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〈1/6〉市川紘司×本田晃子×上田洋子「建築からみる北京とモスクワ——共産主義建築のモニュメンタリティと祝祭性」【2016/1/28収録】 @ichikawakoji @yuvmskソヴィエト建築の本田晃子、中国共産主義建築の市川紘司、そしてロシア文学者の上田洋子が、共産主義の二大首都・北京とモスクワの建築を、その中心にある広場から考察する。天安門広場と赤の広場を、建築・都市計画・祝祭などの面から徹底的に解明する。■1949年10月1日、毛沢東が中華人民共和国の建国を宣言すると、中国では「頼れる兄貴」たるソ連の建築・都市計画思想が金科玉条となる。結果、古都・北京はドラスティックに変貌を遂げる。巨大な街区ブロックを基本単位とする再開発、中央から周縁へと同心円的に構成される都市計画、そしてスターリン様式を翻案した復古主義的記念建築…。こうした北京大改造の中心にあったのが天安門広場に他ならない。面積を大幅に拡張し、人民英雄記念碑等の国家モニュメントを多数附設することで、広場は数十万人を動員する派手やかな国家イベントの舞台へと設えられた。北京は、共産主義建築が、中華の伝統的都市構成と鋭く衝突しながら展開された稀有な空間である。その衝突の諸相を考えたい。(市川紘司)ソ連時代、赤の広場はメーデーや革命記念日の際の祝祭のための空間であると同時に、革命のために命を落とした無名戦士たち、ソ連邦の指導者たちが葬られた喪の空間でもあった。この祝祭と喪が重なり合う中心に位置していたのが、他ならぬレーニン廟である。文字通り不朽化されたレーニンの遺体が眠るレーニン廟は、ページェントの際には指導者のための観覧席としても機能した。だがその建設当初、この建築物をめぐる定義は決して明確ではなかった。果たしてそれは墓なのか、それともレーニンのモニュメントなのか。墓と記念碑、そしてレーニンの二つの身体(遺体と像)——これらの問題から、ソ連建築の神話的起源としてレーニン廟を読み解く。(本田晃子)
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〈2/6〉市川紘司×本田晃子×上田洋子「建築からみる北京とモスクワ——共産主義建築のモニュメンタリティと祝祭性」【2016/1/28収録】 @ichikawakoji @yuvmskソヴィエト建築の本田晃子、中国共産主義建築の市川紘司、そしてロシア文学者の上田洋子が、共産主義の二大首都・北京とモスクワの建築を、その中心にある広場から考察する。天安門広場と赤の広場を、建築・都市計画・祝祭などの面から徹底的に解明する。■1949年10月1日、毛沢東が中華人民共和国の建国を宣言すると、中国では「頼れる兄貴」たるソ連の建築・都市計画思想が金科玉条となる。結果、古都・北京はドラスティックに変貌を遂げる。巨大な街区ブロックを基本単位とする再開発、中央から周縁へと同心円的に構成される都市計画、そしてスターリン様式を翻案した復古主義的記念建築…。こうした北京大改造の中心にあったのが天安門広場に他ならない。面積を大幅に拡張し、人民英雄記念碑等の国家モニュメントを多数附設することで、広場は数十万人を動員する派手やかな国家イベントの舞台へと設えられた。北京は、共産主義建築が、中華の伝統的都市構成と鋭く衝突しながら展開された稀有な空間である。その衝突の諸相を考えたい。(市川紘司)ソ連時代、赤の広場はメーデーや革命記念日の際の祝祭のための空間であると同時に、革命のために命を落とした無名戦士たち、ソ連邦の指導者たちが葬られた喪の空間でもあった。この祝祭と喪が重なり合う中心に位置していたのが、他ならぬレーニン廟である。文字通り不朽化されたレーニンの遺体が眠るレーニン廟は、ページェントの際には指導者のための観覧席としても機能した。だがその建設当初、この建築物をめぐる定義は決して明確ではなかった。果たしてそれは墓なのか、それともレーニンのモニュメントなのか。墓と記念碑、そしてレーニンの二つの身体(遺体と像)——これらの問題から、ソ連建築の神話的起源としてレーニン廟を読み解く。(本田晃子)
