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2024年6月16日 07時09分に生成された05時00分のデータです
2022-07-15 22:01:02
【神道シリーズ・シーズン3】(思想編)大石凝真素美と言霊学言霊というと、あたかも太古の昔より「言葉には魂が宿ると言われてきた」と考えがちであるが、実は江戸時代より前に残る記録の中で言霊という言葉を使っていたのは9世紀に空海が書いた「声字実相(しょうじじっそうぎ)」という書の中で「五大に皆響き有り、十界に言語を具す、六塵悉く文字なり、法身は是れ実相なり」と、真言密教の真言について述べていたわけで神道とはまったく無関係だったのだが、言霊を神道と結び付けようという動きは、幕末の国学者・中村孝道から始まっている。
中村孝道は自ら開発した水茎文字というハングルに酷似した文字を神代文字だとし、それを現在のかな75音に置き換え、この75音は宇宙全体の神霊エネルギーを発していると主張した。
大石凝真素美は、天保3年(1832年)伊賀の国上野に生まれ、本名は望月春雄といい、医者の家系の家に運れたが、中村孝道の門人だった祖父の幸智から国学を教えられ、自ら医者の道を絶ち、国学者として生きていく決意をした。
1868(慶応4)年には、美濃の修験者で中村孝道の言霊思想を深く理解していると言う山本秀道の噂を聞いて訪ね、その知識と霊威に感じ入って師事し、そのまま居候して孝道の言霊学を学んだ。
その秀道と行った本田霊学の鎮魂帰神法の結果、自分はイシコリドメの生まれ変わりと悟り、名前を大石凝真素美と改名した。
大石凝は、中村孝道の真須美鏡を元にして言霊による宇宙や地球や人類の発生を説明しようとし、それによると、日本語の清音・半濁音・濁音を合わせた75音は「こえのこ」と呼ばれる神霊元子であり、この神霊元子の発生が宇宙を誕生させ、至大天球と言われる儒教の天空宇宙観を思わせる宇宙空間はこの神霊元子による言霊パワーによって形成され、その天球の中心部に大気が結晶して「地球」になったと主張する。
さらには、最初の人間達は、土の中で何年も過ごして、体が成熟すると土から出て来て爬虫類のような姿で何年も過ごし、その後で脱皮して人間の姿になったと言う。
人間は、眼・耳・鼻・舌・身・意識の「六識」を持ち、欲である「七識」と良心である「八識」、そして仏の智である「十識」を持つ、という実に仏教的な人間観を持っている。
大石凝は、宇宙を司るのは天御中主で、地球を司るのは大国主だとし、事代主は75音を司り、スクナビコナは外国語を司るとしたが、大国主が司る日本語は宇宙発生時以来の75音であり、日本語は世界言語のルーツだとまで主張した。- 231
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2023-04-01 16:48:02
【神道シリーズ・シーズン3】(思想編)第53回・井深道斉・中里義美・矢野祐太郎荒深道斉は、明治4年 1871年、岐阜県山県郡中洞村に生まれ、神道家を志し、21歳で上京し、神宮教校に入学するが、貧窮の為中途退学し、25歳の時に東京瓦斯紡績会社に入社し、52歳で大病を患い退社したが、この頃より霊異現象が相次ぎ、神武天皇の重臣・道臣命の霊示が下ったとして、昭和3年、58歳で純正真道研究会を組織し、心霊科学の先駆者として神道界内外に影響を与えた。後に「みちひらき会」を組織、古蹟探査に奔走した。
中里義美は、明治25年 1892年に青森県三戸に生まれ、東京帝国大学卒業後、内田汽船に勤務するが、第一次世界大戦時の対米提供船・愛国丸に乗船中、臨死体験により、神霊界への関心を深めるが、その後、矢野祐太郎と親交を結び、急進国家主義運動に参加し、昭和12年には「霊的国体明徴」を掲げ、神乃日本社を設立し、中央の軍人や国家主義者、霊学舎、神代史派の執筆陣を結集した雑誌「神日本」を発行した。
