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2024年6月12日 06時23分に生成された05時00分のデータです
2018-06-01 00:00:00
安藤礼二×大澤聡×杉田俊介×東浩紀「『現代日本の批評 1975-2016』再考——共同討議全3回完結記念」 【2017/1/13収録】@sat_osawa @sssugita @hazuma一般発売前からSNSなどで大きな話題を呼んだ『ゲンロン4』。この本で、『ゲンロン』創刊から3回にわたって行われた特集「現代日本の批評」がついに完結した。
1975年から2016年までの論壇を、ゲンロンはどのように評価したのか。そこで何が語られたのか。これから語るべきことは何か。本イベントでは、特集「現代日本の批評」をあらためて総括する。「現代日本の批評」の討論には参加していない批評家の安藤礼二と杉田俊介による、この特集に対する問題提起をうけて、大澤聡、東浩紀はどう答えるのか。ポスト「現代日本の批評」の批評はどうなっていくのか。現在の日本の批評を担う4人が、批評の歴史、そして現在と未来について、熱く議論を戦わす金曜の夜。
【イベントのページ】
http://genron-cafe.jp/event/20170113/批評を愛する人 安藤さんは孤高にやっているということ? 安藤さん、矛盾してる わからん ここまで現代日本の批評の話が、されているの? 安藤さん、ひたすら自分語りやなΣ(゜д゜lll) 13日の金曜日www えええええええええええええ あずまんのマイク小さい
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2018-05-01 00:00:00
大澤聡×山本貴光「ほんとうの本の読みかた——『百学連環』から知を再編成する」【2016/10/28収録】 @sat_osawa @yakumoizuruいまから約150年前に、西周(にしあまね)が私塾で行った講義の記録「百学連環」。そこでは、「百学」がいかに「連環」しあっているかを示す学術マップが描かれていた。山本貴光は、新著『「百学連環」を読む』で、明治の啓蒙知識人によるマップを丁寧に読み解き、現代のわたしたちのガイドとなる新しい地図を描いている。今回のイベントでは、「百学連環」を出発点に、山本貴光と批評家の大澤聡が現代の知のありかたを再考する。情報時代のわれわれはどのように思想を紡いでいくことができるか。博識で知られる二人は実際にどのように本を選び、読み、情報を整理しているのか。構造から実践まで、知へのアクセスを徹底的に語るイベント。 ■ このイベントのねらいは2本立てで構成されます。あくまで私(大澤)個人の頭のなかでのイメージですが。ひとつは、人文的な知の枠組をどのように再編成していけばよいのか、この壮大な問いに暫定的な解答を与えること。これはやや抽象度や専門性が高いかもしれません。うってかわって、もうひとつの方は、具体的でテクニカルなものです。「読む」とはいかなる営為なのか、サンプルとして登壇者のいわば舞台裏を開示し、それを方法化(ハウツー化)すること。この硬軟2つのミッションはじつは相互に密接に連関しています。その詳細は対話のなかでしだいに明らかになるはずです。山本貴光さんの『「百学連環」を読む』は、大学の外部で「知」や「思想」や「批評」のサルベージに邁進する、ここゲンロンカフェにもってこいの1冊ではないでしょうか。150年前の知の激変期にその生態を真摯に観察し、未来のあり方を提言した西周の思考の軌跡が透かし見えるわけですから。思うに、大学をはじめ今般の知的な領域に求められるのは、既存の諸領域を自己目的的に横断する企画力などではもはやありません。そんなものではなくて、ありえたかもしれない別の線引きを過去に遡行しては何度でもシミュレートしてみせる構想力でしょう。西周とそれを解読する山本さんは、その構想力の立ちあげに有効ないくつものヒントを示してくれています。しかし、本書のポイントはそこだけではない。読みはじめるとすぐに、「百学連環」の解読作業を進める山本さんの頭の働かせ方の軌跡を実況中継式に進行形で記録することで、“「読む」とはいかなる営為か”を読者に体感的に理解させることにも目的が設定されているとわかります(詳細は『週刊読書人』2016年9月30日号掲載の私の書評にゆずります)。読書や学習や調査に関するアドバイスや、考えるヒントが随所に埋め込まれていて、それらを繫ぎ読んでいけば、そこに本格的な教養論や読書術が浮びあがってきます。二重化したねらいをイベントに課したのはこのようなしだいです。山本貴光さんというまたとないガイドを得て、デジタル時代の読書術、たとえばリサーチ方法からメモの取り方まで、あるいは本の選び方なり、資料の整理の仕方なり、アイデアを拡張するコツなり、日ごろ気になってもなかなか他人に訊けないそのあたりの事情についても歴史を参看しつつ、じっくり検討していけたならば、みなさんにとってもどこか意義ある対話となるのではないか、そんなふうにいまは考えています。(大澤聡)
【イベントのページ】
http://genron-cafe.jp/event/20161028/擬似同期 俺も教室に通ったな 君の名は、みたい これぞ擬似同期 なるほろ
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2016-10-11 02:08:39
<1/6>大澤聡×岸政彦「『断片』と『批評』のあいだで——日常世界を記述するためのレッスン」【2016/3/24収録】 @sat_osawa @sociologbookぼくたちは自分が遭遇した出来事に「意味」づけをしては、納得したり、安堵したり、疲弊したりしながら日々をすごしています。その過程で「解釈」や「分析」を挿し挟まないではいられないし、ちょっと油断するとそこに「批評」めいたものを追加しようとすらしてしまうものです。話を盛りに盛り、オチらしきものを接木して「物語」に仕立てあげてしまうことだってある(社会の「物語化」の欲望が学問的に批判の対象になった時代もありました)。
けれど同時に、ぼくたちはそもそも上手く整序されない体験を無数に抱えているし、批評や物語や意味やを添付しないことには語ることができないのだとしたら、なかったことになってしまうものごとも世界には溢れている。ここを突破する回路をさまざまな書き手や研究者が思案してきたはずですが、もちろん方法が確定されているわけではありません。
昨年刊行された『断片的なものの社会学』(朝日出版社 http://amzn.to/1WuWl8R)で岸政彦さんは、過去に見聞きした出来事たちを思い出したように「断片」のままに、ときに文脈を与えぬまま、ごろっと置いておくスタイルをとりました。ひとつ前に出た『街の人生』(勁草書房 http://amzn.to/1Q4xlEM)は、5人の街の人びとへのインタビュー音源をほとんどそのまま文字に起こして収録した本です。これらにはたくさんのヒントが詰まっているとぼくには思えました。もちろん、学問上の意義だけではありません。日常生活のうえでのヒントとしてもそう。
今回のイベントでは、岸さんといっしょに、世界や日常を記述するための方法をめぐって、ざっくばらんに、ほんとうにざっくばらんに、お話しできればと思っています。
……
全文は以下のリンクからご覧ください。
「断片」と「批評」のあいだで | ゲンロンカフェ
http://genron-cafe.jp/event/20160324/本気で拗ねるのヤバい
