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2024年6月8日 06時21分に生成された05時00分のデータです
2019-08-20 11:18:02
戦国大内氏の妙見信仰の跡を訪ねて 妙見宮鷲頭寺 山口県下松市中市妙見宮鷲頭寺 山口県下松市中市にある真言宗の寺院
下松。室町〜戦国時代中国地方の覇者として7カ国に君臨した大内氏の始祖伝説にちなむ
地名伝説では下松市は、元々は下松=降松(くだりまつ)だったといわれている
一説では百済津からとも。
推古天皇十七年(609年)周防国鷲頭庄の青柳浦にある鼎の松(かなえのまつ〜降臨、連理、相生の三本があった)に北辰星の精が天降りましまし百済からの尊貴な方(琳聖太子)の来朝を守護するため
七日七夜輝き神のお告げで祠を建てたと伝説に言われる。
その後、推古三年(695年)に桂木山(笠戸大橋のたもと)というところに祀り洲屋大神と称された〜
大内正恒の時代に高鹿垣山(茶臼山)へ遷座し、大内貞長の頃、鷲頭山(じゅとうざん)に遷され鎮座.
山頂に上宮、中宮本社、麓に若宮が造営された。
鷲頭山山麓周辺は鷲頭庄とよばれ大内の一族鷲頭氏が支配した。一時は鷲頭氏が守護となり主流となるが大内宗家と守護職をめぐる争いで鷲頭氏は白坂山(下松市内)合戦で敗退し家臣団に組み込まれ衰退した。大内弘世の時に閼伽井坊など七つの社坊が建てられた。
大内義弘の時代には仁王門や五重塔も寄進されて(現存しない)霊場として繁栄した。
大内氏始祖琳聖太子来朝にまつわる守護神を祀る社寺として尊崇されたその神域の保護は厳重を極めたという。また本拠の山口にある〜氏寺の氷上山興隆寺にも鷲頭山から妙見社を勧請したといわれます 。氏神として北辰妙見大菩薩を大変崇敬した。
現在は明治後、分離されて麓の若宮がアメノミナカヌシを祭神とし降松神社として再編され存続している(若宮と中宮 山中に山門が現存する)
幕末の妙見社の神主が力のある僧侶で、分離された社坊の一つはかろうじて妙見宮鷲頭寺として、古来の北辰妙見の祭祀を守り所縁のある現在地に移転建立された。
戦後勧請された油掛け大黒天もあります(周南七福神だそうです)見た感じが黒いw。
今回は妙見宮鷲頭寺と鼎の松跡にある金輪神社へ行ってきた。
鼎の松は枯れて現在は植樹された5代目
字幕で一部 北斗妙見菩薩とありますが=北辰妙見菩薩がただしいです(北極星の神格化した天部の神ですから)そのうち降松神社(若宮)と中宮もいかないとね。最近周南周辺は野犬が居るからなあ。- 292
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2023-04-23 12:23:25
♫voicepeak♫ 〜 御朱印祭 2023〜 りりせ&フリモメンと行く「 岩国、下松 花の神社巡り後編 降松神社と桜」御朱印祭 2023 桜の開花にわせて急遽岩国、下松 参拝日帰り旅。御朱印はR4/1/7初詣のものであります。
妙見本宮 降松神社 御朱印あり
元は戦国時代の周防長門〜安芸周辺などでの覇者 大内氏の守護神 妙見信仰の寺社。
神社から見える円錐形の山が、鷲頭山=中宮本社、上宮が鎮座す。麓の降松神社=つまり若宮である。
大内氏(多々良氏)始祖の古代半島からの渡来伝説に由来、北辰(北極星)妙見大菩薩を祀っていた寺社。
明治以後神仏分離にて、降松神社として再編され現在に至る。ご祭神=天御中主命
花岡の帰りに立ち寄る。桜は満開でした。何か祭り?が行われるようでしたね。
昨年1月の映像と今回参拝の映像を編集。
下松市で野犬状況今度聞いてみて今問題なければ鷲頭山行きたいんだが。単独行になるからね。
今回はまたく見かけませんでした。
OMD-EM1mark3のカメラテストしてきた。使いこなせずかなり桜の撮影等失敗したから良さそうなものとiPhone se2の写真で補完した。神門や山桜あたり映りがいまひとつでした^^; 難しいですなあ。
風邪で篭ってるからはかどるわ。
これで岩国・下松の桜完結。疲れたw できれば鷲頭寺のもリニューアルしたいがパワーが・・。うぽつです おつです。 うぽつです∩^ω^∩
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2022-03-16 06:28:02
戦国大内氏の妙見信仰の跡を訪ねて(二) 妙見宮 降松神社(若宮)と鷲頭寺 第2稿 山口県下松市中市妙見宮鷲頭(じゅとう)寺 山口県下松市中市にある真言宗の寺院
下松。室町〜戦国時代中国地方の覇者として7カ国に君臨した大内氏の始祖伝説にちなむ
地名伝説では下松市は、元々は下松=降松(くだりまつ)だったといわれている
一説では百済津からとも。
推古天皇十七年(609年)周防国鷲頭(わしず)庄の青柳浦にある鼎の松(かなえのまつ〜降臨、連理、相生の三本があった)に北辰星の精が天降りましまし百済からの尊貴な方(琳聖太子)の来朝を守護するため
七日七夜輝き神のお告げで祠を建てたと伝説に言われる。
推古三年(695年)に桂木山(笠戸大橋のたもと)というところに祀り洲屋大神と称された〜
大内正恒の時代に高鹿垣山(茶臼山)へ遷座し、大内貞長の頃、鷲頭山(じゅとうざん)に遷され鎮座.