矢野祐太郎は、明治14年 1881年に東京の築地で生まれ、父は鉄道技師で、明治33年に海軍兵学校を卒業後、海軍艦政本部勤務の後、大正12年に海軍大佐になるが、その直後、大本教に入信した。海軍退役後は、奉天で武器商を営み、同15年の出口王仁三郎らの入蒙字には現地で協力した。大本を脱退後は、大本の反主流派で、開祖出口のなおの三女の福島久や元大本の車末吉や矢野の妻、シンらの神示をもとに独自の神話体系と経綸説を確立し、神政龍神会を組織し、自らの神話説や経綸論を昭和天皇に伝え、天皇を全世界を統治する世界天皇を目指すことを促す為、信者で宮中女中で、薩摩藩島津家の末裔である島津治子を使って天皇に近づこうとするが、これが神政龍神会事件となり、矢野は逮捕され、官憲による厳しい拷問の末、昭和13年、獄死することとなった。
荒深、中里、矢野の三者に共通する点は、いずれも明治以降の平田系神道カルトの流れであり、大本教とも深い関係を持ちながら、彼らが本田霊学の鎮魂帰神法により得た神霊のメッセージにより築かれた超広大妄想的な日本中心の地球主義が当時の超国家主義的な思想と結びつき、軍人との結びつきが深まり、中里の神乃日本社のように226事件や南京事件に関わった上級軍人たちも信者に持ち、日本全体を狂気に巻き込んで行く原動力となったのである。- 193
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2023-03-27 00:58:02
神道シリーズ・シーズン3(思想編)第52回・友清歓真と神道天行居友清歓真は、1888年(明治21年)10月9日、山口県佐波郡佐山で父祐蔵、母むめの次男に生れ、若いころから霊的な方面に興味を抱き、密教、神道などを修行し、度々山籠もりをする生活をしていた。1918年(大正7年)、大本に入信した浅野和三郎を訪ねて綾部に寄ったおり大本に入信し、当初は大本神諭で訴える世の立替え説に共鳴していたいが、次第に関心が霊術の方に移り、大本の機関紙「綾部新聞」の主筆となり、やがて大本の機関誌『神霊界』の編集にも携わるようになった。しかし、次第に友清の社会変革思想は過激化し、大本の中でも浮いた存在となって行き、1919年(大正8年)にはとうとう大本を脱会することとなり、その後、友清は静岡県に移住し、王仁三郎の師で本田親徳の直弟子である長沢雄楯から本田親徳の鎮魂帰神法を学び、これをもとに大本批判の書『乾坤一擲』『事実第一』を著した。
1920年(大正9年)には、静岡県で霊学の実践団体「格神会」を結成し、『鎮魂帰神の極意』および『神仙霊典』を自費出版した。
1921年(大正10年)には山口県防府町(現 防府市)に移住、格神会を「天行居」と改称し、同年、神道霊学の名著とされる『霊学筌蹄』(れいがくせんてい)を著した。
そして、1922年(大正11年)から宮地水位からの霊啓が始まり、地元の高知県図書館で水位の書を読み漁り、宮地水位の「異境忘備録」を自らの思想の中心に添えて行った。
1927年(昭和2年)10月には、自称仙人、自称茶人の堀天龍斎から神道の秘事とされる「太古神法」を授かるが、その中身は本田霊学と水位の異境忘備録の焼き直しであった。
同年11月22日には山口県熊毛郡の石城山上の石城神社で神示「山上の天啓」を拝受して、神道天行居を創設した。
友清は、鎮魂帰神法を続けながら自らの陰謀論を膨らませ、第一次大戦以降、ユダヤのフリーメイソンは世界中の国々を率いて日本に攻めてくると予言し、その時の戦争に備えて日本は霊的に防衛されることが重要と訴え、日本および台湾、朝鮮の聖地に神璽を埋めたり沈めたりして例祭神事を行うべきと主張した。その聖地の中でも特に朝鮮半島の白頭山は最大の聖地とし、友清本人が死後にはこの白頭山に自分の魂を祀ってほしいと信者たちに伝えたほどであった。- 181
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2022-07-31 17:51:02