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〈3/6〉市川紘司×本田晃子×上田洋子「建築からみる北京とモスクワ——共産主義建築のモニュメンタリティと祝祭性」【2016/1/28収録】 @ichikawakoji @yuvmskソヴィエト建築の本田晃子、中国共産主義建築の市川紘司、そしてロシア文学者の上田洋子が、共産主義の二大首都・北京とモスクワの建築を、その中心にある広場から考察する。天安門広場と赤の広場を、建築・都市計画・祝祭などの面から徹底的に解明する。■1949年10月1日、毛沢東が中華人民共和国の建国を宣言すると、中国では「頼れる兄貴」たるソ連の建築・都市計画思想が金科玉条となる。結果、古都・北京はドラスティックに変貌を遂げる。巨大な街区ブロックを基本単位とする再開発、中央から周縁へと同心円的に構成される都市計画、そしてスターリン様式を翻案した復古主義的記念建築…。こうした北京大改造の中心にあったのが天安門広場に他ならない。面積を大幅に拡張し、人民英雄記念碑等の国家モニュメントを多数附設することで、広場は数十万人を動員する派手やかな国家イベントの舞台へと設えられた。北京は、共産主義建築が、中華の伝統的都市構成と鋭く衝突しながら展開された稀有な空間である。その衝突の諸相を考えたい。(市川紘司)ソ連時代、赤の広場はメーデーや革命記念日の際の祝祭のための空間であると同時に、革命のために命を落とした無名戦士たち、ソ連邦の指導者たちが葬られた喪の空間でもあった。この祝祭と喪が重なり合う中心に位置していたのが、他ならぬレーニン廟である。文字通り不朽化されたレーニンの遺体が眠るレーニン廟は、ページェントの際には指導者のための観覧席としても機能した。だがその建設当初、この建築物をめぐる定義は決して明確ではなかった。果たしてそれは墓なのか、それともレーニンのモニュメントなのか。墓と記念碑、そしてレーニンの二つの身体(遺体と像)——これらの問題から、ソ連建築の神話的起源としてレーニン廟を読み解く。(本田晃子)
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〈4/6〉市川紘司×本田晃子×上田洋子「建築からみる北京とモスクワ——共産主義建築のモニュメンタリティと祝祭性」【2016/1/28収録】 @ichikawakoji @yuvmskソヴィエト建築の本田晃子、中国共産主義建築の市川紘司、そしてロシア文学者の上田洋子が、共産主義の二大首都・北京とモスクワの建築を、その中心にある広場から考察する。天安門広場と赤の広場を、建築・都市計画・祝祭などの面から徹底的に解明する。■1949年10月1日、毛沢東が中華人民共和国の建国を宣言すると、中国では「頼れる兄貴」たるソ連の建築・都市計画思想が金科玉条となる。結果、古都・北京はドラスティックに変貌を遂げる。巨大な街区ブロックを基本単位とする再開発、中央から周縁へと同心円的に構成される都市計画、そしてスターリン様式を翻案した復古主義的記念建築…。こうした北京大改造の中心にあったのが天安門広場に他ならない。面積を大幅に拡張し、人民英雄記念碑等の国家モニュメントを多数附設することで、広場は数十万人を動員する派手やかな国家イベントの舞台へと設えられた。北京は、共産主義建築が、中華の伝統的都市構成と鋭く衝突しながら展開された稀有な空間である。その衝突の諸相を考えたい。(市川紘司)ソ連時代、赤の広場はメーデーや革命記念日の際の祝祭のための空間であると同時に、革命のために命を落とした無名戦士たち、ソ連邦の指導者たちが葬られた喪の空間でもあった。この祝祭と喪が重なり合う中心に位置していたのが、他ならぬレーニン廟である。文字通り不朽化されたレーニンの遺体が眠るレーニン廟は、ページェントの際には指導者のための観覧席としても機能した。だがその建設当初、この建築物をめぐる定義は決して明確ではなかった。果たしてそれは墓なのか、それともレーニンのモニュメントなのか。墓と記念碑、そしてレーニンの二つの身体(遺体と像)——これらの問題から、ソ連建築の神話的起源としてレーニン廟を読み解く。(本田晃子)
