タグ本居宣長を含む動画:6件 1ページ目を表示
2024年5月21日 06時21分に生成された05時00分のデータです
2021-02-25 22:45:03
【ゆっくり解説】東方projectで知る日本神話part1初投稿です
いままでの → mylist/50190786さてと、羊羮とたい焼きの準備が出来た。 続きお願いします ゆっくりで良いから続きを希望します! わかる ( °∀°)○彡°えーりん!えーりん! 自分で生首いうゆっくりはじめましてww この人の、日本神話のツッコミどころに「深く追求するな」という回答は...
- 1,357
- 544.0
- 483.5
- 141.0
2021-12-10 19:09:02
ゆっくりと見る土蜘蛛~学者編~【妖怪解説】新シリーズです
土蜘蛛について解説していきます!!
Youtubeでも投稿しているので興味ある人はぜひ!模索だなあ ↑具体例としてアナタね 乙 SD頭身の東方キャラとまんじゅうが会話している光景はなんだか不思議なかんじ お、「そうきち」で一発で「左右吉」と出る! じゃあずいぶん時代が進んだ頃に出た考えなのか 立ち絵の動かし方が気持ち悪いw 一気に飛んだ...
- 203
- 167.9
- 73.4
- 00.0
2021-06-30 00:28:04
【神道シリーズ・シーズン2】第35回・平田篤胤【前編】平田篤胤の生涯と草莽崛起の国学安永5年8月24日(1776年10月6日)、現秋田県の出羽久保田藩の大番組頭であった大和田清兵衛祚胤(としたね)の四男として秋田郡久保田城下の中谷地町(現在の秋田市中通4丁目)に生まれたが、家が貧しく、8歳の時に口減らしのために近所の鍼医者の家に養子として出されるが、当家に跡継ぎが生まれたため11歳で大和田家に戻され、その後も実家の義母とは折り合いがあわず、家の中ではやっかい扱いされたうえ、20歳になるとそれまですこしずつためた500文を手にし、実家を後にして単身江戸へと向かった。
江戸についた篤胤は、大八車を引いたり、5代目市川團十郎の飯炊きや三助、火消しなど苦学しながら当時の最新の学問、とくに西洋の医学・地理学・天文学を学びつつ、旗本の武家奉公人となったが、25歳のとき、勤め先で江戸在住の備中松山藩士で山鹿流兵学者であった平田藤兵衛篤穏(あつやす)の目にとまり、才覚を認められて、その養子となり、平田姓を名乗るようになる。
その後26歳で旗本屋敷の奥勤めの娘・織瀬と大恋愛の末結婚し、その織瀬が見つけた本居宣長の本を通じて宣長の国学にのめりこむようになり、亡き宣長を忍んで念じて眠ると夢の中で宣長と邂逅し、宣長門下生となる資格を得た、と言う。
その後知識欲旺盛な篤胤は国学のほかにニコラウス・コペルニクスの地動説やアイザック・ニュートンの万有引力など西洋の最新の科学にまで貪欲に学ぶ一方、37歳の時に書いた「霊能御柱」で自ら打ち立てた霊冥界の理論を実証すべく41歳の時に千葉県の常陸・房総半島を廻り、数々のスピリチュアルな体験を地元の名士たちから集め、それを彼の国学理論で説明するなかしだいに彼自身の門人の数を増やして行った。
そして、46歳の時、神仙界を訪れ、そこの住人たちから呪術の修行を受けて、帰ってきたという寅吉という15歳の少年に出会うと彼を自宅に居候させ、少年の言う神仙界を自ら主張する霊冥界を重ねながら聞き取り調査を続けた。
その後、48歳の時には、死んだ近くに住む子供の生まれ変わりだと主張する勝五郎という6歳の少年も同様に自宅に住まわせて寅吉のように聞き取りを行った。
こうした奇異ともとれる篤胤の行動は、宣長派の国学者たちから激しい批判を浴びる一方、当時の一級の知識人たちから賞賛や高い評価を受け、この草莽崛起ともいえる民衆の間に広まった平田国学は、幕末の倒幕運動に大きな影響を与えると同時に、明治以降の廃仏毀釈運動や、日清日露戦争、そして第二次世界大戦にまい進する日本の狂気を最高潮にまで高めていく平田後継者たちによる神道系新興宗教の勃興と拡大に大きく貢献していくのであった。玄学関連の平田古学はすき 神代文字偽造おじさん