【神道シリーズ・シーズン3】第24回・竹内巨麿と竹内文書竹内巨麿と言えば、まぼろしの「竹内文書」が有名であるが、竹内巨麿やピラミッド日本起源説を唱えた酒井勝軍など、現在の日本で流行っている心霊・UFO・宇宙人・終末論・超能力・超常現象・都市伝説等のオカルトブームはまさに彼らの生きた大正期から昭和初期から始まっていると言っても間違いではない。
竹内宿祢の孫、平群真鳥の血統を継ぐ自称竹内宿祢67世を名乗る竹内巨麿は、1944年(昭和19年)の第二次天津教事件で逮捕された時の特高警察調書によると、実際には木挽職、つまり、のこぎりで木を切る仕事を生業とする森山勇吉の私生児として生まれ、小作農竹内庄蔵の養子となり竹内姓を受けることになったのだった。
巨麿の人生は、こうして自らの履歴の詐称から始まり、平群真鳥の時代から受け継がれてきたと自称する竹内文書も実は自ら著していたもので、その長編空想小説ともいえる文書は、小出しにしながら公開すると称して、実は自ら書き続けていたのである。
その竹内文書によると、もともと地球上には日本しか存在せず、日本は紀元前3175年より王朝があり、古事記で言うところの神代七代の神々は実は天皇で、その王朝は、その後、上古25代、ウガヤフキアエズ朝75代、そして、神武天皇以降の現在の王朝は「かむやまとちょう」と呼ばれるとした。
神代七代の天皇の時代には、天皇が天空浮船と呼ばれるUFOのような宇宙船に乗って世界中を巡遊しながら世界を統治したと言い、3000年以上前には上古2代の天皇の16人の兄弟姉妹たちが世界中に散り、彼らの名前が現在の世界各地の有名な都市名である、ニューヨークとかロンドンとかボストンのような名称になっていると言った。
さらに、モーゼもキリストも釈迦も孔子も孟子も日本の神道の教えを乞うて日本に来日し、残りの余生を送ったと書かれている。 よって、彼らの墓も日本にあると言うのである。
中でもキリストの墓として比定された青森県三戸郡新郷村は、今でも村おこし事業として竹内文書を根拠とする
「伝説のモーゼパーク」を運営している。
しかし、このように荒唐無稽な、まるでアニメの世界のような世界観・歴史観は、当時、1929年の世界恐慌後に社会不安と逼塞感が高まる中、当時の著名な宗教家や思想家、あるいは一流と言われた学者たちなどの著名人や陸軍海軍の中将大将レベルの軍人たちの間にも強い共感を呼び、当時のウルトラナショナリズム的な潮流の中で繁栄していくこととなる。
本田親徳の鎮魂帰神法を基軸とする明治以降の古神道を名乗る平田系カルトグループは、宮地水位の霊界神仙思想や大石凝真素美の言霊学や、神代文字で書かれたとする竹内巨麿の竹内文書などがやがてカルト思想のデパートととでも言うべき大本教の流れに大きく収束して行くのであった。- 159
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2023-06-01 22:12:02
【神道シリーズ・シーズン3】(思想編)第60回・長澤雄盾・水谷清・岡田茂吉・九鬼盛隆・鬼倉足日公平田篤胤にルーツを持つ平田系神道カルトは、明治以降の展開として、その中核になったのは、平田の死者の黄泉がえりや死者の生まれ変わりなどの体験に基づいた幽界研究にルーツを持つ霊界と現界との交流を目指す本田親徳の確立した本田霊学・鎮魂帰神法にあり、この神憑依法を駆使することにより、古事記に登場する神々を降ろし、実際にインタビューしてみると実は古事記に書かれたことはすべてデタラメで、実は、篤胤が言っていたように宇宙を創ったのも地球や月や太陽を創ったのも日本の神々で、気も遠くなるような太古の時代には地上には日本しかなく、日本の天皇が全世界を君臨しており、世界中の人たちは日本の神道を信仰していたと言う。
しかし、長い長い歴史の中で地上は乱れ、神道は間違って伝わり、それがキリスト教になったり仏教になったり儒教や道教になったりとし、まるで世界は仏教で言うところの末法の世の厭離穢土となってしまったと言う。