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2016-10-11 02:19:05
<2/6>大澤聡×岸政彦「『断片』と『批評』のあいだで——日常世界を記述するためのレッスン」【2016/3/24収録】 @sat_osawa @sociologbookぼくたちは自分が遭遇した出来事に「意味」づけをしては、納得したり、安堵したり、疲弊したりしながら日々をすごしています。その過程で「解釈」や「分析」を挿し挟まないではいられないし、ちょっと油断するとそこに「批評」めいたものを追加しようとすらしてしまうものです。話を盛りに盛り、オチらしきものを接木して「物語」に仕立てあげてしまうことだってある(社会の「物語化」の欲望が学問的に批判の対象になった時代もありました)。
けれど同時に、ぼくたちはそもそも上手く整序されない体験を無数に抱えているし、批評や物語や意味やを添付しないことには語ることができないのだとしたら、なかったことになってしまうものごとも世界には溢れている。ここを突破する回路をさまざまな書き手や研究者が思案してきたはずですが、もちろん方法が確定されているわけではありません。
昨年刊行された『断片的なものの社会学』(朝日出版社 http://amzn.to/1WuWl8R)で岸政彦さんは、過去に見聞きした出来事たちを思い出したように「断片」のままに、ときに文脈を与えぬまま、ごろっと置いておくスタイルをとりました。ひとつ前に出た『街の人生』(勁草書房 http://amzn.to/1Q4xlEM)は、5人の街の人びとへのインタビュー音源をほとんどそのまま文字に起こして収録した本です。これらにはたくさんのヒントが詰まっているとぼくには思えました。もちろん、学問上の意義だけではありません。日常生活のうえでのヒントとしてもそう。
今回のイベントでは、岸さんといっしょに、世界や日常を記述するための方法をめぐって、ざっくばらんに、ほんとうにざっくばらんに、お話しできればと思っています。
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全文は以下のリンクからご覧ください。
「断片」と「批評」のあいだで | ゲンロンカフェ
http://genron-cafe.jp/event/20160324/- 529
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2018-05-01 00:00:00
渡部直己×大澤聡「批評という快楽——『日本批評大全』徹底解剖」【2017/3/3収録】 @sat_osawa2017年1月、批評家・渡部直己による『日本批評大全』(河出書房新社)が刊行された。上田秋成、本居宣長から蓮實重彦、柄谷行人まで、近現代の批評の珠玉の70編を集め、そのすべてに優れた解題が付された労作である。1776年から1980年までの200年から渡部が厳選した70編の批評文には、解題のみならず、それぞれ鍵となる一行が抜き書きされている。多面的に提示される批評の魅力に、読者は否応なく引き込まれてしまう。批評は病であるだけでなく、快楽でもあるのだ。日本の批評を味わうとはいったいどういうことなのか。『日本批評大全』の編著者渡部直己と、その刊行をサポートした大澤聡が、批評の愉しみを語り尽くす!
【イベントのページ】
http://genron-cafe.jp/event/20170303/- 465
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2019-10-01 00:00:00
大澤聡×仲正昌樹 「『ポスト・モダンの左旋回』のゆくえ――教養と理論の死をめぐる9年半越しの対話」 【四天王シリーズ #7】(2018/12/17収録)@sat_osawa【収録時のイベント概要】
「ぜひ呼んでほしい!」との視聴者からの熱烈なコメントがニコ生で何度か流れたことにおこたえして、仲正昌樹さんをお招きします。前回分のゲスト片山杜秀さんに引きつづいて、仲正さんもゲンロンカフェ初登場となります。ということは次回のゲストも……とフラグが立ちそうではありますが、それはさておき。
ちょっと個人的なことを記すと、僕がはじめて人前でトークイベントをしたのは2009年5月で、もう10年ちかく前になります。そのときのお相手がじつは仲正昌樹さんでした。僕は聞き手役として編集者のひとに指名されたわけです。イベントのタイトルは「学問の復権――人文主義と大学」(三省堂書店神保町本店)で、活字化したものが『教養主義復権論』(2010年)に収録されています。どんな会場の雰囲気だったのか、はたしてお客さんは盛り上がったのか、そのへんのことはすっかり忘れてしまいました(書斎のどこかにイベントの様子を記録したDVDがあるはず!)。ただ、個人的な関心にひきつけまくった若かった僕の問題提起にも、正面からじっくり時間を費やして応答してくださるその話しぶりが印象的で(おかげでそのあいだに僕は次の発言を練ることができたわけです)、緩急自在な一連の著書の舞台裏を垣間見たような気がしたのでした。今回の対談はそのとき以来、じつに9年半ぶり!ということになります。
さて、イベントは2部構成で考えています――片山杜秀さんの回とそこもあえて同じにしましたが、内容はもちろん異なります。
前半パートは「理論動向編」として、1990年代以降の諸学問の動向や「理論」の衰退をたどる予定です。『現代日本の批評』(2017、18年)をはじめいろいろなところで僕が参照例に持ち出してきた仲正さんの『ポスト・モダンの左旋回』(2002年/増補新版:2017年)の時代認識を復習しながら、あらためて90年代からゼロ年代にかけての日本の思想状況の展開を点検してみたいと思います。そこに、僕の『1990年代論』(2017年)を合流させることで、社会や文化のより広い文脈のなかで「ポスト・モダンの左旋回」の諸相を捉えなおしてみたい。というのも、このあたりに現在の思想的閉塞感の原因のいくらかは詰まっていると思うからです。
後半パートは「教養主義編」として、上記の『教養主義復権論』の続編を9年半越しに再開できたらと思っています。仲正さんは僕の『教養主義のリハビリテーション』(2018年)の特設サイトに書評を寄せてくださっているのですが、その末尾は「現場的教養」と「対話的教養」に引き付けるかたちで次のように結ばれています。「身体感覚を伴った知の実践経験が必要となる[…]。「教養」はそのための準備運動だ。私自身大学教員になってから、医療訴訟に関わったり、演劇制作に参加するなど、従来の専門からかなり遠い仕事をしているうちに、それを実感するようになった」。このあたりをフックに、最近のご関心を(なにせもう何年もお会いしていないので)お訊きできたらと考えています。できれば、こっそり仲正さんの“本の読み方”などもうかがえたらなと。
また、仲正さんの2冊の近著(...全文は下記リンクからご覧いただけます)
【イベントのページ】
https://genron-cafe.jp/event/20181217/- 367
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2018-09-01 00:00:00
五十嵐太郎×さやわか×大澤聡「メディア/都市/コンテンツ——『1990年代論』から考える」 @taroigarashi @someru @sat_osawa1990年代とはどんな時代だったのか?
