キーワード真言密教を含む動画:121件 ページ目を表示
2024年12月26日 07時00分に生成された05時00分のデータです
2009-08-10 21:09:32
秘蔵宝鑰 by弘法大師空海1.異生羝羊心 - 煩悩にまみれた心2.愚童持斎心 - 道徳の目覚め・儒教的境地3.嬰童無畏心 - 超俗志向・インド哲学、老荘思想の境地4.唯蘊無我心 - 小乗仏教のうち声聞の境地5.抜業因種心 - 小乗仏教のうち縁覚の境地6.他縁大乗心 - 大乗仏教のうち唯識・法相宗の境地7.覚心不生心 - 大乗仏教のうち中観・三論宗の境地8.一道無為心 - 大乗仏教のうち天台宗の境地9.極無自性心 - 大乗仏教のうち華厳宗の境地10.秘密荘厳心 - 真言密教の境地『十住心論』の内容を簡略に示したものが、『秘蔵宝鑰』である。bywikipedia
なんか空海? ここ今入れないよね お四国? 意外と参考になったわ。主乙 うわあああああああああああああああああ 般若=境とは知らなかった 空海・・・一体なにものなんだ・・・・・ 目つきがカッコイイ あぁそういうコトだったのか・・・ たしかにな。 ←いやどす
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2021-06-20 00:35:03
虚空蔵菩薩 真言 21返 mantra 【記憶力増進】虚空象菩薩様の御真言です。
【ノウボウアキャシャキャラバヤオンアリキャマリボリソワカ】
虚空蔵菩薩様は、宇宙全体に生きている雄大な智恵を一身にお持ちになられている仏様です。弘法大師様は青年時代に虚空象菩薩様の真言を100万遍お唱えする虚空蔵菩薩求聞持法を修行され仏様の智恵を得られました。
年忌では、33回忌を司る仏様です。
御真言は3回か、7回か、21回か、108回唱えます。□
※宗派や伝により唱え方は様々です。
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ご視聴いただきましてありがとうございます。□
毎月28日には、不動護摩供を厳修しております。どなたでもご参拝いただけます。ニコニコで生放送を配信しています。(会員限定)
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2008-12-10 10:35:42
~ 高野山 ~和歌山・高野山
仏になって高野山にいるらしいよ 高野山高校宗教科に入りたい そうかい? 空海さんにまた会いたい オンマイタレイヤソワカ 灯籠堂好き 五味地蔵? ものすごく清らか かりやん 毛利家がすごい おおおお お大師さま ここ入って泣いてしまった 癒されるで 霧...
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2011-11-01 13:17:25
ダライ・ラマ14世 高野山訪問来日しているチベット仏教の最高指導者ダライ・ラマ14世が真言宗の総本山、和歌山県の高野山を訪れ、修行僧らに法話を行いました。 ダライ・ラマ14世は1959年、中国軍の弾圧によりインドに亡命。 その後非暴力によりチベットの民主化を推し進め、89年にはノーベル平和賞を受賞しました。 今回の来日は高野山を総本山としている真言密教とチベット密教の文化交流が目的で、ダライ・ラマは講堂に集まった多くの修行僧らに向かって法話を行いました。 本人たっての希望でダライ・ラマが修行僧からの質問に、直接答える時間も設けられ、「人生の幸福」についてやりとりする場面もありました。 高野山での交流は3日間に渡って行われ、ダライ・ラマはその後、---
キテレツ 高野山とダライ・ラマは仲がいい 7万円かかった 中国の弾圧じゃなく侵略な フリー...
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2021-05-19 19:22:20
小学生でも唱えられる般若心経(はんにゃしんぎょう) 3返 ひらがななので簡単におとなえ出来ます。読経は呼吸を整えて自分のペースで行いましょう。息継ぎの箇所はそれぞれで大丈夫です。□癒し・ヒーリング□はんにゃしんぎょうは、いみがよくわかりにくいお経ですが、何回もとなえるとだんだんとわかってくるお経だといわれています。
まずは、音から入ってじょじょにお経に親しんでいただけるように、この動画を作成しました。
お経を練習するお役にたてば幸いです。□
イラストはこちらからお借りしました。合掌
いらすとや https://www.irasutoya.com/
アニメーションはkeynoteを使用して初めて作りました。(^_^;)
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2018-11-19 22:25:02
【神道シリーズ】第39回・両部神道①(まずは真言密教とは何か?から)いよいよ日本の中世から近世にかけて圧倒的な宗教的ヘゲモニーを握った真言密教系神道である両部神道のお話に入りますが、その前にまずは真言宗(真言密教)とは何か?を理解していないと、両部神道のみならず、その後に展開された伊勢神道や吉田神道という中世から近世にかけて重要な役割をした中世神道を理解することが出来ません。
ちなみに、伊勢神道は両部神道(真言密教系)と道家(道教)の結合によって生まれ、さらに吉田神道は、その伊勢神道(両部神道+道教)に儒教思想が加わって出来ています。
奈良時代までは雑密と言う未完成な呪術中心の密教の下で朝鮮半島由来の古代信仰(神祇信仰)と習合が進み、神宮寺の形成により雑密仏教が神祇信仰を支配する仕組みが出来ていましたが、中世以降は純密と言われる真言宗系密教が神祇信仰をその傘下において発展していきます。- 809
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2019-03-25 22:15:03
【神道シリーズ】第53回・八百万の神⑩飯縄のクダ狐に始まる全国の迷信前回は飯縄三郎坊という烏天狗の飯縄大権現について高尾山を中心とする飯縄大権現信仰についてお話しましたが、今回は、「飯縄信仰」の中でのもう一つの要素「飯縄(いづな)の法」に基づく「クダ(管)狐」に纏わる信仰と伝承についてお話していきたいと思います。
戸隠山と飯綱山と高尾山は「飯綱(飯縄)」信仰繋がりなんですが、戸隠は「飯縄の法」から発展した験術(日本の忍者などのルーツとなる)が中心で、飯綱山は「飯縄の法」で使役すると言われる「クダ(管)狐」に纏わる信仰、そして高尾山では「飯縄の法」やクダ狐とは無縁で、狐=ダキニ天とする真言密教の影響が圧倒的に強く、ダキニ天法と修験道の不動明王、そして中国から伝わって日本で形成された天狗のイメージとの習合による「飯縄大権現」(飯縄三郎坊・天狗)の信仰が中心となります。
今回は、飯綱山を中心に発生した「クダ狐使い」が江戸時代以降には全国に様々な形で伝わり、日本中を覆うように様々なクダ狐繋がりの迷信が広がり、それがなんと今日まで残ってることについてお話をします。たぐ… クマ出没注意だよ! これだけタグ狐が増えたのは、管狐の仕業に違いない
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2018-09-10 22:41:02
【神道シリーズ】第32回・白山信仰(朝鮮道教と天台密教と真言密教の接点)①682年(天武天皇の時代)に越前(福井県)の麻生津に生まれた渡来系(朝鮮半島系・新羅)の家系の両親の下に生まれた泰澄(たいちょう)は、11歳の時に中国の玄奘三蔵法師の直弟子だった法相宗の僧侶・道昭(道照)に天童と見込まれ、14歳の時に夢に十一面観音が出てきて、指示されたように近くの越知山で山林修行を始め、そして36歳の時、夢に女神の白山神(菊理媛<ククリヒメ>)が現れ、指示されたように白山に登ると、九頭龍王に出会い、九頭龍王が自ら自分の本当の姿は十一面観音だと名乗り、ここに泰澄が白山を開山することになります。
白山信仰では飛鉢(ひはつ)法と言って米の入った鉢を泰澄の弟子の臥業者(ふせりのぎょうじゃ)が飛ばして越知山に運ぶという伝承がありますが、この類似の伝承と十一面観音本尊の本地垂迹思想は白山を中心に北陸全体・美濃(岐阜県)北部・畿内へと広範に広がり、泰澄の足跡と重なるように「十一面観音信仰地帯」のようなものを形成して行きます。言われてみれば九は老陽の数だな 世界のATMにっぽん
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2018-05-28 21:45:32
【神道シリーズ】第19回・(践祚)大嘗祭について(桓武以降中国化した朝廷文化>即位儀礼・天長節・・)大嘗祭と言えば新天皇即位の宮中儀礼として知られてますが、実は新嘗祭(大嘗祭)が天皇即位の年の11月に行われるようになったのは平安時代の桓武天皇の時代からで意外と歴史が浅く、しかも、大嘗祭=天皇即位儀式としたのは中国(唐)の皇帝即位儀礼である冬至の郊祀(こうし)を真似たものだったのです。
そもそも(文献で確実に行われたと確認できる範囲だと)大嘗祭が新嘗祭として行われるようになったのは奈良時代の天武天皇の頃からだとされますが、この大嘗祭(当時は天皇即位儀礼ではなかった)も天日槍来日時代に新羅より伝わったとされる天の羽衣伝説から来ており、その伝説のように天皇が羽衣を来て沐浴すし(天羽衣伝説と同様)、その後地方で採れた新米を食する、という儀礼は、朝廷儀礼の中国化を進めた桓武天皇の時代に即位儀礼として今日に至ります。
しかしながら、嵯峨天皇より明治の前まで途絶えることなく続いた真言密教による荼枳尼天即位灌頂に比べ、この践祚(せんそ)大嘗祭も室町時代から江戸時代に至る240年間の中断があったり、伊勢神宮の式年遷宮も120年以上の中断があったりと、皇室自体がこうした儀礼に強い興味を示していなかった(真言密教一筋だった)ことが窺われます。てんじでしょ、読み方くらいしっかりしてよ
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2018-04-24 00:08:53
【神道シリーズ】第14回・本地垂迹説(日本のすべての神々(朝鮮渡来の神々および人工神)は仏の眷属の化身とされる)宇佐八幡(八幡大菩薩)シリーズの第三話に進む前に、この本地垂迹説、つまり、日本の神々(元は朝鮮半島・新羅から)は仏の眷属(仲間たち)の化身であるとする思想をよく理解しておく必要があると思い、この一話を挿入することにしました。
八幡大菩薩が釈迦如来(本地)の化身(垂迹)だとされたのは9世紀後半で、本地垂迹説の先駆けだと言われます。
その後、11世紀、12世紀を通じて日本のすべての神社の神々は仏の眷属の化身であるとされるようになり、各神社に設置された神宮寺(神社を支配する寺)が中心となり各地独特の神仏習合文化を形成して行きます。
そして、これは一時期明治政府により否定され、神宮寺は破壊されたものの、この神仏習合思想は今日まで全国各地のお祭りや祭祀にまで生き続けています。
神社本庁を解体して全国神宮寺を復活させることこそが真に日本を取り戻すことだと思います。空海が軟禁されてるタイミングだったんすか!
