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2024年6月14日 07時09分に生成された05時00分のデータです
2020-09-19 23:41:02
岩国市錦町 宇佐郷 平安末期勧請 宇佐八幡宮と宇佐の大杉群(県 天然記念物)令和二年訪問岩国市錦町宇佐にあるこの地の鎮守社。寂地峡近くにある神社で、自然観察路Aコースはここが入っている。この日は山間部は曇ったり晴れたりの天気。
由 緒
天仁元年1186年 鳥羽天皇の御代 この地の住人 常国太郎左衛門が豊前国宇佐八幡より勧請した。
神社で二度の遷座して花園天皇の頃び現在地に鎮座する。
神殿は江戸時代弘化年間 再建。
錦町(現岩国市重要文化財指定)室町時代の南蛮鉄灯篭も破損しているが神殿横に保存されています。
参拝は多分3回目くらい。
宇佐の大杉巨樹群=樹齢900年と推定される境内前の巨樹(樹高60m周囲7.5m)ほか大木が多くある。正和元年1312年この場所へ遷座した頃すでに大杉があったと言います。周囲は鬱蒼とした杉林である。山口県指定天然記念物。
宇佐の南蛮鉄灯篭=室町初期に藤原朝臣安信が鋳造したもので永享9年寄進されたもの。災害にて土中にあったものを掘り出したので破損しており笠部分と中台 基礎のみ残る。
県重要有形文化財。
宇佐郷へ行くには国道434号線を辿る
1 国道186号線で登り冠高原から松の木峠を下る。道はまあいいがカーブが多い。
2 国道187号線を走りR434へ入り宇佐川沿いを行く(今バイパス建設中のようでしたが、現在はすごい谷沿いの酷道的な箇所があるので車両に制限がある)大型車用の迂回路もあるみたいでしたが・・・。
寂地峡、五竜の滝=sm37527628- 84
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2020-08-17 07:58:02
福塩線沿線 延喜式内社 甘南備神社&素盞鳴神社 (Kannabi&Susanoo)広島県府中市 備後国の国府があった場所。
甘南備神社=雨乞いでも有名だった古社。相殿に龍王神を祀る。三室山山麓にあり和銅年間に出雲より勧請とも言われる。延喜式内社。三室山には当社の磐座があるようです。
山は昔は遊歩道が整備された様ですが登山した方のブログを拝見すると祠や道も今は荒れている様です。登るのは諦めました。
出口通りにあり石州街道が上下から坂根峠を越え甘南備神社前を通り、備後国府方面へに出る場所でこの名がある。
素盞鳴神社=福山市新市戸手にある。延喜式内社(備後国深津郡 須佐男袁能神社)旧戸手祇園社で 牛頭天王を祀りこの寺での本地仏は観音菩薩。早苗山天竜院天王寺(真言宗)とよばれた。明治後に 神社だけとなり現社号。
石鳥居には習合時代の阿闍梨の名が刻まれています。
釈日本紀にある備後風記逸文にいう疫隈の国社(えのくまのくにやしろ)と言われる(または、摂社の社殿右手にある蘇民社、疱瘡神社がそれであるとも言われる)
祇園信仰の寺社としてはかなり古い様です
一部字幕間違いあり = 素鳴盞神社×→素盞鳴神社 ○ が正しい。 記録は2018春 四月- 70
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2020-07-26 11:12:03
【広島県の神社巡り】安芸武田氏の佐東銀山城 北門の鎮護 宇那木神社 (Unaki Jinjya)鎌倉末期(佐東郡の銀山かなやまじょう城築城の頃)創建の模様で、安芸守護、分国守護などであった武田氏が甲州から勧請した神社。元は宇那木八幡宮と号していたようです。
御祭神=応神天皇 仲哀天皇 神功皇后
宇那木山に鎮座しておりこの山中には数基の古墳が現存する。
佐東郡は(もともと古代は佐伯郡と呼ばれたが平安末期に佐西郡と佐東郡に分かれた)後に沼田郡となり 近代になり安佐郡などと改編された。
JR可部線の七軒茶屋駅から程ないところにあり4〜500m程度離れている。現地は駐車場あり。
安芸武田氏ゆかりの神社である。
銀山城のある現・武田山までは車で20分くらいで山麓からは登山となる。なかなか急な山であるが眼下に太田川流域から厳島を望める景色は良い。二回ほど登りました。
古墳などもあり古代から開け。
中世の太田川流域の安芸の国支配の中心地だったようですが武田氏も守護職をおわれた。
戦国期には太田川流域の分郡守護であった武田氏も衰退し大内氏や尼子氏が勢力を伸ばしやがて毛利氏が台頭してくる。わずかに残る武田氏ゆかりの場所の一つなんですね。
2019( 令和元年 )冬 参拝。- 50
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2022-03-29 17:55:02
山御所「阿刀明神社」安芸国 楽音寺神明帳記載の古社 〜 令和三年初秋 〜 広島市安佐南区沼田町阿戸阿刀明神社 天保八年に古い阿刀神社と近くにあった宇豆八幡とが合祀された神社である。合祀後は社号を八幡宮と称したが、明治維新以後、旧名に復した。
春は桜もあり村の鎮守として昔ながら残された御社。
天保年間氏子により杉、ヒノキなど植樹された鎮守の森は広島市の天然記念物指定。