こうした超誇大妄想といういうべきオカルト的新興宗教勢力はみずからを古神道と名乗り、この信念の下、言霊学や神代文字や神霊学などを産みだし、このスピリチャリズムは、世界大戦や世界恐慌の中で混乱した当時の日本社会の中で軍人を中心に多くの信者が集まり、太古の日本や世界天皇としての天皇の復活など、ウルトラ国粋主義者たちの間で強い支持者たちを集めた。
長澤雄盾は、本田霊学の直系の継承者として大本の出口王仁三郎らに鎮魂帰神法を伝え、水谷清は、大石凝眞素美の言霊学を伝え、九鬼盛隆は、道教仙術家として長澤から鎮魂帰神法を学び、浅野和三郎は、著名な翻訳家・英文学者でありながら息子の病気をきっかけに神霊療法に興味を持ち、大本に入信するが、後に心霊科学研究所を設立し、日本におけるスピリチャリズムの先駆けとなった。岡田茂吉は大本教を経たのち、自らの神秘体験を通じて世界救世教を設立する。鬼倉足日公は、右翼団体玄洋社のメンバーで朝鮮や中国大陸で様々な諜報活動に励んでいたが、やがて神祇伯の白川伯家神道の復活を目指し、すめら教を創立した。- 134
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2022-05-16 23:43:02
【神道シリーズ・シーズン3】第14回・平田系神道カルトの系譜(大きな流れ)平田篤胤の流れを汲む平田学派は、幕末から明治にかけて5つの大きな流れを形成して行ったが、それは、後に国家神道を形成する流れとなる祭政分離論の大国隆正のグループと、篤胤が晩年熱中した道教研究と死後の魂との交流というテーマに繋がる本田親徳の鎮魂帰神法と、道教神仙思想を篤胤の神道用語で解釈しなおした神仙神秘思想と、篤胤が存在すると強弁した神代文字を似非研究した竹内巨麿や、国学の日本語研究の流れを汲む平田門人の中村孝道の水茎文字や真澄の鏡から独自の言霊学を形成した大石凝真素美らから成るが、
神仙神秘思想系の川面凡児は、伊勢神宮を始めとする全国神社の滝打ち禊修行などの新祭祀を開発したが、神仙神秘系は次第に影響力を失い、残りの本田霊学と言霊学と神代文字学の三潮流が古神道と自称するようになり、
明治以降の平田系カルトの中心的勢力となって行った。
この三潮流は、本田霊学を中心として、神道カルト理論を形成し、やがて大本教の下に合流していくこととなった。
平田系神道カルトは、教団によって温度差はあるものの、共通していることは、元祖平田篤胤の、地球形成後に世界を作ったのは日本の神であり、日本人は世界を統一して天皇中心の地球にするべきだという超誇大妄想的な選民思想部分である。
しかし、この日本人選民思想部分は、国粋主義的な軍人や政治家たちを惹きつけ、首相閣僚クラスの政治家や陸軍大臣、海軍大臣、陸海軍大将までが信者になったりシンパになったりするほどの影響力を与えた。
この動きは放置すれば右側の立場よりの革命論や政府転覆論、軍掌握論なども生じかねないということで、政府や公安警察は厳重にこうした団体を監視するようになった。
政府公安警察は、彼らが政府見解と異なる神道解釈をしたことが天皇陛下を侮辱してるとし、不敬罪の名目で
逮捕、弾圧を続け、大正10年(1921年)と昭和10年(1935年)には大本教の宗教施設をすべて破壊する、というほどの弾圧をしたが、大本から派生した友清歓真の神道天行居は陸軍の皇道派に多くの信者を持ち、
その青年将校たちが226事件を起こし、日本はまさに狂気の時代へと突入したのである。それくらいの捏造、世界に目をむければいくらでもあるぞ~ うぽつ
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2022-08-28 13:28:02
【神道シリーズ・シーズン3】(思想編)第27回・大本教(その①)出口なおと艮の金神出口なおは1837年1月22日(天保7年12月16日)、大工の父/桐村五郎三郎と母/すみの長女として福知山藩領の丹波国天田郡上紺屋町に生まれたが、父の五郎三郎はその放蕩癖の為に家計は傾き、さらになおが10歳の時にコレラで亡くなった為、なおは10歳の時から米屋や饅頭屋や呉服屋などで下女奉公をして家計を支えることとなった。金光教の信者であったなおは、その教え通り母親を大事にし、下女奉公の給金のすべてを母親に送り、その孝行ぶりが藩主に認められ、福知山藩の三人の孝行娘の一人として表彰された。