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2018-05-14 22:46:25
【神道シリーズ】第17回・稲荷信仰(新羅系秦氏の伊奈利神と真言密教の習合)①山背国風土記によると、新羅から渡来した秦氏の秦伊侶具が餅を的に矢を射てたら餅が白鳥になって飛んでいき、峯に留まって稲となり、711年にはその地に伏見稲荷大社が創建されたとありますが、もともと稲荷とは伊奈利という新羅系秦氏が持ってきた神で、この神はこの伝説以降「稲荷」と稲が当てられるようになったのですが、平安時代になり真言密教の作った両部神道の理論により、大日如来の化身である荼枳尼天(だきにてん)と習合することになり、荼枳尼天の乗るジャッカルという生き物が狐に似てることから稲荷神のイメージとして狐が生まれてきます。
真言密教と繋がることにより稲荷信仰は全国へ広がり、一方、朝廷の中でもこの荼枳尼天を天皇家の本尊として祀るようになり、荼枳尼天真言による即位灌頂が皇位継承の絶対条件となり、この習慣は明治前の孝明天皇の時代まで続きます。(始まりは11世紀の後三条天皇の時代からと言われる)テスト
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2018-05-21 22:55:22
【神道シリーズ】第18回・稲荷信仰(新羅系秦氏「伊奈利」の神と真言密教の習合)②江戸時代以降室町時代の応仁の乱で焼け落ちた伏見稲荷大社の再建の為、真言宗の東寺(教王護国寺)は、その末寺で愛染寺という寺を創建し、そのお寺を伏見稲荷大社の神宮寺(つまり、伏見稲荷社を支配・管理する寺)とし、その愛染寺に集まった真言宗の密教僧らが中心となり、「稲荷勧進聖(かんじんひじり)」として全国に散って稲荷大社再建の為の寄付を集め、怒涛の勢いで勧進聖たちは伏見稲荷大社を再建すると同時に全国に(真言密教系)修験道を通じて稲荷信仰を広めました。これにより全国(特に関東を中心に)広がった稲荷信仰は、屋敷神、流行(はやり)神、農業神など多岐の性質を持った神として、武家、商人から農民へと国の辻浦浦まで広まっていきます。
明治以降は、神仏判然令の弾圧を受け、神仏が切り離されましたが、民衆の中に根強く残る稲荷信仰はお塚(石碑)を作り般若心経を唱え、やがてはお塚に建てた鳥居が千本鳥居となり、現在各地に見られる「お稲荷さん」になっていきます。トラック さっしょうせきw いなり寿司食べたいw 護摩? 口笛w タミヤ たまものまえ殺生石な しんでんやろw 面白いねえ れいむじゃない? 1
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2012-10-12 10:00:00
レンタルマギカ[TVシリーズ] #16 赤い槍山の中でトレーニングに励む最中、いつきは悪霊「ラルヴァ」の見せる悪夢にとりつかれる。その危機を救ったのは、真言密教を使用する“隻蓮”という男だった。何と彼は〈アストラル〉の契約社員だという。彼の戦いを見たいつきは、隻蓮に体術を習うことに。しかしある日、彼はいつきを夜の寺に残し、去ってしまう…。
so31880046←前話|次話→so31880048 第一話→so31879990完全にコスプレ軍団で草 ちくちく ぺちぺち つよそう メイド服!? うちの社員やんけ! ちょろい オープニングの人! 怪しい
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2018-06-04 22:26:02
【神道シリーズ】第20回・天神信仰(真言密教僧(道賢)によって広まった御霊信仰)神道関係無し①【神道シリーズ】第20回・天神信仰(真言密教僧(道賢)によって広まった御霊信仰)神道関係無し①
日本の御霊信仰は、8世紀の聖武天皇の時代の長屋王の変や9世紀の桓武天皇の時代の早良(さがら)親王事件などの第一期御霊信仰と、菅原道真の大宰府左遷での憤死のよる
菅公(道真)御霊(怨霊)に始まる第二期御霊信仰の二期に分かれます。
第一期での鎮霊は雑密の法相宗の僧侶たちによってなされ、第二期になると真言宗の僧侶たちによってなされてます。
第一期では朝廷内だけでの御霊信仰でしたが、第二期の道真の御霊信仰は、吉野峯真言修験僧の道賢(どうせん)が自らの臨死体験を綴った「道賢上人冥途(めいど)記」の中で蔵王菩薩が現れ、道賢を道真の御霊である大政威徳天に会わせられ、そこで地獄の煉火の中で苦しむ藤原時平や醍醐天皇の姿を見せられた上で(道賢)に「日蔵」という名前を与えてもらった、という話が書かれています。
この逸話は朝廷のみならず農民を中心とする民衆の間にも広く広まり、自在天神、大富天神などの名で全国に広まります。
その天神信仰は御霊信仰を越えて農民の田歌や田楽にも影響を与え今様(いまよう)歌として広まり今日に続いていきます。- 365
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【鎌倉仏教シリーズ】第15回・平安仏教①真言宗(その1)4-1奈良時代は、南都六宗という学問仏教が到来しましたが、中でも法相宗の僧侶たちは、孔雀明王法や七曜秘法などの雑密呪文を取り入れ、その霊的能力によって朝廷に(玄昉・道教ら)、そして庶民(行基ら)に強く支持されてきました。平安時代になると、体系化された密教(純密=真言宗)を求めて空海は唐に旅立ち、帰国後、その後の中世日本の朝廷や地方庶民を精神面を支配する日本の真言密教を完成します。
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2021-07-03 01:53:25
十三仏真言 21返〜安らかなる仏の国へ導いてくださる御仏さま〜十三仏の御真言です。
十三仏は初七日から三十三回忌までを司る御仏様です。
亡くなられた方を導いてくださる御仏様です。
※宗派や伝により唱え方は様々です。
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2018-07-30 22:48:02
【神道シリーズ】第27回・祇園信仰(新羅の神(牛頭天王)と陰陽五行思想)神道無関係w②前回は祇園信仰の成り立ちと基本構造についてお話しましたが、とにかく祇園信仰とは、朝鮮半島(新羅)から伝わった牛頭天王(スサノオ)と道教伝説で中国⇒半島⇒播磨(兵庫)と伝わった蘇民将来の伝説(武塔神=天刑星)の習合からなるもので、所謂「神道」(古事記・日本書紀に基づくもの)とはまったく無関係の信仰で、
今回は全国に広がった祇園祭(地域によっては天王祭<牛頭天王>とも呼ばれる)に注目し、多様化して広がった祇園祭(ないしは天王祭)を見て行きたいと思います。
日本の三大祭と言えば、この祇園祭と天神祭(御霊信仰と浄土信仰と天台密教)と神田祭(神田明神=御霊信仰と真言密教)と、いずれも古事記・日本書紀にはまったく無関係で、いわゆる「神道」とは無関係です。