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〈6/6〉市川紘司×本田晃子×上田洋子「建築からみる北京とモスクワ——共産主義建築のモニュメンタリティと祝祭性」【2016/1/28収録】 @ichikawakoji @yuvmskソヴィエト建築の本田晃子、中国共産主義建築の市川紘司、そしてロシア文学者の上田洋子が、共産主義の二大首都・北京とモスクワの建築を、その中心にある広場から考察する。天安門広場と赤の広場を、建築・都市計画・祝祭などの面から徹底的に解明する。■1949年10月1日、毛沢東が中華人民共和国の建国を宣言すると、中国では「頼れる兄貴」たるソ連の建築・都市計画思想が金科玉条となる。結果、古都・北京はドラスティックに変貌を遂げる。巨大な街区ブロックを基本単位とする再開発、中央から周縁へと同心円的に構成される都市計画、そしてスターリン様式を翻案した復古主義的記念建築…。こうした北京大改造の中心にあったのが天安門広場に他ならない。面積を大幅に拡張し、人民英雄記念碑等の国家モニュメントを多数附設することで、広場は数十万人を動員する派手やかな国家イベントの舞台へと設えられた。北京は、共産主義建築が、中華の伝統的都市構成と鋭く衝突しながら展開された稀有な空間である。その衝突の諸相を考えたい。(市川紘司)ソ連時代、赤の広場はメーデーや革命記念日の際の祝祭のための空間であると同時に、革命のために命を落とした無名戦士たち、ソ連邦の指導者たちが葬られた喪の空間でもあった。この祝祭と喪が重なり合う中心に位置していたのが、他ならぬレーニン廟である。文字通り不朽化されたレーニンの遺体が眠るレーニン廟は、ページェントの際には指導者のための観覧席としても機能した。だがその建設当初、この建築物をめぐる定義は決して明確ではなかった。果たしてそれは墓なのか、それともレーニンのモニュメントなのか。墓と記念碑、そしてレーニンの二つの身体(遺体と像)——これらの問題から、ソ連建築の神話的起源としてレーニン廟を読み解く。(本田晃子)
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〈5/6〉市川紘司×本田晃子×上田洋子「建築からみる北京とモスクワ——共産主義建築のモニュメンタリティと祝祭性」【2016/1/28収録】 @ichikawakoji @yuvmskソヴィエト建築の本田晃子、中国共産主義建築の市川紘司、そしてロシア文学者の上田洋子が、共産主義の二大首都・北京とモスクワの建築を、その中心にある広場から考察する。天安門広場と赤の広場を、建築・都市計画・祝祭などの面から徹底的に解明する。■1949年10月1日、毛沢東が中華人民共和国の建国を宣言すると、中国では「頼れる兄貴」たるソ連の建築・都市計画思想が金科玉条となる。結果、古都・北京はドラスティックに変貌を遂げる。巨大な街区ブロックを基本単位とする再開発、中央から周縁へと同心円的に構成される都市計画、そしてスターリン様式を翻案した復古主義的記念建築…。こうした北京大改造の中心にあったのが天安門広場に他ならない。面積を大幅に拡張し、人民英雄記念碑等の国家モニュメントを多数附設することで、広場は数十万人を動員する派手やかな国家イベントの舞台へと設えられた。北京は、共産主義建築が、中華の伝統的都市構成と鋭く衝突しながら展開された稀有な空間である。その衝突の諸相を考えたい。(市川紘司)ソ連時代、赤の広場はメーデーや革命記念日の際の祝祭のための空間であると同時に、革命のために命を落とした無名戦士たち、ソ連邦の指導者たちが葬られた喪の空間でもあった。この祝祭と喪が重なり合う中心に位置していたのが、他ならぬレーニン廟である。文字通り不朽化されたレーニンの遺体が眠るレーニン廟は、ページェントの際には指導者のための観覧席としても機能した。だがその建設当初、この建築物をめぐる定義は決して明確ではなかった。果たしてそれは墓なのか、それともレーニンのモニュメントなのか。墓と記念碑、そしてレーニンの二つの身体(遺体と像)——これらの問題から、ソ連建築の神話的起源としてレーニン廟を読み解く。(本田晃子)
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2022-08-01 00:00:00
原武史×市川紘司×長谷川香「都市と建築のポリティクスをめぐってーー日本における空間のかたち」(2021/2/16収録) @haratetchan @ichikawakoji #ゲンロン210216無料ダイジェスト動画はこちら!