山頂に上宮、中宮本社、麓に若宮と七つの社坊が造営された。大内弘世の時に閼伽井坊など七つの社坊が建てられた大寺であった。
鷲頭山麓周辺は鷲頭の庄とよばれ大内の一族鷲頭(わしず)氏が支配した。一時は鷲頭氏が守護となり主流となるが大内宗家と守護職をめぐる争いで鷲頭氏は白坂山(下松市内)合戦で敗退し家臣団に組み込まれ衰退した。
大内義弘の時代には仁王門や五重塔も寄進されて(現存しない)霊場として繁栄した。
大内氏始祖琳聖太子来朝にまつわる守護神を祀る社寺として尊崇されたその神域の保護は厳重を極めたという。また本拠の山口にある〜氏寺の氷上山興隆寺にも鷲頭山から妙見社を勧請したといわれます 。氏神として北辰妙見大菩薩を大変崇敬した。
現在は明治後、分離されて麓の若宮がアメノミナカヌシを祭神とし降松神社として再編され存続している(若宮と山中に中宮・上宮 山門が現存する)
妙見社は分離され社坊の一つはかろうじて妙見宮鷲頭寺として、古来の北辰妙見の祭祀を守り所縁のある現在地に移転建立された。時代かやや衰微の感は寂しいですね。
戦後勧請された油掛け大黒天もあります(周南七福神だそうです)
音楽 1アップル写真ソフト付属のもので音楽なしはできないので前半そのまま使用(聞いたらうP問題なしだそうですので)、2動画編集ソフト付属のもの。
3ニコニ・コモンズのる様作 沈む秋。.*:+☆ヒーリングBGM
念願のシリーズ一応完成。山上の中宮さんだけ残すのみとなりました。野犬が怖いからまだ行けていません^^;- 112
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2023-07-31 19:00:00
⭐︎Voicepeak神社巡り★ 6世紀の古墳に鎮座 車塚妙見社こと〜「天御中神社」防府市車塚町 第2稿江戸時代,長州藩の参勤交代の道 萩往還道に面した車塚町。この地域有数の前方後円墳「車塚古墳」がある
飲み屋、飲食店が並ぶエリアにこんもりとした木々の一角が古墳と古くから鎮座する車塚妙見社である。
現在の社号は天御中主神社⛩️と号している。 2023・7 猛暑 参拝
前方後円墳の前方部〜くびれ部分に妙見社、後円部石室に稲荷社が鎮座。
神社南側は現在は駐車場になっていた。
大内氏多々良宮に関係する神社と言われているらしい(詳細はわからないのでまた調べてみたい)
毛利元就も寄進をしているそうです。
大内氏の氏神であり領国支配の中心的信仰は妙見菩薩の信仰でした。防府市内の大日古墳は琳聖太子の墳墓とする伝説もあるらしい。
江戸時代までは別名が示す通り北辰妙見菩大薩を中心とした信仰の寺社であったようです。
明治後に、仏教色を消すためもあり、神々の大元に輝く天御中主神を主祭神としたのかなと思います。
広告誠に恐れ入ります ^^人
一番最初の神様だけど主祭神の神社珍しいよね>天御中主大神 うぽつです∩^ω^∩ おつです。 うぽつ
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2022-03-14 23:32:03
戦国大内氏の妙見信仰の跡 降松神社と妙見宮鷲頭寺 山口県下松市 初稿妙見宮鷲頭寺 山口県下松市中市にある真言宗の寺院
下松。室町〜戦国時代中国地方の覇者として7カ国に君臨した大内氏の始祖伝説にちなむ
地名伝説では下松市は、元々は下松=降松(くだりまつ)だったといわれている
一説では百済津からとも。
推古天皇十七年(609年)周防国鷲頭庄の青柳浦にある鼎の松(かなえのまつ〜降臨、連理、相生の三本があった)に北辰星の精が天降りましまし百済からの尊貴な方(琳聖太子)の来朝を守護するため
七日七夜輝き神のお告げで祠を建てたと伝説に言われる。
その後、推古三年(695年)に桂木山(笠戸大橋のたもと)というところに祀り洲屋大神と称された〜
大内正恒の時代に高鹿垣山(茶臼山)へ遷座し、大内貞長の頃、鷲頭山(じゅとうざん)に遷され鎮座.