しかしこの「神道」にまったく無関係な三大祭のうちの祇園祭(天王祭)と天神祭はおよそ日本の都市部(大都市・中小都市)のほとんどで見られ、残りは山間部などの修験道系(真言密教系)と考えると、そもそも「神道」などというものは存在するのか?と疑問を感じざるを得ません。- 293
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2024-04-24 19:00:00
第三の目で日月神示を超訳#3|大難を小難に日月神示に、大難を小難にするには改心が第一とあります。その改心をする必要とは何なのか?また、どのような理屈で大難が小難となるのか?という事をまとめました。
▲音声読み上げソフト
VOICEVOX :https://voicevox.hiroshiba.jp/
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Voice:四国めたん
Voice:波音リツ
▲ヤタガラスピリチュアル関連リンク
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ニコニコ動画:https://www.nicovideo.jp/user/121010818
▲BGM
▽芸能山城組 - AKIRA (SOLIDSEEKER Remix)
https://www.youtube.com/watch?v=WD07ZsBGgIs&list=WL&index=1
▽ストーリー・テラー / 世にも奇妙な物語【PianoArrange】
https://www.youtube.com/watch?v=_ODscwL7SeE
▽スネ夫が自慢話をするときに流れている曲 親子でエレクトーン演奏
https://www.youtube.com/watch?v=W1obqpkkZjw
▽Metal Gear Solid 2 / 3 - Main Theme (remastered)
https://www.youtube.com/watch?v=Y9WX7FP-6lY&list=WL&index=17
▽曲(title):筍の訪れ
楽曲提供(Free Download):おとわび
URL:https://otowabi.com/
https://www.youtube.com/watch?v=9TEJMVeDV9c&list=WL&index=21
▽Akira Theme Remix - ZaGa
https://www.youtube.com/watch?v=Qss2BL8a6ow&list=WL&index=27
▲引用資料
▽密教:その3:空海と真言密教
https://www.sets.ne.jp/~zenhomepage/mikkyou3.htmlよい動画であった つまりは「両建て」にして「どっち転んでも勝ち」だな 詐欺師や政府やメディアを見習え・・・だな 幻魔大戦みたいな形のない戦争やな 「選挙に行け」も罠である 令和=0和(日本人ゼロ化) 「大切な人をまもるため」「思いやり接種」www 顔...
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2018-12-03 22:32:02
【神道シリーズ】第41回・両部神道③大日如来=天照大神説が中世日本を支配する日本の神道とはいつ形成されたのか?と言う問いに対して、縄文時代とか弥生時代からと信じてる人は多いように見受けますが、実際宗教としての神道が作られ始めたのは鎌倉時代(元寇以降)で、完成を見たのが室町時代(吉田神道)と言うのが学者たちの間で共通してる認識です。
もちろん仏教伝来(6世紀)以前に朝鮮半島からの移民による氏神信仰というのが渡来豪族たちの間で存在していたのですが、仏経が伝来するとすぐに豪族や朝廷の間で仏教信仰が始まり、8世紀になると神身脱落と言って、氏神たちがこぞって仏教徒になり、護法善神として仏教を守りながら(神たちが)仏教の修行に励むという時代になりました。
9世紀に真言密教や天台密教が広まり、鎌倉時代の元寇を境に真言密教による神道(両部神道)が形成され、密教理論による神国日本論が展開され、天照大神が大日如来の化身であり、日本は第六天魔王の支配下にあるという思想が平家物語や太平記と言った大衆文学の間にも見られるようになり、まさに(真言密教による)両部神道は中世の精神支配(国民を含めて)を確立します。
今回は、その両部神道の理論書とも言われる麗気記や中臣祓訓解などを紹介していきたいと思います。
両部神道はその後、真言系の当山派修験として全国に広がり、古事記や日本書紀に出てきた神々に密教的解釈を加え、所謂「八百万の神」の伝承や信仰を作って行きます。直木孝次郎説ですかw 古い説ですね
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2018-11-26 22:31:03
【神道シリーズ】第40回・両部神道②(伊勢神宮と両部神道の歴史)密教によって伊勢神宮が再興する平安時代始めの真言宗開宗(806年)以降、朝廷の信仰は真言宗中心となり、中には真如法親王のように平城天皇の皇太子でありながら皇位継承を拒否し、出家して真言僧となり、インドへの求法の旅へと出て行方不明となった皇族も出るほど皇室はこぞって真言密教の信仰に熱中しましたが、鎌倉時代に入り13世紀の元寇の時代を迎えると、真言宗の主流派は伊勢神宮の内宮(禰宜・荒木田氏)への接近を図り、伊勢神宮を真言密教の理論に当てはめ、内宮を胎蔵界、外宮を金剛界とし、神宮全体を真言密教の大曼荼羅として描くようになります。
仏教信仰が盛んだった当時、伊勢神宮でも氏寺で出家得度する伊勢神宮の神職(宮司、禰宜ら)が後を絶たず、こうした背景の中、伊勢神宮の内宮は次第に真言密教の支配下に入って行きます。
天照大神を大日如来の化身と位置づけ、真言宗による「神国日本」論を展開し、皇室や伊勢神宮の持つ荘園全体に大きな影響力を広めて行きます。
やがて両部神道は伊勢神宮に留まらず、真言宗の学僧、勧進僧、高野聖などを通じて全国の修験道に絶大な影響を与え、古事記や日本書紀に出てくる神々を密教理論の上で解釈を加えた新説を持って地方の信仰対象に比定して行き、密教的な本地垂迹説により日本全国の修験道を塗り替えて行きます。
そして、やがて記紀の中では名前の羅列だけだった神々にも「八百万の神」の地方伝承を作って行きます。- 287
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【神道シリーズ】第23回・春日信仰(藤原氏の正体(百済人)・真言密教系神道(両部神道)の影)②春日大社は藤原氏(不比等・永手ら)によって政治的な意図で作られた神社であることは①の方で説明しましたが、そもそもこの藤原氏とは何なのか?
今回はそれと三社託宣(春日・八幡・伊勢)に見られる両部神道(真言密教が作った神道)の影響に焦点を当て春日大社創建の背景を見て行きたいと思います。
藤原氏の出自に関してはさまざまな研究と見解がありますが、どれも共通していることは「日本人ではなく百済人である」という点です。
朝廷の祭祀を司る役職にいた中臣氏の家系の中に滅亡百済王族がどのように入り込んで来たのか?