- 124
- 21.6
- 10.8
- 10.8
2021-04-05 22:34:02
【神道シリーズ】シーズン2・第27回・賀茂真淵(神道論無き日本人アイデンティティーの追求)元禄10年(1697年)遠江国敷智郡浜松庄伊庭村(現在の静岡県浜松市)で賀茂神社の神職の家に生まれた真淵は、近所の稲荷神社の神職家の杉浦国頭の家に通い、小さな頃から和歌にいそしむ生活をしていたが、26歳の時、京と江戸を行き来していた京都の伏見稲荷大社の神官の家出身の有名歌人・荷田春満が途中浜松の杉浦国頭の催す歌会に寄った際に歴史的な出会いをし、以後、春満が浜松による度に和歌の手ほどきを受けたが、やがて37歳になると春満の門人になることを目指し上京し、以後、7年後に春満が死ぬまで真淵は京都と浜松を行き来した。
その後、時の将軍徳川吉宗の次男で、徳川御三卿の一つ田安家の当主となった田安宗武に使えていた春満の末子の荷田在満の勧めで江戸に出向した真淵は、春満の弟の荷田信名の江戸宅をひきりに、荷田家人脈の門人を頼りに寄宿し、やがて江戸の豪商・村田春海の家に寄宿することとなり、和歌研究と著述の日にあけくれた。
やがて、50歳の時に荷田在満の推薦で、田安宗武に和学御用として仕えることとなり、
以後、64歳で隠居するまでの14年間宗武の下で仕える事となった。
その間に、新古今和歌集を推す在満と万葉集を推す宗武の間で、所謂「国歌八論」論争というものが起き、在満は新古今和歌集の技巧を重んじ、宗武は万葉集の中に現れる儒教的な「ことわり」を重視し、この埋まらない対立の末、在満は田安家を去る事となり、残った真淵は、万葉集支持の立場より宗武の側についたものの、和歌を儒教の六経の詩経の道徳観や儒教独特の勧善懲悪的な和歌評価には賛同できず、両者の見解の深い溝は埋まらぬまま真淵は粛々と独自の万葉集研究を続けた。
真淵はその後64歳になって隠居生活に入るが、宝暦13年(1763年)に宗武の命により
大和を訪ねた際、その江戸への帰り道で三重県の松坂に寄り、真淵門下入門を志していた青年・本居宣長と両者生涯一回限りの面会を果たし、そこで宣長は古事記注釈書作成への情熱を熱く語ったと言う。
賀茂真淵の生涯の圧倒的部分は万葉集研究に注がれ、真淵がその中に見出したのは、自由奔放で雄々しく素朴で、しかもみやびある古代日本人であり、それは「ますらおぶり」という言葉で表現されている。
しかし、真淵の神道に関する関心は低く、「天皇は日本の風土に合っている」とは述べたものの、その根拠は語られず、しかも、後の国学者たちのように独自の神道理論を構築しようとする姿勢は見られず、あくまで古代の日本人という日本人のアイデンティティー追求に人生をかけていたと言える。- 95
- 00.0
- 11.1
- 11.1
2021-04-19 23:12:02
【神道シリーズ・シーズン2】第28回・本居宣長【前編】日本の「ジャック・デリダ」宣長の字音仮名遣本居宣長は享保15年(1730年)6月伊勢国松坂(現在の三重県松阪市)の木綿仲買商である小津家の次男として生まれ、8歳で寺子屋に学び、11歳で父を亡くし、16歳で商売見習のため江戸大伝馬町にある叔父の店に寄宿していたが、19歳で松坂に帰省すると、伊勢山田の紙商兼御師の今井田家の養子となるが、3年後、寛延3年(1750年)離縁して松坂に帰り、このころから和歌を詠み始めた。
22歳になると義理の兄が亡くなったため実家のあきないを継ぐが商売に関心はなく、店を整理して母と相談の上、医師を志し、京都へ遊学することとなった。
京都では医師で儒学者でもあった堀景山にに師事し、寄宿して漢学や国学などを学んだ。