批評家・大澤聡が編者となり、この8月に刊行された『1990年代論』。
当時青春時代を過ごした70年代・80年代生まれの世代の論者が、社会と文化の諸相を20のテーマから論じた、あたかも90年代百科事典のような本である。
90年代は日本の社会と文化にとって、どんな時代だったのか。それはどのような転機をもたらしたのか。
エヴァンゲリオン論や新興宗教建築論など、90年代文化にも多くの著作のある建築批評家の五十嵐太郎(1967年生まれ)、文化をオールラウンドに論じる批評家のさやわか(1974年生まれ)、そして『ゲンロン』の「現代日本の批評」シリーズでも大活躍の大澤聡(1978年生まれ)が、90年代を語り尽くす!
【イベントのページ】
http://genron-cafe.jp/event/20171006/ぬるいなこの議論 おれはアニメの話が聞けてうれしいよ 後半2時間がアニメの話になるのが残念だった。前半は良かった a
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2019-06-01 00:00:00
大澤聡×片山杜秀「『平成』の終わりに考える日本思想――教養主義、右翼思想、社会批評」【四天王シリーズ #4】 @sat_osawa【収録時のイベント概要】
平成が終わろうとしている。
激動の時代と言われる長い昭和を経て、1989年から始まった「平成」。
この間、日本思想は大きく変質した。
冷戦構造の崩壊後、1993年に55年体制は終焉を迎え、1996年に橋本内閣が成立すると、一挙に新自由主義がメインストリームに躍り出る。
1999年には「2ちゃんねる」が開設され、「ネトウヨ」と名指される新たな保守層が形成された。
しかしこれらの変化は、明治に始まる近代日本の帰結であることを見逃してはならない。
『近代日本の右翼思想』『未完のファシズム』などの著作で、戦前の右翼思想を鮮やかに読み解き、佐藤優との共著『平成史』ではこれらの知見を踏まえながら、平成日本の本質を解き明かした片山杜秀。
著書『批評メディア論』で戦前の文壇を徹底分析し、日本における「論壇」や「批評」の条件を明らかにすると、新著『教養主義のリハビリテーション』では、読書の習慣が喪失し、歴史感覚が失われていくなかで、いかに教養主義を現代に甦らせうるかを説いた大澤聡。
膨大な文献研究を通して、近代から現在までを一貫したパースペクティブで読み解いてきた2人の論客が、「平成」が終わろうとするいま、あらためて日本思想の軌跡と行く末を語る。
新たな元号を迎えるために必聴の対談。
【イベントのページ】
https://genron-cafe.jp/event/20180928/- 298
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2016-10-11 02:16:57
<4/6>大澤聡×岸政彦「『断片』と『批評』のあいだで——日常世界を記述するためのレッスン」【2016/3/24収録】 @sat_osawa @sociologbookぼくたちは自分が遭遇した出来事に「意味」づけをしては、納得したり、安堵したり、疲弊したりしながら日々をすごしています。その過程で「解釈」や「分析」を挿し挟まないではいられないし、ちょっと油断するとそこに「批評」めいたものを追加しようとすらしてしまうものです。話を盛りに盛り、オチらしきものを接木して「物語」に仕立てあげてしまうことだってある(社会の「物語化」の欲望が学問的に批判の対象になった時代もありました)。
けれど同時に、ぼくたちはそもそも上手く整序されない体験を無数に抱えているし、批評や物語や意味やを添付しないことには語ることができないのだとしたら、なかったことになってしまうものごとも世界には溢れている。ここを突破する回路をさまざまな書き手や研究者が思案してきたはずですが、もちろん方法が確定されているわけではありません。
昨年刊行された『断片的なものの社会学』(朝日出版社 http://amzn.to/1WuWl8R)で岸政彦さんは、過去に見聞きした出来事たちを思い出したように「断片」のままに、ときに文脈を与えぬまま、ごろっと置いておくスタイルをとりました。ひとつ前に出た『街の人生』(勁草書房 http://amzn.to/1Q4xlEM)は、5人の街の人びとへのインタビュー音源をほとんどそのまま文字に起こして収録した本です。これらにはたくさんのヒントが詰まっているとぼくには思えました。もちろん、学問上の意義だけではありません。日常生活のうえでのヒントとしてもそう。
今回のイベントでは、岸さんといっしょに、世界や日常を記述するための方法をめぐって、ざっくばらんに、ほんとうにざっくばらんに、お話しできればと思っています。
……
全文は以下のリンクからご覧ください。
「断片」と「批評」のあいだで | ゲンロンカフェ
http://genron-cafe.jp/event/20160324/- 287
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2016-10-11 02:26:40
<3/6>大澤聡×岸政彦「『断片』と『批評』のあいだで——日常世界を記述するためのレッスン」【2016/3/24収録】 @sat_osawa @sociologbookぼくたちは自分が遭遇した出来事に「意味」づけをしては、納得したり、安堵したり、疲弊したりしながら日々をすごしています。その過程で「解釈」や「分析」を挿し挟まないではいられないし、ちょっと油断するとそこに「批評」めいたものを追加しようとすらしてしまうものです。話を盛りに盛り、オチらしきものを接木して「物語」に仕立てあげてしまうことだってある(社会の「物語化」の欲望が学問的に批判の対象になった時代もありました)。
けれど同時に、ぼくたちはそもそも上手く整序されない体験を無数に抱えているし、批評や物語や意味やを添付しないことには語ることができないのだとしたら、なかったことになってしまうものごとも世界には溢れている。ここを突破する回路をさまざまな書き手や研究者が思案してきたはずですが、もちろん方法が確定されているわけではありません。
