タグ大楠公を含む動画:4件 1ページ目を表示
2024年6月5日 06時22分に生成された05時00分のデータです
2022-07-09 22:05:03
天国の安倍元首相に届けたい想い ~吉田松陰の志~安倍さん、あなたの分まで。
毎日投稿チャンネルです。
※マスクを外して飲酒会食を楽しもう。
西山飲酒会食俱楽部&オフ会窓口
https://nohohondensha.jimdosite.com/
7月13日水曜日14時からJR琵琶湖線・山科駅近隣飲食店(オフ会)
残席はありません。
7月30日土曜日14時からJR大阪環状線・京橋駅近隣飲食店
残席4名。参加申し込み受付中。
新規提案も募集中です。
※以下、ご理解をお願いします。
当サイトの動画は私個人の感想や意見を述べており必ずしも真実ではありません。
独自の考え方、切り口を示す事により視聴者様の思考を促進する事を目的としています。
宜しくご理解ください。
また当サイトでは本音を喋っており善人を気取るつもりはありません。
視聴して不愉快になられる方はご視聴をお控えください。
もう一点、当サイトで公開している内容に著作権はありません。
知名度に関わらず自由にご発言ください。
ご意見、ご要望、ご感想やご提案はアメブロやツイッターでも受け付けています。
https://ameblo.jp/nohohondensha/
https://twitter.com/nohohondensha?lan...いつもありがとうございます。
- 730
- 20.3
- 192.6
- 10.1
2020-12-29 05:32:02
第12回楠公研究会会「葛木神社と国見城跡~金剛山攻防戦の戦跡を辿る~」平成30年7月27日金曜日午後1時半より、奈良県御所市の葛木神社にて開催させて頂きました「第12回楠公研究会・葛木神社と国見城跡~金剛山攻防戦の戦跡を辿る~」の活動記録動画です。
【ameblo】
https://www.nankou-kenkyukai.com/%E6%B4%BB%E5%8B%95%E5%A0%B1%E5%91%8A%EF%BC%93/
当日は葛城宮司様のお心づくしのお心遣いと、多くの皆様のご参加のお陰をもちまして、盛況裡に終える事ができました事、心より厚く御礼申し上げます。
葛木神社での正式参拝に引き続き、楠公研究会会員の伊藤氏より、葛木神社の御祭神とゆかりの深き「イージス艦こんごう」の模型奉納と、葛城宮司様の温かいご厚意にて、模型奉納奉告祭も斎行いただきました。
その後、社殿にて宮司様から、神社のご由緒と大楠公の事跡についてのご講話を賜り、その後、金剛山頂の国見城跡へ移動し、今も遺る千早攻防戦当時の城跡の石垣や井戸、手水鉢等を見学させていただきつつ、国見城の構造を学びました。
また、国見城跡の傍の茶店では、千早城の戦い時から使われている井戸水を使ったコーヒーもご馳走になりました。
一般的には、「千早城をはじめ、金剛山には大楠公当時の遺構は全く残っていない」等と流布されていますが、実際には千早城跡にも石垣は一部残されておりますし、葛木神社には「福石」をはじめとした南北朝当時創建の矢刺神社の祠、国見城には石垣や手水鉢、井戸等多くの遺構が遺されているのです。
こういった事実は、現地に赴き、現地にゆかりの深き方々からお教えいただかなくては判らない事であり、だからこそ、私共楠公研究会が学び続ける意義があるのだと改めて痛感いたしました。
学会等にて定説とされている「大楠公に纏わる遺構はほとんど残っていない」の常識は、意識的に楠木一族の事蹟を幻のものとし、封印、風化させんが為の意図もあるのかもしれません。
しかし、私は、末裔として、先祖の真実が消されていくのを黙認はできない、その一念において、今後も微力ながら、顕彰活動を続けていきたいと思っています。
当日大変丁重なる御教授を賜りました葛城宮司様、そして、遠路も含め各地域からお運びくださいましたご参加者の皆様に、心から感謝でございます。- 153
- 42.6
- 42.6
- 10.7
2023-10-11 19:20:04