景山は朱子学者でありながら反朱子学の荻生徂徠にも興味を示し、また国学者契沖の支援者でもあった。
宣長は、景山の影響で荻生徂徠や契沖の思想にも出会うこととなり、これが契機で国学への道を歩むことを決意したのである。
27歳になった5年後には地元松坂に戻り医者として開業し医業をはじめることになった。
そのかたわら自宅で『源氏物語』の講義や『日本書紀』の研究に励み、そして33歳になった時、大和から江戸への帰途で伊勢神宮に参宮しようとしていた賀茂真淵が松坂に泊まっていることを知り、宿を突き止めて真淵に邂逅し、いわゆる「松坂の一夜」という生涯で一回限りの真淵との面会を実現したのだ。
その後、真淵の門下生となった宣長は松坂と江戸との間の往復書簡による教授を受け、その関係は6年間続くもものの、正風体で書かれた万葉集ではなく、異風体で書かれた源氏物語や新古今集に興味を示した宣長は真淵の逆鱗になり絶縁されることとなった。
その後宣長は、71歳で世を去るまでの30年以上の年月を古事記解釈研究や日本語の仮名遣いや文法研究に費やすこととなり、その努力の結果は、「古事記伝」「玉勝間」『源氏物語玉の小櫛』『漢字三音考』などの形で結実することなった。
宣長は、古事記、万葉集などの万葉仮名という漢字当て字で書かれた書に出てくる固有名詞を従来の漢字訓読みから宣長本人が編み出した大和魂の読み方として字音仮名遣いをあてたことは、その後も日本で定着することとなり、あたかも古代よりそのような読み方をしていたのでは?と勘違いしてしまう人が続出するほどであった。- 93
- 00.0
- 44.3
- 11.1
2021-04-26 23:13:02
【神道シリーズ・シーズン2】第29回・本居宣長【後編】「直毘霊」「古事記伝」と妄想的皇国至上主義へ (2)医者になるために京都に遊学し、堀景山から医学のみならず契沖や荻生徂徠などの国学を学んだ宣長は、松坂の一夜で出会った賀茂真淵の指導の下、万葉集の読解に精を出したが、興味の方向は、真淵の嫌う中世風の源氏物語や新古今集で、次第に粗削りで素朴な古代日本人を好む真淵の教えから離れて、優雅で儒仏の影響を受けた中世文学を溺愛するようになった。
しかし、その一方では宣長がライフワークとした古事記の解釈研究にも取り組み、次第に宣長の思想は、皇国日本を中心とする強烈な国粋主義に走って行き、万葉仮名や日本語文法の研究、そして独自の字音仮名の開発とともに独善的とも言える唯我独尊的な古事記解釈を進めて行った。
源氏物語を溺愛した宣長は、一方では男女の色恋事の不条理や不貞行為を肯定的に受け止める「もののあわれ」の感情を日本人の気質とし、またその一方では、
太陽の神アマテラスを皇祖皇宗として戴く皇国日本は、その末裔たる天皇が国を治め、今日まで持続してることこそ日本が世界を君臨すべき地位になると豪語するような、ある意味偏狭とも言えるウルトラナショナリズム的な主張をする、という両極端な思想に走って行くのであった。
儒仏や道家を嫌う宣長は、外来の思想が入ってくる以前の皇国日本には「皇国の正音」というオリジナルな日本語があり、古事記に書かれたような日本の神々の信仰があったのだという主張の下、古事記をバイブル視するようになるが、残念ながらその主張の根拠となるものはなく、そこを同じ国学者の上田秋成から突かれた宣長は「あるからあるんだ」的な強弁になり、宣長は自ら作った復古神道にますますのめりこんで行った。
古事記を一般人が読める書にした宣長の功績は大きいものの、誇大妄想とも言える皇国日本中心主義は、皮肉なことに幕末の水戸藩天狗党の悲劇や昭和の日中戦争、太平洋戦争推進のスローガンともなり、戦後も日本保守運動の骨格部分となったのであった。女童心と漢意 『宣長の源氏学』おすすめです。失礼しましたm(_ _)m
- 73
- 11.4
- 11.4
- 11.4