https://youtu.be/mnTrSQ_4s0I
【収録時のイベント概要】
政治学者の原武史さん、建築史家の市川紘司さんと長谷川香さんをお招きし、
都市と建築をめぐるトークイベントを開催いたします。
原さんの提唱する「空間政治学」に大きな影響を受けたという市川さんと長谷川さん。
空間はこれまでどのように論じられてきたのか、重要な著作とともに振り返りつつ、
現代における都市と社会、空間のポリティクスとそこに生きる人間について
深い議論が展開されます。
日本において空間とはなにか。どうぞご期待ください。
【登壇者より】
建築と都市という「かたち」、それらが構成する私たちの生きる「空間」。
そうした事物に、政治的なもの・社会的なもの・文化的なものを、どう読み解くか。
というのが、登壇者に共通する関心だろうと思います。
というよりも、そのような関心を、
市川は(おそらく長谷川さんも)原武史さんから影響を受けまくりながら芽生えさせ、
昨年ようやく一冊の本にまとめることができました。お二人と人前でお話するのは初めてです。
せっかくの機会なので、登壇者自身の研究や著述活動についてはもちろん、
過去あるいは同時代的に影響を受けた「空間読解」本などについても、
根掘り葉掘り聞いてみたいと思っています。(市川紘司)
===
建築学科で興味の赴くままに研究を進めていたら、
気がつけば、「建築・都市と政治」というテーマに辿り着いていました。
空間と政治の関係性をいち早く指摘し、空間政治学を提唱されてきた原武史先生、
そして、同世代で同じような問題意識を共有している市川紘司さんと一緒に、
政治思想史と建築史、人文系と理系といった学問の枠を超える議論をしたいです。(長谷川香)
都市と建築のポリティクスをめぐって – ゲンロンカフェ
https://genron-cafe.jp/event/20210216/- 55
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2022-03-01 00:00:00
青山周平×市川紘司×上田洋子「中国における都市・建築・暮らし」【コロナ禍の世界から #4】(2020/10/30収録) @ichikawakoji @yuvmsk #ゲンロン201030ゲンロンαにイベントのレポート記事を掲載しています。ぜひお読みください。
記事URL= https://genron-alpha.com/article20201109_01/
【イベント概要】
コロナ禍の世界から、第4弾は
中国、北京在住の建築家、青山周平氏と、建築史家の市川紘司氏をゲストにお迎えする。
青山氏は北京からオンラインでのご登壇となる。司会はゲンロンの上田洋子が務める。
新型コロナウイルスは中国の武漢ではじめて検出され、一時は北京でも厳しい感染状況が報道されていた。
しかし、いまでは中国全土で感染が押さえ込まれており、すでに「afterコロナ」の新たな日常がある。
近年の目覚ましい経済発展のなか、
それまでは国外のビッグネームが大きな仕事を占めていた中国建築界で、
中国人建築家が独自の力を蓄え、力を発揮するようになった。
彼らに共通するものとしては「中国的なるもの」の追求がある、と、
市川氏は『中国当代建築』(フリックスタジオ、2014年 )( https://amzn.to/2T3GNj5 )で指摘している。
市川氏は同書や『世界』での連載「中国新建築文化論」などで、
中国現代建築の面白さや強みについて、論じ続けてきた。
青山氏は2005年から中国に住み、2014年にはB.L.U.E.建築設計事務所を設立。
中国伝統建築物のリノベーションなどで、中国の建築界で数々の賞を受賞するなど、
中国にとっての外国人でありながら、目覚ましい活躍をされている。
中国建築を内外からよく知るおふたりに、
ますます勢いをつけている中国における建築のいまについて、
コロナ後の建築や都市生活の状況について、お話を伺う。
【登壇者より】
北京に暮らす一人の建築家として、肌感覚の現代中国の都市・建築・暮らしをお伝えしたい。
習近平政権が政治的に強固な体制を築く中、北京は急速に政治都市化しており、
同時に、国家スケールでみると、
北京・上海・深セン・杭州など各都市が地政学的メリットを生かし、国に多様な核を形成しつつある。
コロナ禍を圧倒的な力で押さえ込んだ中国においては、
withコロナは存在せず既にafterコロナ社会が始まっており
「内循環」をキーワードに新しいライフスタイルが生まれつつある。
セキュリティ網が都市内に継ぎ目なく行き渡ることによって、
都市における安全性の概念が変わり、建築の表面に変化が起こる。
そして、このような激しい政治社会的変動の中で、
その荒波に揉まれつつ中国の建築家が世界で台頭しつつあり、
そこから「中国的現代建築」の体系が生まれるのか、興味が尽きない。
(青山周平)
■
今回、私からは、習近平時代の中国建築、そして中国都市の特徴や変化について、
紹介したいと思います。習近平が中国共産党のトップに就いたのは2012年11月のことですが、
以後、その政権は建築・都市に関わる政策をいくつも打ち出してきました。
アイコン建築禁止令? 首都機能移転? 新型都市化計画? 毛沢東による建国当初から、
中国の現代建築都市史はつねに政治に左右されてきました。
「政治主導」と言うべき現代中国における建築カルチャーの形成は、
建築家とその建築作品の自律性がある程度認められている戦後日本のそれとは好対照であると言えそうですが、
習近平政権のアクションはそのような「伝統」をしっかり継承しつつも、
なお歴史的な画期をつくりそうなインパクトをもつものです。
疫病禍、そして疫病後の中国という空間への視界を、
わずかばかりでも良くできるような歴史的パースペクティブを共有できればと思います。
(市川紘司)
中国における都市・建築・暮らし – ゲンロンカフェ
https://genron-cafe.jp/event/20201030/- 15
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