タグ建武の新政を含む動画:4件 1ページ目を表示
2024年9月26日 07時11分に生成された05時00分のデータです
2011-03-31 00:37:19
PCエンジンHuカード 太平記 第一部その2PCエンジン Huカード版ゲームです。1部の続きで敵武将数を半減させてます(15→8人)。倍速です。
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マイリスト mylist/16753591形勢逆転 なるほど あぶねえ やばい これは死んだ 返り討ちにあった 弓がいないとな 弓が・...
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2021-10-26 04:27:03
なぜ建武政権はわずか2年で崩壊したのか 〜「二条河原の落書(※現代語訳有り)」に仕掛けられた罠〜【小学生でも分かる南北朝時代の歴史】つまり、建武政権瓦解の直接的キッカケの役割を担ったのは、建武政権樹立一年後に「京童(身元不明の京都市民の何者か)」によって突如建てられた立札で、建武政権の欠点を皮肉たっぷりにこき下ろした「二条河原の落書」の存在。
【原文】
此比都に流行る物、夜討、強盗、偽綸旨
召人、早馬、虚騒動、生頸、還俗、自由出家
俄大名、迷者、安堵、恩賞、虚軍
本領離るる訴訟人 文書入れたる細葛
追従、讒人、禅律僧 、下克上する成出者
器用の堪否沙汰も無く 漏るる人無き決断所
着付けぬ冠上の衣 持ちも慣らわぬ笏持ちて
内裏交わり珍しや 賢者顔なる伝奏は
我も我もと見ゆれども 巧みなりける詐りは
愚かなるにや劣るらん 為中美物に飽き満ちて
まな板烏帽子歪めつつ 気色めきたる京侍
黄昏時に成りたれば 憂かれて歩く色好
幾ぞ許ぞや数知れず 内裏拝みと名付けたる
人の妻鞆の憂かれ目は 他所の見る目も心地悪し
尾羽折れ歪むエセ小鷹 手ごとに誰も据えたれど
鳥獲る事は更に無し 鉛作りの大刀
太刀より大に拵えて 前下がりにぞ指折らす
バサラ扇の五骨 広輿、痩せ馬、薄小袖
日銭の質の古具足 関東武士の籠出仕
下衆上﨟の際も無く 大口に着る美精好
鎧直垂なお捨てず 弓も引き得ず犬逐物
落馬矢数に勝りたり 誰を師匠と無けれども
遍く流行る小笠懸 事新しき風情無く
京鎌倉を掻き混ぜて 一座揃わぬエセ連歌
在々所々の歌連歌 点者になる人ぞ無き
譜代非成の差別無く 自由狼藉世界なり
犬田楽は関東の 滅ぶる物と云いながら
田楽は尚流行るなり 茶香十火主の寄合も
鎌倉釣に有鹿と 都はいとど倍増す
町ごとに立篝屋は 荒涼五間板三枚
幕引き廻す役所鞆 その数知らず満ちにたり
諸人の敷地定まらず 半作の家これ多し
去年火災の空地ども 禍福にこそなりにけり
適残る家々は 点定せられて置き去りぬ
非職の兵仗流行りつつ 路次の礼儀辻々は無し
花山桃林寂しくて 牛馬華洛に遍満す
四夷を鎮めし鎌倉の 右大将家掟より
只品有りし武士も皆 成めんたらにぞ今は成る
朝に牛馬を飼いながら 夕に変在る功臣は
左右に及ばぬ事ぞかし させる忠功無けれども
過分の昇進するも在り 定めて損ぞ在るらんと
仰いで信をとるばかり 天下一統珍しや
御代に生きて様々の 事を見聞くぞ不思義とも
京童の口ずさみ 十分一をも漏らすなり横浜市昔の会社に足利氏 部門違い 野球部。 宮城県仙台市宮城野区 楠自動車 それ以前は北目町 昔の会社で自動車整備車検等。 昭和45年頃 和製 エレキギターバンド ゴダイゴ 彼等は今何をしているのか? わこつ 天皇親政 @うわ 姫様発見
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2023-10-11 19:20:04
金胎寺から笠置寺に行幸の後醍醐天皇が渡った「祝橋」・休まれた「養生の芝」・女官が産気づいた「産坂」〜京都府和束町〜今回は元弘の変で御所を脱出した後醍醐帝が東大寺・春日大社を経て金胎寺へ遷幸、その後笠置寺へ遷られる際に京都府和束町の知られざる秘境に伝わる逸話を、現地の方から現地取材。
