宣長「直毘霊」→sm5015829 本居宣長「玉くしげ」→sm5058142 賀茂真淵「国意考」→sm5000813
目から鱗です べんきょうさせてもらいます! 江戸時代はスゴイな ありがとうございました ...
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2021-09-11 21:09:04
AIきりたん「浜松市歌」(初代)【作詞家・森鴎外特集】後編
大正10年に制定された浜松市歌です。作詞は森鴎外、作曲は本居宣長の子孫である本居長世が担当しました。歌詞中に出てくる「翁」とは、本居宣長が師事したことで知られる浜松出身の賀茂真淵です。鴎外の気遣いでしょうか。
市町村合併で浜松市の範囲が変わったことから、現在は2代目が制定されています。
歌詞意訳
貴族が旅姿で
行き交っていた萩原の
昔をつぶさに調べた
賀茂真淵をしのぼう、学問をするなら
国の乱世を鎮めるための
勲功の元としてこの浜松に
城を整えた徳川家康を忘れるな
国を守るなら
もとは引馬の宿駅だった浜松は様変わりして
たくさんの産業が発展しつつある
さあ共に思いめぐらそう
わが浜松市の繁栄を
(動画製作者による意訳です。誤りがありましたら教えて下さい。)- 150
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2021-04-05 22:34:02
【神道シリーズ】シーズン2・第27回・賀茂真淵(神道論無き日本人アイデンティティーの追求)元禄10年(1697年)遠江国敷智郡浜松庄伊庭村(現在の静岡県浜松市)で賀茂神社の神職の家に生まれた真淵は、近所の稲荷神社の神職家の杉浦国頭の家に通い、小さな頃から和歌にいそしむ生活をしていたが、26歳の時、京と江戸を行き来していた京都の伏見稲荷大社の神官の家出身の有名歌人・荷田春満が途中浜松の杉浦国頭の催す歌会に寄った際に歴史的な出会いをし、以後、春満が浜松による度に和歌の手ほどきを受けたが、やがて37歳になると春満の門人になることを目指し上京し、以後、7年後に春満が死ぬまで真淵は京都と浜松を行き来した。
その後、時の将軍徳川吉宗の次男で、徳川御三卿の一つ田安家の当主となった田安宗武に使えていた春満の末子の荷田在満の勧めで江戸に出向した真淵は、春満の弟の荷田信名の江戸宅をひきりに、荷田家人脈の門人を頼りに寄宿し、やがて江戸の豪商・村田春海の家に寄宿することとなり、和歌研究と著述の日にあけくれた。
やがて、50歳の時に荷田在満の推薦で、田安宗武に和学御用として仕えることとなり、
以後、64歳で隠居するまでの14年間宗武の下で仕える事となった。
その間に、新古今和歌集を推す在満と万葉集を推す宗武の間で、所謂「国歌八論」論争というものが起き、在満は新古今和歌集の技巧を重んじ、宗武は万葉集の中に現れる儒教的な「ことわり」を重視し、この埋まらない対立の末、在満は田安家を去る事となり、残った真淵は、万葉集支持の立場より宗武の側についたものの、和歌を儒教の六経の詩経の道徳観や儒教独特の勧善懲悪的な和歌評価には賛同できず、両者の見解の深い溝は埋まらぬまま真淵は粛々と独自の万葉集研究を続けた。
真淵はその後64歳になって隠居生活に入るが、宝暦13年(1763年)に宗武の命により
大和を訪ねた際、その江戸への帰り道で三重県の松坂に寄り、真淵門下入門を志していた青年・本居宣長と両者生涯一回限りの面会を果たし、そこで宣長は古事記注釈書作成への情熱を熱く語ったと言う。
賀茂真淵の生涯の圧倒的部分は万葉集研究に注がれ、真淵がその中に見出したのは、自由奔放で雄々しく素朴で、しかもみやびある古代日本人であり、それは「ますらおぶり」という言葉で表現されている。
しかし、真淵の神道に関する関心は低く、「天皇は日本の風土に合っている」とは述べたものの、その根拠は語られず、しかも、後の国学者たちのように独自の神道理論を構築しようとする姿勢は見られず、あくまで古代の日本人という日本人のアイデンティティー追求に人生をかけていたと言える。- 97
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2021-04-19 23:12:02
【神道シリーズ・シーズン2】第28回・本居宣長【前編】日本の「ジャック・デリダ」宣長の字音仮名遣本居宣長は享保15年(1730年)6月伊勢国松坂(現在の三重県松阪市)の木綿仲買商である小津家の次男として生まれ、8歳で寺子屋に学び、11歳で父を亡くし、16歳で商売見習のため江戸大伝馬町にある叔父の店に寄宿していたが、19歳で松坂に帰省すると、伊勢山田の紙商兼御師の今井田家の養子となるが、3年後、寛延3年(1750年)離縁して松坂に帰り、このころから和歌を詠み始めた。
22歳になると義理の兄が亡くなったため実家のあきないを継ぐが商売に関心はなく、店を整理して母と相談の上、医師を志し、京都へ遊学することとなった。
京都では医師で儒学者でもあった堀景山にに師事し、寄宿して漢学や国学などを学んだ。
景山は朱子学者でありながら反朱子学の荻生徂徠にも興味を示し、また国学者契沖の支援者でもあった。
宣長は、景山の影響で荻生徂徠や契沖の思想にも出会うこととなり、これが契機で国学への道を歩むことを決意したのである。
