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2021-08-18 10:27:02
「キャンセルされた歴史を取り戻す」満洲事変と満州国建国 1「なかった南京事件1」 https://nico.ms/sm39091675
草加市一杯会【手奇塾】 - ニコニコ (nicovideo.jp)
4回に分けて満州事変と満州国についてお話しします。
また、深刻な不景気に見舞われた日本では、国内だけでは景気を回復できそうになかったので、満州は日本の生命線だと言って、広大な満州を占領・開拓することで日本を豊かにしようと考えたのですと教えています。
これでは日本は無法者国家ですね。世界恐慌が1929年に始まり、日本は、世界恐慌と、1931(昭和6)年の冷害による大凶作で、東北北海道の農民には、明日食べるものもろくにないという人々がいました。
この時東北6県の知事は、冷害対策を岡田啓介首相や関係大臣に支援を懇請しています。今回の武漢コロナでも各種補助金が支出されたのと同じです。
それでも農家の子供が栄養失調になったり、若い娘さんの身売りが多くありました。昭和初期の満州には、すでに20万人以上の日本人が住んでいました。
その保護と、関東州および日露戦争に勝利し、ロシアから受け継いだ満鉄を警備するため、1万人の陸軍部隊(関東軍)が駐屯していました。関東州とは、遼東半島の南部で満州ではありません。
日露戦争後日本が清から租借した土地です。そもそも満洲にいた満州人が、ジュシェン族、後にマンジュ族と改めましたが、シナに進出し、清帝国をつくりました。
満州とは、清帝国を建国した満州人の故郷の土地です。ですから満州人にとっては、とても神聖な土地で、清の時代は、厳しい移民法令を定めて、漢民族の満州への立ち入りを、小作人以外禁止していました。無断で立ち入ると死刑でした。
さらに満州人と漢人の婚姻を禁止し、最後の皇帝溥儀が退位する数年前までこの禁制は続いていました。
1912(明治45)年、辛亥革命が起こり、満州人の支配を打ち破りました。清朝の最後の皇帝溥儀は、支那共和国と協定を結んでから退位しました。
協定とは、故郷である満州を西洋でいう「王領」、つまり「封禁の地」とし、そうした清国の権利を明記し、確認した退位協定が中国の根本法となったのです。
しかし、中国人は、この協定を守りませんでした。国際仲裁裁判所の決定を紙屑という人たちです。つまり協定を守ると満州人の満州支配を認めることになります。辛亥革命のときの漢人による満州人の虐殺行為は、1週間続いたといわれています。
満州事変後の満州建国を一番喜んだのが満洲に逃れてきた満州人と言われています。自分たちの国ができたのです。
これはイスラエルがやはり自分たちの国ができたことを喜んだのと一緒です。あるいは、アメリカが、フランスの援助で独立したのと同じです。- 66
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2021-08-24 18:21:02
満洲事変と満洲国建国 21939年の時点で満洲国は、ドイツ、イタリア、スペイン、バチカンなど約20か国から承認されていたのです。満洲を支配する張学良の軍隊が消滅して、その支配権は、300万人の満洲人に戻り、清朝の最後の皇帝溥儀を元首に、故郷で独立宣言したにすぎません。清朝から独立した孫文ら漢民族はよくて、満洲人は独立してはいけないのでしょうか?