百済王族は、藤原氏の計らいで百済王氏としてその後も朝廷の中で生き続け、桓武天皇の母親(高野新笠)などを輩出したりしてますが、百済村と呼ばれる地域に住み、百済人の濃厚な血筋を維持しながら朝廷内で生き続けて行きました。
一方、三社託宣では、春日・八幡・伊勢の三社が同時に儒教・道教的な道徳的訓示を託宣発表するという事になり、その中でアマテラスは真言密教理論に基づく両部神道で描かれた雨宝童子という16歳の少女として描かれています。
百済系の藤原氏の政治的思惑と興福寺のバックアップの中で生まれ、真言密教によって理論づけされ春日信仰は誕生します。- 282
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2022-07-15 22:01:02
【神道シリーズ・シーズン3】(思想編)大石凝真素美と言霊学言霊というと、あたかも太古の昔より「言葉には魂が宿ると言われてきた」と考えがちであるが、実は江戸時代より前に残る記録の中で言霊という言葉を使っていたのは9世紀に空海が書いた「声字実相(しょうじじっそうぎ)」という書の中で「五大に皆響き有り、十界に言語を具す、六塵悉く文字なり、法身は是れ実相なり」と、真言密教の真言について述べていたわけで神道とはまったく無関係だったのだが、言霊を神道と結び付けようという動きは、幕末の国学者・中村孝道から始まっている。
中村孝道は自ら開発した水茎文字というハングルに酷似した文字を神代文字だとし、それを現在のかな75音に置き換え、この75音は宇宙全体の神霊エネルギーを発していると主張した。
大石凝真素美は、天保3年(1832年)伊賀の国上野に生まれ、本名は望月春雄といい、医者の家系の家に運れたが、中村孝道の門人だった祖父の幸智から国学を教えられ、自ら医者の道を絶ち、国学者として生きていく決意をした。
1868(慶応4)年には、美濃の修験者で中村孝道の言霊思想を深く理解していると言う山本秀道の噂を聞いて訪ね、その知識と霊威に感じ入って師事し、そのまま居候して孝道の言霊学を学んだ。
その秀道と行った本田霊学の鎮魂帰神法の結果、自分はイシコリドメの生まれ変わりと悟り、名前を大石凝真素美と改名した。
大石凝は、中村孝道の真須美鏡を元にして言霊による宇宙や地球や人類の発生を説明しようとし、それによると、日本語の清音・半濁音・濁音を合わせた75音は「こえのこ」と呼ばれる神霊元子であり、この神霊元子の発生が宇宙を誕生させ、至大天球と言われる儒教の天空宇宙観を思わせる宇宙空間はこの神霊元子による言霊パワーによって形成され、その天球の中心部に大気が結晶して「地球」になったと主張する。
さらには、最初の人間達は、土の中で何年も過ごして、体が成熟すると土から出て来て爬虫類のような姿で何年も過ごし、その後で脱皮して人間の姿になったと言う。
人間は、眼・耳・鼻・舌・身・意識の「六識」を持ち、欲である「七識」と良心である「八識」、そして仏の智である「十識」を持つ、という実に仏教的な人間観を持っている。
大石凝は、宇宙を司るのは天御中主で、地球を司るのは大国主だとし、事代主は75音を司り、スクナビコナは外国語を司るとしたが、大国主が司る日本語は宇宙発生時以来の75音であり、日本語は世界言語のルーツだとまで主張した。- 264
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2015-05-14 16:39:13
【鎌倉仏教シリーズ】第15回・平安仏教①真言宗(その1)4-3奈良時代は、南都六宗という学問仏教が到来しましたが、中でも法相宗の僧侶たちは、孔雀明王法や七曜秘法などの雑密呪文を取り入れ、その霊的能力によって朝廷に(玄昉・道教ら)、そして庶民(行基ら)に強く支持されてきました。平安時代になると、体系化された密教(純密=真言宗)を求めて空海は唐に旅立ち、帰国後、その後の中世日本の朝廷や地方庶民を精神面を支配する日本の真言密教を完成します。
ここしっかり読んどけよまっあんたでは理解できないだろうがな http://www.mikkyo21f.gr.jp/kukai-ronyu/cat55/new-7.html 龍猛は空を説いた 真言宗の八祖の一番目に来るのが龍猛なのですが、 日本は神の国...
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2018-06-11 22:33:00
【神道シリーズ】第21回・天神信仰(真言密教僧(道賢)によって広まった御霊信仰)神道関係無し②903年に無念の死を迎えた道真の霊は、10世紀半ばには公家貴族から御霊・雷神として恐れられたのは有名ですが、天神信仰は10世紀から12世紀にかけて大きく形を変えていきます。
最初は朝廷内での御霊信仰であってのが、天台僧の道賢の「道賢上人冥途記」が地神経(金光明最勝王経>雑密経典)の話を伝える盲僧や盲女の琵琶法師たちによって広く伝わり、天神信仰は雑密仏教によって全国区となって行きます。
やがて鎌倉時代になると、天神は天台僧・是算によって本地が十一面観音とされ、幕府からも国家鎮護神の一つ(八幡神、春日明神などとともに)にされ、さらには雪冤(冤罪を救う)神とか学問の神、書道の神、詩文の神などとしても信仰されていくことになります。
天神信仰は、所謂「神道」にはまったく無関係な神信仰ではありますが(中身は雑密)、現在も全神社の1割を占めるのでお話をしておきます。- 236
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2020-01-27 22:41:02
【神道シリーズ】第80回・早池峰神楽(両部神道<真言宗>がもたらした古事記の真言密教的解釈の当山派(真言系)修験芸能)早池峰神楽は平成21年(2009年)にユネスコの無形文化遺産に登録されましたが、この世界的に有名な神楽は岩手県早池峰山の麓の3つの地域に
3つの早池峰神楽が現在存在しています。
もともと早池峰神楽が始まったのは室町時代後半の15世紀後半頃からですが、9世紀より天台宗の拠点であった早池峰山信仰の中心の4つの院を持つ
妙泉寺のうち、西登山口の大迫(おおはさま)に位置する池上院妙泉寺は
14世紀に真言宗の支配下になり、その真言宗の進出には真言系の修験道と、真言密教が作った両部神道の思想や歴史観も同時にもたらされました。
両部神道の教義書(理論書)である「中臣祓訓解」の中に登場する瀬織津姫(せおりつひめ)(←古事記・日本書紀には出てこない神)が早池峰の地にもたらされ、十一面観音を本地とする早池峰権現の垂迹の姿としての瀬織津姫とされました。
一方、両部神道(真言密教神道)に基づく古事記解釈による早池峰神楽は
当山派(真言系修験道)の山伏たちの芸能として大迫の大償地区で発生し(15世紀後半)、その後、(大迫の)岳地区に伝わり、やがて江戸時代になると遠野の大出にも伝わり、3つの早池峰神楽が形成されて今日まで至っています。- 233
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2021-01-18 23:04:02
【神道シリーズ・シーズン2】第16回・吉田神道(時代に乗ったフェイク神道)吉田神道は、南北朝の争いで南朝方に加担した伊勢神宮が伊勢神道の影響力が地に落ち、そして戦国時代の夜明けとも言える応仁の乱のあとに伊勢神道を受け継ぐようなかたちで京都の吉田神社で誕生した。
吉田神道の創始者の吉田かねともはアメノコヤネを始祖とする中臣氏の流れの卜部氏の系統のヨシダケ出身で、ある意味武家社会が本格的に朝廷を上回る政治的立場を確立した時代にマッチした神道理論を提案する絶好の機会であったとも言える。
当時も農民を中心とした一般庶民の信仰は100%仏教で、神道理論は庶民というよりも貴族や武家などその時代の支配者たちに提供された体制保障の論理であり、それがこれまで末法時代の克服論であったり救民救済であったりしたのが、武家社会が朝廷を圧倒する戦国時代になると封建支配体制正当化の儒教朱子学理論を軸とした神道理論が武家の間で重宝されるようになったのである。
吉田かねともはそうした時代の流れに狡猾にもうまく乗り、仏教儒教道教を総合しつつも儒教的君民統治論に重点をシフトした神道論を武家の支配層への時代ソルーションとして提供することに成功した。
しかし、その為にかねともは過去に存在してなかった自称古書を自らの著作で捏造し、あたかも太古の昔から吉田神道が存在したような主張をし、さらにかつて密教勢力や伊勢神道の渡会行忠がやったような偽書捏造を通じて京都の吉田神社境内に建てたサイジョウこそが絶対神の国常立のみことの聖地とし、この日本書紀書き換えには伊勢神宮からの強い反発を招き、両者は鋭く対立を続けることとなったのである。
