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2022-05-27 00:25:03
【神道シリーズ・シーズン3】第16回・本田親徳と鎮魂帰神法明治以降、平田篤胤の思想の影響を受けた者たちは、基本的に、人は死後、地球上の周りにある幽界という空間を霊魂となって彷徨い、体は風、火、土、金というエレメントになって循環し、やがてはそれに魂が宿り、人間は再生する、という道教的な死生観と、地球を創生したのは日本の神のイザナギとイザナミであるからして、日本の天皇が全世界の上に総主として君臨すべし、という超誇大妄想的天皇世界総主論だけは引き継ぐという傾向を共有していたが、本田親徳は、平田思想の中でも特に人と神霊とのコミュニケーションに興味を持ち、その研究と実践のほとんどは神霊の人間への憑依を目指すことに向けられた。
死者や動物や神仏の憑依は修験道や民間信仰の間にも古くからあったが、そうした憑依が可能なのは特定の能力を持った者か、あるいは神や仏や死者などから指名された特定の人物に限られていたが、本田は、誰でも一定の術式に従って行えば神霊の人への降臨・憑依は可能であるとした。
本田は、神憑りには36通りの在り方があると言ったが、それを大きく3つに分類して、霊がいきなり憑依する場合、一部の素質のある人が一人で神霊を呼び寄せる場合、そして本田が提唱した審神者と神主を通じて、たとえ能力者や偶然の邂逅でなくても意識的に神霊を呼び寄せ憑依させることが可能な鎮魂帰神法があり、本田は自ら開発したこの鎮魂帰神法を通じ、神の言葉を直接聞くという方法で古事記理解の正誤を確認するという作業を行い、「難古事記」という著作にまとめた。
それによると、人はみな神の子であり、直霊という正しい心の霊を持ち、勇気と調和と愛と探求の心を呼び出す荒魂、和魂、幸魂、奇魂という四つの魂を持っているとし、善を行えばこれらの魂の量は増え、悪を行えば減るとした。
儒教の魂観の擦り直しと見れないこともないが、とにかく、本田の神霊降臨術・鎮魂帰神法は、その後、弟子の
長澤雄盾を通じ、大本教の出口王仁三郎や大本教を経た神道天行居の友清歓真ら多数の平田系神道カルト教祖たちに伝えられ、明治以降、古神道を名乗る平田派神道系カルトの中核的思想となって行った。
本田の鎮魂帰神法を継いだ者たちは、鎮魂帰神法とともに平田篤胤の超誇大妄想とも言える
天皇世界総主論、つまり、地球上の世界を創ったのは日本の神だから天皇が世界を治めるべきだと言う部分を強く受け継いでおり、彼らが本田の鎮魂帰神法による神託を担保とし、彼らはますます狂信的に持論にのめり込み、それは世界恐慌後の社会不安が広がる中、その狂気は国民を戦争の時代へと引き込んでいくこととなったのである。ほぼ創作ですね トランス状態にしちゃうわけか
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2021-07-05 23:55:03
【神道シリーズ・シーズン2】第36回・平田篤胤【中編】「霊能御柱」篤胤の宇宙観・死生観文化9年(1812年)、平田篤胤37歳のとき、相思相愛で結ばれた妻、織瀬を亡くし、これを契機に篤胤は亡き妻の死後のありかを気にかけ、間違っても師宣長が言うような黄泉の国という暗くて汚く恐ろしいところではなく、死後も自分の身の回りにいて自分を見守ってほしいという気持ちから人の死後の世界、幽冥界のイメージを作り上げ、「霊能御柱」という著書を書き上げた。
これは、篤胤の師である宣長の高弟子・服部中庸が宣長の著「古事記伝」の付録として書かれた宇宙形成論「三大考」をベースとして書かれているものだが、そもそも中庸自身も師宣長の宇宙観を逸脱して、
当時日本に流入した最新の西洋天文学の惑星宇宙の知識が導入されており、もともと一つであった天と地と泉、つまり、天津国と国津国と黄泉の国は、実は分離して太陽・地球・月となっており、
人は死ぬと黄泉の国、つまり月に行くのだという宇宙観・死生観になっていた。