金胎寺から笠置寺に行幸の後醍醐天皇が渡った「祝橋」・休まれた「養生の芝」・女官が産気づいた「産坂」〜京都府和束町〜今回は元弘の変で御所を脱出した後醍醐帝が東大寺・春日大社を経て金胎寺へ遷幸、その後笠置寺へ遷られる際に京都府和束町の知られざる秘境に伝わる逸話を、現地の方から現地取材。
楠公研究会賛助会員で、京都府和束町で「和所美土里屋」オーナーでもある和所氏にご案内頂いた。
金胎寺から笠置寺へ遷幸される際に、村人が祝橋という橋をかけた。
橋の用材として使われた木は和束町内に鎮座する八坂神社のご神木が用いられた。
今回は八坂神社調査の目的もあり、某神社のベテラン神職で、楠公研究会賛助会員でもある伊藤氏も同行。
なぜ、八坂神社の御神木を祝橋の用材としたのか、その知られざる意図を知る事ができた。
また、道中に腹痛を起こされた後醍醐天皇が暫し休息をとられた「養生の芝」へもご案内頂いた。
ここは金胎寺のある鷲峰山山麓の茶畑の真ん中にあり、地元の方の案内無しでは辿り着けない地である。
「養生の芝」は、新たに和束町長となられた馬場正実町長にお教え頂いた後醍醐天皇ゆかりの地である。
地元でしか知り得ぬ貴重な情報をご教示頂いた馬場町長に感謝です。
歴史書では語られぬ南北朝動乱前夜の真実の歴史がここにある。ケバ カワイイ
- 70
- 11.4
- 57.1
- 22.9
2023-06-02 20:00:00
建武中興の立役者・万里小路藤房の終焉地・滋賀県湖南市三雲【妙感寺】滋賀県湖南市三雲の南朝ゆかりの地・妙感寺へ参詣。
妙感寺の開山は授翁宗弼(じゅおうそうひつ)。
俗名は藤原藤房。
後醍醐天皇の建武中興に尽力した楠木正成、新田義貞と並ぶ「建武三忠臣」の一人。
万里小路藤房(までのこうじふじふさ)とも称され、楠木正成の最たる盟友の1人である。
この藤房の終焉の地として、彼の墓所があるのがここ妙感寺であり、南朝とは深い縁がある。
楠木正成の妻は藤房の妹・滋子と伝わる。
拙著『建武中興と楠木正成の真実』でも触れているが、楠木家と万里小路家との縁戚関係から、笠置挙兵時の後醍醐天皇の「南木の夢」の折、藤房は義理の弟にあたる正成を後醍醐天皇に推挙したと考えられる。
実際、正成に笠置参陣の勅使として楠木館に遣わされたのも、万里小路藤房であり、全ての辻褄が合致する。
元弘元年(1331)9月28日未明、風嵐に見舞われる中、鎌倉幕府方で組まれた決死隊の急襲を受け、笠置城は陥落。
瞬く間に猛火に包まれ、50ヶ寺と共に本尊の弥勒菩薩もろとも焼失した。
後醍醐天皇と藤房は辛くも笠置城を脱出し、正成の籠る河内の赤阪城を目指したが、程無く道に迷い、有王山(京都府井手町)の山中に迷い込んでしまう。
有王山麓の松の下で「さしてゆく笠置の山を出でしより、あめが下には隠れ家もなし」とお詠みになると、藤房卿は「いかんせん慿む蔭とて立ち寄れば、なお袖濡らす松の下露」と返され、天皇を慰められた逸話は余りにも有名である。
この後、天皇と藤房は幕府方の追っ手に捕らえられ、隠岐島に配流となる。
天皇が配流された後も、楠木正成は赤阪城、千早城で籠城戦を展開した。
楠木軍によって散々に翻弄される幕府の大軍を目の当たりにし、鎌倉幕府の御家人・新田義貞、足利高氏らが幕府に失望し相次いで離叛。
伯耆国の豪族・名和長年が隠岐島から天皇を奪還すると、形勢が宮方有利に転じた。
足利高氏が京都の六波羅探題を、新田義貞が鎌倉を陥落させ、北条一門は自刃、鎌倉幕府は滅亡し、ここに建武の中興が成立した。
建武中興の成立後、藤房は後醍醐天皇の親政のもとで恩賞方を務めた。
武家への恩賞が余りに薄い事を受け、武家の離叛を恐れた藤房は後醍醐天皇に対して諫言したものの聞き入れられず、藤房は政治に絶望。
建武元年(1334)に39歳で突如出奔して出家し、諸国を放浪した。
「授翁宗弼」と号し、公卿時代の知行地であった江州三雲の郷に於いて、後醍醐天皇念持仏の千手観音を奉安する持仏堂を建立したのが妙感寺の開基で、持仏堂が本堂。病を得、療養の為、三雲に移り妙感寺に穏棲。
天授六年(1380年)3月28日、85歳で亡くなった。
本堂の横には、五輪塔が立つ大師の墳墓がある。東京都港区の御穂鹿嶋神社も是非参拝してください 土浦に茨城県指定の藤房卿遺跡があります 藤房は、隠岐の島ではなく常陸国に配流されます ケバ キレイ
- 67
- 1014.9
- 34.5
- 23.0