昨年刊行された『断片的なものの社会学』(朝日出版社 http://amzn.to/1WuWl8R)で岸政彦さんは、過去に見聞きした出来事たちを思い出したように「断片」のままに、ときに文脈を与えぬまま、ごろっと置いておくスタイルをとりました。ひとつ前に出た『街の人生』(勁草書房 http://amzn.to/1Q4xlEM)は、5人の街の人びとへのインタビュー音源をほとんどそのまま文字に起こして収録した本です。これらにはたくさんのヒントが詰まっているとぼくには思えました。もちろん、学問上の意義だけではありません。日常生活のうえでのヒントとしてもそう。
今回のイベントでは、岸さんといっしょに、世界や日常を記述するための方法をめぐって、ざっくばらんに、ほんとうにざっくばらんに、お話しできればと思っています。
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2016-10-11 02:17:58
<6/6>大澤聡×岸政彦「『断片』と『批評』のあいだで——日常世界を記述するためのレッスン」【2016/3/24収録】 @sat_osawa @sociologbookぼくたちは自分が遭遇した出来事に「意味」づけをしては、納得したり、安堵したり、疲弊したりしながら日々をすごしています。その過程で「解釈」や「分析」を挿し挟まないではいられないし、ちょっと油断するとそこに「批評」めいたものを追加しようとすらしてしまうものです。話を盛りに盛り、オチらしきものを接木して「物語」に仕立てあげてしまうことだってある(社会の「物語化」の欲望が学問的に批判の対象になった時代もありました)。
けれど同時に、ぼくたちはそもそも上手く整序されない体験を無数に抱えているし、批評や物語や意味やを添付しないことには語ることができないのだとしたら、なかったことになってしまうものごとも世界には溢れている。ここを突破する回路をさまざまな書き手や研究者が思案してきたはずですが、もちろん方法が確定されているわけではありません。
昨年刊行された『断片的なものの社会学』(朝日出版社 http://amzn.to/1WuWl8R)で岸政彦さんは、過去に見聞きした出来事たちを思い出したように「断片」のままに、ときに文脈を与えぬまま、ごろっと置いておくスタイルをとりました。ひとつ前に出た『街の人生』(勁草書房 http://amzn.to/1Q4xlEM)は、5人の街の人びとへのインタビュー音源をほとんどそのまま文字に起こして収録した本です。これらにはたくさんのヒントが詰まっているとぼくには思えました。もちろん、学問上の意義だけではありません。日常生活のうえでのヒントとしてもそう。
今回のイベントでは、岸さんといっしょに、世界や日常を記述するための方法をめぐって、ざっくばらんに、ほんとうにざっくばらんに、お話しできればと思っています。
……
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2016-10-11 02:17:29
<5/6>大澤聡×岸政彦「『断片』と『批評』のあいだで——日常世界を記述するためのレッスン」【2016/3/24収録】 @sat_osawa @sociologbookぼくたちは自分が遭遇した出来事に「意味」づけをしては、納得したり、安堵したり、疲弊したりしながら日々をすごしています。その過程で「解釈」や「分析」を挿し挟まないではいられないし、ちょっと油断するとそこに「批評」めいたものを追加しようとすらしてしまうものです。話を盛りに盛り、オチらしきものを接木して「物語」に仕立てあげてしまうことだってある(社会の「物語化」の欲望が学問的に批判の対象になった時代もありました)。
けれど同時に、ぼくたちはそもそも上手く整序されない体験を無数に抱えているし、批評や物語や意味やを添付しないことには語ることができないのだとしたら、なかったことになってしまうものごとも世界には溢れている。ここを突破する回路をさまざまな書き手や研究者が思案してきたはずですが、もちろん方法が確定されているわけではありません。
昨年刊行された『断片的なものの社会学』(朝日出版社 http://amzn.to/1WuWl8R)で岸政彦さんは、過去に見聞きした出来事たちを思い出したように「断片」のままに、ときに文脈を与えぬまま、ごろっと置いておくスタイルをとりました。ひとつ前に出た『街の人生』(勁草書房 http://amzn.to/1Q4xlEM)は、5人の街の人びとへのインタビュー音源をほとんどそのまま文字に起こして収録した本です。これらにはたくさんのヒントが詰まっているとぼくには思えました。もちろん、学問上の意義だけではありません。日常生活のうえでのヒントとしてもそう。
今回のイベントでは、岸さんといっしょに、世界や日常を記述するための方法をめぐって、ざっくばらんに、ほんとうにざっくばらんに、お話しできればと思っています。
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全文は以下のリンクからご覧ください。
「断片」と「批評」のあいだで | ゲンロンカフェ
http://genron-cafe.jp/event/20160324/- 270
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2015-12-01 00:00:00
(1/5)大澤聡×加藤賢策×山本貴光「思想とデザイン──『アイデア』No.370刊行記念トークショー」【2015/8/7収録】 @sat_osawa @katokensaku @yakumoizuru読んだ雑誌を思い起こすとき、文面・文体や内容だけが思い浮かぶものもあれば、表紙や扉、フォント、紙質、余白のかもし出す空気感まで蘇ってくることもある。思想そのものに形はないが、私たちは各時代のそれを、雑誌という姿で今も手に取ることができる。
ページを開けば、そこには情報だけでなく、当時の時代性、空気感、熱気のようなものが濃厚に閉じ込められている。それは編集者や作家、思想家、デザイナーによる絶え間ない試行錯誤の結果であり、各者がページの上でせめぎ合った闘いの結果でもある。