1855年(安政2年)なおが20歳になった時、母の実母の実家の出口家に家督後継者が無く、祖母の出口ゆりからの要請でなおは出口家の養女となり、そこに養子縁組で出口家入りした四方豊助と結婚し、夫は出口政五郎と改名した。夫の政五郎も優秀な大工だったが、その楽天的な人の良さから知り合いたちからの金の無心を断れず、次々と返済されない金貸しをするうちに出口なおの家の家計は傾き、なおとの間には3男5女の8人の子供がいたにもかかわらず家の財産は底をつき、1888年明治16年に出口家は破産した。
51歳になったなおは、幼い四女と五女をかかえながら餅屋や古紙回収業を行い糊口を凌いだが、翌年事故で半身不随になっていた夫・政五郎が死去し、貧困多忙の生活を続ける中、三女の福島ひさと長女の大槻よねが精神異常を来たした後に神憑りになり、1893年明治26年、58歳になった出口なおまでが神憑りになり、突然騒いだり喚いたりするようになった為、近所の放火事件で容疑者扱いされ、警察に逮捕され牢に入れられてしまった。しかし、その牢屋の中で文盲であったはずのなおが突然、自分に憑依した艮の金神のメッセージを全文ひらがなで半紙に書き留め、これが出口なおの初のお筆先となった。
その筆先には、人類の改心と三千世界の立替え立直しを唱えるメッセージが書かれており、それは、その5年後、なおの三女福島ひさの営む茶屋を通じてなおの筆先を知った上田喜三郎の共感を得、やがてふたりで金明霊学会という教団を立ち上げることとなる。
なおは、喜三郎を出口家の婿養子とし、五女のすみに嫁がせ、名も王仁三郎に改名させた。
王仁三郎は鎮魂帰神法で艮の神を国常立神だと断定し、なおはそれを受け入れた上で、男神の国常立が宿るじぶんを変性男子とし、豊雲野尊という女神の宿る王仁三郎を変性女子とし、ふたりは霊的な意味での夫婦という設定で教団は形成された。しかし、その後、教団内の保守派たちは王仁三郎の文化開明的な考え方に反発し、王仁三郎は一時教団を離れることを余儀なくされ、その間に皇典講究所にて国学や水戸学を学び、彼が教団に戻ると、その教団の教義の中にはより国学色が強くなっていった。- 121
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2022-09-17 23:39:02
【神道シリーズ・シーズン3】(思想編)第30回・大本教(なおと王仁三郎との「火と水の戦い」)もともと出口なおの時代には、艮の金神のなおに対する憑依によりなおに書かせた筆先により、ありとあらゆる外国のやりかたに反対し、外国を真似たり媚びたりする態度を日本人がやめなければ日本は世界の戦争に巻き込まれ、世界とともに崩壊するという警告アピールであった。
なおの筆先は艮の金神のメッセージだとは言うが、それはまさに明治以降、西洋化近代化に日本全体が邁進する中で取り残され、見捨てられた底辺民衆たちは、新たに勃興してきた財閥や、その財閥と結託した政治家たちにより搾取され、使い捨てられ、その財閥・政治家たちは外国と結託し、自分たちの利益だけの為に弱者の立場を顧みず、まったく悪神に支配された世の中になってしまったと言う。
この世の中を立て直すためには、日本人はありとあらゆる外国由来のものを使うのを止め、本来の日本人の価値観の原点に戻るべきだという警告であった。
そしてその外国のやり方という言葉の中には、電気、鉄道、洋服、洋食などからマッチや漢字までもが含まれていた。 過激すぎると言うほど徹底した反近代主義、反文明主義である。