27歳になった5年後には地元松坂に戻り医者として開業し医業をはじめることになった。
そのかたわら自宅で『源氏物語』の講義や『日本書紀』の研究に励み、そして33歳になった時、大和から江戸への帰途で伊勢神宮に参宮しようとしていた賀茂真淵が松坂に泊まっていることを知り、宿を突き止めて真淵に邂逅し、いわゆる「松坂の一夜」という生涯で一回限りの真淵との面会を実現したのだ。
その後、真淵の門下生となった宣長は松坂と江戸との間の往復書簡による教授を受け、その関係は6年間続くもものの、正風体で書かれた万葉集ではなく、異風体で書かれた源氏物語や新古今集に興味を示した宣長は真淵の逆鱗になり絶縁されることとなった。
その後宣長は、71歳で世を去るまでの30年以上の年月を古事記解釈研究や日本語の仮名遣いや文法研究に費やすこととなり、その努力の結果は、「古事記伝」「玉勝間」『源氏物語玉の小櫛』『漢字三音考』などの形で結実することなった。
宣長は、古事記、万葉集などの万葉仮名という漢字当て字で書かれた書に出てくる固有名詞を従来の漢字訓読みから宣長本人が編み出した大和魂の読み方として字音仮名遣いをあてたことは、その後も日本で定着することとなり、あたかも古代よりそのような読み方をしていたのでは?と勘違いしてしまう人が続出するほどであった。- 94
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2021-04-26 23:13:02
【神道シリーズ・シーズン2】第29回・本居宣長【後編】「直毘霊」「古事記伝」と妄想的皇国至上主義へ (2)医者になるために京都に遊学し、堀景山から医学のみならず契沖や荻生徂徠などの国学を学んだ宣長は、松坂の一夜で出会った賀茂真淵の指導の下、万葉集の読解に精を出したが、興味の方向は、真淵の嫌う中世風の源氏物語や新古今集で、次第に粗削りで素朴な古代日本人を好む真淵の教えから離れて、優雅で儒仏の影響を受けた中世文学を溺愛するようになった。
しかし、その一方では宣長がライフワークとした古事記の解釈研究にも取り組み、次第に宣長の思想は、皇国日本を中心とする強烈な国粋主義に走って行き、万葉仮名や日本語文法の研究、そして独自の字音仮名の開発とともに独善的とも言える唯我独尊的な古事記解釈を進めて行った。
源氏物語を溺愛した宣長は、一方では男女の色恋事の不条理や不貞行為を肯定的に受け止める「もののあわれ」の感情を日本人の気質とし、またその一方では、
太陽の神アマテラスを皇祖皇宗として戴く皇国日本は、その末裔たる天皇が国を治め、今日まで持続してることこそ日本が世界を君臨すべき地位になると豪語するような、ある意味偏狭とも言えるウルトラナショナリズム的な主張をする、という両極端な思想に走って行くのであった。
儒仏や道家を嫌う宣長は、外来の思想が入ってくる以前の皇国日本には「皇国の正音」というオリジナルな日本語があり、古事記に書かれたような日本の神々の信仰があったのだという主張の下、古事記をバイブル視するようになるが、残念ながらその主張の根拠となるものはなく、そこを同じ国学者の上田秋成から突かれた宣長は「あるからあるんだ」的な強弁になり、宣長は自ら作った復古神道にますますのめりこんで行った。
古事記を一般人が読める書にした宣長の功績は大きいものの、誇大妄想とも言える皇国日本中心主義は、皮肉なことに幕末の水戸藩天狗党の悲劇や昭和の日中戦争、太平洋戦争推進のスローガンともなり、戦後も日本保守運動の骨格部分となったのであった。女童心と漢意 『宣長の源氏学』おすすめです。失礼しましたm(_ _)m
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2022-11-16 20:08:02
【難読漢字】「操縦桿」モンハン脳になっているあなた「アルティメット漢字シューティング」00:00 予告
00:23 熱川温泉:熱海バナナ園
01:06 歪曲
01:31 操縦桿:モンハン脳
01:57 田山花袋:小説家
02:20 堅固:硬い
02:45 島崎藤村:品川庄司パターンではない
03:13 眼差し:頭が固い
03:42 賀茂真淵:江戸っ子
04:06 七面倒:むっちゃメンドイ
04:53 手向ける
05:20 慶弔
06:01 新渡戸稲造:旧5千円札
アルティメット漢字シューティング(ネプリーグ ファイブツアーズジェット再現漢字ゲーム) - Yonet https://unityroom.com/games/kanjishooting
#ゲーム実況、#寺尾陸、#クイズ- 45
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2024-04-12 15:57:02
丁間稲荷の笠薬師塔婆国学四大人(こくがくしうし):本居宣長、平田篤胤、賀茂真淵、荷田春満(かだのあずままろ)。
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1970-01-01 09:00:00
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