『IDEA No.370 : 思想とデザイン』は、1960年代以降の思想誌の歴史をデザインを軸に、ビジュアルと編集で見せた、画期的特集である。
『思潮』『思想』『現代思想』『試行』『思想の科学』『批評空間』…
大胆なデザインを取り入れた『パイデイア』『遊』『エピステーメー』『GS』『週刊本』
名前を聴くだけで知的好奇心に胸がざわめくような雑誌の数々。また、それ自体も雑誌である本誌のビジュアルそのものが、60年代以降のデザインの成果を、ある意味で総括して見せているとも言える。
印刷製版にコンピューターが導入された1960年代以降、雑誌の「見た目」は大きな変化を遂げた。80年代以降、DTP技術はAdobeとMacintoshの登場によってさらに革新され、今や世界中のほとんどの雑誌がAdobeで作られていると言っていい。
エディトリアルデザインに次なる革新は来るのか。そもそもこの先、紙束の雑誌という形態にまだ未来はあるのか。
古代から現代に至る出版史の大きな流れも視野に入れつつ、編集者、デザイナー、批評家、研究者というそれぞれの立場から、過去と未来の「雑誌」を考える、ビジュアル満載、創造的トークショー。111111111111111111111111111111111111111111
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2016-09-01 00:00:00
〈1/7〉大澤聡×加藤賢策×山本貴光「思想とデザイン——『アイデア』No.370刊行記念トークショー」【2015/8/7収録】 @sat_osawa @katokensaku @yakumoizuru読んだ雑誌を思い起こすとき、文面・文体や内容だけが思い浮かぶものもあれば、表紙や扉、フォント、紙質、余白のかもし出す空気感まで蘇ってくることもある。思想そのものに形はないが、私たちは各時代のそれを、雑誌という姿で今も手に取ることができる。ページを開けば、そこには情報だけでなく、当時の時代性、空気感、熱気のようなものが濃厚に閉じ込められている。それは編集者や作家、思想家、デザイナーによる絶え間ない試行錯誤の結果であり、各者がページの上でせめぎ合った闘いの結果でもある。『IDEA No.370 : 思想とデザイン』は、1960年代以降の思想誌の歴史をデザインを軸に、ビジュアルと編集で見せた、画期的特集である。『思潮』『思想』『現代思想』『試行』『思想の科学』『批評空間』…大胆なデザインを取り入れた『パイデイア』『遊』『エピステーメー』『GS』『週刊本』名前を聴くだけで知的好奇心に胸がざわめくような雑誌の数々。また、それ自体も雑誌である本誌のビジュアルそのものが、60年代以降のデザインの成果を、ある意味で総括して見せているとも言える。印刷製版にコンピューターが導入された1960年代以降、雑誌の「見た目」は大きな変化を遂げた。80年代以降、DTP技術はAdobeとMacintoshの登場によってさらに革新され、今や世界中のほとんどの雑誌がAdobeで作られていると言っていい。エディトリアルデザインに次なる革新は来るのか。そもそもこの先、紙束の雑誌という形態にまだ未来はあるのか。古代から現代に至る出版史の大きな流れも視野に入れつつ、編集者、デザイナー、批評家、研究者というそれぞれの立場から、過去と未来の「雑誌」を考える、ビジュアル満載、創造的トークショー。
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(2/5)大澤聡×加藤賢策×山本貴光「思想とデザイン──『アイデア』No.370刊行記念トークショー」【2015/8/7収録】 @sat_osawa @katokensaku @yakumoizuru読んだ雑誌を思い起こすとき、文面・文体や内容だけが思い浮かぶものもあれば、表紙や扉、フォント、紙質、余白のかもし出す空気感まで蘇ってくることもある。思想そのものに形はないが、私たちは各時代のそれを、雑誌という姿で今も手に取ることができる。
ページを開けば、そこには情報だけでなく、当時の時代性、空気感、熱気のようなものが濃厚に閉じ込められている。それは編集者や作家、思想家、デザイナーによる絶え間ない試行錯誤の結果であり、各者がページの上でせめぎ合った闘いの結果でもある。
『IDEA No.370 : 思想とデザイン』は、1960年代以降の思想誌の歴史をデザインを軸に、ビジュアルと編集で見せた、画期的特集である。
『思潮』『思想』『現代思想』『試行』『思想の科学』『批評空間』…
大胆なデザインを取り入れた『パイデイア』『遊』『エピステーメー』『GS』『週刊本』
名前を聴くだけで知的好奇心に胸がざわめくような雑誌の数々。また、それ自体も雑誌である本誌のビジュアルそのものが、60年代以降のデザインの成果を、ある意味で総括して見せているとも言える。
印刷製版にコンピューターが導入された1960年代以降、雑誌の「見た目」は大きな変化を遂げた。80年代以降、DTP技術はAdobeとMacintoshの登場によってさらに革新され、今や世界中のほとんどの雑誌がAdobeで作られていると言っていい。
エディトリアルデザインに次なる革新は来るのか。そもそもこの先、紙束の雑誌という形態にまだ未来はあるのか。
古代から現代に至る出版史の大きな流れも視野に入れつつ、編集者、デザイナー、批評家、研究者というそれぞれの立場から、過去と未来の「雑誌」を考える、ビジュアル満載、創造的トークショー。- 164
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2015-12-01 00:00:00
(3/5)大澤聡×加藤賢策×山本貴光「思想とデザイン──『アイデア』No.370刊行記念トークショー」【2015/8/7収録】 @sat_osawa @katokensaku @yakumoizuru読んだ雑誌を思い起こすとき、文面・文体や内容だけが思い浮かぶものもあれば、表紙や扉、フォント、紙質、余白のかもし出す空気感まで蘇ってくることもある。思想そのものに形はないが、私たちは各時代のそれを、雑誌という姿で今も手に取ることができる。