一方、なおと出会った王仁三郎は、本田霊学の鎮魂帰神法を始め、大石凝の弥勒菩薩降臨論や竹内文書の奇想天外な宇宙論や歴史観などを吸収しており、素朴な民衆の立場を代弁するなおと国学的な霊学的立場に立つ王仁三郎との間には相克があり、徹底的な反文明主義・反西洋主義に固執するなおや金光教出身の信者たちは王仁三郎の合理的な合法的宗教団体組織論のみならず、国学や古事記・日本書紀の神々と言った底辺庶民たちにとってはまったくなじみのないものを採り入れてくやり方がまさになおのいう「外国のやり方」に映り、反王仁三郎派の信者たちは王仁三郎を綾部から追放してしまった。
しかし、日露戦争を通じて世界は崩壊するというなおの予言は日本の勝利によって外れ、結果、ほとんどの信者たちはなおに失望して大本を去って行き、王仁三郎が綾部に戻ってくると、今度は王仁三郎のペースで大本再建は進み、いよいよ、大石凝によって王仁三郎に注入されていた弥勒菩薩降臨による世界救済論は大本の教義の中心を占めるようになり、その背景には、日本による世界征服こそ弥勒菩薩降臨の前提条件になるという弥勒革命論が拡大浸透し、それは、その後、軍人らの強い支持を集めると同時に政府や官憲の監視対象となり、やがて訪れる二度の大本大弾圧の原因ともなっていったのである。- 86
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2022-05-23 22:57:02
【神道シリーズ・シーズン3(思想編)】第15回・大国隆正と国家神道明治以降、平田篤胤の思想の影響を受けた者たちは、基本的に、人は死後、地球上の周りにある幽界という空間を霊魂となって彷徨い、体は風、火、土、金というエレメントになって循環し、やがてはそれに魂が宿り、人間は再生する、という道教的な死生観と、地球を創生したのは日本の神のイザナギとイザナミであるからして、日本の天皇が全世界の上に総主として君臨すべし、という超誇大妄想的天皇世界総主論だけは引き継ぐという傾向を共有していたが、本田親徳は、平田思想の中でも特に人と神霊とのコミュニケーションに興味を持ち、その研究と実践のほとんどは神霊の人間への憑依を目指すことに向けられた。
死者や動物や神仏の憑依は修験道や民間信仰の間にも古くからあったが、そうした憑依が可能なのは特定の能力を持った者か、あるいは神や仏や死者などから指名された特定の人物に限られていたが、本田は、誰でも一定の術式に従って行えば神霊の人への降臨・憑依は可能であるとした。
本田は、神憑りには36通りの在り方があると言ったが、それを大きく3つに分類して、霊がいきなり憑依する場合、一部の素質のある人が一人で神霊を呼び寄せる場合、そして本田が提唱した審神者と神主を通じて、たとえ能力者や偶然の邂逅でなくても意識的に神霊を呼び寄せ憑依させることが可能な鎮魂帰神法があり、本田は自ら開発したこの鎮魂帰神法を通じ、神の言葉を直接聞くという方法で古事記理解の正誤を確認するという作業を行い、「難古事記」という著作にまとめた。
それによると、人はみな神の子であり、直霊という正しい心の霊を持ち、勇気と調和と愛と探求の心を呼び出す荒魂、和魂、幸魂、奇魂という四つの魂を持っているとし、善を行えばこれらの魂の量は増え、悪を行えば減るとした。
儒教の魂観の擦り直しと見れないこともないが、とにかく、本田の神霊降臨術・鎮魂帰神法は、その後、弟子の
長澤雄盾を通じ、大本教の出口王仁三郎や大本教を経た神道天行居の友清歓真ら多数の平田系神道カルト教祖たちに伝えられ、明治以降、古神道を名乗る平田派神道系カルトの中核的思想となって行った。
本田の鎮魂帰神法を継いだ者たちは、鎮魂帰神法とともに平田篤胤の超誇大妄想とも言える
天皇世界総主論、つまり、地球上の世界を創ったのは日本の神だから天皇が世界を治めるべきだと言う部分を強く受け継いでおり、彼らが本田の鎮魂帰神法による神託を担保とし、彼らはますます狂信的に持論にのめり込み、それは世界恐慌後の社会不安が広がる中、その狂気は国民を戦争の時代へと引き込んでいくこととなったのである。- 70
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