吉田かねともは、吉田神道こそはアメノコヤネ以来日本で唯一こんにちまで伝えられた唯一の元本宗源神道であると主張し、仏教も儒教も道教も同一の理念である理由はこの吉田神道がそれらの起源であるからだとまで豪語したが、問題はその中味がその仏教儒教道教の理論書からの切り貼りであり、すべての宗教の根源とする神道なるものの姿がまったく見えてこないところにあった。
しかしながら、これまで豪族貴族の始祖か御霊のみに限り死者を神と祀って来た過去の歴史を刷新するように時の権力者や儒教的な忠君論的立場より死者を神として祀ることを提唱した吉田神道は、豊臣秀吉や徳川家康など時の権力者たちから受け入れらることとなり、吉田神道は政治的にその地位を確保することになったのであった。- 231
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2018-12-10 22:32:01
【神道シリーズ】第42回・両部神道④吉野修験(八百万の神信仰の始まり)日本で最初の山岳信仰が始まったのは、671年に役小角が葛城山に登り、蔵王権現という神様を感得(インスピレーションで頭の中に現れること)し、桜の木で蔵王権現を掘って葛城山に祀ったところから始まると言われています。
山そのものに対する畏敬のような原始信仰は日本を含め世界中ありとあらゆるところにあった(むしろ無いところを探すほうが大変w)わけですが、単純な自然信仰としての山信仰の時代は人々が山に登るということはなかったのですが、日本で6世紀頃から朝鮮半島(新羅)から伝わった雑密(ぞうみつ)と呼ばれる初期の密教は不動明王や孔雀明王の呪術の法に基づきながら山に登り山岳修行の道を開いて行きます。
7世紀後半に役小角が葛城山に登るり、蔵王権現という祭神が成立すると、その蔵王権現山岳信仰は全国へ広がり、日本の山岳信仰は雑密の優婆塞(在家の僧侶)たちによって普及します。
9世紀になり真言密教が伝わり、真言僧の聖宝が醍醐寺(三宝院)を根本道場として吉野修験の建設に乗り出して行き、朝廷からの援助も後押しして、吉野は真言密教の修験の場となり、吉野は両部神道(真言密教系神道)で言うところの「金剛界」(熊野は「胎蔵界」)とされ、蔵王権現は「金剛蔵王権現」と称されるようになり、それは今日にまで至ることになります。そのうち仏教自体が神道だとか言い出すのかな っていうか吉野修験に詭弁って何だよ笑 詭弁っていうならより中立的な観点で吉野信仰の歴史を説明してほしい。あるいは、反論する証拠を挙げてほしい。 アニミズムからの信仰であったという勘違
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2018-12-17 22:14:02
【神道シリーズ】第43回・両部神道⑤富士山修験(理論は両部神道で管理は聖護院<天台宗寺門派>)日本の山岳信仰が具体的な神名を持って信仰されるようになったのは真言密教による両部神道が確立した鎌倉時代以降ですが、密教僧たちは山に登頂し、そこに仏の眷属を祀り、さらに古事記の神々の中から選んで比定し、仮の姿として古事記の神様の姿になるときがあるとしました。
これこそが日本における「八百万の神」信仰の始まりであり、古事記に出てくるコノハナサクヤビメも、火山という属性だけで大日如来の仮の姿であるとされ、それが富士山においては浅間(せんげん)大権現として祀られ、信仰されるようになりました。
つまり、もともと民衆の間に古事記の神々の信仰があって、それが八百万の神の信仰になったのではなく、密教僧らによって形成された山岳信仰の中心をなす本地垂迹説として古事記の神々が採用されていったのです。
富士山修験が始まったのは13世紀に仏僧の末代(まつだい)が富士山頂に登頂して大日寺を創建し、大日如来を祀ったことから始まります。
16世紀になって富士講を統合組織した長谷川角行は、役小角の夢告で富士山に登頂して以降、大日如来=コノハナサクヤビメを浅間大権現として信仰する一神教的意味合いの浅間権現信仰を確立し、以降、弟子たちによって村上修験(富士山修験をそう呼びます)の富士講は江戸時代には全国に広がって行きます。
明治に神仏分離で浅間神社の祭神はコノハナサクヤビメとされましたが、今日でも浅間大権現の信仰は続いており、村山修験の流れを汲む修験道の団体が伝統を引き継いでいます。- 226
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2016-04-06 09:44:12
【鎌倉仏教シリーズ】第58回・曹洞宗③瑩山(密教民間信仰と習合)2-14代瑩山の時代になると、初代道元の時代の只管打坐一辺倒(生活禅も含む)から、密教(天台密教・真言密教)や民間信仰(白山妙理大権現など)も採り入れ、さらに出家第一主義から在家も認め、徹底した男女平等主義も採り入れることにより、民衆の間で爆発的な信者の拡大を達成し、こんにち日本最大の寺院数と檀家数を誇る日本曹洞宗教団の基礎を築きます。瑩山の建立した總持寺は曹洞宗の大本山となり、総本山の永平寺と並び、日本曹洞宗の二つの本山の一つに君臨します。
wikipediaの内容と同じだなwww
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2021-11-14 21:25:13
大黒天咒 21返 財運福徳を招く大黒天咒【おんまかきゃらやそわか】
元はヒンドゥー教の護法善神マハーカーラ、マハーは大、カーラは黒の意味。
七福神の一神で五穀豊穣・財運福徳・出世開運を司ります。
米俵に乗り、打ち出の小槌、福袋を持った姿がよく知られています。
サムネイルは三面大黒天。
火防せの神として、台所にもよくよくお祀りされています。
御真言は3回か、7回か、21回か、108回唱えます。□
※宗派や伝により唱え方は様々です。
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ご視聴いただきましてありがとうございます。□
毎月28日には、不動護摩供を厳修し皆様の祈願をお祈りしております。どなたでもご参拝いただけます。ニコニコで生放送を配信しています。(会員限定)
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#大黒天 #真言 #mantra- 221
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2015-05-14 15:58:30
【鎌倉仏教シリーズ】第15回・平安仏教①真言宗(その1)4-2奈良時代は、南都六宗という学問仏教が到来しましたが、中でも法相宗の僧侶たちは、孔雀明王法や七曜秘法などの雑密呪文を取り入れ、その霊的能力によって朝廷に(玄昉・道教ら)、そして庶民(行基ら)に強く支持されてきました。平安時代になると、体系化された密教(純密=真言宗)を求めて空海は唐に旅立ち、帰国後、その後の中世日本の朝廷や地方庶民を精神面を支配する日本の真言密教を完成します。
空海は最澄の弟子にはなっていないぞ うぽつ
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2021-04-14 18:03:02
令和3年4月10日遍照寺副住職「金花山宝泉寺」へ花見にゆく広沢山遍照寺副住職が京都支所仲間のよしみで京北の「金花山宝泉寺」さんへ花見に参らせて頂きました。
動画内で法泉寺さんの案内をしておりますが「ぶんかくしょうにん」は間違いで「もんがくしょうにん」が正しいです。
この場にて訂正させて頂きます。
以下、法泉寺さんの案内全文を記載しておきます。
金花山宝泉寺の歴史は古く、平安末期の傑僧文覚上人(1139)に依る開創と伝承されています。当時、弘法大師が真言密教の根本道場とされた古刹神護寺(京都市高雄)は、荒廃の極みにあって「人法共に断絶堂屋ことごとく破滅」と云う状況となっていました。
文覚上人は直ちに神護寺の再興を発願され勧進僧として歩みますがその道、非常に厳しく、都度三度に亘る流罪に処せられます。しかし後白河上皇や源頼朝の助縁を得て神護寺の再興にその半生をかけ成し遂げられたのであります。
この当時、再建された山内に宝泉院と称する塔頭寺院がありましたが、この寺院こそ後日、文覚上人による当山創建の伝承の源となったお寺であります。
南北朝時代の延文元年(1356)心蓮上人はこの塔頭寺院であった宝泉院を下熊田村に移し、十一面観音を秘仏の本尊として寺号を宝泉寺と改め開山されました。以来、宝泉寺が病気平癒に格別の霊験のあるお寺として、人々の信仰を集めております。
永い歴史を有する当山は、平安時代~鎌倉時代の古写大般若経を始め、甚だ珍重すべき什物など優品が保管されています。
毎年7月の土用の日は宝物の虫干しと大般若経祈祷会が行われています。当山は、四季折々の風光に恵まれて信仰と癒しの場として親しまれており、特に4月の桜は見事で天を突く巨大な「京紅しだれ桜」は圧巻です。 宝泉寺は、真言宗総本山仁和寺の末寺として年中行事や教化活動を通じて地域に広く貢献しています。