ページを開けば、そこには情報だけでなく、当時の時代性、空気感、熱気のようなものが濃厚に閉じ込められている。それは編集者や作家、思想家、デザイナーによる絶え間ない試行錯誤の結果であり、各者がページの上でせめぎ合った闘いの結果でもある。
『IDEA No.370 : 思想とデザイン』は、1960年代以降の思想誌の歴史をデザインを軸に、ビジュアルと編集で見せた、画期的特集である。
『思潮』『思想』『現代思想』『試行』『思想の科学』『批評空間』…
大胆なデザインを取り入れた『パイデイア』『遊』『エピステーメー』『GS』『週刊本』
名前を聴くだけで知的好奇心に胸がざわめくような雑誌の数々。また、それ自体も雑誌である本誌のビジュアルそのものが、60年代以降のデザインの成果を、ある意味で総括して見せているとも言える。
印刷製版にコンピューターが導入された1960年代以降、雑誌の「見た目」は大きな変化を遂げた。80年代以降、DTP技術はAdobeとMacintoshの登場によってさらに革新され、今や世界中のほとんどの雑誌がAdobeで作られていると言っていい。
エディトリアルデザインに次なる革新は来るのか。そもそもこの先、紙束の雑誌という形態にまだ未来はあるのか。
古代から現代に至る出版史の大きな流れも視野に入れつつ、編集者、デザイナー、批評家、研究者というそれぞれの立場から、過去と未来の「雑誌」を考える、ビジュアル満載、創造的トークショー。- 154
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2016-09-01 00:00:00
〈2/7〉大澤聡×加藤賢策×山本貴光「思想とデザイン——『アイデア』No.370刊行記念トークショー」【2015/8/7収録】 @sat_osawa @katokensaku @yakumoizuru読んだ雑誌を思い起こすとき、文面・文体や内容だけが思い浮かぶものもあれば、表紙や扉、フォント、紙質、余白のかもし出す空気感まで蘇ってくることもある。思想そのものに形はないが、私たちは各時代のそれを、雑誌という姿で今も手に取ることができる。ページを開けば、そこには情報だけでなく、当時の時代性、空気感、熱気のようなものが濃厚に閉じ込められている。それは編集者や作家、思想家、デザイナーによる絶え間ない試行錯誤の結果であり、各者がページの上でせめぎ合った闘いの結果でもある。『IDEA No.370 : 思想とデザイン』は、1960年代以降の思想誌の歴史をデザインを軸に、ビジュアルと編集で見せた、画期的特集である。『思潮』『思想』『現代思想』『試行』『思想の科学』『批評空間』…大胆なデザインを取り入れた『パイデイア』『遊』『エピステーメー』『GS』『週刊本』名前を聴くだけで知的好奇心に胸がざわめくような雑誌の数々。また、それ自体も雑誌である本誌のビジュアルそのものが、60年代以降のデザインの成果を、ある意味で総括して見せているとも言える。印刷製版にコンピューターが導入された1960年代以降、雑誌の「見た目」は大きな変化を遂げた。80年代以降、DTP技術はAdobeとMacintoshの登場によってさらに革新され、今や世界中のほとんどの雑誌がAdobeで作られていると言っていい。エディトリアルデザインに次なる革新は来るのか。そもそもこの先、紙束の雑誌という形態にまだ未来はあるのか。古代から現代に至る出版史の大きな流れも視野に入れつつ、編集者、デザイナー、批評家、研究者というそれぞれの立場から、過去と未来の「雑誌」を考える、ビジュアル満載、創造的トークショー。
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(5/5)大澤聡×加藤賢策×山本貴光「思想とデザイン──『アイデア』No.370刊行記念トークショー」【2015/8/7収録】 @sat_osawa @katokensaku @yakumoizuru読んだ雑誌を思い起こすとき、文面・文体や内容だけが思い浮かぶものもあれば、表紙や扉、フォント、紙質、余白のかもし出す空気感まで蘇ってくることもある。思想そのものに形はないが、私たちは各時代のそれを、雑誌という姿で今も手に取ることができる。
ページを開けば、そこには情報だけでなく、当時の時代性、空気感、熱気のようなものが濃厚に閉じ込められている。それは編集者や作家、思想家、デザイナーによる絶え間ない試行錯誤の結果であり、各者がページの上でせめぎ合った闘いの結果でもある。
『IDEA No.370 : 思想とデザイン』は、1960年代以降の思想誌の歴史をデザインを軸に、ビジュアルと編集で見せた、画期的特集である。
『思潮』『思想』『現代思想』『試行』『思想の科学』『批評空間』…
大胆なデザインを取り入れた『パイデイア』『遊』『エピステーメー』『GS』『週刊本』
名前を聴くだけで知的好奇心に胸がざわめくような雑誌の数々。また、それ自体も雑誌である本誌のビジュアルそのものが、60年代以降のデザインの成果を、ある意味で総括して見せているとも言える。
印刷製版にコンピューターが導入された1960年代以降、雑誌の「見た目」は大きな変化を遂げた。80年代以降、DTP技術はAdobeとMacintoshの登場によってさらに革新され、今や世界中のほとんどの雑誌がAdobeで作られていると言っていい。
エディトリアルデザインに次なる革新は来るのか。そもそもこの先、紙束の雑誌という形態にまだ未来はあるのか。
古代から現代に至る出版史の大きな流れも視野に入れつつ、編集者、デザイナー、批評家、研究者というそれぞれの立場から、過去と未来の「雑誌」を考える、ビジュアル満載、創造的トークショー。- 122
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(4/5)大澤聡×加藤賢策×山本貴光「思想とデザイン──『アイデア』No.370刊行記念トークショー」【2015/8/7収録】 @sat_osawa @katokensaku @yakumoizuru読んだ雑誌を思い起こすとき、文面・文体や内容だけが思い浮かぶものもあれば、表紙や扉、フォント、紙質、余白のかもし出す空気感まで蘇ってくることもある。思想そのものに形はないが、私たちは各時代のそれを、雑誌という姿で今も手に取ることができる。