山頂に上宮、中宮本社、麓に若宮が造営された。
鷲頭山山麓周辺は鷲頭庄とよばれ大内の一族鷲頭氏が支配した。一時は鷲頭氏が守護となり主流となるが大内宗家と守護職をめぐる争いで鷲頭氏は白坂山(下松市内)合戦で敗退し家臣団に組み込まれ衰退した。大内弘世の時に閼伽井坊など七つの社坊が建てられた。
大内義弘の時代には仁王門や五重塔も寄進されて(現存しない)霊場として繁栄した。
大内氏始祖琳聖太子来朝にまつわる守護神を祀る社寺として尊崇されたその神域の保護は厳重を極めたという。また本拠の山口にある〜氏寺の氷上山興隆寺にも鷲頭山から妙見社を勧請したといわれます 。氏神として北辰妙見大菩薩を大変崇敬した。
現在は明治後、分離されて麓の若宮がアメノミナカヌシを祭神とし降松神社として再編され存続している(若宮と中宮 山中に山門が現存する)
幕末の妙見社の神主が力のある僧侶で、分離された社坊の一つはかろうじて妙見宮鷲頭寺として、古来の北辰妙見の祭祀を守り所縁のある現在地に移転建立された。
戦後勧請された油掛け大黒天もあります(周南七福神だそうです)
庚申社と荒神社字幕反対でした謹んで訂正します。
あげ直しますw
情報 中宮へもし行かれる方がいる場合 (2〜3回登ったけど道はいいですよ)
下松へ周南あたりから野犬が流れてきているとの情報を二、三年前に登山者ウェブ情報で見ました登山道で見たらしい。今回も一ノ鳥居付近で一匹中型犬を見ました首輪なし確実に野良。注意が必要かも。行く前に下松市に問い合わせした方がいい気もします。今度行ってみます(^o^)
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2022-03-21 21:57:02
戦国大内氏の妙見信仰の跡を訪ねて(二) 妙見宮 降松神社(若宮)と鷲頭寺(改訂・保存用)山口県下松市本編 妙見宮鷲頭寺 山口県下松市中市にある真言宗の寺院 (〜5:54 降松神社・5:55〜鷲頭寺)
下松。室町〜戦国時代中国地方の覇者として7カ国に君臨した大内氏の始祖伝説にちなむ
地名伝説では下松市は、元々は下松=降松(くだりまつ)だったといわれている
一説では百済津からとも。 画像少し変えた・音楽を入れ替え。
推古天皇十七年(609年)周防国鷲頭庄の青柳浦にある鼎の松(かなえのまつ〜降臨、連理、相生の三本があった)に北辰星の精が天降りましまし百済からの尊貴な方(琳聖太子)の来朝を守護するため
七日七夜輝き神のお告げで祠を建てたと伝説に言われる。
推古三年(695年)に桂木山(笠戸大橋のたもと)というところに祀り洲屋大神と称された〜
大内正恒の時代に高鹿垣山(茶臼山)へ遷座し、大内貞長の頃、鷲頭山(じゅとうざん)に遷され鎮座.
山頂に上宮、中宮本社、麓に若宮と七つの社坊が造営された。大内弘世の時に閼伽井坊など七つの社坊が建てられた大寺であった。
鷲頭山麓周辺は鷲頭の庄とよばれ大内の一族鷲頭(わしず)氏が支配した。一時は鷲頭氏が守護となり主流となるが大内宗家と守護職をめぐる争いで鷲頭氏は白坂山(下松市内)合戦で敗退し家臣団に組み込まれ衰退した。
大内義弘の時代には仁王門や五重塔も寄進されて(現存しない)霊場として繁栄した。
大内氏始祖琳聖太子来朝にまつわる守護神を祀る社寺として尊崇されたその神域の保護は厳重を極めたという。また本拠の山口にある〜氏寺の氷上山興隆寺にも鷲頭山から妙見社を勧請したといわれます 。氏神として北辰妙見大菩薩を大変崇敬した。
現在は明治後、分離されて麓の若宮がアメノミナカヌシを祭神とし降松神社として再編され存続している(若宮と山中に中宮・上宮 山門が現存する)
妙見社は分離され社坊の一つはかろうじて妙見宮鷲頭寺として、古来の北辰妙見の祭祀を守り所縁のある現在地に移転建立された。時代かやや衰微の感は寂しいですね。
戦後勧請された油掛け大黒天もあります(周南七福神だそうです)
音楽 のる様作 2曲 ニコニ・コモンズより使用
3ニコニ・コモンズのる様作 沈む秋。.*:+☆ヒーリングBGM
念願のシリーズ一応完成。山上の中宮さんだけ残すのみとなりました。野犬が怖いからまだ行けていません^^;- 28
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