金花山宝泉寺概略
宗旨:古義真言宗 御室派
総本山:御室 仁和寺(世界遺産)
本尊:十一面観世音菩薩
開基:延久元年(1069年)初代開基第1世 心蓮上人神仏の皆様ですな。 今の桜のアングル素晴らしいですね! 急に流罪ww なるべく無事故で 弘法様? 行きたいねぇ わかるw 足元注意! ゲリラ読経 丁 チーン 回向文 南無大師遍照金剛
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2019-01-22 09:08:01
【神道シリーズ】第45回八百万の神②(一目で分かる図解・修験道の構造)八百万の神と言うと、古事記に出てくる神々の信仰が古来からあってそれに対する国民の信仰があったような勘違いをしてる人が多いですが、実際に現在の地方信仰に繋がるような八百万の神信仰は8世紀の奈良時代の頃から雑密(呪術密教>主に朝鮮半島より伝わる)の私度僧たちにより、役小角信仰の全国拡散を通じ、そして、本格的には9世紀になってから本地垂迹説が進み、既に全国に広がっていた仏の眷属をそれぞれの山の本尊とする信仰と、既に護法善神(仏教守護者としての氏神)となっていたすべての公家・貴族の氏神の本地(本来の姿としての仏の眷属)を設定(比定)する動きと、されに元寇来襲を境に真言密教の両部神道理論の下、密教勢力による日本書紀解釈(真言密教的解釈)が進み、その解釈研究活動が伊勢神宮や宮中に及び、中央・地方の、既に存在していた〇〇権現(仏の眷属の仮の姿としての神)の、さらに仮の姿としての「古事記・日本書紀に出てくる神々」が当てられて(比定されて)行きます。これが今日に続く「八百万の神」の信仰となります。
純粋な仏教もないよな
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2019-06-24 22:56:02
【神道シリーズ】第64回・八百万の神⑲愛宕山大権現【前編】(明治の弾圧を跳ね返して今日まで続く愛宕信仰)愛宕山信仰とは、8世紀に役小角と白山信仰創設者の泰澄による開山と言われてはいますが、実際には781年に僧都・慶俊(法相宗)による開山だとされ(「雍州府史」)、さらに、和気清麻呂による愛宕五山寺(白雲寺・月輪寺・神願寺・日輪寺・伝法寺)の創建により愛宕大権現が祀られた、とされています。
9世紀に天台宗が愛宕さんに進出すると、愛宕山の山頂に位置する白雲寺が天台宗の傘下となり、さらに愛宕山の別当(支配管理職)に任命されると、6つの院(かつて皇族が住職を務めたことがある寺院のこと)によって運営されてたこの白雲寺が実質的に愛宕山信仰の中心となりました。
さらに、この愛宕山は戸隠信仰(飯綱大明神・真言系)の影響で天狗信仰が生まれ、「愛宕太郎坊」として日本の天狗信仰の中心ともなります。
天狗信仰は、真言宗系の当山派修験が中心となり、戸隠・飯綱・高尾山・秋葉山・愛宕山と、稲荷大明神(真言密教に基づくダキニ天の白狐に乗った仙人)のイメージが重なり、「白狐・烏天狗」と「勝軍地蔵・不動明王・毘沙門天信仰」を共有する一大「天狗信仰ネットワーク」を形成しました。- 206
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2015-05-14 17:24:28
【鎌倉仏教シリーズ】第15回・平安仏教①真言宗(その1)4-4.wmv奈良時代は、南都六宗という学問仏教が到来しましたが、中でも法相宗の僧侶たちは、孔雀明王法や七曜秘法などの雑密呪文を取り入れ、その霊的能力によって朝廷に(玄昉・道教ら)、そして庶民(行基ら)に強く支持されてきました。平安時代になると、体系化された密教(純密=真言宗)を求めて空海は唐に旅立ち、帰国後、その後の中世日本の朝廷や地方庶民を精神面を支配する日本の真言密教を完成します。
実体ではない いや違う くだらねぇーーー 【鎌倉仏教シリーズ】第15回・平安仏教①真言宗(その1)4-4.wmv
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2016-04-06 10:24:16
【鎌倉仏教シリーズ】第58回・曹洞宗③瑩山(密教民間信仰と習合)2-24代瑩山の時代になると、初代道元の時代の只管打坐一辺倒(生活禅も含む)から、密教(天台密教・真言密教)や民間信仰(白山妙理大権現など)も採り入れ、さらに出家第一主義から在家も認め、徹底した男女平等主義も採り入れることにより、民衆の間で爆発的な信者の拡大を達成し、こんにち日本最大の寺院数と檀家数を誇る日本曹洞宗教団の基礎を築きます。瑩山の建立した總持寺は曹洞宗の大本山となり、総本山の永平寺と並び、日本曹洞宗の二つの本山の一つに君臨します。
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2019-05-13 22:48:02
【神道シリーズ】第58回・八百万の神⑮羽黒三山信仰【前編】(真言宗と天台宗の確執の地と八宗兼学の地)羽黒修験は現在、羽黒山、月山、湯殿山の三山で構成されてますが、16世紀までは羽黒山、鳥海山、葉山の三山で構成されていました。
羽黒三山には、役小角(8世紀初頭)より200年以上早い6世紀前後に崇峻天皇の皇子の蜂子皇子が蘇我馬子の脅威から逃れるために羽黒へ行き、その地で山岳信仰を始めたという伝説がありますが、しかし、これは室町時代(14世紀)になってから作られた話で、実際には不動明王信仰を核とした役小角系雑密の修験道を起源としてると思われます。
平安後期の9世紀以降は、この地は真言宗と天台宗(比叡山)の勢力の覇権争いの場となり、羽黒山、月山、鳥海山、葉山は天台宗の勢力下、湯殿山は真言宗の勢力下と二分されることになります。
羽黒修験は、全国修験道共通とされてる不動明王信仰や十界修行(真言密教の十往心に対応)や擬死再生修行などはもちろんのこと、そこにさらに9世紀に渤海からの漂流者(記録あり)が伝えたであろうとされる大陸の道教祭祀の影響が見られ、ユニークな羽黒修験が形成されています。
明治の神仏判然令で天台系の修験道は羽黒山や月山からの下山を強制され、代わりに羽黒三山神社が作られ、月読命や大貴己神など古事記の神々が政府によって祀られましたが、湯殿山だけは真言宗との繋がりがあまりにも強固で分離できず、今日まで真言宗の一拠点となっています。
明治に政府が無理矢理神社(羽黒三山神社)を作り、古事記の神々を祀ろうと、古くからの伝統を消し去ることは出来ず、今でも信仰対象は羽黒権現・月山権現・湯殿山権現で、祭祀も古代からのままで、国家神道化は失敗したと言えます。崇峻天皇暗殺は6世紀末で役小角は天武天皇の時代だから300年も離れてないよね?
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2021-05-30 23:34:01
阿閦如来真言(あしゅくにょらい)七返 ※宗派や伝によって唱え方は様々です。阿閦如来様の御真言です。【おんあきしゅびやうん】
阿閦如来様は七回忌を司る仏様です。
阿閦如来様は人々に不動不変の仏心、菩提心を起さしめ、これを守る仏様です。
御真言は、3回か、7回か、108回唱えます。□
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ツイッター https://twitter.com/akiyamafudo
吉祥寺チャンネルユーチューブ https://www.youtube.com/channel/UC059yZhV54RMCtk5MOHdOMw
毎月28日には、不動護摩供を厳修しております。どなたでもご参拝いただけます。ニコニコでは生放送を会員配信しています。□- 187
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2020-07-23 00:59:07
【講義アーカイブ】『五輪九字明秘密釈』を読む 第1回(講師:亀山隆彦)[2020年7月22日]※ この講義のレジュメを配信しておりますので、適宜ダウンロードしてください。
院政期を代表する真言密教僧、覚鑁(1095~1144)には既にまとまった研究がいくつも存在するが、それらは等しくある研究課題を克服できないままと考える。日本仏教史であれ真言密教史であれ、従来の研究は常に覚鑁を一つないし複数の思想潮流の「中途」に位置付け、その観点からしか同僧とその思想の意義を分析してこなかった。
具体例をいくつか挙げておくと、覚鑁は空海没後、荒廃の極みにあった高野山と真言教学を「復興」し、後の真言宗隆盛の礎を作ったと先ず主張される。あるいは鎌倉中期の頼瑜(1226~1304)に先んじて、後の新義真言教学の基礎を樹立したともいわれる。さらに平安「旧」仏教から鎌倉「新」仏教への転換期に生き、それらの橋渡し役となる、法然や親鸞にとっての先駆の役割を果たしたと説かれることもある。今日の古義と新義の両真言宗、あるいは鎌倉「新」仏教を目的地とする道程の途中に、覚鑁のための場が設けられてきた。