ページを開けば、そこには情報だけでなく、当時の時代性、空気感、熱気のようなものが濃厚に閉じ込められている。それは編集者や作家、思想家、デザイナーによる絶え間ない試行錯誤の結果であり、各者がページの上でせめぎ合った闘いの結果でもある。
『IDEA No.370 : 思想とデザイン』は、1960年代以降の思想誌の歴史をデザインを軸に、ビジュアルと編集で見せた、画期的特集である。
『思潮』『思想』『現代思想』『試行』『思想の科学』『批評空間』…
大胆なデザインを取り入れた『パイデイア』『遊』『エピステーメー』『GS』『週刊本』
名前を聴くだけで知的好奇心に胸がざわめくような雑誌の数々。また、それ自体も雑誌である本誌のビジュアルそのものが、60年代以降のデザインの成果を、ある意味で総括して見せているとも言える。
印刷製版にコンピューターが導入された1960年代以降、雑誌の「見た目」は大きな変化を遂げた。80年代以降、DTP技術はAdobeとMacintoshの登場によってさらに革新され、今や世界中のほとんどの雑誌がAdobeで作られていると言っていい。
エディトリアルデザインに次なる革新は来るのか。そもそもこの先、紙束の雑誌という形態にまだ未来はあるのか。
古代から現代に至る出版史の大きな流れも視野に入れつつ、編集者、デザイナー、批評家、研究者というそれぞれの立場から、過去と未来の「雑誌」を考える、ビジュアル満載、創造的トークショー。- 119
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2016-09-01 00:00:00
〈3/7〉大澤聡×加藤賢策×山本貴光「思想とデザイン——『アイデア』No.370刊行記念トークショー」【2015/8/7収録】 @sat_osawa @katokensaku @yakumoizuru読んだ雑誌を思い起こすとき、文面・文体や内容だけが思い浮かぶものもあれば、表紙や扉、フォント、紙質、余白のかもし出す空気感まで蘇ってくることもある。思想そのものに形はないが、私たちは各時代のそれを、雑誌という姿で今も手に取ることができる。ページを開けば、そこには情報だけでなく、当時の時代性、空気感、熱気のようなものが濃厚に閉じ込められている。それは編集者や作家、思想家、デザイナーによる絶え間ない試行錯誤の結果であり、各者がページの上でせめぎ合った闘いの結果でもある。『IDEA No.370 : 思想とデザイン』は、1960年代以降の思想誌の歴史をデザインを軸に、ビジュアルと編集で見せた、画期的特集である。『思潮』『思想』『現代思想』『試行』『思想の科学』『批評空間』…大胆なデザインを取り入れた『パイデイア』『遊』『エピステーメー』『GS』『週刊本』名前を聴くだけで知的好奇心に胸がざわめくような雑誌の数々。また、それ自体も雑誌である本誌のビジュアルそのものが、60年代以降のデザインの成果を、ある意味で総括して見せているとも言える。印刷製版にコンピューターが導入された1960年代以降、雑誌の「見た目」は大きな変化を遂げた。80年代以降、DTP技術はAdobeとMacintoshの登場によってさらに革新され、今や世界中のほとんどの雑誌がAdobeで作られていると言っていい。エディトリアルデザインに次なる革新は来るのか。そもそもこの先、紙束の雑誌という形態にまだ未来はあるのか。古代から現代に至る出版史の大きな流れも視野に入れつつ、編集者、デザイナー、批評家、研究者というそれぞれの立場から、過去と未来の「雑誌」を考える、ビジュアル満載、創造的トークショー。
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2016-09-01 00:00:00
〈4/7〉大澤聡×加藤賢策×山本貴光「思想とデザイン——『アイデア』No.370刊行記念トークショー」【2015/8/7収録】 @sat_osawa @katokensaku @yakumoizuru読んだ雑誌を思い起こすとき、文面・文体や内容だけが思い浮かぶものもあれば、表紙や扉、フォント、紙質、余白のかもし出す空気感まで蘇ってくることもある。思想そのものに形はないが、私たちは各時代のそれを、雑誌という姿で今も手に取ることができる。ページを開けば、そこには情報だけでなく、当時の時代性、空気感、熱気のようなものが濃厚に閉じ込められている。それは編集者や作家、思想家、デザイナーによる絶え間ない試行錯誤の結果であり、各者がページの上でせめぎ合った闘いの結果でもある。『IDEA No.370 : 思想とデザイン』は、1960年代以降の思想誌の歴史をデザインを軸に、ビジュアルと編集で見せた、画期的特集である。『思潮』『思想』『現代思想』『試行』『思想の科学』『批評空間』…大胆なデザインを取り入れた『パイデイア』『遊』『エピステーメー』『GS』『週刊本』名前を聴くだけで知的好奇心に胸がざわめくような雑誌の数々。また、それ自体も雑誌である本誌のビジュアルそのものが、60年代以降のデザインの成果を、ある意味で総括して見せているとも言える。印刷製版にコンピューターが導入された1960年代以降、雑誌の「見た目」は大きな変化を遂げた。80年代以降、DTP技術はAdobeとMacintoshの登場によってさらに革新され、今や世界中のほとんどの雑誌がAdobeで作られていると言っていい。エディトリアルデザインに次なる革新は来るのか。そもそもこの先、紙束の雑誌という形態にまだ未来はあるのか。古代から現代に至る出版史の大きな流れも視野に入れつつ、編集者、デザイナー、批評家、研究者というそれぞれの立場から、過去と未来の「雑誌」を考える、ビジュアル満載、創造的トークショー。