篤胤は、この中庸の「三大考」という10段階の変化図を、人は死後黄泉の国、つまり月には行かず、あくまで人の住む地球上のどこかに魂だけは彷徨い続けるのだと言う幽冥界論を展開して書き換え、その10段階変化を自著「霊能御柱」の中に書き留めた。
自説をベースに書き換えられた服部中庸はそれでも篤胤に対して一定の理解を示したが、故・宣長の門人たちの間ではこうした篤胤による恩師宣長の根本思想、つまり、人は死後黄泉の国へ行くんだという主張を否定され、篤胤に対する反発は強まって行った。
篤胤の宇宙観や死生観は、仏経・儒教・道教陰陽五行、そしてキリスト教からの借用が多々見られるが、実は、これは借用というよりも、こうした宗教諸思想のいいとこ取りの総合作品と言った方が的確にその性質を示していると言える。
しかし、篤胤はそうした借用や盗用を否定し、彼に言わせれば、46億年前に宇宙や神々が誕生した時から神道はあり、仏経や儒教やキリスト教は、そうした皇国日本の神道が誤ってインドや中国や西洋に伝わったものだと主張し、皇国の神道がすべての宗教思想の起源であると居直り強弁するのであった。伊邪那美が帰るために相談した神 岩波文庫 p.26
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2022-04-02 20:31:02
【神道シリーズ・シーズン3】第9回・秋葉・祇園・天満宮・白山の廃仏毀釈明治の神仏分離政策で多くの寺院が破却され、その寺院がそのまま神社に改変されることにより寺院の神社化が次々と進められて行った。
稲荷大社、春日大社、住吉大社、鹿島大社などの氏神の系統の神社を除けば、それ以外のすべての神社は明治時代に寺院を廃してそのまま神社化したケースや、寺院が管理する権現社、明神社、堂宇、宮などを神社にしてしまったケースのどちらかに属している。
つまり、伊勢神宮の系列、および上記の氏神系神社の系列を除けば現在存在する神社のほぼすべては明治前までは寺院ないし寺院の管理する仏教系の神々を祀る社であったのである。
秋葉信仰は、明治前までは秋葉寺が中心となった火消しの神・秋葉三尺坊の信仰が続いていたが、明治になると秋葉寺は新政府により廃寺にされ、秋葉寺は仏像仏具を取り除かれ、そのまま新設の
秋葉神社に改変改装されたが、今でも秋葉山の信仰は火消しの神、秋葉三尺坊大権現の信仰のままであり、秋葉山の祭祀やお祭りも秋葉寺や曹洞宗の寺院・可睡斎が中心で行われており、明治に新設された秋葉神社にはまったく存在感がない。
一方、京都の八坂神社は明治前までは天台宗の寺院・観慶寺の感心院の境内に設けられた仏教の神・牛頭天王を祀る社殿で、祇園社と呼ばれていた。
牛頭天王は播磨の廣峯社を中心に蘇民将来説話の武塔天神と同一視され薬師如来の垂迹とされ、また、中国の道教神の天刑星とも習合した仏教神で、その信仰は、京都祇園も含め全国に点在するように広がっていた。
祇園社では、牛頭天王とその妻、ハリサイニョと、8人の息子たち八王子を祀っていたが、明治政府は、それをスサノオとクシナダヒメとスサノオの8人の息子たちに置き換え、祇園社を八坂神社と言う神社にしてしまった。
しかしながら、現在でも八坂では祇園祭が行われており、全国でも牛頭天王を祀っていた現神社元寺院の地域では現在でも各地で天王祭が行われている。
北野天満宮は元道真を祀る天台宗の朝日寺の曼殊院門跡であり、大宰府天満宮は大宰府の真言宗の寺院・安楽寺であった。
十一面観音を本尊とし、雷神と道真の御霊が習合した天神信仰を、明治政府はこれを北野神社と改めたが、今でも天満大自在天神社と「大自在天」の名称が残っている。
そして、北野も大宰府も今でも祭神は道真のみで記紀の神は充てられていない。
白山を囲む三つの白山神社はもともといずれも平泉寺、長瀧寺、白山寺という天台系の寺院で、明治政府はこれらの寺院を強引に神社に変えたものの、今でも平泉寺白山神社、長瀧白山神社と、寺院の名称を残し、修験道的な神事を残している。- 46
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