1931年関東軍は、満州の現状を一気に改善しようと、張学良の軍をソ連が介入しない様に一気に追い払います。これが満州事変です。張学良の軍は15から22万といわれていましたが各地に分散していましたので、動きの速い関東軍と朝鮮から越境した日本軍、わずか1万4千に各個撃破されてしまいます。この作戦計画を3年かけて緻密に作り上げたのが天才的関東軍作戦主任参謀の石原莞爾中佐です。そしてこれを一番喜んだのは満州人でした。日本国内でも関東軍のこの行動を支持する人々が多くいて、陸軍には多額の支援金が寄せられました。政府も追認します。そして清朝最後の皇帝溥儀を元首に満州国が建国されます。日本が後押しをしました。
支那人が多くなると土地の支配権は支那人に移ります。満州も同じでした。もともと満州は、満州人以外は立ち入を禁止されていた神聖な土地だったことを前回お話ししました。満州人にやとわれた小作人の漢人が、土地を奪うようになります。満州にロシア人のほかに漢人の難民や匪賊も流れ込んできます。日本が年号を昭和と改めたころ、中国では、各地に私兵をかかえた軍閥が群雄割拠していました。1925年ころです。日露戦争後、山東出身の匪賊の頭領のような人物が、日本を後ろ盾に満州をしだいに支配するようになります。張作霖です。私兵を雇い、逆らうものは見せしめに皆殺しです。満州人は、張作霖から、どんな重税を課せられてもさからうことはできなかったのです。張親子は、金の準備がない不換紙幣を発行し、住民から生産物を取り上げ、阿片の栽培と売買で軍隊を養っていました。蒋介石は、塩の専売と輸出入の関税で兵を養っていました。昭和2年ころは北京に進出した張作霖と蒋介石は、敵対関係にありました。そのため張親子と満鉄は、初めは互いに利用しあう関係になります。このような中、日本軍から勧告されて張作霖が満州への帰途列車ごと爆殺されます。どの教科書も日本の関東軍の仕業ということになっています。ソ連崩壊後に公開された外交文書には、ソ連の工作であったと書かれているそうです。コミンテルンにとって日本に恩義がある張作霖は邪魔だったのでしょうか。張作霖と対立していた蒋介石は、息子をソ連に人質同然に差し出していました。そして1930年に息子の張学良が、北京に進撃して首都とし、南京の蒋介石政権と支邦を名目上2分しました。蒋介石は一度も満洲に足を踏み入れたことはなく、言葉も通じなかったのです。- 33
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2021-09-02 09:05:02
キャンセルされた歴史をとりもどす ”これでも侵略か” 満洲事変と満州国建国 3キャンセルされた歴史を取り戻す、これでも侵略か満州事変と満州国建国3です。1933(昭和8)年5月、日本は、蒋介石政府と「塘沽(タンクー)停戦協定」を締結し、満州事変を決着することになりました。
「塘沽停戦協定」締結後、80万人の国民政府軍は、15万人の共産軍を包囲殲滅する作戦に乗り出し、共産軍はそれまで築いてきた各地のソビエト地区を放棄して延安に逃れます。これに慌てたのがコミンテルンでしょう。満洲は、日本の3倍以上の広さです。当たり前ですが、満州国の軍隊や行政、警察組織は、満洲国民の協力があって初めて機能します。これからお見せする写真は、ホームページの「満洲写真館」から管理人様の許可を得て使用しています。満洲の写真だけではなく、管理人の方が満洲出身の方で説明文がとても正確です。例えば日本人の満洲移民について、教科書に書かれているような、農業移民だけではなく、幅広い業種でおこなわれていたことが分かります。また、農業移民は失敗するケースも多くあったこともわかります。生活が安定するまでに、匪賊に襲われたり、幼い命を肺炎で失うなど、移民の苦労がよくわかります。満洲国がどのように発展していったのか、満洲国総務長官だった星野直樹氏は、見果てぬ夢―満州国外史でこのように回顧されています。民生分野で特筆すべきは、新都市建設と既成都市の改造である。近代的な国土計画のもとで、日本人建設技師の人材を集めて、近代的な美しい都市が、満洲の広大な国土に次々と生まれていっ た。特に、新しい国都・新京現長春は、百万都市として建設を進められ、電気、上下水道を完備し、東洋で最初の水洗トイレも設けられ、豊かな緑に彩られた。また満鉄は沿線各都市に、満鉄病院、伝染病研究所、結核予防協会、保養院などを設け、僻地には巡回施療を行って、民衆の健康状態改善に大きく貢献した。さらに中央試験所、農事試験所を設立し、ここで開発された「改良大豆」は、全満洲に普及し、世界一の大豆輸出国として成長させる原動力となった。そのほか地質研究所、鉄道技術研究所、製鉄研究所などが、満洲の農・工・鉱業発展の牽引車となった。以上の国土開発、産業開発は、ほとんどすべて日本からの投資でなされた。たとえば1936年にまとめられた、増産すべき分野として、電力、鉄鋼、石炭、アルミニウムから、飛行機、自動車まで挙げられているが、その投資総額は25億円で、同年の日本の一般会計歳出総額24億円を上回る額であった。日本は膨大な人材と技術と資本をつぎ込んで、満洲の発展に賭けたのであった。その間、満洲の状態は一変した。治安は完全に確保され、国内には一人の兵匪もいなくなった。農業国から立派な工業国となり、総生産額は倍増した。国民生活は目覚ましく向上した。東亜各地から集まってくる人は、数多く、3千万人であった人口は5千万人を超えるにいたった。- 20
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