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〈5/7〉大澤聡×加藤賢策×山本貴光「思想とデザイン——『アイデア』No.370刊行記念トークショー」【2015/8/7収録】 @sat_osawa @katokensaku @yakumoizuru読んだ雑誌を思い起こすとき、文面・文体や内容だけが思い浮かぶものもあれば、表紙や扉、フォント、紙質、余白のかもし出す空気感まで蘇ってくることもある。思想そのものに形はないが、私たちは各時代のそれを、雑誌という姿で今も手に取ることができる。ページを開けば、そこには情報だけでなく、当時の時代性、空気感、熱気のようなものが濃厚に閉じ込められている。それは編集者や作家、思想家、デザイナーによる絶え間ない試行錯誤の結果であり、各者がページの上でせめぎ合った闘いの結果でもある。『IDEA No.370 : 思想とデザイン』は、1960年代以降の思想誌の歴史をデザインを軸に、ビジュアルと編集で見せた、画期的特集である。『思潮』『思想』『現代思想』『試行』『思想の科学』『批評空間』…大胆なデザインを取り入れた『パイデイア』『遊』『エピステーメー』『GS』『週刊本』名前を聴くだけで知的好奇心に胸がざわめくような雑誌の数々。また、それ自体も雑誌である本誌のビジュアルそのものが、60年代以降のデザインの成果を、ある意味で総括して見せているとも言える。印刷製版にコンピューターが導入された1960年代以降、雑誌の「見た目」は大きな変化を遂げた。80年代以降、DTP技術はAdobeとMacintoshの登場によってさらに革新され、今や世界中のほとんどの雑誌がAdobeで作られていると言っていい。エディトリアルデザインに次なる革新は来るのか。そもそもこの先、紙束の雑誌という形態にまだ未来はあるのか。古代から現代に至る出版史の大きな流れも視野に入れつつ、編集者、デザイナー、批評家、研究者というそれぞれの立場から、過去と未来の「雑誌」を考える、ビジュアル満載、創造的トークショー。
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〈7/7〉大澤聡×加藤賢策×山本貴光「思想とデザイン——『アイデア』No.370刊行記念トークショー」【2015/8/7収録】 @sat_osawa @katokensaku @yakumoizuru読んだ雑誌を思い起こすとき、文面・文体や内容だけが思い浮かぶものもあれば、表紙や扉、フォント、紙質、余白のかもし出す空気感まで蘇ってくることもある。思想そのものに形はないが、私たちは各時代のそれを、雑誌という姿で今も手に取ることができる。ページを開けば、そこには情報だけでなく、当時の時代性、空気感、熱気のようなものが濃厚に閉じ込められている。それは編集者や作家、思想家、デザイナーによる絶え間ない試行錯誤の結果であり、各者がページの上でせめぎ合った闘いの結果でもある。『IDEA No.370 : 思想とデザイン』は、1960年代以降の思想誌の歴史をデザインを軸に、ビジュアルと編集で見せた、画期的特集である。『思潮』『思想』『現代思想』『試行』『思想の科学』『批評空間』…大胆なデザインを取り入れた『パイデイア』『遊』『エピステーメー』『GS』『週刊本』名前を聴くだけで知的好奇心に胸がざわめくような雑誌の数々。また、それ自体も雑誌である本誌のビジュアルそのものが、60年代以降のデザインの成果を、ある意味で総括して見せているとも言える。印刷製版にコンピューターが導入された1960年代以降、雑誌の「見た目」は大きな変化を遂げた。80年代以降、DTP技術はAdobeとMacintoshの登場によってさらに革新され、今や世界中のほとんどの雑誌がAdobeで作られていると言っていい。エディトリアルデザインに次なる革新は来るのか。そもそもこの先、紙束の雑誌という形態にまだ未来はあるのか。古代から現代に至る出版史の大きな流れも視野に入れつつ、編集者、デザイナー、批評家、研究者というそれぞれの立場から、過去と未来の「雑誌」を考える、ビジュアル満載、創造的トークショー。
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〈6/7〉大澤聡×加藤賢策×山本貴光「思想とデザイン——『アイデア』No.370刊行記念トークショー」【2015/8/7収録】 @sat_osawa @katokensaku @yakumoizuru読んだ雑誌を思い起こすとき、文面・文体や内容だけが思い浮かぶものもあれば、表紙や扉、フォント、紙質、余白のかもし出す空気感まで蘇ってくることもある。思想そのものに形はないが、私たちは各時代のそれを、雑誌という姿で今も手に取ることができる。ページを開けば、そこには情報だけでなく、当時の時代性、空気感、熱気のようなものが濃厚に閉じ込められている。それは編集者や作家、思想家、デザイナーによる絶え間ない試行錯誤の結果であり、各者がページの上でせめぎ合った闘いの結果でもある。『IDEA No.370 : 思想とデザイン』は、1960年代以降の思想誌の歴史をデザインを軸に、ビジュアルと編集で見せた、画期的特集である。『思潮』『思想』『現代思想』『試行』『思想の科学』『批評空間』…大胆なデザインを取り入れた『パイデイア』『遊』『エピステーメー』『GS』『週刊本』名前を聴くだけで知的好奇心に胸がざわめくような雑誌の数々。また、それ自体も雑誌である本誌のビジュアルそのものが、60年代以降のデザインの成果を、ある意味で総括して見せているとも言える。印刷製版にコンピューターが導入された1960年代以降、雑誌の「見た目」は大きな変化を遂げた。80年代以降、DTP技術はAdobeとMacintoshの登場によってさらに革新され、今や世界中のほとんどの雑誌がAdobeで作られていると言っていい。エディトリアルデザインに次なる革新は来るのか。そもそもこの先、紙束の雑誌という形態にまだ未来はあるのか。古代から現代に至る出版史の大きな流れも視野に入れつつ、編集者、デザイナー、批評家、研究者というそれぞれの立場から、過去と未来の「雑誌」を考える、ビジュアル満載、創造的トークショー。
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