楠公研究会賛助会員で、京都府和束町で「和所美土里屋」オーナーでもある和所氏にご案内頂いた。
金胎寺から笠置寺へ遷幸される際に、村人が祝橋という橋をかけた。
橋の用材として使われた木は和束町内に鎮座する八坂神社のご神木が用いられた。
今回は八坂神社調査の目的もあり、某神社のベテラン神職で、楠公研究会賛助会員でもある伊藤氏も同行。
なぜ、八坂神社の御神木を祝橋の用材としたのか、その知られざる意図を知る事ができた。
また、道中に腹痛を起こされた後醍醐天皇が暫し休息をとられた「養生の芝」へもご案内頂いた。
ここは金胎寺のある鷲峰山山麓の茶畑の真ん中にあり、地元の方の案内無しでは辿り着けない地である。
「養生の芝」は、新たに和束町長となられた馬場正実町長にお教え頂いた後醍醐天皇ゆかりの地である。
地元でしか知り得ぬ貴重な情報をご教示頂いた馬場町長に感謝です。
歴史書では語られぬ南北朝動乱前夜の真実の歴史がここにある。ケバ カワイイ
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2023-06-02 20:00:00
建武中興の立役者・万里小路藤房の終焉地・滋賀県湖南市三雲【妙感寺】滋賀県湖南市三雲の南朝ゆかりの地・妙感寺へ参詣。
妙感寺の開山は授翁宗弼(じゅおうそうひつ)。
俗名は藤原藤房。
後醍醐天皇の建武中興に尽力した楠木正成、新田義貞と並ぶ「建武三忠臣」の一人。
万里小路藤房(までのこうじふじふさ)とも称され、楠木正成の最たる盟友の1人である。
この藤房の終焉の地として、彼の墓所があるのがここ妙感寺であり、南朝とは深い縁がある。
楠木正成の妻は藤房の妹・滋子と伝わる。
拙著『建武中興と楠木正成の真実』でも触れているが、楠木家と万里小路家との縁戚関係から、笠置挙兵時の後醍醐天皇の「南木の夢」の折、藤房は義理の弟にあたる正成を後醍醐天皇に推挙したと考えられる。
実際、正成に笠置参陣の勅使として楠木館に遣わされたのも、万里小路藤房であり、全ての辻褄が合致する。
元弘元年(1331)9月28日未明、風嵐に見舞われる中、鎌倉幕府方で組まれた決死隊の急襲を受け、笠置城は陥落。
瞬く間に猛火に包まれ、50ヶ寺と共に本尊の弥勒菩薩もろとも焼失した。
後醍醐天皇と藤房は辛くも笠置城を脱出し、正成の籠る河内の赤阪城を目指したが、程無く道に迷い、有王山(京都府井手町)の山中に迷い込んでしまう。
有王山麓の松の下で「さしてゆく笠置の山を出でしより、あめが下には隠れ家もなし」とお詠みになると、藤房卿は「いかんせん慿む蔭とて立ち寄れば、なお袖濡らす松の下露」と返され、天皇を慰められた逸話は余りにも有名である。
この後、天皇と藤房は幕府方の追っ手に捕らえられ、隠岐島に配流となる。
天皇が配流された後も、楠木正成は赤阪城、千早城で籠城戦を展開した。
楠木軍によって散々に翻弄される幕府の大軍を目の当たりにし、鎌倉幕府の御家人・新田義貞、足利高氏らが幕府に失望し相次いで離叛。
伯耆国の豪族・名和長年が隠岐島から天皇を奪還すると、形勢が宮方有利に転じた。
足利高氏が京都の六波羅探題を、新田義貞が鎌倉を陥落させ、北条一門は自刃、鎌倉幕府は滅亡し、ここに建武の中興が成立した。
建武中興の成立後、藤房は後醍醐天皇の親政のもとで恩賞方を務めた。
武家への恩賞が余りに薄い事を受け、武家の離叛を恐れた藤房は後醍醐天皇に対して諫言したものの聞き入れられず、藤房は政治に絶望。
建武元年(1334)に39歳で突如出奔して出家し、諸国を放浪した。
「授翁宗弼」と号し、公卿時代の知行地であった江州三雲の郷に於いて、後醍醐天皇念持仏の千手観音を奉安する持仏堂を建立したのが妙感寺の開基で、持仏堂が本堂。病を得、療養の為、三雲に移り妙感寺に穏棲。
天授六年(1380年)3月28日、85歳で亡くなった。
本堂の横には、五輪塔が立つ大師の墳墓がある。東京都港区の御穂鹿嶋神社も是非参拝してください 土浦に茨城県指定の藤房卿遺跡があります 藤房は、隠岐の島ではなく常陸国に配流されます ケバ キレイ
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