フランスの哲学者であるルイ・アルチュセール(1918~1990)の言葉を借りれば、覚鑁は常に「目的地」を想定し「前未来形」で書かれる歴史の中で解釈され、その外に出ることは稀であった。このような「目的論的」(teleological)な理解から覚鑁とその言葉を解放し、同僧の思想の全体性・体系性を回復することこそが、本講義の最終的な目標である。
具体的には平安末期の日本仏教界と真言密教の状況を細かく把握した上で、覚鑁の主著ともいわれる『五輪九字明秘密釈』の読解を試みる。『五輪九字明秘密釈』は、非常に複雑な構造を有す文献でありながら、例えばその「密教浄土教」的な主張ばかり強調される等、総体として本書を読む試みはほとんどなされてこなかった。本講義では、まさにこの『五輪九字明秘密釈』を総体として読み、その中に隠された体系を解明すると共に、覚鑁の言葉や思考を規定していただろう深層の「規範」(paradigm)についても分析したい。- 184
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【講義アーカイブ】真言密教の哲学 第1回(講師:亀山隆彦)[2020年5月27日]※ この講義のレジュメを配信しておりますので、適宜ダウンロードしてください。
歴史学者の黒田俊雄が、顕密体制(けんみつたいせい)と名づける宗教・政治の複合システムの研究を通じて明らかにしたように、いわゆる中世と呼ばれる、平安時代末期から室町時代にかけての日本仏教界の主流は、浄土教でも禅宗でも日蓮宗でもなく、平安初期の空海・最澄・円仁・円珍等により請来された密教であった。
より正確にいえば、中世期の仏教のもっとも一般的な形態は、先行する奈良の諸仏教思想に複雑な密教の儀礼、さらに即身成仏(そくしんじょうぶつ)や法身説法(ほっしんせっぽう)のような密教教学が結びついたものであった。それこそが、前述の「顕」(顕教=南都仏教)と「密」(密教=真言・天台密教)の複合システム、顕密体制である。黒田も強調するように、顕密のそれぞれの教えを一つに編み上げた中世独特の仏教は、国家の護持から皇族・貴族の個人的な祈願に至る様々な局面で、大きな影響力を発揮した。
このような黒田の問題提起は歴史学を越えて、仏教学や日本宗教学にも大きなインパクトを与え、近年は末木文美士を筆頭に、このテーマにアプローチする研究者も増えた。その成果として、平安末~鎌倉~室町期の政治・科学・哲学と深く結びついた、中世日本に独自の密教思想の存在も徐々に明らかになりつつある。このような中世日本仏教に関する最新の研究動向を紹介することが、本講義の第一の目的である。
さらに、中世日本密教に特徴的な思想・哲学として、五蔵曼荼羅(ごぞうまんだら)や胎内五位(たいないごい)といった教えに集約される、独特の身体論が挙げられる。この身体論に関しても、近年研究者の注目を集めているが、その全貌はいまだ詳らかではない。本講義では、中世密教僧の即身成仏、縁起、瑜伽の哲学的言説に加えて、灌頂や修法といった密教儀礼の解釈学を合わせて検討することで、その構造の解明に取り組む。- 181
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2019-04-01 22:41:01
【神道シリーズ】第54回・八百万の神⑪庚申信仰【前編】(青色金剛・日本における道教信仰と仏教の習合)庚申と三宝荒神と道祖神で共通していることは、三者とも路上に置かれた石像神で、いずれも中国道教由来であり(三宝荒神は仏教の影響が大きいが)、室町時代末期から江戸時代中期にかけて民間の間に流行り神として爆発的に流行した流行神であることと、日本の八百万の神信仰(民間)の中でも信仰頻度として三つ合わせると八百万の神信仰全体の三割以上を占めると言われて事です。
三宝荒神は役小角以降の雑密修験道や真言密教の影響が大きいですが、庚申と道祖神は天台(比叡山)の影響が絶大だと言えます。
東晋の時代の中国の「抱朴子」(ほうぼくし)という道教の書の中で出てきた守庚申の信仰は、その後、朝鮮半島や日本に伝わり、日本では9世紀に天台座主の知証大師・円珍によって唐より「庚申経」という守庚申について書かれた書が伝わり、平安時代には庚申御遊として宮廷貴族や高僧の間で庚申が祀られていました。
これが江戸時代になると、今度は民間の間で庚申講というものが形成され、庚申の夜は寝ずに体内の三尸の虫が自分の罪科を天帝に報告されないように青色金剛を祀って対処します(庚申待)。
インド⇒中国⇒日本へと伝わった三猿信仰は三尸と繋がり、比叡天台では、庚申の申(さる)と三猿と古事記の猿田彦の「猿」と語呂合わせで繋ぎ、庚申尊の本地・青色金剛、垂迹・猿田彦の本地垂迹を比定しましたが、江戸中期に国学者(山崎闇斎)によってその関係は逆転されました。(ただ、いずれにしてもそこには古事記の中の猿田彦のストーリーとは一切無関係の、庚申としての猿田彦です)- 178
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2023-05-13 20:51:02
【神道シリーズ・シーズン3】(思想編)第58回・谷口雅春と生長の家(その⑤)谷口雅春の生長の家は、万教帰一を唱えるが、しかし、その実態としては仏教とキリスト教の帰一のことを示しており、北米のニューソート思想によりこの二つは谷口流に融合されることとなる。ニューソートにより、本来キリスト教が持っていた人間の原罪論と贖罪論は否定され、絶対神で創造神であったゼウスの存在さえも否定され、創造神は人や宇宙に予定調和を求めるものではなく、人の中にも神の要素があることに目覚めることが大事だとされた。谷口もそのニューソートの思想を積極的に受け入れたが、ただ、人が自らの中にいる神や仏に目覚める為にはより仏教的な思想を採り入れる事が必要だとした。ニューソートや生長の家では自らの中にいる神に目覚めるためには神想法という瞑想的な方法を用いているが、ニューソートでは誘導付きの瞑想やイメージの視覚化などのテクニックを用いるの対して生長の家ではより仏教的な観想法を積極的に用いている。谷口は仏教思想への造詣が深く、真言密教の阿字観や天台密教の月輪観や浄土教の阿弥陀如来信仰などの思想も積極的に採り入れ、中でも谷口がもっとも重要視したのは法華経で、法華経の中で説かれる久遠仏の思想は、彼がニューソートと仏教を融合する上で特に大きな役割を果たした。万教帰一を唱える生長の家では、法華経やその他の仏教経典やキリスト教の新約聖書などを声を出して音読するのもその神想法に採り入れられている。生長の家では絶対神・創造神を生長の家の大神と呼んでいるが、その実態は、谷口が最初に神の子として覚醒した神戸の元住吉神社の元住吉大神としているが、実は、それが時に大日如来になったり、時に天御中主になったりと神の名称自体には一切こだわっていない。一方、谷口は、人間みな神の子という思想のもと、階級闘争という思想にも強く反対し、富者と貧者は争うべきではなく、おのおのが神の子であることを自覚することにより自然と富む者は貧しき者に与え、仕事のある者は仕事無き者とウォークシェアリングをすればよいと訴えた。谷口がこう訴えていたのは、昭和恐慌直後の昭和5年1930年であった。
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2018-11-12 22:41:03
【神道シリーズ】第38回・山王神道②(天台教学と山王神道について)天台宗の山王神道は中世日本(全体)に真言宗の両部神道とともに日本の信仰を二分割したと言っても過言ではないですが(真言系神道7.5対2.5天台系神道)、今回はその山王神道を裏付ける理論としてベースになっている天台密教教学を検証し、どのように天台宗の密教神道(山王神道)が形成されたかを探っていきたいと思います。
真言宗も天台宗も共通してる基本文献(経)は、①大日経②金剛頂経③理趣経ですが、天台密教はさらにこれに④蘇悉地(そちつじ)経(蘇悉地法)が加わります。
まずは、その蘇悉地法とは何か?というところから始め、さらには、天台宗が影響を与えた熊野修験や祇園信仰との関係、そして、天台宗の守護神(山門派は赤山明神、寺門派は新羅明神)がいずれも外国の神様たち(赤山明神>中国道教霊山の主神の泰山府君、新羅明神>新羅道教の神、さらに祇園信仰の牛頭天王(スサノオ)は新羅の神・・・)なのでしょうか?
日本で完成されたとする真言密教に比べ、天台密教は中国や朝鮮半島の影響が強く見られ、それが天台宗の神道、山王神道にも色濃く反映されてます。インド占星術とか関係ないのかな?