広島市安佐南区沼田町阿戸地区 旧戸山村と呼ばれた所(沼田郡阿戸村と吉山が合併していた)その後伴村などと合わさり沼田町〜広島市と合併し安佐南区沼田町に。
御祭神 主神=可美眞手命(ウマシマデノミコト) 天照大神 宗像三神 相殿=八幡神
古代には阿刀(あとう)氏の居住した土地でその祖神を祀る阿刀神社がもともとあった。その後天承年間(崇徳天皇の御代)大中臣権介正房により開拓された土地ということです(八幡神を祀ったのはこの一族らしいです)
境内社=大中神社と大年社、荒木社(社の右側の二小社)
阿刀氏は物部と同じ饒速日命を祖神とする氏族集団であるそうです。可美眞手命は饒速日の子神。
2020年以来 時々参拝に行きますが参道の石畳と社叢を背景にした社殿の見事さに惚れ惚れします。
戸山公民館で散策用のMap資料がおいてありいただけます。資料も少し置いてあった。
広島市 文化財HP,戸山散策マップ、wiki参照。和んだありがとう うぽつ 社殿もいいですね(^o^)
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2021-08-09 09:43:02
県道2号(天尾〜浅原線)沿い 【真夏の山里と古社の風景】〜亀尾川、程野、生見〜 山口県岩国市うPしなおした広島と山口県を通過する県道2号天尾〜浅原線を浅原方面〜走ってきた道道の記録。 田園と稲の緑、川、栗の実や真夏の山、雲や空のいい写真が撮れた。それで満足。
亀尾川=県境をこえてすぐにあるところ。江戸時代の山代街道にあり芸州と周防国の国境線で関所(番所)が設けられた。山深いところ。美和町秋掛。バス停の風景。
程野=さらに岩国方面へ走り秋掛を過ぎて、美和町北中山程野。生見川が流れる山里。程野八幡宮がある。生見八幡を勧請した社ほか村内で祀られた社を四社合祀した四社明神〜明治以後八幡宮(生見八幡の御旅所)〜戦後、法人格を取った神社となる。今回は境内からの風景と川と栗の画像。
生見八幡宮=県境をこえて美和町生見(ikimi)にある神社。生見川沿いにあり山を背にしている。社殿は拝殿は昭和の再建らしい。本殿が文化十年(江戸後期)再建で三間社流れ造。
拝殿の中に賽銭箱があり扉を開けて中で参拝する形式になっている。
由緒
貞観年間の創建で、都より藤原公忠が宇佐神宮に参籠し神霊を奉斎しての帰路、間道筋伝いのこの辺りを通過中に伊木見(いきみ)を通過し宿泊。その世の霊夢にてお告げありこの地へも分霊し祭神を祀ったことに始まる。八幡さまは神託なんかつきものですよね 以上山口県 神社庁HPを参照した 。- 42
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2021-08-17 12:28:02
臼山八幡神社と鎮守の森 2021年 初夏の風景 広島市佐伯区石内臼山八幡神社。広島市佐伯区に鎮座。コンパクトにBGMを追加し神社動画本編として編集した。
♪ 使用音楽=蓮の花。.*:+☆ゆったりヒーリング&鎮守の森 和風&アンビエントなピアノソロ~
(ニコニココモンズ のる様作) 神社や自然によく合う曲です ^^人 有難う。
解説
平安末期に始まり戦国時代厳島合戦の前まで 水晶ヶ城という大規模な山城があり厳島神主家 藤原氏や 大内氏の支配下にあったが厳島合戦前に毛利軍により落城後に廃城となった。城砦が大規模すぎて守るのに難しい故とも云われる。
旧社格は村社。八幡神を祀る。境内社=稲荷神社と新宮神社がある。
源平の頃 源範頼軍が影ともの道をとおり平家追討した時この城にて佐々木国正が平家方と戦ったらしい。武神として次第に信仰されていく。城は次第に拡張されていったのであろう。
戦国期には厳島神主家 藤原氏領〜大内氏支配下になり麻生右衛門が城主として赴任した時に、新たに社殿を造営したと伝わる。
城は山全体を城郭化した連郭式山城で相当規模が大きなものであった。今も山中に城跡が現存する。
令和3年初夏
鎮守の森繋がりで= この夏豪雨前 津田の大カヤ巨樹 sm39209336
字幕訂正 =大杉の巨木w 杉の巨木です 直すの忘れました。そう大過無いのでこのままに^^;- 32
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2021-08-06 08:42:02
【広島の神社】別表神社「 比治山神社 」〜七月七日 七夕 参拝〜 広島市南区比治山広島市南区にある「比治山神社」旧村社で現在=別表神社。比治山という71m程度の山の麓にある。
七夕の日、午後から梅雨の雨が止んだので参拝してきた記録。2回目の参拝。
昔に比べだいぶ境内は狭くなったようですがなかなか風情があるようでした。
社殿右側の池には水がなかった。
比治山はかつては広島湾の島であったが、戦国時代までには太田川のはこぶ土砂の堆積により陸地化していたという。
かつては山の南側にあり谷の名前から黄幡大明神と号されていた。正保三年三月現在地へ遷座した。昭和二十年米軍の国際法違反の原爆投下により社殿が壊滅し昭和二十九年再建された。
広島の市電5番 比治山下経由宇品行きの線路が社前を走る。昔はよく乗った路線。うぽつ~
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