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2016-06-07 10:32:07
【鎌倉仏教シリーズ】第66回・曹洞宗⑩豊川稲荷(密教との習合)2-2曹洞宗は5代宗主・峨山の時代から廃寺となった密教系の寺や民間信仰の神社などを次々と曹洞宗の寺として吸収していきましたが、この豊川稲荷もその一つで、もともと真言宗のお寺だった歓喜寺(豊橋市)を曹洞宗法王派の東海義易が曹洞宗のお寺に改宗させ、さらに豊川に移転したことに由来します。豊川稲荷の正式名は、円福山 豊川閣 妙厳寺と言い、曹洞宗のお寺ではありますが、今日に至るまでその守護神(本尊は千手観音)である吒枳尼天が「お稲荷」さんとして有名になっており、日本三大稲荷の一つと呼ばれています。
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2020-05-29 02:03:21
【講義アーカイブ】生成と多重視点の仏教学:「論争」から考える日本仏教の思想 第十回(中世編2)(講師:亀山隆彦)[2020年4月25日]※ この講義のレジュメを配信しておりますので、適宜ダウンロードしてください。
この講義では、様々な「視点」(パースペクティブ)とその切り替えを鍵に、日本仏教の思想について考えてみたいと思います。
例えば真言密教と空海、専修念仏と法然などが分かりやすいですが、我々はしばしば、個別の仏教思想と僧個人の密接な繋がりを前提に仏教の歴史を考えます。しかし、それこそ真言密教を空海の思索や内面の産物とするように、それぞれの思想を個々の僧に還元してよいか疑問は尽きません。
それは、決して歴史的な「視点」ではなく、むしろ近代の我々が考案した思想史の「視点」なのではないでしょうか?詳しくは講義内で紹介しますが、そのような我々の近代の「視点」を打ち砕く歴史的な物証は、既に多数発見されています。
したがって、むしろ次のように考えるべきかも知れません。
奈良・平安から江戸・明治までの日本仏教の歴史をふりかえるに、それまでにない斬新な仏教理解が登場する背景として、常に僧達の「多重視点」(マルチ・ペースペクティブ)が存在しました。その「多重視点」の交差から、真言密教も、天台本覚思想も、専修念仏も、純粋禅も生成してきました。
(あるいは、我々の「多重視点」も交差し、新たな仏教の理解を生成し続けているのかも知れません。)
僧達の「多重視点」がもっとも鮮明に観察できる事象がなにかといえば、彼らの間の「論義」「談義」、広義の「論争」でしょう。インドや中国、チベットと同じく、日本の仏教にも長い論争の歴史があります。それは奈良から平安時代の初めにかけて輸入された「空有の諍論」に始まり、中世の諸宗の組織的で洗練された論義の伝統、そして近世のキリスト教を対象とする異端論争へつながっていきます。
この講義では、上に述べた「視点」や「多重視点」をキーワードに日本仏教の論争の歴史を概観し、その思想の生成の局面についてお話します。- 162
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2021-10-15 21:42:21
荒神咒 21返 火と竈の神荒神咒 【おんけんばやけんばやそわか】
火と竈の神であり、神棚は家の中で最も清浄な場所である台所に祀られています。
功徳(不浄浄化・火難除去・除災・厄除け・除病・仏法守護など)
御真言は3回か、7回か、21回か、108回唱えます。□
※宗派や伝により唱え方は様々です。
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ご視聴いただきましてありがとうございます。□
毎月28日には、不動護摩供を厳修しております。どなたでもご参拝いただけます。ニコニコで生放送を配信しています。(会員限定)
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2017-02-27 00:35:19
【鎌倉仏教シリーズ】特別会・仏教関係者座談会6-3約2年間、特別会を含めば100回近くとなったこのシリーズも今夜の仏教関係者座談会をもって完全に終わりとなりますが、今回は鎌倉仏教系および密教系の現役の僧侶さんたちを迎えて日本仏教全般についてのトークショウーとなります。日本仏教が日本人の気質に与えた絶大な影響から、今日および将来の日本にとって日本仏教はどう関わっていくのかを多方面から中身の濃い話し合いをします。何が飛び出すかは放送の中でのお楽しみです。
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2020-10-19 23:10:02
【神道シリーズ・シーズン2】御流神道と三輪流神道(両部神道主要二派)11世紀頃から発生してきた真言宗を中心とする(一部天台宗寺門派も含む)真言密教系神道理論は12世紀から15世紀にかけ両部神道を形成し、中世の日本の宗教界を支配していくことになりますが、その両部神道は主に室生山で発生した御流神道と三輪山で発生した三輪流神道が中心となって行きます。13世紀後半より形成された伊勢神道や15世紀に形成された吉田神道もこの両部神道(真言神道)を下敷きにしており、ある意味日本における「神道」という宗教を成立させた根本にもなってる存在だと言えます。
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2023-04-16 14:42:02
令和5年4月16日遍照寺副住職、金花山宝泉寺開催の「癒やしの歌声コンサート」を見にゆく広沢山遍照寺副住職が京都支所仲間のよしみで京北の「金花山宝泉寺」さん開催の
「癒やしの歌声コンサート」に参らせて頂きました。
「花宝苑 癒やしの歌声コンサート」
歌:Misera 千代道子
http://sinoyemusic.com/blog
音響:森崇
〈曲目〉
・越天楽・春
・蘇州夜曲
・蓮音
・いつも何度でも
・花は咲く
・人生の扉
・歓びを広げよう
・光明真言~光のうた
・ふるさと
以下、宝泉寺概略
金花山宝泉寺の歴史は古く、平安末期の傑僧文覚上人(1139)に依る開創と伝承されています。当時、弘法大師が真言密教の根本道場とされた古刹神護寺(京都市高雄)は、荒廃の極みにあって「人法共に断絶堂屋ことごとく破滅」と云う状況となっていました。
文覚上人は直ちに神護寺の再興を発願され勧進僧として歩みますがその道、非常に厳しく、都度三度に亘る流罪に処せられます。しかし後白河上皇や源頼朝の助縁を得て神護寺の再興にその半生をかけ成し遂げられたのであります。
この当時、再建された山内に宝泉院と称する塔頭寺院がありましたが、この寺院こそ後日、文覚上人による当山創建の伝承の源となったお寺であります。
南北朝時代の延文元年(1356)心蓮上人はこの塔頭寺院であった宝泉院を下熊田村に移し、十一面観音を秘仏の本尊として寺号を宝泉寺と改め開山されました。以来、宝泉寺が病気平癒に格別の霊験のあるお寺として、人々の信仰を集めております。
永い歴史を有する当山は、平安時代~鎌倉時代の古写大般若経を始め、甚だ珍重すべき什物など優品が保管されています。
毎年7月の土用の日は宝物の虫干しと大般若経祈祷会が行われています。当山は、四季折々の風光に恵まれて信仰と癒しの場として親しまれており、特に4月の桜は見事で天を突く巨大な「京紅しだれ桜」は圧巻です。 宝泉寺は、真言宗総本山仁和寺の末寺として年中行事や教化活動を通じて地域に広く貢献しています。
金花山宝泉寺概略
宗旨:古義真言宗 御室派
総本山:御室 仁和寺(世界遺産)
本尊:十一面観世音菩薩
開基:延久元年(1069年)初代開基第1世 心蓮上人おんまかきゃろにかそわか おんまかきゃろにかそわか おんまかきゃろにかそわか おんまかきゃろにかそわか おんまかきゃろにかそわか おんまかきゃろにかそわか うぽつです うぽつ
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2021-06-10 14:17:02
広沢山遍照寺令和3年6月6日開山忌法要(概要に啓白文記載)毎年6月に拝まして貰ってます開山忌法要配信の様子です。
住職が職衆、副住職が導師を勤めさせて頂いております。
聴き取りにくいかもしれないので
讃の後に読み上げました啓白文の全文を書き出しておきます。
開山忌啓白ノ文
敬テ真言教主大日如来金剛胎蔵両部諸尊
殊ニハ当山本尊十一面尊 赤不動明王を始メ奉リ稲荷、八幡諸天善神
夫レ以レバ当山開山寛朝大僧正ハ仁和寺開山宇多法皇様ノ皇孫ニシテ
十一才ニテ御出家寛空阿闍梨ニ随イテ両部ノ灌頂ヲ相承真言密教ノ正嫡トナラル
法力ニ優レ天慶ノ乱ニ際シテハ朱雀帝ノ勅ヲ奉ジ
関東公津ヶ原ニテ将門調伏ノ祈祷ヲ修サレ効験立チ所ニ表レ乱平定
成田ノ地ニ新勝寺ヲ開創サル
天元四年円融上皇不豫ノ折ニハ宮中ニテ病気平癒五壇法ヲ修サルヤ壇上ニ生身ノ明王ヲ顕現
上皇ノ病速ニ怪癒永延元年急旱ニ際シテハ東大寺ニ六大寺ノ僧ヲ集メ雨ヲ祈ラルヤ翌日大暴雨トナリ人々ヲシテ未曾有ト賞讃サル
依テ朱雀村上冷泉円融花山一条ト歴代天皇ノ帰依ヲ集メ
仁和寺東大寺西寺ノ別当 東寺ノ長者ニ任ゼラレ
寛和二年真言宗初ノ大僧正位ニ補セラレタリ
天元二年 広沢ノ池ヲ築造 其ノ池水ハ下三ヶ村三十余町歩ノ田ヲ潤セリト伝ウ
永祚元年勅願ニヨリ池畔ニ遍照寺ヲ開創 方八町ノ寺域ヲ誇リ堂塔甍ヲ連ネリト言ウ
僧正当山ニテ盛ンニ密肆ヲ啓キ真言密教「広沢流」ノ名ヲ伝ウ 又声明道ニモ通ジ東密声明道ノ祖ト仰ガレシ名僧ナリ
本日爰ニ檀家役員一同参列ノ元 一座ノ法筵ヲ催シ開山大僧正様ノ遺徳ヲ顕彰シ報謝ノ誠ヲ捧ゲ奉ル願クバ大僧正様末資等ノ微衷ヲ哀納シ玉イテ寺門ノ興隆並ビニ檀信徒各家ノ家門隆昌ト安寧和楽ノ益ヲ垂レ玉ワンコトヲ乃至法界平等利益ゲルニカの歌い方を連想した。 啓白文の新勝寺にぶったまげた坂東もん うぽつ~
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